Development Taem Bifo Big War植民地時代前期(太平洋戦争前)のソロモン諸島における開発

1893年にイギリスがソロモン諸島の保護領化を宣言して以来今日まで、外国資本による「大規模開発」といえる事業は、 ココヤシ(コプラ)、ココア、アブラヤシ、木材、カツオの輸出などの一次産品が中心であった。しかも、それらのうち、 ココヤシ以外はすべて太平洋戦争後に開始された開発であり、植民地化後のはじめの50年間、植民地政府は積極的な経済 政策をおこなってこなかった。

1993年におけるソロモン諸島国の主力輸出品は、木材(主に丸太)、水産加工品(主にツナ缶詰)、アブラヤシ油、コ プラ(ココヤシ)、ココアである。それを10年前の1983年と比較すると、近年の木材部門の急増が目立つ。1994年度のソ ロモン諸島中央銀行年次報告によると、同年度の経済動向は総じてプラス成長であったというが、木材輸出額が全体の 56.3%を占め、1993年度の木材依存度(総輸出額の54.9%)よりもさらに上昇している。

各輸出品目は、いずれも外国資 本を導入した大規模操業によって支えられている。一般のソロモン諸島民は、それらの開発事業に賃金労働者として雇わ れるだけであるが、コプラ生産とココア生産についてみると、事業主体者としてそれらに関わる者も多い。

太平洋戦争前の経済開発は、リーヴァーズ社(Levers Pacific Plantations, Ltd.)やバーンズ・フィルプ社(Burns Philp & Co., Ltd.)などの外国企業によるココヤシ農園開発が、その中心であった。

イギリス政府が植民地化を宣言した1893年当時、ソロモン諸島のいくつかの地域ではすでにキリスト教の布教が開始され、 部族間抗争が頻発していたそれまでの社会は急速に「平和化」へ向かっていた。しかし、現在のウェスタン州に属する一部の 集団は依然として戦闘的な姿勢を崩さずにいた。すぐに農園に使えそうな土地の多くは、ガダルカナル島北部とニュージョー ジア島にあり、植民地政府の平和化へ向けた努力は、はじめにこれらの島を対象におこなわれた。

1896年に、初代イギリス領ソロモン諸島駐在弁務官(resident commissioner) に博物学者のチャールズ・ウッドフォード (Charles M. Woodford)が就任し、実質的な植民地行政を開始した。ウッドフォードは、ソロモン諸島の経済活動は外国人の投 資を誘致する方法しかないと考えていた。ウッドフォードの方針にもかかわらず、ソロモン諸島内部が戦闘状態にあるという現実が白人投資家の意欲を脅かす恐れが あった。つまり植民地政府にとって、平和化の実現は白人の開発投資を促すための前提条件であった。平和化を達成した後、 植民地政府は、具体的にオーストラリア人やイギリス人の事業家をココヤシ農園やゴム農園事業のために誘致した。植民地政府は、ソロモン諸島民が実際に生業活動や居住のために使用していない土地を「遊休地」と判断して接収した。そ れが、慣習地の「譲渡地化」である。そのような土地を、政府は、リーヴァーズ社やバーンズ・フィルプ社のようなソロモン 諸島進出企業に99年契約(一部の土地については999年契約)で貸与し、企業は主にココヤシ農園を開発した。

最初にソロモン諸島に進出した企業は、リーヴァーズ社であった。同社は、1902年にロンドンで設立された。1905年に同社 のシドニー事務所長がソロモン諸島を訪れ、ウッドフォード弁務官やソロモン諸島に在住していた白人交易人らとともに諸島 内の土地を物色した。このとき合計10,870ヘクタールの土地を島民から直接購入し、4,850ha.の土地の借地権を政府から取得 した。さらに同社は、白人交易人がすでに所有していた土地の購入にものりだし、1907年までに、20,650ha.を買い足した。リーヴァーズ社は、1903年に購入した自前の貨物船を使ってコプラを輸出した。同社は、すでにソロモン諸島でコプラの交 易をおこなっていた白人交易人から、あるいは直接ソロモン諸島民からコプラを買いつけた。リーヴァーズ社が自前の船をも ったことによって、それまで海運部門で圧倒的に優位に立っていたバーンズ・フィルプ社は、自ら農園経営に乗り出し、船積 みする品物を生産しなければならなくなった。同社は、1904年に、ショートランド諸島における農園経営を開始した。1905年時点で、リーヴァーズ社は約122,000ha.を取得しており、その面積は譲渡地全体の半分以上を占めていた。1930年代 までに、全陸地の約6%(沿岸部だけでみると約20%)の土地が白人にわたり、譲渡地になった。

植民地政府による土地の接収、植民地政府の承認に基づいた土地の購入(交換)は、土地所有集団の伝統的な土地制度に関 わりなく、彼らが理解していないところで慣習地が譲渡地にかわっていった。セントラル州ラッセル諸島(Russell Islands)で は、土地の半分以上が1920年代までにリーヴァーズ社のココヤシ農園に変わっていたという(1988年当時でもなお、それらの地 域の大部分は同社の農園として使われていた)。慣習地の譲渡地化は、地元住民と農園会社との間で、所有権をめぐる紛争の勃発を招いた。1913年までに、白人(政府、および政府の承認を受けた企業、個人)による土地の接収を原因とするソロモン諸島民と白人と の紛争が、多数政府に寄せられた。その当時、白人とのやりとりはすべて英語でおこなわれたのであるが、今とは違いソロモン 諸島民で満足に英語の読み書きや会話のできる者はきわめて限られていた。その上、ピジンイングリッシュにしてもすべての人 間が話せるわけでもなかった。それらによって、誤解の機会はどんどん増え、混乱の度が増していった。 1919年に、頻発する土地紛争を解決するため、植民地政府は「土地委員会」(The Lands Commission)を設置し、主にソロモン 諸島西部地域におけるリーヴァーズ社所有の土地に関する紛争処理をおこなった。その結果、同社が西部地域で所有する約8万 ha.の土地のうち、約4分の1がもとの土地所有集団に返還された。


キリスト教や植民地政府によるソロモン諸島社会の平和化は、白人企業に対する村社会からの暴力的な抵抗を減少させた。たと えばニュージョージア島カスゲ(Kasuge)地域の人びとは、リーヴァーズ社が「遊休地」の接収に動きそうだと知ると、すぐにそこ へ一部の人間を移住させて伝統的土地権を主張した。それはいわば、実際の紛争に至る前の平和的な抵抗であった。だが、そのよ うな動きや、リーヴァーズ社からの土地の返還などを契機に、土地境界付近の土地をめぐってソロモン諸島民どうしの土地紛争が 発生した。

農園開発などがはじまるまで、土地の境界は隣接する土地所有集団の間であいまいに認識されていたにすぎず、厳密な境界線を 必要としていなかった。しかし、白人による農園開発やソロモン諸島民のコプラ生産などを通じて、土地が近代的な意味における 経済的利益を生み出すことを知るようになり、特定の土地領域に対する「所有権」を主張するようになった。そのころまでに、キ リスト教宣教師や植民地行政官は、主に各島の山間部に散在していた多くのソロモン諸島民を布教や統治の都合から沿岸部へ移住 させ、大規模な村を形成するよう促していた。それと同時に、ソロモン諸島民は沿岸部にココヤシを植え、白人交易人に売却する ためのコプラ生産もはじめた。しかし、西洋的・近代的経済との関わりや「土地所有意識」の芽生えは、沿岸部の土地領域の占有 をめぐり、ソロモン諸島民どうしの紛争を誘発した。

植民地政府は、土地紛争を処理する常設機関として、「土地法廷」(Land Court) を各行政地区に設置した。しかしその機関で判 決を下したのは、土地問題を専門的に扱う判事ではなく、イギリス人の植民地行政官(District Officer)であった。当時の植民地 政府による土地法廷の判決は、土地所有集団単位で慣習的に所有されていた土地を、権利などもたない他者へ譲渡してしまうこ ともあった。それは、政府がイギリスの法律制度をほぼそのままソロモン諸島に導入しており、法定の手続きが著しく証人と証拠に依存していたことに起因する。裁判で最も有効な証拠はココヤシなどの経済的価値をもつ木で、それを植えた者の主張が土地所有 権の判決に有利に働いた。

植民地行政官は、各地の伝統的な土地制度を十分に認識せず紛争を裁定していたので、土地権の中でも2次的権利あるいは3次的権利(「独特の土地制度」へリンク)のみをもつ者の中には、耕作している(あるいは居住している)という事実を利用して、自らを 1次的権利者であると主張する者もいた。土地法廷を、伝統的に所有していない土地を取得するひとつの方法と考える者が出てき たのである。


1920年代までの時期、各地の農園で必要とされる労働力はブラックバーディングと呼ばれた海外労働からの帰還者や、白人との交 易によって西洋的物資を手に入れたがっていた村社会の男たちに依存していたが、絶対数は不足していた。そこで植民地政府は、人 頭税制度を導入して16歳から60歳までの成人男性全員に年間1ポンド(5〜10シリングの地域もあった)の納税を義務づけた(た だし、4人以上の子供をもつ者は免税)。当時、村社会における現金収入源は直接村を訪れる白人交易人との散発的な交易に限定さ れており、納税や西洋物資購入のために現金を入手するには、外国人が経営する農園へ働きにいかなければならなかった。人頭税導 入の最大の目的は村社会の人びとを賃労働者化することであり、税金を村社会に還元することはほとんどなかった。

マライタ島クワイオ(Kwaio)地域出身で、戦後国会議員にもなったジョナサン・フィフィイ(Jonathan Fifi'i) は、彼の自伝の中で、 ココヤシ農園で働くソロモン諸島民の姿を紹介している。「私たちソロモン諸島民は、くる日もくる日も白人のために働かされた。 プランテーション労働では、辺りがまだ暗いうちにベルでたたき起こされ、こき使われた。病気で起きあがれないときでも、上司の白 人は水の入ったバケツをもってきて浴びせかけた。仮病ではなく本当にひどい時でも、瀕死の状態になるまで働かせたのである。(中 略)コロブルという男がいた。大男で力持ちであったが、コプラの刈り取りが遅かった。4袋をいっぱいにしても、いつも2袋の空き 袋が残っていた。その空き袋はただもち帰るだけであった。翌日、6袋を与えられて、やはり2袋を空のままで返した。白人の上司は、 「おまえはこの2日で8袋分を刈り取っただけだ。まだ、袋も残っているじゃないか。残りの分を今から行って刈り取ってこい」と言 った。コロブルは怒りがこみ上げ、そのままブッシュへ逃げた。再びコロブルの姿を見た者はいない。(中略)プランテーションで2 年間働くと、まるで死人のようにぼろぼろになってしまう。1度プランテーションに行ったら、2度とまたその人に会えるかどうか、 誰にもわからなかった。その人に何が起こっても、ただそれだけのことで、死んだところでまたそれだけのことであった。プランテー ション会社は、労働者が死んでも何をしてくれるわけでもなかった」。


植民地時代前期の経済開発は、外国資本によるココヤシ農園事業を中心に、植民地政府や白人投資家によって展開された。ソロモン 諸島民は、納税と低賃金労働を強制され、搾取されるだけで、彼らの経済的・社会的利益はまったく顧慮されなかった。それは、人頭 税が決してソロモン諸島民に還元されなかったという事実、農園労働条件の劣悪さなどから明らかである。しかし同時に、ソロモン諸 島民が西洋的物資を欲していたという現実もあり、開発はこの欲求を実現するための数少ない手段であった。

フィフィイは農園労働の悲惨さを語っているが、当時の島民の中には、「もし白人が島を離れたらどうするか?」という質問に対し、「政府には出ていっても らいたい。キリスト教宣教師もだ。だが植民者や交易人は別だ。彼らは島民の望むものをもたらし、他の白人のようにカスタムに干渉 しないから」と答える者もいたという。 そのことは、19世紀後半期にはじまった白人との接触によって、西洋的物資が村社会の制度の中で新しい価値物(valuables)として再文脈化されたことを示している。

農園開発は人頭税の導入を導き、またソロモン諸島民の西 洋的物資への欲求を刺激することによって、彼らを西洋的な貨幣経済に取り込むきっかけをつくった。また、経済開発がおこなわれる 前の時代にはほとんど存在しなかった土地紛争も、開発を契機に顕著になった。はじめはソロモン諸島民と白人植民者(政府や投資家) との間で発生したが、やがてソロモン諸島民どうしの紛争へと変化していった。それは、ソロモン諸島民が慣習地の境界を経済的利益 と連関させて考えるようになったことを示し、ソロモン諸島民に所有地の領域を明確に意識させる方向へ作用したのである。