Development Afta Big War

植民地時代後期(太平洋戦争後)のソロモン諸島における開発


ソロモン諸島は、ガダルカナルの攻防に代表されるように、太平洋戦争における日米の激戦地のひとつであった。1942年に日本軍 がガダルカナル島に上陸する直前、ソロモン諸島に駐在していたすべての白人(行政官、企業関係者、交易人、キリスト教関係者な ど)はオーストラリアへ避難した。したがって、ソロモン諸島各地にあったココヤシ農園も操業を停止し、ソロモン人労働者の多く は出身地へ戻った。農園開発を基盤にした植民地体制は、一時的に崩壊したのである。

戦後、イギリス政府が統治者として植民地に復帰すると、彼らはソロモン人自身による小規模ココヤシ農園の開発や酪農プロジェ クトを奨励し、ソロモン諸島民も含めた形で資本主義的経済部門を発展させようと考え始めた[Burt 1994:329]。1949年に、すべての 島民は1年間に10本のココヤシを植えることを義務づける法律(1949年8月11日施行の "Council Regulation No.14")が施行された。

自分の土地にココヤシを植える余地がない場合でも、他人に土地を借りて植えなければならなかった。太平洋戦争後のこの政策は、 一般のソロモン諸島民にもコプラ生産をおこなわせることによって、輸出作物の増産だけでなく島民の経済参加を拡大させるねらい があった。現在、湿地を除いたイサベル島の沿岸部には、たいていココヤシが大量に植わっている。もともとココヤシは自生してい たが、戦後の植民地政策によって量的に急激に増加した。また、太平洋戦争中にアメリカ兵と出会ったマライタ島出身者が中心にな って、前に触れたマアシナルール運動がおこり、この時期ソロモン諸島民の政治参加や行政参加も急速に進展した。


さて、戦後植民地政府の政策としてはじまったソロモン諸島民の開発参加は、対象となる土地の1次的権利をめぐって、島民どう しの土地紛争を多発させることになった。土地紛争は、数世代前におこった土地に関する手続きが1次的権利の移動だったのか、それとも別の土地所有集団の成員に対する3次的権利の付与にすぎないのかという認識の違いによって発生する場合が多い(土地につ いては、詳しくは「土地制度」を参照して下さい)。

開発をおこなう際、開発予定地に関与する人びとは、系譜を確認し、口頭伝承 を検証して土地所有集団の成員であるか否かを明らかにする。それによって開発の受益者も明らかになり、土地をもつ者ともたない 者の区別が意識される。ある一定の広さの土地で開発をおこなう場合、たいてい、それまで畑として使っていた土地もその中に含め ることになる。この種の紛争は、通常、1953年に設立された地元民土地法廷(Native Land Court)で審理される。それは戦前の土地法廷を引き継 いだもので、それまで植民地行政官が処理していた紛争を地元民の中から選ばれた3人の裁判官が処理した。しかし、裁判の手続き や、証拠(ココヤシなどの商業的価値のある木を植えたか否かの証拠)や証人が重視される点など、実態は白人行政官の裁定による それまでの土地法廷と変わりなかった。むしろ、一般状況は新しい裁判制度のもとで悪くなった。とくに、判事が紛争当事者に関係 している場合があり、判決に偏りが生じたという。土地問題などにおけるソロモン諸島民の司法的自治が、地元民法廷によって確立 されたわけではなかったのである。

「法廷」という近代的制度は、ソロモン諸島に伝統的な「政治リーダーによるコンセンサス作り」 という紛争調停の過程をふむよりも、裁判を通じて明確に勝者と敗者に分けてしまう。マライタ島アレアレ('Are'are)地区のある長 老と政治リーダーは、そのような近代的な法制度について次のように述べている。「土地の権利に関する紛争で、勝者と敗者にはっ きりと分けてしまうやり方は非人間的である。われわれの慣習では、紛争調停のあとに勝者も敗者もつくらない。必ずどこかに妥協 点や誤解を解く鍵があるはずだ。

戦後、ソロモン諸島民自身による紛争解決を目的に設立された地元民土地法廷も、戦前の土地法廷と同様に、人びとからソロモン 諸島の制度として認識されなかった。前のトバイタの事例では、系譜の上からは1次的権利も2次的権利ももたない人が、数世代前 から「生業活動をおこなっている」という事実を主張することによって、土地権をめぐる裁判で有利な立場に立とうとした。系譜上 の土地権者(プロジェクト推進者)は、裁判で敗れると土地を失うことにもなりかねない。ソロモン諸島開発銀行は土地紛争の渦中 にあるプロジェクトに資金を提供しないので、結果的にプロジェクトに参加していた人たちの意気は消沈してしまい、最終的な判決 結果に関わらず、プロジェクトは崩壊した。


ソロモン諸島民自身による開発(ココヤシ農園、酪農など)を奨励する一方で、1960年代以降、植民地政府は木材輸出にものり出 した。戦前、ココヤシ農園開発の中心的存在であったリーヴァーズ社は、1963年にリーヴァーズ太平洋木材会社(Levers Pacific Timbers, Ltd.)を新たに設立し、1968年からソロモン諸島西部のコロンバンガラ(Kolombangara)島で丸太伐採を開始した。植民地政 府は、1963年から1964年にかけて、ソロモン諸島西部にあるヴァングヌ(Vangunu)島、ニュージョージア島、イサベル島アラダイス (Allardyce)地域のいくつかの慣習地領域(合計777km2)を森林伐採事業のために購入した。これらの慣習地は、その時点において 生業活動にも居住用にも使用されておらず、植民地時代前期の「遊休地」に相当する土地であった。

しかし政府は、土地所有集団と の間で、最長25年間の木材権料の支払い、該当する土地領域内における土地所有集団の使用権の留保、そして伐採後に元の土地所有 集団に土地を返還することなどを条件に契約した。このことは、植民地政府が「遊休地」に対してとっていたそれまでの基本姿勢 (土地所有集団に対して限定的利益のみを保証)を転換したことを示す。


独立(1978年)以前のソロモン諸島の主力輸出品は、外国企業の大規模農園や島民の小規模農園から生産されるコプラであった。 しかし、農産物は世界市場における価格が不安定であり、そのため植民地政府は長期的な経済計画をたてることが困難であった。 そこで、200海里経済水域内におけるカツオ、マグロなどの豊富な水産資源を利用した開発にも眼を向け、1972年に植民地政府は日本企業と大規模な水産事業を開始した。それによって設立された合弁企業をソロモンタイヨー社(Solomon Taiyo, Ltd.)という。こ の事業における日本側のメリットは、(1)日本市場へのカツオ・マグロ供給、(2)将来、ソロモン諸島とのビジネスを拡大させるため の先行投資、(3)ソロモン海における大規模水産事業の独占といった点にあった。

他方、ソロモン諸島側は、(1)中央政府の財政収入 源を確保できるだけでなく、(2)近代的な水産技術の習得や、(3)インフラストラクチャーの整備、(4)農村開発の促進などの効果を ソロモンタイヨーに期待した。植民地政府は、ソロモンタイヨーの操業に依存する水産業を、農業分野に代わるソロモン諸島の基幹 産業として位置づけたのである。1983年の輸出品目の第1位は水産加工品であったが、その大半はソロモンタイヨーによって生産さ れたものである。


植民地時代後期におけるソロモン諸島の開発は、ソロモン諸島民の小規模農園、酪農などの開始とともに、木材や水産、アブラヤ シ油など、新たな輸出指向型の大規模開発を導入した時期であった。その状況は、ソロモン諸島民の経済参加を促進するとともに、 伝統的な土地制度のもとにある慣習地の1次的権利をめぐるソロモン諸島民どうしの紛争も多発させた。戦後の土地紛争の増加は、 ソロモン諸島民による開発の増加、政府による大規模開発の多様化という要因のほかに、戦前におこなわれた植民地行政官による土 地法廷の判決を原因とするものもあった。それは行政官が土地相続に関する伝統的制度を理解していなかったことによる混乱である。

1957年に、行政官のコリン・アラン(Colin Allan) は慣習地の権利に関する報告書をまとめた。それは、1963年の「土地と土地権 に関する法律」(Land and Titles Ordinance)の施行に帰結した。この法律は、地元民による経済開発を容易にするための方法とし て、土地権の個人名義登録を奨励した。土地所有集団の成員は、集団が所有する土地領域内の一定の区画を、主に核家族単位で生業 用の耕作地として使用している。個人名義登録とは、この使用単位ごとに登録することである。しかし、それは集団所有原則の伝統 的制度と矛盾しており、多くの混乱を派生させて、1972年に集団名義も認めるよう改正された。

慣習地は、一 部の例外をのぞいて、土地所有集団による集団所有が原則である。1963年の法律は「個人名義」を強調していたために、2次的権利 あるいは3次的権利のみをもつと一般に認識されていた人びとが1次的権利を主張し、紛争に発展するという事態が頻発した。マエ ヌウは、「今日、土地に関する主要な問題は、人びとがどの土地に対してどのような権利をもっているのかを、きちんと把握するこ とである」と述べる。集団登録にしても、それをおこなうための土地境界や系譜の確定作業レベルで、紛争が発生する。

太平洋戦争後の植民地政府、独立後のソロモン諸島政府は、一貫して輸出指向型産業構造を確立するために、外国企業の進出を積 極的に受け入れると同時に、ソロモン諸島民による小規模開発も奨励してきた。それとともに、慣習地の開発転用を容易にするため、 その登録に関する法的整備も進めた。ソロモン諸島民にとっても、生活物資、社会制度(とくに子どもの教育)両面にわたって近代 的なものへの欲求を充足させるためには現金が必要であり、それゆえ村社会の人びとは開発に関わりをもとうとしてきた。その点で、 植民地化以降、開発を指向する姿勢は、基本的に政府と一般のソロモン諸島民(独立後は国民)の間で一致する。しかし、伝統的制 度下にある慣習地を効率よく開発に利用するために、さまざまな土地政策を試みてきたが、土地権をめぐる紛争の多発などによって、 ソロモン諸島の開発は進展していない。実際には、ソロモン諸島における開発の歴史は、土地紛争とその対策の歴史であったといえる。