弦楽器響板の塗装について


ストラディヴァリのニスの秘密?
名器「ストラディヴァリ」の音色が「特殊なニスによるものだ」と考えている音響学者や材料学者はほとんどいません。


なぜ塗装するのか?
ヴァイオリンを始めとする弦楽器の多くは、シェラックやコーパルといった天然樹脂や、ニトロセルロースのような半合成樹脂で塗装されます。塗装によって音色が良くなると言う人もいますが、塗装によって響板の音響変換効率が低下し、響きが損なわれるため、「塗装しない方が良い」と指摘する楽器製作者も少なくありません。したがって、塗装の目的は、1) 響板の物理・化学的保護、2) 美観の付与と保持、3) 湿度変動に対する(響板の)材質安定化、であると考えられます。


弦楽器用の塗料
弦楽器の塗装には、油脂や樹脂だけでなく、染料や顔料など非常に多くの化合物が用いられ、その配合や塗布の方法は、楽器製作者によっても、時代によっても異なります。弦楽器用のニスは、オイル系とアルコール系に大別されます。オイル系ニスは、種々の樹脂を高温のテレピン油や亜麻仁油に溶かしたもので、古楽器の多くに使われています。緩慢な油脂の重合を伴うため、音が落ち着くまでに時間がかかると言われています。樹脂としては、コロフォニウム(ロジン)、サンダラック(Tetraclinis articulataから採れる樹脂)、コーパル(半化石化した樹脂)、マスティック(Pistacia lentiscusから採れる樹脂)などがあります。一方、アルコール系ニスは、シェラック等の樹脂をエタノールに溶かしたもので、オイル系ニスに比べて乾燥が早く、短い間隔で塗り重ねることができるため、近代以降の楽器に広く使われています。シェラックはラックカイガラムシが分泌するポリエステルの混合物で、主にアロイリット酸とテルペン酸からなります。

楽器製作者は、独自のレシピに基づいて様々な樹脂を混合しますが、樹脂のガラス転移温度に大差がなく(約50℃)、混合によってもそれがほとんど変化しないことから、レシピの違いが響板の振動特性を左右することはないと考えられます。様々なレシピは、音の違いよりも、塗りやすさや色などに基づいて作られるものと考えられます。


ストラドのニス
塗装が音色に与える影響については、製作者や演奏家にとって古くからの関心事でした。特に、ストラディヴァリの手によるいわゆる「名器」については、そのニスに秘密があると信じている人も少なくありません。実際、名器に塗られた無機フィラーがそのbrilliantな(輝かしい)音を生み出すとの主張や、それを模倣して名器を再現しようとする試みもあります。

ただ、古い楽器は後に補修されたものが多く、製作当時の状態が保たれている楽器はむしろ稀です。保存状態の良い楽器を対象にした最近の研究によれば、ストラディヴァリが用いたニスや染料は、同時代に用いられていた一般的なものと大差ないそうです。「ストラドの秘密のニス」は、都市伝説の域を出ていません。

そもそも、木製弦楽器の音は楽器の形状や木材の振動特性に大きく左右されます。手作業で作られる楽器の場合、その形状を厳密に揃えることは不可能です。また、木材が天然材料である以上、その振動特性にはばらつきがあります。しかも、木材の振動特性は湿度に強く依存し、経年によっても変化します。したがって、異なる楽器(たとえばストラドと現代の楽器)を単純に比較し、その音色の違いをニスの違いで説明しようとするのは、あまり論理的ではありません。


ニスが楽器の音に与える影響
Meinelによれば、ニスの塗布によって音色(音のスペクトル)はほとんど変化しませんが、音量は若干低下します。この音量低下の主因は、響板の内部摩擦(1/Q)の増加によると考えられます。内部摩擦とは、材料の粘性を反映する定数で、高分子の分野で頻用される力学的損失正接と同じです。弦楽器の響板に用いられるスプルース材の内部摩擦は、繊維方向で0.005~0.006、放射方向でも0.02程度ですが、塗膜樹脂の内部摩擦は多くの場合0.05以上なので、塗装によって響板の内部摩擦は増加します。

弦楽器の場合、響板のたわみ振動によって音を放射するため、塗膜が薄くてもその影響は無視できません。楽器製作者の多くが、ニスを極力薄く塗ろうとするのは理に適っています。


さて、響板の内部摩擦が小さいと、音が大きく、余韻が長くなりますが、ヴァイオリンのような擦弦楽器の場合、ギターのような撥弦楽器と違い、弾き方次第で自由に音量を制御できるので、音量や余韻の長さは大きな問題ではないと考えられます。
一方、下の図に示すように、内部摩擦は音の減衰だけでなく立ち上がりも左右します。つまり、響板の内部摩擦が大きいと、音量は小さくなりますが、音の立ち上がりは早くなります。塗装の効果は、音量や音色(音のスペクトル)よりもむしろ、音の立ち上がりに顕れるのかもしれません。

無垢の木材については、異方性に由来する内部摩擦の周波数依存性が、特徴的な音の立ち上がりを生じることがわかっていますが、塗装に伴う立ち上がりの変化について検討した例はありません。


下のグラフは、シェラック(S)を含む数種の樹脂について、内部摩擦の周波数依存性を示したものです。内部摩擦が大きいほど音が小さくなるので、このグラフは、塗装によるフィルター効果を表していると言って良いでしょう。

シェラック、漆(JL)、ニトロセルロース(NC)、ポリウレタン(PU)のようなガラス転移温度が比較的高い樹脂は、内部摩擦が小さく、かつ周波数特性がフラットです。このような樹脂を響板に塗布しても、音色(音のスペクトル)はあまり変化しないと考えられます。一方、ガラス転移温度が低く、比較的軟らかい樹脂(AU1、AU2)を塗布した場合、低周波域における内部摩擦の増大により、低音の音量が低下すると同時に低音の立ち上がりが早くなると予測されます。つまり、適切な樹脂の選択により、楽器の音色や立ち上がりをある程度制御できる可能性があると言えます。


参考
E.Obataya et al. (2001) Effects of oriental lacquer (urushi) coating on the vibrational properties of wood used for the soundboards of musical instruments. Acoust.Sci.Technol. 22(1), 27-34.
小幡谷英一(2016) 木製弦楽器に使われる樹脂の特性. 接着学会誌 52(10), 316-320.


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