2025年3月12日(水)
核と安全保障

核戦争はあってはならない。しかし、核をもっているか否かが自国の安全保障を大きく左右する。残念ながら核抑止論は生きている、それが現実である。かつてウクライナには核兵器が存在していたが、30年前の独立時にそれを放棄した。「もしあの時放棄していなかったら」という思いを抱くウクライナ人は、少なくないという。そのことは、核と安全保障とが密接に関連していることを端的に表している。

日本は核兵器を所有していないが、これまでは日米安保によって「安全」が守られてきた。それが日本の安全保障の軸であり、すべてであるといっても過言ではない。先頃トランプ大統領が「日本の安保ただのり」的な発言があり、日米の非対称的な関係性に不満を述べていた。以前から「有事の際に本当にアメリカは日本を守ってくれるのか?」という疑いはあった。日本人も「これでよいのだろうか?」という思いをもちつつ、平和憲法の制約や第二次世界大戦の反省、アジア諸国からの懸念などから、現状を受け入れてきた。

全世界的に一斉に核を放棄することができるのであればよいが、それはあまりにも夢物語にすぎる。たとえそれが実現したとしても、人類は核に関する知識と技術を獲得してしまっており、またいつでも再燃しうる。徹底した監視体制を敷くことは、現実的にみて不可能であろう。

誰も日本を軍事大国化することなど望んでいないだろうし、戦争に巻き込まれたくもない。しかし、世界の中の日本である以上、めまぐるしく変動する国際情勢の影響を受ける。そしてアメリカだけでなく、国際社会全体が自国優位を露骨に表明する時代が到来する可能性も否定できない。その時日本は、自立的で自律的な安全保障を実現できるのだろうか。しかし、憲法改正、自衛隊の位置づけ、核武装論など、国民を二分しかねない難題が待ち構えている。国家の財政難も深刻である。憲法改正はともかく、これまでどちらかというとタブー視されてきた核武装や軍備増強などに関する議論にも、真摯に向き合うときなのではないか。軍備を増強しない、核をもたないことは私も望むところではあるが、ではどのようにして守るのか。その答えがなかなかみつからない。

2024年12月11日(水)
年賀状じまい

「年賀状じまい」という言葉がよく聞かれるようになった。文字通り、年賀状をおしまいにする、という意味だ。今年は特にそれが急速に進んでいるような気がする。年賀状をやめるからといって、「年始の挨拶」という季節の風物詩自体をやめるわけではない。SNSが普及し、それを通じた挨拶で十分、むしろその方が気持ちが伝わる、そういう時代になったということなのだろう。

私は10数年前から年賀状に疑問を抱いてきた一人である。疎遠になっている人に近況を報告し、報告され、関係の糸をかろうじてつなぐことにどれほどの意味があるのか、という疑問である。また、「送ったのに来ない」ことに傷ついた経験をもつ人も、少なくないのではないか。人と人を結びつける機能があるのと同時に、切り離してしまう負の効果もそれには備わっていることへの疑問もあった。さらに言えば、年賀はがきを数百枚購入するとなると、ばかにできない出費である。年末は学生の卒論や修論(場合によっては博論も)の指導、査読などが立て込み、年賀状を作成する年末の時間が苦痛になっていた。毎年年末になると、「年賀状という制度は早く世間から終わってくれないかな」という思いを抱くことが自分の中での恒例になり、実際そのようなことを口にするようにもなっていた。そして、いつのころからか、自主的に年賀状じまいをはじめ、ここ数年、親戚や恩師的な方以外へは年賀状を控えている。そのかわりに、Facebookに毎年年始の挨拶を掲載している。それで十分ではないかと思っている。

小学生の頃は年賀状に絵を描いて送るのが好きだった。書いた絵柄を1枚1枚カーボン紙を使って年賀はがきに写し、色鉛筆で塗って仕上げていた。かなりの手間だったが、楽しかった。その後プリントゴッコが発売され、だいぶ簡単に作成することができるようになった。これは革命的な驚きだった。そしてパソコンの時代に入り、年末になると書店に年賀状作成CDが大量に売られるようになった。これでさらに年賀状づくりが簡単になったが、これが「終わりの始まり」だったような気がする。かつては年賀状の作成に手間がかかっていただけに、思い入れも強かった。それがPCで出来合いのデザインを選ぶだけになり、宛名書きもやってくれる。機械的な作業だけになり、「思い入れ」が薄くなったことで、「何のためにやっているんだろう」という疑問が脳裏に強く浮かぶようになってしまったのである。さらに言えば、それでも一言だけ手書きでメッセージを書き込むようにしている人が多いと思うが、私の場合、それもほとんど「定型文」のようなものしか書かなくなっており、益々「出す意味」を自問するようになってしまったのである。

人との関係のつくり方、保ち方、やめ方は、SNS時代になって急速に変化してきている。それは人間関係に関する価値観の変化と言い換えることもできる。人間関係にとって「挨拶」が基本中の基本であることに変わりはない。1年の始めの挨拶の大切さも理解できる。誰に対してどのような挨拶がなされるべきか、その手段や様態が多様化しているということなのだろう。

2024年12月9日(月)
ウソと「真実」

いままで「常識」の範囲内のこととして判断していたことが、必ずしもそうでないことに気づかされることがある。最近、そのことに関連して、自分の身近に起こったことではないが、「なんだかなー」という釈然としない思いにかられることがいくつかあった。

例えば、先月の米国大統領選挙である。これまでの言動や、数々の被訴追事案などをみても、およそ国の(あるいは世界の)トップリーダーに相応しいとは思えない人物が圧勝するという現実に、とても驚いた。大統領選挙直前に放送された報道番組内で、トランプを支持する一般市民へのインタビュー内容が紹介されていた。その市民は「トランプが人格的に問題があることは承知しているが、それでもトランプに票を入れる」と話していた。刑事訴追されていようと、汚い言葉で「敵」を罵ろうと、ファクトチェックでウソだと分かっていることをさも事実であるかのように語ろうとも、それでも圧倒的に支持される。もちろん、他国のことであるので、私は一部の報道を通じてしか実情を知り得ない立場ではあるが、米国人の思考というものが容易には理解できない、そう強く思ってしまう一連の出来事であった。

我が国においても、先月行われた兵庫県知事選挙の結果には、率直に驚いた。SNSで虚実入り交じった情報が拡散され、それによって一つの「事実」が創り出されていく。耳目に入ってくる情報がすべて正しい、真実であるとは限らない。それはいつの時代においても、洋の東西を問わずおそらく真実であるだろう。しかし、虚実入り交じった情報は、人々の間を行き交う間に、自分の都合のよいことが強調され、そうでないことは隠されたり、ねつ造を強調して否定されたりしてもまれる。そしてその過程で「真実化」され、そしてそれがさらにまた増幅され、拡散される。まさに情報が(話が)プロパガンダとして社会の中を駆け巡る姿である。兵庫県知事選挙の当選者は、自身で意図したかどうかは分からないが、結果だけを見れば、このような「増幅の循環」ともいえるような言説操作に成功した(好循環を生み出した)ということなのだろう。そうなると、デマだろうが脅しだろうが、反対する意見や人物は支配的な言説の力によって瞬く間に排除されてしまう。今回の選挙で、当選者の対立候補のSNSアカウントが一時的に閉鎖された事態はその典型であろう。たとえグレーなことであっても(それが黒であっても)、対立する相手に対するウソや中傷的な表現を含む「創られた言説」を駆使すれば、なんとかなってしまう。疑問に思うことがあっても、大きなうねりに飲み込まれて、それに身を任せるしかない状態に置かれ、徐々にそれが「正しい」情報であると思い込まされてしまうよう。このような事態は戦前の軍国主義におけるプロパガンダに相通ずるものがあるように思えてしまうのは、考えすぎだろうか。個人的には、今回の選挙を見ていて、空恐ろしさを覚えたというのが、率直な思いである。

ハンナ・アーレントはこんなことを言っていた。「人というのは、嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそを好む」。これが真実であるとすれば、私も、いつでも「増幅の好循環」に身を置き、気がつくとウソや脅しを含む「創られた真実」によって敵対者を攻撃する立場に身を置くことになるかもしれない。今回の件を、そうならないための戒めとして肝に銘じておきたい。

2022年10月1日(土)
燃える闘魂
「燃える闘魂」....アントニオ猪木のことだ。学生時代プロレスを見るのが好きで、特に新日本プロレスは毎週見ていた。身体は決して大きくないけれども、オリジナルな技の巧みさ、格闘技世界一決定戦のような誰もやらないようなことを思いつく発想力、そして何よりもその言動や行動からあふれ出るカリスマ性に惹きつけられるものがあった。選挙に出るようになってからはあまり刺激を受けることはなかったが、猪木の死は自分の中の何かがひとつこぼれ落ちるような思いである。
2017年1月16日(月)
約束と反故

日韓の間にはぬぐい去れない歴史のわだかまりがある。洋の東西を問わず、遠交近攻という言葉があるように、隣国とのつきあいはうまくいかない。しかし、日本は政治的にも経済的にも韓国や中国との関係なしには危うい。お互いにそうであろう。仲が悪いことを「仕方ない」で済ますことはできない。

2015年12月に、「日本軍の従軍慰安婦問題を最終かつ不可逆的に決着させる」ことを目的として日韓両国の間で合意が結ばれた。その際、「心からのお詫びと反省」「政府の責任を痛感」「軍の関与」などの文言も盛り込まれており、日本国内の右寄りの人たちからの反発を心配したくなるほどの譲歩が含まれていた、そう私は感じていた。その合意に基づいて日本政府は元慰安婦を支援することを目的とした財団の創設のために10億円を拠出している。韓国には在韓日本大使館前の慰安婦像の撤去を求めている。しかし、元慰安婦の人々と支援者たちは、合意は政府が勝手にやったことであり、自分たちは公式の謝罪と法的賠償を受けていない、それらが満たされなければこの問題は解決しないという姿勢であり、「10億円を慰安婦像の撤去と引き替えになどできない」と述べているという。一体「約束」とは何なのか、ようやくたどり着いた妥協点を簡単に踏みにじる姿勢に、虚脱感さえ覚える。

おそらく慰安婦問題は、双方に100%納得のゆく落としどころを見つけることは、少なくとも現状においては難しいだろう。先日在日本大韓民国民団(民団)の会長が2017年の年頭に「日韓合意は両国政府が苦渋の末に選択した結果で、関係発展のための英断だ」と述べたという。こじれた問題については、どこかで双方の妥協点を見いださなければ解決しないことは自明である。それが2015年12月の日韓合意であったはずである。上記の民団会長の言葉にある「苦渋の決断」はそのことを表している。しかし、韓国大統領選挙もあるためか、政治家も世論をあおっている感がある。有力な大統領候補の一人とされる潘前国連事務総長も、「(10億円が)ソウルや釜山の公館前に設置された慰安婦像の撤去が条件なら『金を返すべきだ』と発言した」と報道されている。事実とすれば、国家間の信義を踏みにじる発言である。約束を反故にできる場合は、一般的に、約束の前提となる条件が崩れた時である。2015年の合意は曲がりなりにも両国間に存在した「信義」を基盤にしていたはずである。両国間の未来を信じる気持ちがそこにはあったと理解している。それがなくなるのであれば、合意は白紙に戻さなければならないだろう。10億円は返してもらい、お詫びの言葉もすべてなかったことにしなければならない。日韓関係は再び大幅に後退する(韓国の人々にしてみれば、逆に後退から前進への転化かもしれないが)。この「後退」は単に原位置に戻るだけではすまないだろう。日本国内にさらにナショナリズムの風潮が出てくるかもしれない。世界的な内向き指向がその流れを後押しすることも考えられる。ヘイトスピーチへの嫌悪感が薄れ、区別というラベルに偽装された差別もなんとなく見過ごされるようになってしまうかもしれない。

そのような社会になることを、とても危惧している。

2015年4月11日(土)
慰霊の心

2015年4月8日、天皇・皇后両陛下がパラオを訪問された。パラオ、サイパン、ミッドウェー、フィリピン、ガダルカナルなど、太平洋には激戦地が多い。ガダルカナル島のあるソロモン諸島に長年関わってきた関係で(実際、ガダルカナルに住んでいた関係で)、いわゆる「南方」での日本兵や現地の人びとの悲惨な経験については、一般的な日本人よりも関心を寄せてきたし、知ってもいる。

天皇陛下は若い頃から戦争と平和についてしっかりとした知識を吸収され、ご自分のお考えを築いてこられたという。太平洋の激戦地での慰霊を長年にわたって強く希望されてきたというその想いに感動すら覚える。パラオ訪問を報じるテレビ番組では、親族をペリリュー島で亡くしたという遺族の一人が、故人の喜ぶ姿を思い描いて涙する場面が映し出されていた。彼の地で亡くなった方々は、もしかするとようやく安堵してゆっくりとした眠りにつけるのかもしれない。

昨今の安全保障をめぐる政治の動きは、沖縄の基地問題や憲法改正問題、首相の「我が軍」発言をはじめとして、戦争と平和の文脈において国民を不安に陥れるものである。安全保障(あるいは戦争)に関連した国家権力の発言は、言説として国民の間に浸透してそのまま権威化する虞があり、ときにそれは民主的諸制度を麻痺させてしまいかねない。国民が政府の言動に陰に陽に敏感に反応するのは、そのような状況に陥ることの脅威を常に(本能的に)感じ取っているからである。日本人は最も強く平和を希求し、最も強く戦争を忌避し、最も明確に同じ過ちを繰り返さないことを世界に誓った国民であったはずである。今回のパラオ訪問はそのことをもう一度私たちに確認させてくれるものであったのではないか。

願わくば両陛下には、ご体調が許すのであればガダルカナルにも是非ご訪問いただきたいと思う。そこには、戦闘を通じてだけでなく、飢餓とマラリアと熱帯の暑さの中で故郷を想いながら亡くなられた方々が2万人以上いる。また、ガダルカナル島の北に位置する海峡では日米間で3次にわたり海戦がおこなわれ、両軍の多数の軍艦が沈没していることから鉄底海峡(Iron Bottom Sound)と呼ばれ、そこにも日米両国の多くの兵士が眠っている。

慰霊の心は一人一人に付された重い問いかけへの答えであり、平和を希求する原点でもある。かつて広島に住んでいたときに何度か訪れた平和公園にある原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれていた。

この言葉が今も私の胸に突き刺さる。

2015年3月31日(火)
USJ

家族で大阪のUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行った。映画の世界を体感するというコンセプトはとても興味深く、以前から一度訪れてみたいと思っていた。ジュラシック・パーク、ジョーズ、バック・トゥー・ザ・フューチャー、スパイダーマン、ハリーポッター、スペース何とかなど。楽しいことは楽しかったが、これらは子どもたちが事前に選択したものであり、すべてが「〜ライド」というアトラクションだった。「ライド」とはすなわち、ジェットコースター系の乗り物ということである。

正直に白状すると、私はジェットコースターが苦手である。中学生の頃友人たちと豊島園に行き、その時はじめて乗ったジェットコースターが恐かった。それでトラウマになってしまった。とはいうものの、今はだいぶ落ち着いて乗れるようになったが、それでも、今回家族が最後に予定していた「バックドロップ」という、後ろ向きでほとんど真っ逆さまじゃないかと思うほどに急降下するやつには二の足を踏んだ。両手を離しバンザイして乗っている連中の気が知れない。ディスニーランドの "It's a small world"のような穏やかな乗り物が最も適している。

ハリーポッターは大変な人気だった。映画に出てくる学校の制服(ローブ、マフラー、ネクタイ)をまとった人も多くいた。魔法の杖を売っている店もかなり混んでいた。「バタービール」を飲んで口のまわりに泡をつけるという所作をそこかしこでやっている人がいて不思議に思っていたが、それも映画の一場面であることがわかった(実は、私はあまりハリーポッターを見ていない)。魔法の杖の店も映画で出てくる店を模しているという。園内にある物、行為の一つ一つが映画の内容と関わっているという緻密な心配りに、少々感動したりもした。

USJにはディズニーランドとは違うおもしろさがあったが、ライド系以外の目玉的参加型アトラクションがあっても良いのではないかと感じた。また、閉園近くにやるマジカル・スターライト・パレードは、かわいいキャラクターたちがくるくるまわりながら練り歩くというものだが、正直、意味がよく分からなかった。なぜこのキャラクターなのか、なぜ回っているのか、誰なのか。見るポイントがよく分からなかったので、少々苦痛な時間ではあった。

開演時間から閉園間近の時間まで、丸一日たっぷりとここで過ごしたが、さすがに疲れた。脚が棒になるとはこういうことを指すのだろう。それにしても、入場券、Expressパス(長蛇の列が出来ていて、アトラクションに参加するまで120分待ちとかいう状況でも、優先的にスイスイと乗れてしまうパス)ともに値段が高い。長時間待たずに10分程度で乗れてしまうことを考えればそれだけの価値があるともいえるが、それにしても高すぎる。しかも我が家は5人家族なので、すべて「×5」である。−−−−−−当分の間、飲み会は控えた方がいいかもしれない。

2013年9月20日(金)
学習机

今から45年前のある日、小学校入学を控えた私は両親に学習机を買ってもらった。全体的にステンレスとプラスチックでできていたが、天板は木目調のプリントが貼られていた。長い引き出しが1つと、右側に引き出しが3つ縦に並んでいた。正面には棚が2〜3段取り付けられていたと思う。

うれしかった。
椅子に座り机に備え付けられていたライトをつけると、机の表面が輝いて見えた。そこに自分だけの空間が生まれたことが、本当にうれしかった。その時の机の表面の「輝き」は、今も脳裏に焼き付いている。

その学習机を今も持っている。引き出しには仮面ライダーに出てくる怪人の立体シールや、何かでもらったステッカーが貼られたままだが、使い続けている。これまで私は、東京で生まれ育ち、ソロモンに住み、大学院進学以降、広島、京都、名古屋、そして今のつくばと移動してきたが、ソロモン時代を除いて常にこの学習机と一緒だった。小学1年から大学院博士課程まではその学習机を自分のメインのデスクとして使っていたし、大学の教員になってからも、しばらくは荷物や書籍、書類などを置く台のような役割に変わったものの、私にとって重要な戦力であり続けた。

長女が小学校に入学する時、その学習机を譲った。「机に向かって勉強する習慣がつくまでは新しい学習机は買わない」という方針からだったが、自分の机を娘が使うこともまた、うれしかった。公務員宿舎から自前の家に引っ越すまでの約2年間、小学校2年生の終わりまで、長女はそれを使い続けてくれた。そして長女は自分の学習机へと「巣立って」行った。私の学習机はその後次女へ、そして三女に引き継がれ、全員が自分の新しい学習机を持った後、それは子供部屋(我が家に個室の子供部屋はない。3人相部屋)専用のパソコン机に役割を変えた。

しかし、もはやボロボロである。正面の棚は大学生ぐらいの時処分したような記憶があるが、縦3段の引き出しは今やレールにはまらず傾き、長い引き出しはすでにどこかに消えてしまった。でも、パソコン机としては十分によく働いてくれている。しかしもう限界のようだ。子供部屋はもはやスペース的に苦しくなってきた。子供部屋用の中古パソコンも以前はデスクトップ型だったが今はノートになり、しかも無線LANがついているので、必要なときに自分の学習机に持って行って使うことができる。必ずしもパソコン専用机は必要ないと言う状況になってしまった(そうしたのは自分だが、より良い方法を実行していったら、いつの間にかこうなってしまった)。

妻からは処分することを求められている。
学習机の45歳というのは、人間で言うと何歳ぐらいになるのだろうか。とっくに100歳は超えているだろう。役割を終え、静かに引退してもらう時が来たのかもしれない。
.....いや、まだ残す方策が何かあるかもしれない!

2012年11月5日(月)
大学の数とあり方

文部科学大臣が大学設置・学校法人審議会の認可答申に反して設置申請されている3案件を不認可としたことにより、関係機関や自治体をあげて総反発が起こっている。不許可の理由は明確ではないが、大学の数の多さ、教育の質の低下、設置審自体のあり方の再検討が必要、ということらしい。

大学の数が多いことは事実である。2012年における国公私立大学の数は、合わせて783校であるという。1990年代の規制緩和以降設置基準のハードルが下がり、短大や専門学校の生き残りをかけた4年制大学化が目立つようになった。しかし、少子高齢化が社会問題として大々的にクローズアップされるようになってからも、「倒産」する大学はほとんどないのに新設され続けてきたことに対して、疑問を抱いていた人は少なくないはずである。希望すれば大学に入れるという「全入時代」は高等教育機関としての大学のあるべき時代状況であるのか、大いに検討する余地はありそうだ。このような指摘をエリート主義とみる向きもあるが、そもそも日本における大学とは何なのかを、再定義する必要がある。

近年、昔のように教員がほぼ一方的に講釈するようなスタイルの授業は「よい」授業とは判断されなくなっている。学生も発言者として参加できるような、主体性を促すような授業を通じて「真に」身につく学問を提供しなければならないとされる。しかし、個人的には、私はそのような授業スタイルが好きではない。大学の授業とは昔のようなものであるべきだと思っている。以前小学校に通う我が子の授業参観に行った折に、班ごとに課題を話し合い、授業時間の最後にその内容を順番に発表するという形式の授業に出くわしたことがある。それを見た時、大学で求められているものはこれなのかもしれない、と思った覚えがある。それに気づいてからは、なおのことそのような授業形式をとることに抵抗を感じるようになった。

確かに、新設される大学は、今回の3案件のように、時代や社会が期待する分野や領域であることが多かった。その意義は認識できるものの、時代や社会の趨勢が変わるたびに、あるいは微妙に変化するだけでも、大学の目玉となる教育内容をそれに合わせて押し出せば大学ができてしまうことになる(もちろん、そんな単純なプロセスではないとは思うが)。必然的に大学の数は増加の一途を辿ることになる。大学の数が増えれば、それだけ税金からの補助金も増加することになる。これも国民全体に関わる問題である。

そのように考えると、設置審の答申を止めたくなる気持ちはよくわかる。しかし、それは「次」からやるべきことである。まずこの決定をする前に、設置基準や設置審のあり方を見直してから、つまり制度を変えてからでなければならない。現行の設置基準をクリアしているものを突然最終段階で変えることは、それに大金を投じてきた人たち、準備に奔走してきた人たち、新設大学に期待して待っていた学生たちをいたずらに混乱に陥れることは言うまでもない。今回の決定を「政治主導」というのであれば、それは見当違いであり、「主導」を発揮させるところがずれている。この件を通じても、やはり政権の背骨がどうしても見えてこないのである。それがあれば、の話ではあるが。

2012年8月19日(日)
何を訊くのか
ロンドンオリンピックでメダルを獲得した選手が、各放送局をはしごしてインタビューを受ける場面が数多く見られた。毎回見られるお決まりの光景である。彼らが日本に帰国してからも、ワイドショーなどの番組に引っ張りだこである。

それらのインタビューを聞いていて感じることは、中身のない反復的な質問がとても多いことである。競技そのものに関する質問はあまりなく、「メダル獲得を決めた瞬間、どんな思いでしたか」「今何を一番したいですか」「支えてくれたご家族に何かおっしゃりたいことは」など、情緒面に関することが多かった。感動話に仕立て上げたいという意図を全否定するつもりはないが、どの局も競技の内容に直接関係のない同じ質問ばかりをするので、オリンピックってスポーツの祭典じゃなかったのか? と首をひねりたくもなった。競技の種類に関係なく、どんなものにでも通用する質問ばかりなのである。

一言で言えば、それぞれの競技に対する理解、予備知識が不足している、もしくは「ない」。確かにアーチェリーとか重量挙げなど、日頃接する機会の少ない競技については難しい面もあるが、番組として届ける立場にあるインタビュアーは知りませんではすまされないのではないだろうか。逆に驚いたのは、放送を見る限り、マイナー競技においても競技実況のアナウンサーが実によく勉強していると感じられたことである。高飛び込みを見ていた時、それが素人目には優劣がつきにくい競技の一つであると感じたが、実況のアナウンサーの発する話が解説者と競技内容に関する専門的な話が十分にかみ合っていた。おそらくそのアナウンサーは飛び込み経験者とは思われないし、飛び込みの実況中継を数多くこなすような機会も、これまで日本ではなかっただろう。事前に相当の努力があったのではないかと思う。

個々の競技に対するこういう知識と理解を、各局が用意する看板的なタレントに求めるのは酷とは思うが、メダリストを招いて行うインタビューにおいて、少しでもそれに近いものを示して欲しかった。元メダリストや元選手を「補佐役」的において番組を構成する場面もあったが、概してそういう人たちの質問は陰に隠れていたように思う。情緒的・感動秘話的質問と協議内容の質問とのバランスを逆転させ、目を輝かせて競技について語る選手たちの姿が見たいのである。情緒的な内容(感動話)はその先にしみ出てくるようなものであって欲しい。

私はそのようなインタビューを聞き、そして感動したい。
2012年7月7日(土)
ヒッグス粒子の実用性?−実学主義の社会
ついにヒッグス粒子の存在が確認された。とはいっても、まだ実験結果から、その可能性は99.9999%なのだという(ほとんど100)。このニュースは、テレビのニュース速報にも流れたし、新聞各紙の朝刊1面トップに写真入りで大々的に報じられた。

しかし、おそらくほとんどの国民はヒッグス粒子なるものを知らない。実は私も今回の報道で初めて知った。毎日新聞の解説によると、「137億円前のビッグバンの瞬間に素粒子が高速で飛び交い、その約100億分の1秒後にそれらは宇宙の膨張によって冷やされ、相転移という急激な変化が起きた。その時素粒子に結露のようにまとわりついたことで質量が生じた」ということである。要するに物体が現在あるのも、元を正せばヒッグス粒子が他の素粒子の動きを鈍くしてくれたから、ということになる。

この話自体は、どこか空想的でもあり、素朴な好奇心をかき立ててくれる。しかし世間は、というか報道の世界は、それだけではおさまりがつかないらしい。

ノーベル賞受賞者が発表された後も同じだと思うが、報道では必ず「それは私たちの生活にどのような影響があるのでしょうか」という質問が出てくる。大抵そういう質問は、理解不能な事柄に対してとりあえず発しているようにも見うけられるが、世間の実学主義が背景にあるようにも感じている。「学問は必ず人間生活の役に立たなければならない」という発想である。そういえば、2年ぐらい前に、民主党政権が勇んで実施した仕分け作業の時にも、ある国会議員が科学技術に税金を投入しているのだから、それに見合うリターンがなければ納得できない、という主旨の発言をしていた。

しかし、役に立つこと、そのことに直結することだけが学問ではない。人間を研究する分野、社会を研究する分野、哲学・思想の研究、文学の研究、歴史の研究。これらは、「暮らし」を変えることに結び付かない場合の方が多い。人間性を豊かにする、知識力や創造力、想像力をかき立てる、など、実用に向かうための基盤形成のための学問ということができるかもしれない。

ヒッグス粒子の発見で携帯がつながりやすくなるわけでも、介護ロボットが実用されるわけでも、ましてや社会の仕組みが格段に進歩するわけでもない。でもその発見で世界中が大騒ぎをする。日本人1億2000万人のうち、「ヒッグス粒子発見か」の第一報を受けて、すぐさまその意味を理解した人はがどれだけいただろうか。それでも速報の価値があるのは、この学問が、漠然とではあるが、物(質量)とは関係ない次元で人間を「豊か」にしてくれるからである。
2012年7月6日(金)
文化現象としての原発事故

つい先日、国会が設置した東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の報告書が公表された。国会が設置する機関による評価にあまり期待していなかったが、その内容は予想に反して国民の声を代弁するものともいえるものだったように思う。

国会事故調のHPで英語版報告書をみたところ、黒川委員長の序文に興味深い一文があった(日本語版には載っていない)。その部分だけ引用してみよう。

What must be admitted - very painfully- is that this was a disaster "Made in Japan." Its fundamental causes are to be found in the ingrained conventions of Japanese culture: our reflexive obedience; our reluctance to question authority; our devotion with 'sticking with the program'; our groupism; our insularity.

実はこの文の前の段落に、the subsequent accident at the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant cannot be regarded as a natural disaster. It was profoundly mandate disaster.... とも書かれていて、人災であることを明確に宣告している(このことはテレビ報道でも取りあげられていた)。日本人の文化あるいは心性に言及した上の英文は、今回の事故および事故に至る一連の膨大かつ複雑なプロセスが日本における一種の文化的事象と言っているようなものである。原発事故問題を日本の個別性に還元してはいけない、という意見もあるだろうが、逆に個別性を無視することもできないはずである。その意味で、日本的文脈の存在を文言として書き加えたこの部分は、評価できる。

「従順性」「権威に疑問を差し挟まない」「計画に固執する態度」「集団主義」「島国根性」。確かにこれらは政・官・財・学という権威と権力を持った人たちを住民とする「原子力村」を維持することに関わってきたのかもしれない。しかし、逆に、それら抽象的概念で表象される諸特徴は、日本の高度成長やその後の比較的高い水準の経済を維持してきた原動力であったことも否めない。それが日本社会を安定させる「秩序」だったことは間違いない。

同じ過ちを繰り替えさないことはもちろんであるが、それは日本人のマインドセットを変えることでもある。いわば日本人は社会や個人のあり方に関する「文化変容」を求められているのである。長年にわたる月日の中で積み上げてきた結果としてのそれを急激に変えることはできない(変わらない)。でもやらなければならない。たとえ激しい痛みを伴うことになったとしても。

2012年5月6日(日)
原発全停止

 昨日(2012/5/5)北海道の泊原発が定期点検のため停止し、これで国内にあるすべての原発が止まった。世間では、原発を動かさないことによる経済活動や家庭生活への影響などが取りざたされている。早期の再稼働を望む政府と経済界、逆にそれを阻止しようとする市民感情は平行線のままである。
 本当に電力が足りないのか、東電の値上げは不可欠なのか。原発再稼働に足りる安全上の問題はすべてクリアされたのだろうか。
 これらの問いに明確に真実を語れる人は、少なくともこの日本にはいない。というよりも、何が真実なのかが誰にもわからないのである。
 政府、電力会社、原子力や原発の研究者などがいくら「安全」を強調しても、たとえそれが「科学的」と称されるデータに基づいていたとしても、それを操作する主体がひとである以上、地に落ちた語りの信用を取り戻すことは容易ではない。すでに彼らの語りや見識が必ずしも信用できるものではないということを、この1年間でイヤという程思い知らされた。
 もしかすると、本当に原発は必要なのかもしれない。しかし、既存の原発を容認する周辺住民、関係自治体は今や存在しないし、もう補助金や経済振興策と原発とを引き替えにするような次元にはない。つまり、いくら必要性が強調されても、現実問題として再稼働や新規建設は、国が法律を改正し何らかの強権を発動するような、「力」によるごり押しでもしないかぎり無理だろう。これは、数十年間再生産され続けてきた原発言説(安全神話)と実態との乖離が、取り返しのつかない程のツケとなって私たちに重くのしかかっているということである。
 私の住む茨城県は、東海村に代表されるように長年にわたり原子力と深い縁のある自治体である。茨城県には「茨城県民の歌」という歌があり、その3番には次のような歌詞がならぶ。
 世紀をひらく 原子の火
 寄せる新潮 鹿島灘
 このあたらしい 光をかかげ
 みんなで進む足なみが
 あすの文化をきずくのだ
 いばらき いばらき
 われらの茨城
 地域住民も原子力に自分たちの「明日の希望」を重ね合わせてきたことは、紛れもない事実である。東日本大震災を機に原発言説と実態との乖離が明らかになったからといって、地域住民、私も含む国民全体がそれによって免罪されるわけではない。
 しかし、私たちに他にどのような選択があり得たというのだろうか。原発技術は超がつくほどの専門的領域である。原発の安全性に関する判断材料を自ら生み出せない圧倒的大多数の国民、あるいは地域住民が国策事業に対してチェック機能を働かせることは事実上不可能である。判断は地域に対する「経済的メリット」によって測られることが多かったのではないだろうか。そのことを非難することなど、到底できない。
 私たちは今後原発とどのような関係を築いてゆくべきなのか。結局のところ、私たちに重要な基礎的情報が不足していることは、かつても今も何ら変わりはない。少なくとも確実なことは、「自治体や住民の理解を得た上で」という、穏便な形での再稼働は、もはやあり得ないということである。

2011年9月21日(水)
人生楽ありゃ苦もあるさ

現在放送されているシリーズで、ドラマ「水戸黄門」が終了するという。気がついてみると、時代劇というカテゴリーに入るような番組はほとんどなくなってしまった。かつて水戸黄門と入れ替わりにやっていた「大岡越前」や「江戸を斬る」も、全くやらなくなった。

最初に見た水戸黄門は、第1部、つまり最初のシリーズだったと思う。調べたところ、第1部は1969年8月に始まったようなので、その時私は小学1年生だったことになる。その頃わが家では、銭形平次や旗本退屈男、子連れ狼などもよく見ていて、正直小学生の子どもにとってはとても苦痛な時間であった。大学生の時に例外的に「必殺仕事人」にはまったが、基本的に子供の頃の自分にとって、時代劇は遠ざけたくなる番組の一つであり続けた。

時は流れて1989年、協力隊員としてソロモン諸島に滞在していた時のことである。ある日、首都ホニアラにあった私の自宅近くに住むJICA専門家の家で、日本から送られてきたというテレビ番組を見せてもらう機会があった。ソロモンに住み始めて2年ぐらい経った頃である。そのビデオテープの中に「水戸黄門」も収められていた。何気なくテープをセットした後に画面に現れた水戸黄門のタイトルバックとお馴染みのテーマソングに、不覚にも感動してしまった。その時の画面の映像を(「水戸黄門」」という達筆な文字が浮かび上がってくる瞬間を)、今でもはっきり覚えている。これ以上ないというぐらいに「日本」を感じる内容に、素直に喜びを覚えた。それまで、若さゆえか何となく素直に受け入れたくなかった日本人の倫理観、道徳心、義理と人情を重んじる態度、清廉な心、地道に働くことの尊さ、正直者の価値、親やキョウダイを想う気持ち等々に、逆に日本人の精神的な「美」さえ感じた。日本も、コテコテの日本的なものも、決して悪くない、結構誇ってよいものなんじゃないかという思いである。

その後日本に帰国してからも、水戸黄門は自分にとって特別な番組であり続けた。マンネリでも何でも構わない。ニセ黄門の話でも、黄門様が大泥棒になるという話でも、悪徳代官と廻船問屋が結託して抜け荷を企み、善良な御用達商人から鑑札を奪取しようとする話でも、城代家老と次席家老の権力闘争をめぐるお家騒動に巻き込まれ傷つく主君思いの家臣を助けるべく黄門様が介入して秩序を正すというような話でも、たとえそれらにデジャヴを感じても、それでよい。いや、それでなくてはならないのである。

勧めたわけではないが、どういうわけかうちの娘たち3人もすべて水戸黄門が好きである。以前は、オープニングのテーマ曲を助さんと格さんに合わせて合唱し、クライマックスになると、おもちゃの印籠(もちろん、三ツ葉葵のご紋入り)を用意し、格さんの所作に合わせてそれを取り出し、「ひかえおろう!」と叫んでいた時もある。

日本人のおそらく誰もが知っている名物がなくなってしまうようで、とても寂しい。日本で唯一、単純なストーリー、誰もが話の展開を予測できることを許されたドラマだったのではないだろうか。子供の絵本のようなドラマだったと言えなくもない。視聴率が低くても、そんなことを度外視していつかまた復活させて欲しいと本気で願っている。スペシャル番組でもよい。最終回が12月のいつになるのか分からないが、その日は万難を排してお茶の間を陣取ることにしよう。

2011年7月11日(月)
宇宙と人
宇宙に夢を抱くことに疑問を挟むことを許さない一般的風潮があることを、これまで何となく感じてきた。小学生が「将来の夢は宇宙飛行士!」と答えることが少なくとも男の子の模範解答のようになり、親たちはそう答える我が子に満足しているようでもあった。確かに宇宙飛行士は人類の経験する「職業」の中では最難関ともいえるものであるし、伝わってくるかぎりでは人格的にも優れた人材が選ばれてきたようである。ある意味、宇宙飛行士に選ばれるということは、完全無欠な人物であることのお墨付きを得るようなもの、というイメージがあるとも言える。

ほんのわずかな、選び抜かれた人しかいくことが許されない未知の世界に夢を重ねることは、悪いことではない。しかし、実際にそれを人類共通の目標として本当に試みるかどうかは別の話である。

往還型のスペースシャトルによる有人宇宙飛行計画のことをはじめて知ったのは、高校生の頃だった。通学途中の電車の中吊り広告に、数年後にはじめて飛ぶことになっていたシャトルのことが書かれていて、それに魅力を感じた覚えがある。飛行機で外国に行く感覚で宇宙に行けるという空想が現実化するかもしれないというわくわく感を抱いたことを覚えている。

しかし、年が経つにつれ、宇宙とははたして人間が直接行くところなのだろうか、あるいは、宇宙は行けるところなのだろうか、行ってもいいところなのかという疑問が湧いてきた。国際宇宙ステーションをつくり、そこに何ヶ月間も人が滞在して様々な実験データを集める。そのこと自体は宇宙の未知の部分を解明する上で必要なことだろう。しかし、人が行くということには、必然的に宇宙「開発」という意味が含まれるはずである。いったい宇宙開発という言葉に、どのような内容の開発が含まれるのか、あるいは含まれようとしていたのだろうか。あたかも一般人も宇宙旅行ができるようになるという、(高校生の頃に私が思い描いた)SF映画の世界が眼前にあらわれるような錯覚を多くの人が今も抱いているとしたら、そしてそのことによって今の宇宙開発事業に対して漠然とした支持を与えているとしたら、おそらくそれは間違いだろう。

シャトルは引退し、後継機についてははっきりとは決まっていないという。それまではロシアのソユーズに頼る(ヒッチハイクする)しか宇宙ステーションに行く手段はない。アメリカはアポロのような使いっきり型のロケットによる有人火星探査などにシフトしていくとも言われる。それでは、ここまで人々の夢や空想や、宇宙ステーションというハコモノ作りを引っ張ってきたのは一体何だったのか。超がつくほどの優秀な人材を何のためにリクルートしてきたのか。世俗的な言い方をすれば、これまでこれらにつぎ込んできた税金にどういう意味があったのか。率直に言って、よく分からない。「壮大な夢(空想)」というマジックの呪縛から解き放たれる時が来ているのではないか。

「宇宙を知る」ことは人類にとって必要なことであろう。はやぶさがイトカワの物質をわずかにではあるが持ち帰ったことは、感動的でさえあった。それが宇宙誕生の謎を解明する手がかりになるかもしれないというような、素人には全く意味不明なロジックで語りかけられても、素直に受け入れられる。でもなぜそのような「知る対象」の宇宙に、人は「開発」を目的に乗り出さなければならないのだろうか。まさか地球の中が開発し尽くされてしまうから、という理由ではあるまい。もしそうだとしたら、私たちはまず宇宙開発の前に、地球の中の開発のあり方を再考しなければならないはずである。

宇宙は未知の世界である。そのことは、「未知」との出会いという点においては、「異文化接触」と似ている。相手(この場合宇宙)を知ることが常に「開発」を含意するわけではない。かつての植民地統治にはそういう側面が多分にあり、人類学もその文脈に一役買っていたという苦い過去があるが、その事実によってしても、「知ること=開発」でないこと、そうであってはならないことははっきりしている。宇宙は人が直接行くところではない。そこは科学的にはあくまでも「知る」対象であり、開発の対象であってはならない。ましてや植民地化の対象であるはずもない。一般人にとって宇宙とは、「見上げて祈りを捧げる」対象といったところだろうか。少なくとも私は、宇宙に対しては「反開発」でありたいと思っている。
2011年6月27日(月)
世界遺産、「日本遺産」
平泉が世界遺産になった。

浄土思想を具現化した平泉の文化遺産的価値を否定する人はいないだろう。でも、「世界遺産」でなくてもいいような気もする。「2位じゃだめなんですか」発言ではないけれど、「日本遺産だけじゃだめなんですか」という思いは、国内にあるその他の世界文化遺産やその候補地の多くにも感じるところだ。

この種の「遺産」にはその対象に対する思い(遺産の保護と次世代への継承の思い=精神性)が強調されなければならない。しかし、世界遺産になることに伴う副次的効果(経済的収益性)に対する期待の方が本音としてあり、どこか精神性がそれに利用されているようにも感じられる。確かにユネスコの世界遺産条約は産業振興も遺産そのものの保護と共に世界遺産の扱いに関する重要な柱としているようだが、そうであっても精神性が強調されるぐらいに強調されてほしいと、個人的には願っている。そのためには観光客の制限も必要になってくるかもしれない。その時、世界遺産を抱える地域の人々はどのような反応をみせるだろうか。
2011年5月2日(月)
真実を求めて

茨城県に住んでいるが、被災したわけではない。しかし地震以後、直接被災していなくても何か落ち着かない気持ちを抱え続けている人は多いのではないだろうか。心に穴があき、常にそこから何かが漏れ続けているような、脱力感にも似た思いである。昨日子どもたちを連れて見に行った「ナルニア国物語」という映画のはじめの方に、主人公たちが海に投げ出されるシーンがあったが、それと津波の画像とが脳裏でだぶり、若干の動悸を覚えたりもした。

3万人近い人々が短時間のうちに亡くなったり行方不明になったりするという事実、震度6(自分の住んでいるところの震度)を実際に体感し、その後も多くの余震を経験していること、事故を起こしている原発の隣県に住んでいるため放射線や原発そのものに関する情報の収集に躍起になったこと、要するに津波、原発事故、避難所生活、買いだめ、帰宅難民、計画停電、風評被害、自粛など、あまりにも多くの尋常でない事柄が短期間に私たちを襲ったことを、頭の中ではある程度整理がついても内面的に受け止め切れていないのかもしれない。

地震そのものの威力もさることながら、津波がこれほどまでに巨大な力をもつとは誰が想像したろう。すべてを飲み込み、まるで洗い流すかのように沖へ持って行ってしまう様子に、誰もが人知を越えた自然の猛威を改めて実感した。もしかすると私の脱力感は、計り知れないこのような自然の力の前にただひれ伏すしかないという、あきらめの感情なのかもしれない。直接被災地を訪ねたわけではないが、映像でみる津波の後の街の風景は、ただひたすらに悲しい。

今回の地震と津波を天罰と言ってしまったら、被害に遭われた方々に申し訳ない。時に自然は人に襲いかかる(人知を越えた力を発揮する)ため、人間は自然的なものや現象を神格化し、敬い、そして怖れてきた。そして、自然災害を「神の仕業」、神からのメッセージとして受け止めてもきた。特定の宗教に帰依していなくても、今回の事態を漠然とそのように認識する人も少なくないのではないだろうか。私たちはそのメッセージを冷静に解読する必要に迫られている。

メッセージの矛先の一つに原発問題が含まれていることは間違いない。しかし、現実に起こっていることについて、何が真実なのかがわからない。メッセージを「解読」する以前の段階である。3月11日以前に原子力や原発、放射線の特質などについて詳しく知っていた日本人は、間違いなく少ない。原発が基本的には蒸気を使って発電していること、放射線量を表す単位がシーベルトやベクレルであること、その量は距離の二乗に反比例すること、放射性物質とは花粉みたいなものであることなど、今回の事故ではじめて知ることばかりである(蒸気とか花粉という言葉と原子力とが結びつくと、妙に身近に感じてしまう)。私を含めてほとんどの国民はドがつく素人であったはずだ。自分自身に判断に必要な参照枠がほとんどないのだから、さしあたり私たちは専門家の言うことに耳を傾けるしかない。

しかし、メディアや国民の多くは、政府や東電、専門家の発表や姿勢を糾弾し、疑いの目を向ける。確かに内容に矛盾がみられたり、内容が二転三転すれば、素人である私たちが不信感を覚えるのは当然である。地震後某大学の原子力の専門家が頻繁にメディアに登場し解説していたが、その世界が某大出身者で占められる比較的狭いコミュニティであったり、東電から多額の寄付講座を受けてきたりという事実を知らされると、彼らの発言にも余計な先入観を抱いてしまう。また官房長官が、「ただちに健康に影響を与えるものではない」などと意味深な言い回しをしたり、対処療法的な対応に終始する姿は、不安をかき立てる。先日、小学校の校庭の放射線量に関する政府の基準が甘いと言って、専門家の一人が原子力関係の政府委員を辞職した。これらのことは、今の日本には、少なくとも一般の日本人に対してメディア等を通じて、事の真実や「真の」見通しを語れる人間がいない(もしかすると、原子力の「専門家」と称する学者や官僚が実質的に専門家ではなかった)ということを示している。「一億総素人」であるような国が高度の専門性を必要とする事業を進めてきたのだから、「専門家」を自称してきた人々の罪は軽くない。「専門家」の名において原子力事業を推進する彼らは、人類史に関わる決定や決断を行っているという自覚が必要である。「津波がこれほどまでとは考えていなかった」というような想定外の語りを免罪符にするのなら、原子力事業に携わる資格はない。

地震の多い国で、とりわけ歴史的にも大きな津波を経験している地域の沿岸部に原発をつくることの覚悟は、いかほどのものだったのだろうか。原子力の場合、「想定外があってはならない」という大原則があるのではないだろうか。以前、「原発の非常用電源を失ったら、あるいは飛行機が墜落して原発に激突したらどうするのか」という質問に対して、原発推進派の専門家(某大関係者)は「どこかで割り切らなければ、原発はできない」と答えたという。幾重にもロック機構があり、それらによって安全は確保されているという専門家の話も聞いたことがある。しかし今回、外部電源が止まり、非常用電源も失われ原子炉を冷却できなくなったたけで、放射性物質をばらまくという異常事態に陥った。わずかそれだけの安全機構である。ロボットや冷却剤の備えも十分でなかった。非常用電源も働かないという事態や、放射線が強すぎて人間が直接作業に携われないという事態は、素人でも(専門家に言わせれば、「素人だからこそ」ということになるのかもしれないが)考え得ることである。

それでも専門家の発言を聞くしかない。でもその専門家の話がホンモノなのかがわからない。それは日本の専門家でもアメリカやフランスの専門家でも同じことである。では私たちド素人は何を信じて判断すればよいのだろうか。結局のところ、「自分」に忠実であるしかないということなのだろう。そんな曖昧な構えしか、今は誰も言えないのではないだろうか。真実(客観的事実)とは個人の認識(主観)なのである。そのことを踏まえて、メッセージの解読に取り組まなければならない。

2011年3月9日(水)
自転車は「罪」?

自転車の傍若無人さは目にあまる。
2008年度に起きた中学生の交通事故の約9割が自転車乗用中におこったものだという報告が、交通事故総合分析センターから出された。そのほとんどが「被害者」ということである。高校生も同様に高い数字をみせている。

自転車乗用者は一般に歩行者と共に、自動車との対比において「交通弱者」的な位置づけにある。しかし、現状をみるかぎり、自転車は決して弱者ではない。歩道では歩行者の間を気ままにすり抜け、歩道と車道を行ったり来たりすることもある。交差点では赤信号でもいとも簡単に無視をする。横断歩道に進入する際に左折車など自動車の接近に注意を払わない。こんな光景は日常茶飯事である。おそらく歩行者でいる時は赤信号を守るであろうに、なぜ自転車に乗ると「強気」になるのだろうか。そのトリックスターのような姿に、「弱さ」などは感じられない。

ひとつには自転車のもつ「交通主体者」としての曖昧さが考えられる。自転車と歩行者が共用する横断歩道があったり、自転車も走れる歩道があったりする。しかし自転車は「軽車両」であり、本来は車道を走るべき存在である。じゃあ「法令」どおりに車道を走ればよいかというと、自動車の運転者に対して「弱々しくていつ倒れてくるかわからない」という不安感を与えてしまい、迷惑がられる(ことが多いのではないか)。自転車のもつこの両義性(あるいは、どちらからも排除される)という性質が、自転車事故の多発を招いるともいえる。

これだけ自転車が普及しているにもかかわらず、自転車の交通法規やマナーに関する教育は、基本的にはどこでも行われておらず、野放し状態である。おそらく「自転車が本来走るべきところは車道」という超基本的事項でさえも知らない自転車乗用者が多いのではないかと思う。しかし、自転車、自動車双方が安心して走れるように車道が十分に整備されていないのも事実である。最近、車道の脇に青いペイントで自転車専用レーンを設定する事例が増えている。「自転車が走るべき場所」を明示するこういう工夫については、今後もさらに拡大してゆくべきであろう。

2010年12月20日(火)
プロフェッショナル

「プロフェッショナル」− 

今年1年を振り返って、ふとこの言葉が頭に浮かんだ。
先日の市川海老蔵事件によって、本人が出演する歌舞伎公演に急遽代役が立てられた。南座に出演することになった仁左衛門や愛之介、1月の新春歌舞伎を自らの特別公演として演じることになった玉三郎などは、十分な準備のない状況にもかかわらず、歌舞伎界全体のことを思い引き受けたという。即座に、しかもレベルの高い技術を披露することができるのは、長年にわたる厳しい修行や日頃の精進あってのことと思うが、自らを律する姿勢と他者との関係を見据えた冷静な態度に、彼らこそが本物のプロフェッショナルなのだと思ってしまう。玉三郎も、1月は「たまたま(スケジュールが)空いていたから」「声をかけられるうちが花」という内容のことを記者発表で述べていたという。もしかすると、海老蔵に対してはらわたが煮えくりかえる思いもあるかもしれないが、たとえあったとしてもそれを胸にしまい込み、職業意識に基づいて淡々と対応する姿は、ホンモノである。プロフェッショナルとは、ただ単に高い技術や能力を持ち合わせているだけではなく、全人格的なものであることを感じさせる人物をさすのだろう。

2週間ほど前、AKB48のメンバー2人が出演しているあるバラエティ・トーク番組をたまたま見る機会があった。AKBなる多人数によるアイドルグループの存在は知っていたが、正直言って、ついこの前まで1人も名前を知らず、もちろん歌っている歌を聴いたこともなかった。しかし、その番組に出ていた1人(指原莉乃)は、自分のグループ内における立場(人気が必ずしも高くなく、後ろの方で目立たずに踊っているだけの状態)に満足しておらず、愚痴っぽい話を司会者にぶつけていたが、その語りの素直さと軽妙な語り口から感じられる頭の回転の速さに、少々驚いた。チャラチャラして何も考えていない、という勝手な先入観に基づくイメージとはだいぶ違っていた。

その数日後、うちの娘たちが夜見ていた年末の音楽番組にAKBが出ていて、トーク番組の時のこともあり、思わず見てしまった(確かに指原莉乃は目立たず、その姿を確認することすらできなかった)。その時初めて見たAKBの全体的な印象がよく、(不覚にも)歌もよいと思ってしまった(うまいという意味ではなく、これも全体的な印象が)。その時聴いた歌のタイトルは、「会いたかった」と「ヘビー何とか」というものだった。そしてその後、YouTubeでも見てみた。「会いたかった」のプロモーションビデオである。歌詞の内容を芝居仕立てで表現したもので、歌詞の内容自体はいかにも女子高生的であり、ちょっと辟易したが、映像を見ていて、作詞、作曲、振り付け、シナリオライター、ヘアメイク、カメラ、衣装係、プロデューサーなどなど、プロフェッショナルが寄ってたかって仕上げていくと、普通の子が(もしかするとそれぞれ才能豊かな子たちなのかもしれないが)「プロ」(「 」付きのプロ)として画面に躍動するようになることが、とても感動的でさえあった。

ところで、話の対象はガラッと変わるが、本来「(政治の)プロ」であるはずの政治家はどうだろう。とりわけ今年起きた外交問題における対応を見る限り、政治家も官僚も、少なくとも外交のプロとは言い難いように思えた。政治家本人はもとより、彼らを「寄ってたか」って「『プロ』に仕上げる」ような外交のプロフェッショナルはいないのだろうか。「弱腰」、「米国追随(依存)」、「何も決められない」、「無策」。これらは今年の前半期には普天間基地移設問題において、後半は尖閣問題で特にメディアを賑わしたフレーズである。

これらのフレーズの意味を考えてみると、もしかすると、日本外交をアマチュアのような状態のままにしている最大の原因は、これまで日本でタブー視されてきたことと関係があるのではないかと思えてくる。それは、「軍事力を背景にしない外交には限界がある」ということである。国と国との「話し合い」の局面においても、安全保障と完全に無縁である事項は少ない。北朝鮮、中国、ロシア、あるいはそれ以外のどこかと不測の事態に陥った時、常に日米安保が発動されるかどうかを確認しなければならないようでは、本当に主権国家といえるのだろうか。また仮に安保が発動され米軍によって守られたとしても、それによって日米関係の非対称性は益々増長されることになるだろう。朝鮮半島に有事が生じた場合、韓国にいる邦人を救出する方法は米軍に依存するほかない。つまり、現在の法律では自衛隊を韓国に派遣して自国民を救出することすら許されない。確かに日本はかつて軍事大国化を指向し、国民に対しても外国に対しても大きな間違いをおかした。だからこそ日本人は、軍事力の暴走に対する警戒感が非常に強い。とりわけ核にに対しては、国民共通の歴史的思いがある。それ自体は誇ってよいものである。しかし、そのことと、主権国家として軍事力を背景にした外交を否定することとは必ずしも整合しないのではないだろうか。国際社会が別のコードで動いているさなかに、理想主義的に現実離れした姿勢を貫いているうちに、みるみる窮地に立たされている、そんな姿が見えてくる。他国が拳を振り上げ、自国民に危害を及ぼし(あるいはその危機的状況にある中)、国連を中心にした国際世論に訴えるとか、米国に救済支援を求めるとか言うしかないとしたら、それは対外的にも対内的にも、国家の姿としては信じがたい状況である。

しかし、軍事力と外交との関係を再考するためには、ある前提となる認識が必要である。

11月の国会で、ある閣僚が「自衛隊は暴力装置」と言って窮地に立たされた。その表現はかつて左翼運動でよく使われたフレーズではあったが、社会科学の分野においても、その表現自体は決して珍しいものではない。マックス・ウェーバーは、国家に独占され、統制されるべき組織としての軍隊と警察を「暴力装置」と呼んだ。自衛隊(そして警察)は、本来的に実力手段をもって事に対処する性質をもつ組織であり、誰が何と言おうと(どういう言い方をしようと)、暴力装置であることに基本的には変わりはない(しかし、何の準備もなく唐突に政治家、とりわけ閣僚がその表現を使ってしまっては、今の日本で普通でいられなくなるのは当然である)。これは何も自衛隊員を侮辱する言葉とは思わない。暴力的手段を合法的に扱うことのできる特別な立場に立つ存在であるという認識をもつことは、冷静な議論には必要なことであると信じている。その基本的な認識をもたないと、戦前の軍隊のような暴走を許すことになってしまう。軍事力とは暴力である、このような認識を前提にしなければ、シビリアン・コントロールに根ざした安全保障の論議は成立しない。もしかすると、この前提的認識が日本の政治や外交におけるプロフェッショナルを生み出すための条件であるのかもしれない。

鳴り物入りで登場した民主党政権は、はじめのうちは「まだ○ヶ月だから」とか「自民党時代の尻ぬぐいをしている段階だから」という免罪符で守られていたが、どうもホンモノのアマチュアかもしれないと思い始めている人も多いのではないだろうか。唯一の救いだった「経済大国」の称号も、様々な分野で怪しくなっている。何といっても国民が経済的に自信を失いきっている。尖閣問題における政府の対応に、国民の多くは深く傷ついた。先進国の一員などと誇らしげに語れる時代は、もう終わった。政治や行政はもちろんのこと、あらゆる分野で、一つもの(こと)を創り出すために、「寄ってたかる」多くのホンモノのプロフェッショナルと、「寄ってたかられる」括弧付きのプロが求められている。

SKN48(SeKiNe 48歳)拝

2010年9月6日(月)
避暑地・ソロモン

ソロモンから帰ってきた。今回は2週間の短期滞在で、主にマライタ島フィユ村を拠点に、島の北西部から西部のいくつかの村を調査のために訪れた。

連日の記録的猛暑の日本を離れ「熱帯」のソロモンに着いてみると、暑いことは暑いが、日本よりもはるかに過ごしやすい。まるで避暑地に来たような気分である。今回もオーストラリアのブリスベンを経由地としたが、熱帯のソロモンが亜熱帯、亜熱帯のブリスベンが温帯、温帯の日本が熱帯といった肌感覚であった。やはり何かがおかしい。

ところで、今回ソロモンではじめて「携帯電話」を購入した。SIMカード込みでSBD$299(SBD$1=約11円)。一番安いモデルの価格である。これにテレコム(電話会社)や町の商店で「TopUp」という通話可能料金の追加をすることで、使い続けることができる。驚いたことに、マライタのフィユ村でも、アウキ(マライタ州都)やホニアラ(ソロモンの首都)はもとより、日本との間で国際電話も可能であった。聞くところによると、マライタ島内では、北東部と一部の南部エリアを除いてほぼ全域に電話が届く状況だという。さらに、これまでテレコムの一社独占状態だったが、今回滞在している時に、欧州系のBeMobileという携帯会社がソロモン市場に参入し、サービスを開始した。最も安いモデルでSBD$149という安さ(テレコムの半額)で、市民の注目の的である。発売開始日の8/31には、ホニアラの町はこの話題で持ちきりであった。携帯電話は急速に普及している。ちなみに、今回私が日本から持って行ったiPhoneも、SIBREEZというソロモンのキャリアを自動検索して使うことができた。

6月のワールドカップを機に、テレビも村の中で少しずつ浸透しているようだ。今はソロモンにもテレビ局(One Television、URL: http://www.onetelevision.com.sb/)があるので、一般の人々に以前よりもはるかにテレビが身近になっているのかもしれない。ちなみに、テレビ放送はニュースと映画中心であり、ドラマはまだない。意外といっては関係者に怒られるかもしれないが、ニュース番組はかなりまともなつくりである。8/25に総選挙後の新しい首班指名選挙が国会であった。その模様はもちろんテレビ中継されていたが、私はマライタ島西部(West Kwaio)の道沿いにある小さな商店(何でも売っている、村によくあるタイプの店)に備え付けられていた「テレビ」で群衆と共に見ていた(さしずめ、街頭テレビでプロレスをみていたかつての日本の姿を小ぶりにしたような様相)。

村の生活そのものは基本的にはほとんど変わっていない。携帯やテレビに誰もがアクセスできるわけでもない。しかし、それらがそれほど珍しくなく暮らしに入り込んできたのは確かである。この変化にはただ驚くばかりである。

話題はがらりと変わるが、かつてソロモンで協力隊員をやった者にとってなじみ深い「マラリアセンター」が、今回いってみたら、廃墟になっていた。見るも無惨な姿である。1988年か89年にそのオープニングセレモニーに出席したあの日が懐かしい。何かと物議を醸した建物だったが、約20年でその役を終えた。

帰国の前日、町で偶然昔の友人スージー・ラエ(キリバス系ソロモン人)に出会った。今も政府の役人をしているという。私と年齢が近かったはずだから、やはりそれなりのおばさんになっていた。でも語りは昔のままで、明るく、そして気の利いたことをタイミングよく言える賢さをもっていた。

いつソロモンを訪れても、基本的にはあまり大きな変化は感じられなかったが、今回は新しいもの(変わったもの)と変わっていないものとがはっきりと色分けできることの多い、そんな2週間であった。

上で触れたように、8/25にソロモンの新政権(Danny Philip首相)が誕生したが、ソロモンで「変わらない」ものの代表例が、政治の世界である。汚職(政治と金)、無策、政争...。万国共通なのだろうか。

2010年7月12日(月)
「新しさ」への責務

参議院選挙で民主党が議席数を減らし、与党で過半数を確保できなかった。
昨年9月の政権交代後に起こったことは、政治と金の問題、普天間基地移設問題における首相の言行不一致(「ある」という腹案がないことが明らかになった時の国民の落胆は大きかった)、小沢氏をめぐる民主党内の対立、不明瞭な脱官僚路線、子ども手当てや高速道路無料化政策の方針転換など、政権交代後1年に満たないとはいえ、マイナスイメージを増長させることが多かった。唯一ともいえる加算項目であった事業仕分けにしても、膨大な額の国債に依存する赤字体質を緩和させる財源を確保するだけのものにはなっていない。普天間問題が佳境にさしかかった3月以降の首相の迷走ぶりは、目を覆うばかりであった。誰も首相の発言を信じなくなってしまった。その後菅政権になって一気にV字回復をしたが、その1ヶ月後の選挙で大敗を喫した。

このことは何を意味しているのだろうか。
話はそう難しくはない。昨年国民は民主党に「政権交代」を認めた。これは、旧来のものとは違う「新しい状況」(変化)を期待してのことだった。しかし、上にあげた一つ一つは、自民党時代と大して変わらないことばかりである。つまり、何も「新しくない」のである。

今回の民主党の敗因の一つに、突然菅首相がぶちあげた「消費税10%」発言があると言われる。私は個人的にはいずれ消費税は上げざるを得ないとは思っている。しかし、いくら「すぐにあげるとは言っていない」、「議論をはじめましょうということだ」といわれても、5%から10%へ急上昇する数字を政権担当者からつきつけられては(しかも、首相は「公約と思ってもらっていい」などとも言っていた)、インパクトがあまりにも強すぎた。同じ数字を持ち出していても、与党と野党では発言のもつ意味(重み)が大きく異なる。鳩山首相が退いて「新しさ」に回帰するかもしれないという期待感(V字回復)があった。しかし、安易な消費増税ばなしを受けて、なぁ〜んだ、結局財務官僚に引っ張られているのではないか、官僚機構に潜在すると言われるムダ使いに目をつぶり、増税でそれに蓋をしようとしているのではないか、......これでは前と同じじゃないかという、不信感にも似た失望感が漂った。だから今回、唯一「新しさ」を明瞭に提示しえたようにみえるみんなの党が躍進したのである(ただ、話があまりにもすっきりしすぎていて、事業仕分けをすれば財源を相当程度確保できるといっていた野党時代の民主党とイメージがだぶってしまうのが少々気にかかるが)。

「新しさ」とは何かを常に考えなければならない。確かに消費増税も、話次第では新しい。それに新しさがあると民主党が考えるなら、それを示して欲しいのである。普天間基地移設問題にも「新しさ」を見せて欲しい。現実的な安全保障論において、民主党の「新しさ」とは何なのかがわからない。「海兵隊の存在意義について勉強不足だった」などという、首相の反省の弁はもう聞きたくない。中身はともかく、小泉政権が長く国民の支持を得ていたのは、「自民党をぶっつぶす」「抵抗勢力に立ち向かう」という、それまでの自民党政治家にはない「新しさ」を強烈にアピールしたからである。

確かに長年にわたって築きあげられた政治、行政に係る規範、文化を変えることは容易ではない。だから国民も、当初は「政権を取って間もないから」という暖かい目で政権を見ていた(と思う)。しかしそれでも、出来もしない新しさ(それを絵空事、画餅という)であってはならないが、失望に勝る「新しさ」を常に提示していかなければ、国民はもたないのである。

政権交代、あるいは政権運営とは、「新しさ」の無限の追求であることを忘れてはならない。
それができなければ、その場から退場するしかない。

2010年7月1日(木)
誰も責められない

ワールドカップが終わった。決勝までの数試合は残っているが、一喜一憂する試合はもうない。大会前に全く期待していなかっただけに気持ちの振り幅が大きく、そのため日韓大会以上に印象に残る大会になった。

何しろとにかく日本代表は弱かった。子どもの頃に遊びでやったこと以外にサッカー経験のない私にも、その体たらくさはよくわかった。スピードがない、パスが通らない、あたりに弱い、シュートが決まらない(ゴールに入る気配すらない)、動きが止まるような場面がみられる。5月の韓国戦に敗れた時は、その内容のひどさから、「ワールドカップを辞退した方がよいのではないか」とさえ思ったほどだ。

しかし、蓋をあけてみるとすべてが逆になっていた。守備中心の布陣を徹底するという戦術の変化で、こうもチームは変わるものなのか。岡田監督が目指していたように、確かに「世界は驚いた」し、日本人もびっくりしている。「驚愕」といってもよい。まるで、これまでの弱さは敵を欺くため、敵を欺くためにはまず見方から、を本当にやってしまったようにも見える劇的な変化であった。

準々決勝に残った8チームの国名を見ると、確かにこのポジションが普通でないことがよくわかる(日本がパラグアイに勝っていたら、次はスペインだった)。ベスト16→8へのステップアップは、単なる1勝以上の重みがありそうだ。その意味からもパラグアイには是非とも勝ちたかったが、今回はここまでにしておいてよかったのかもしれない。試合を見ていても、世界ランクの上位国だったらやりそうにないパスミスが多かったし、ボールもかなりパラグアイに支配されていた。正直言って、いつ点を取られてもおかしくない内容にも思えた。結果がPK戦による敗退だったため「あと一歩」感が強く残るが、試合を見る限り、日本が相手を圧倒していたとは思えない。

PKをはずした選手に責任はない。たまたまそうなっただけのことである。試合後に長谷部が語っていたように、「試合の中で決められなかった自分たち(全員)に責任がある」という発言は、そのとおりなのかもしれない。でも、大会前に「3戦全敗、自国民にも期待されていなかった」彼らが、夜中のTV中継でも50%以上の視聴率を記録するほど注目される活躍をみせただけでも、彼らは十分に責任を果たしている。

誰も責められないし、責める言葉すらみつからない。
ちなみに、1次リーグ期間中に代表のレプリカユニフォームを買ってしまった。形でも今回の記憶をとどめておきたかった。これで、ソロモン諸島代表ユニフォームと日本代表ユニフォームが揃った。ワールドカップでこの2つのユニフォームを同時に着て試合を応援することが夢である。

2010年6月14日(月)
はやぶさ君、還る

昨日、JAXAの小惑星探査衛星「「はやぶさ」が地球に帰還した。正確に言うと、はやぶさから切り離された土壌サンプル回収用カプセルだけなので、はやぶさ本体は還っていない。 ...しかし、そんなことはどうでもいい。カプセルの中がどうなっているかは現時点ではわからないが、とにかく一部が着地した(帰還した)という事実が今回はとても重要なのである。

正直言って、「はやぶさ」なる探査衛星が打ち上げられたことも、その後幾多のトラブルに見舞われていたことも知らなかった。数日前車に乗っている時に聞いていたNHKラジオの番組内で、JAXA関係者が「(土壌サンプルが取れていようといまいと、)とにかく帰って来い!」という熱い思いを語っているのを聞いて、はじめて知った。

そして昨日。夜中のニュース番組で、はやぶさがものすごい勢いで大気圏に突入し、カプセルを切り離し、それと同時に燃え尽き、閃光を放った様子が映像に映し出された時、なぜか目頭が熱くなった。それは、7年前に旅立ち、60億kmを旅し、途中で通信が途絶え(迷子になり)、太陽光パネルが太陽の方を向かなくなるなど、あちこち痛め(満身創痍になり)、それでも途中で再び見つかって、ヘトヘトになり予定より大幅に遅れながらも、「カプセルを地球に届ける」という最後の仕事を全うしようとする姿が浪花節的で、人の歩みと重なるように思えたからなのか、自らの命を犠牲にしてでも我が子を産み落とす壮絶な母親の思いと姿を連想させたからか、あるいは、燃え尽きる時の閃光から、どことなく火の玉(あるいは魂)を連想してしまったからなのか。スペースシャトルの離発着をみても、宇宙ステーションからの映像をみても、宇宙飛行士たちの秘話や美談を聞いても、特に強い感動や思いを抱くことはなかったが、なぜかはやぶさの帰還はそれらとは違った。

ホームページを検索してみると、私と同じような「感動」を覚えた人が大勢いることを知った。「はやぶさ君」というキャラクターまであり、JAXAのPRルームにあるはやぶさコーナーでは、備え付けのノートに、「はやぶさ君お帰りなさい。君に出会ったおかげで私の人生が変わりました」というような書き込みまで見られるという。「はやぶさ君」は人格を持った存在であり、その「一生」は説得力を持って「人」に語りかけているようだ。

私はこれで人生が変わることはないが、はやぶさが燃え尽きる時の閃光(の映像)は忘れないだろう。なぜ私が感動したのかはわからないが、その答えを探る必要もないのかもしれない。私にとって宇宙は、行くところでも、行くことを夢見るところでもない。ただ見上げて眺めるところなのである。人として、それで十分である。


→はやぶさが大気圏に突入し燃え尽きた時のニュース映像
http://www.youtube.com/watch?v=lu974Jv68x8

2010年2月27日(土)
「正義」のふるまい

反捕鯨団体シーシェパードのメンバーが日本の調査捕鯨船に勝手に侵入し、今年はじめに大破した高速船の賠償金を支払うよう求めた。その数日前には、彼らの投擲した薬品で日本船の乗組員が負傷した。また、2008年4月にグリーンピースジャパンのメンバーが運送会社の倉庫から運送対象の鯨肉(彼らはこの肉が調査捕鯨船乗組員による業務上横領品であると主張している)を「盗んだ」とされる事件が発生した。彼らは、その行為があくまでも鯨肉横領の実態を明らかにするための「調査」であり、調査手段において違法性はないと主張し続けている(2月10日に初公判がおこなわれた)。

日本の調査捕鯨は、国際捕鯨取締条約第8条に基づく行為である。この条項が失効せず、調査捕鯨自体がルールに則って行われている限り、「正当」である。そうであるならば、調査捕鯨船の航行を妨害し、乗組員を傷つけ、勝手に侵入し、賠償金という名の金銭を要求するシーシェパードの行為は、海賊の一歩手前か海賊そのものである。

グリーンピースのメンバーの行為は、裁判において「(ジャーナリズム的な)表現の自由」が争点になるとのことであるが、外形的には住居不法侵入であり、窃盗である(運送会社は盗難届を出している)。日本政府が批准している国際人権(自由)規約がこのような行為の正当性を保証しているようであるが、果たして国民はこの主張に納得できるのであろうか。国際人権(自由)規約第19条では、「NGO活動家が一般的な公共の利益に関する問題についての情報や思想を広めることによって、国民的論議に貢献できるような活動を行う際には、ジャーナリストと同様の表現の自由の保障が及ぶ」ということである。しかし、それは国内法を犯してまでも認められることなのだろうか。そもそもジャーナリストに超法規的な対応が認められているのか(ただし、捕鯨船の乗組員が鯨肉を持ち帰っていたことが事実であるとすれば、それはそれで慎重に審議されなければならないだろう。すでに不起訴処分になっているが)

シーシェパードとグリーンピースを同列に扱ってしまってはグリーンピースに失礼かもしれないが、自らが「正義」と信ずる事のためならば手段を選ばないという、一種独善的ともとれる行為の外形は共通している。人間社会に絶対的正義は存在しない(普遍性の高い義はあるだろうが)。ある価値基準に基づく正義を普遍的に適用しようとする行為は、慎重であるべきか慎むべきである。

一方で、日本の調査捕鯨は国際条約に基づく「正当な」行為であるとは言っても、日本の捕鯨推進論のベースが「捕鯨文化論」である点は少々気にかかる。捕鯨問題になると欧米人のヒステリックな反捕鯨言説や独善的行為が目立って聞こえてくるため、ついついそれらに感情的に反応してしまいがちである。しかし、日本が捕鯨に固執する理由を「自分たちの文化」に求めることに、自らを重ね合わせられる人はどれほどいるのだろうか。

確かに日本の一部の地域では伝統的に捕鯨をおこなっていた。太平洋戦争後は近代捕鯨がさかんに行われ、食卓や学校給食に鯨肉がのぼることも日常的だった。しかし今、古式捕鯨の技術ならいざしらず、近代的な捕鯨やクジラ料理に一種のノスタルジアを感じても、胸を張って「捕鯨文化」なるものを自文化の範疇において主張できる日本人は少ない。自文化中心主義的(独善的)な欧米人の主張に対する感情的な反論のツールとして、「文化」が持ち出されているようにも聞こえる(もちろん、この話はもう少し慎重に考えてみる必要はあるが)。つまり、自文化中心主義的な主張によって感情論というノイズにくるめられ、皆が冷静さを失っている。だから、海賊のような振る舞いを誰も取り締まれず、「捕鯨文化」を前面に出した主張に感じる何とはなしの違和感に目をつぶってしまうのである。

つい先日、オーストラリアのラッド首相が、2010年11月までに日本が調査捕鯨を中止しなければ、国際司法裁判所に提訴すると述べたという。しかし、国際条約によって正当化された行為に対し、提訴を可能にするどのような法的根拠があるのだろうか。ラッド首相は2008年2月13日にオーストラリア連邦議会で先住民児童政策(「盗まれた世代」)への歴史的な謝罪演説を行った勇気ある政治家であるが、彼も「普遍的正義」という独善的呪縛に絡め取られてしまっているのだろうか。それも選挙を見据えた戦略なのか。

異文化社会を巻き込んだ「正義」の主張は、いつも胡散臭く聞こえる。

2010年2月15日(月)
柔軟と規範

服装問題が生じるとは思わなかった。些細なことといえばそのとおりかもしれない。しかし考えてみれば、現代日本において、多くの場合礼節に関わることは、「些細だけど大事」という範疇に入るものである。

その選手の服装は、今時の若い男子であれば珍しくもない格好であった(その意味において、彼は極めて無個性な人間ともいえる)。私の個人的な嗜好として「腰パン」に理解を示すことはできないが、それでもその服装そのものに問題があるとは思わない。問題は「代表の正装」でそれをやってしまったことである。いや、実はそのことも取り返しのつかない程のことではなかったかもしれない。むしろ、「反省してまーす」という発言と、マイクに拾われてしまった「(う)るせーな」というつぶやき、不遜とも取られかねない一連の態度が、彼に対する非難を決定的なものにしてしまったといえる。「常識的」な態度で謝罪していれば、その時点でこの問題は終わっていたはずである。

「出場を停止して帰国させろ」とか「税金でいくな」という発言には行き過ぎ感があるが、「これぐらいのこと」、「たかが服装のこと」として片付けてしまう声には疑問を感じる。あるブログには、今回のことを「服装原理主義」と書かれていた。これは全くの見当違いな非難であり、問題(あるいは非難)の本質が服装から謝罪のあり方・意味へと移行していることに気づいていない。

国民はオリンピックを特別視している。競技のことをよく知らなくても、「日本人だから」という理由だけで注目する。オリンピックは極めて特殊なスポーツイベントであり、自分だけよければそれでよい、という自意識だけでは済まされない特別な行為規範が求められる。マスコミも含めて国民は選手に「健全」な態度や発言(「選手道」)を期待する。事の善し悪しは別にして、それがとりあえずは今の「常識」である。

「代表の正装を着崩して人前に出てはいけない」という暗黙の(常識的な)規範があるのであれば、自分自身の中で「使い分け」をして、それに従わなければならない。それがいやならば、その「常識」自体を自分の価値観に近いものに変えるべく奔走するか、そこから退場するしかない。その選手が「オリンピックは特別ではない」という主旨の発言をしたとも聞いている。その意気込み自体はよいが、だからといって既存の規範に合わせなくてよいということにはならない。自己の自由を主張するのであれば、それ相応のリスクに対しても責任を負わなければならない。今回残念だったのは、服装にケチをつけられ、不本意ながらも(?)謝罪しなければならない事態に対し、その選手が自ら代表を辞退し帰国を決意しなかったことである。彼のような人間がなぜ(特別な大会でない)オリンピックに固執するのかがわからない。彼は、ドレッドヘアーや鼻ピアス、服の着崩しなど、表面だけをどこかの誰かに似せて「個性」を主張する典型的な無個性人間なのだろうか。既存の枠組みに反発することは必ずしも悪いことではない。繰り返すが、それには必ずリスクがつきまとうのである(彼は、「代表辞退」というリスクを負わなかった)。

時と場合に応じて「使い分け」ができること、リスク管理ができることが「大人」の証であるとすれば、今回の騒動において周りの「大人」にも責任があるだろう。特に近年、トップレベルのスポーツ選手は低年齢化していると聞く。今回のように、選手は「大人」ばかりとは限らない。「大人」は「子ども」にその世界における行為規範を伝える必要がある。

「大人」としての振るまいができない「キッズ選手」、それに手を焼き、右往左往する周りの「大人」たち。橋本団長と当事者の2人が出席した謝罪会見の様子は、確かに巷で言われているように、修学旅行の引率教員と不祥事をおこした生徒の図であった。記者からの質問に対して何一つ自分の言葉で応答できず、団長が選手に模範回答をささやく「船場吉兆」型の受け答えは、彼の哀れさや未熟さを際立たせてしまった。

この選手はメダル候補であるという(この文章を書いている時はまだスノボ競技は始まっていない)。メダルを取ったら取ったでまた、「態度が悪い」という非難を受けるのだろうか。余計なことではあるが、若者が窮屈感を覚える気持ちはわからないではないが、この選手を含めツッパリ続けられない圧倒的大多数の人間(私たち)は、「それはそれ」、「これはこれ」という柔軟性(メリハリ)を、いつかは覚えた方がよい。

2009年12月28日(月)
近ごろのローカについて

考えたくなかったことだが、ここ1年ほどの間に自らの老いを感じさせられる機会が何度かあった。今年1月、首筋が痛み、右手の指先に若干のしびれを感じたため、すぐに受診した。脳梗塞を心配したからである。医者に頸椎付近のレントゲン写真を見せられ、開口一番、「ローカです」。あまりに意外な発話に意味が理解できず、意味不明な単語を耳にした時のように「はぁ?」と聞き返してしまった。「首の骨の神経が通っている隙間の大きさが年齢と共に狭くなり、あわせてたまたま何らかの理由で神経が炎症をおこしているために周囲に触れて痛みとしびれを感じている」という主旨の説明だった(正確には覚えていないが、概ねこんな内容だった)。年をとれば誰もがその隙間は狭くなるもの、という追加説明にホッとするやらがっかりするやら、複雑な思いでクリニックをあとにした。その帰路、医師からローカという言葉を聞かされた時に一瞬頭に浮かんだそのカタカナ表記が、再び脳裏に浮かんだ。「老化」よりも「ローカ」の方が、ポップな感じがして、老いに対して前向きになれるような気がする。現実から目をそらすという意味ではなく・・・。

その他にもローカを感じることは枚挙にいとまがない。5月に学生とやったソフトボールでは、久しぶりだから仕方ないとはいえ、これまで経験したことがないような肩の痛みを覚えた。ちょっと前までは、痛みがあっても少しキャッチボールをすればすぐに肩は暖まり、投げられた。

さらに、「自分から対象を少し遠ざけないとよくみえない」という老眼シンドロームにも陥った。子どもの卒業式でビデオカメラを回しているときに、その「異変」に気づいた。液晶画面に映る映像のピントがずれていた。すぐにオートフォーカス設定を確認したが問題はなかった。液晶を遠ざけても変わらなかった。最後にメガネをはずしてみたら、・・・・綺麗な画像が映っていた。これが私の「(自覚的)老眼デビュー」。その後は、確かに資料や文献を読むときにこれまでのメガネでは見えづらいと感じるようになった。そしてついに、「近い物を見る」用メガネを購入した。

ここ2〜3年、眠くなることが多くなった。研究会や講演会、あるいは会議などで居眠りをしている年配者(先達の皆さん)の姿をよく見かけるが、何となく気持ちがわかるようになってきた。そのことにはっきりと気づいたのは、4年前につくばエクスプレス線(TX線)が開通してからである。以前は、電車の中で寝ることはまずなかった。研究会や講演会、学生時代にも授業中に眠くなるなんてことはなかった。しかし、TX線に乗ると、北千住、秋葉原までの間にかなりの高い確率で一度は(ごく短時間であることが多いが)眠る。それをきっかけに冷静に普段の自分を思い返してみると、いろんな場面で(特にじっとしていると)、眠らないまでも、眠気を感じていることが多くなっていることに気づいた。もちろん、年々仕事量が増え、疲れが確実に蓄積していることもあるにはある。しかし、それだけではないのかもしれない。

酒席での酒量が減った。腹が出てきた。腰が痛い。肩や背中がこる。ついでいえば、カラオケで歌える歌の多くが「昭和」である(これもローカか?)。

しかし、40歳を過ぎてからも学生に間違われたことがある。いまだに白髪がない。ソフトボールでいい打球を飛ばせる。ボーリングでは学生よりもよいスコアをたたき出せる。それなりに精神的には柔軟である(意固地にならない)。ソロモンに行くと結構まだまだ体力があることを自覚できる。あまり説得力のないことばかりだが、まだ同世代に現役のプロ野球選手や宇宙飛行士がいることも励みの一つにして、もうしばらくは、老化ではなく「ローカ」現象として現実とつきあっていきたい。

2009年11月20日(金)
事業仕分けと学問:若い力はムダなのか

先日来行われている政府の事業仕分け作業は、一般に世間から好意的に受けとめられている。それは、これまで聖域化(不可視化)されていた事業がオープンな形で国民の前にさらされ、「ムダ」と思われる税支出に大ナタを振るっている点が、失われた10年以来の不況(数年前は戦後最大の好景気と言われたが、ほとんどの国民はそれを実感せずに金融不況や小泉改革の轍に飲まれてしまった)にあえぐ国民の溜飲をさげる効果があったからであろう。確かに、報道を見ていると、信じられないような「垂れ流し」的支出がこれまで行われていたことに驚愕する。

しかし、11月13日の仕分け作業第3ワーキンググループ(WG)によるある一つの結論は別の意味での強い驚きと怒りを覚えた(恥ずかしながら、その仕分けの事実をリアルタイムで把握しておらず、所属している学会のMLによる情報で知った)。

研究者をめざす若者は、大学→大学院修士課程→博士課程、そして大学や研究機関の常勤ポスト(一般的にははじめは助教か、条件によっては准教授)というステップを踏むことになる(その過程で博士号を取得する場合がほとんど)。 しかしこれはあくまでも順当に進んだ場合であって、あくまでも理想(画餅)にすぎない。大学や研究機関の空きポストとの兼ね合い(タイミングや専門分野との整合性など)もあり、ストレートにブランクなくステップアップすることのできる人は極めて稀である。どこかで非常勤研究員や非常勤講師、任期制の技官などをやって研究を続け、研究業績や教育業績を積み重ね、必ずいつかはやってくるであろうチャンスをつかみ取るべく、まさに必死に「くらいついて」いる。

このくらいつく過程で最も重要視されている(誰もがつかみ取ろうとしている)のが、「日本学術振興会特別研究員」である。この制度についての説明はここでは省略するが、前出の第3WGは若手研究者向けのいくつかの事業(科学技術振興調整費[若手研究者養成システム]、科学研究費補助金若手研究S,A,B)と共にこの制度を仕分け対象にし、次のようなコメントを付した。
●博士養成に関する過去の政策の失敗を繕うための政策。博士養成に関する見直しが必要。テニュア・トラック制については存続。
●過去の政策のつけであるから少しずつ減らしていくしかない。毎年5%ずつカット。
●目的が重複しており、施策の整理統合が必要。その上で効果の明らかな事業に絞り込んでいくべき。
●教員免許をポスドクに付与する政策を検討すべき。実社会から逃避して、大学に留まる人をいたずらに増やしてしまう側面も否定できない。大学そのものが過剰であり、この適切な統廃合も必要。
●大学の教員制度の見直し必要。
●ポスドクの生活保護のようなシステムはやめるべき。本人にとっても不幸。(本来なら別の道があったはず)。
●若手研究者が安定して働き研究できる場所を見つけるための国の政策を若手にこだわらず再構築。
●若手研究者の問題は政治の問題でもあるので、十分な見直しが必要。
●競争的資金と合わせて再考すべき。省をまたがった&シンプルな研究者支援を先端技術研究と合わせて考えるべき。
●研究費ベースの事業をますます複雑化している。研究費配分として整理すべき。PD対策は、キャリア支援、TA/RAとしての採用枠など学術振興会枠はシンプルに。
●博士取得者のセーフティネット事業と理解しているが、民間企業を出口にする政策が不可欠である。民間企業から国費の不足分を補う政策を期待する。
●雇用対策のようなものになっているのではないか。その為の統合的な対応が必要でないか。将来的な雇用対策につなげることが必要ではないか。
(詳しくは、http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/h-kekka/pdf/nov13kekka/3-21.pdfを参照)
この事業に対するWGの結論は、「予算要求の縮減」(予算要求の1/2から1/3縮減という委員が合計6名であった)。

上の字面だけをみてすべてを否定するわけではないが、この中で特別研究員制度に関連して特に気になる箇所は、「ポスドクの生活保護のようなシステム」、「雇用対策のようなもの」「実社会から逃避して、大学にとどまる人」「PD対策は、キャリア支援、TA/RAとしての採用枠など(にする)」という表現である。特別研究員は雇用対策でも生活保護でもない。これは、とりわけ文系分野の場合、たやすく得ることはできず、高い競争率の中を勝ち抜いた若手研究者だけに付与されるものである。つまり、優秀な若手研究者に対する一種の投資ともいえる(最近流行の「ばらまき」ではない)。この制度の価値を認めないということであれば、国は科学振興を真剣に考えているのか、はなはだ疑問と言わざるを得ない。若手を大事にしない、若手の養成に注意を傾けない業界や組織は、学術機関に限らずどこであっても衰退する。

そもそも、1990年代に大学院重点化を進めた頃から、行政の施策の中には、実は彼らは教育や研究の現場の実態を知らないのではないかと首をかしげたくなるものがいくつかあった。少子化の一途を辿っている中で(あるいは、社会の受け入れ体制が整っていない中で)博士課程の学生を増やせば、多くの修了生(単位取得退学者を含む)が行き場を失うのは目に見えていた。さらに近年の「成果主義」である。ノーベル賞受賞者の研究をすぐに日常生活に結びつけて理解しようとする報道のあり方からもわかるように、一般には「実学」しか念頭にない。「それが何の役に立つのか」という発想である。それはそのまま仕分け人や行政スタッフの問題意識と重なっているように感じる。ノーベル賞を取るような研究になれば話は別なのかもしれないが(しかし仕分け人の蓮舫議員は、「納税者がトップレベル研究者にお金を払った分、納税者個人にもリターンを貰えないと納得できません!」と語っていたから、そうでもないのかもしれない)、一般に基礎研究という地味なスタイル(特に文系における基礎研究的分野やテーマ)に対する評価はあまりにもお粗末である。今回の「若手研究者いじめ」のような仕分け結果は、特別研究員制度を成果や実利から距離のあるものとしてしかとらえていないことに起因するのであろうか。そうだとすれば、基本的に彼ら(WG委員やその背後にあると噂される財務省などの行政機関)は、学問とか科学という言葉で表現される業界を、単なる「浮世離れした(世間知らずの)」世界としかみていないということにもなりはしないか。そうなると、これは若手いじめというよりも「学界いじめ」と言った方が正しいかもしれない。若い優秀な人材が他の道に流れたり、はじめから海外に流出してしまう事態は避けなければならない。

すでに数多くの学会や研究者、学生が抗議の声をあげている。

2009年10月12日(月)
広島・長崎オリンピックと「平和」の使用法

広島市と長崎市の市長が2020年オリンピックに共同して立候補する(気持ちの)用意があることを表明した。かつて2年4カ月間だけだが広島に住んでいたこともあり、心情的には心から応援したいと思う。しかし同時に、「広島・長崎開催」の出発点になっている「平和」の使用法がちょっと違うような気もしている。

確かにオリンピックは「平和の祭典」であり、そのことはオリンピック憲章に明記されている。しかしそこで謳っている「平和」は、あくまでも漠然とした平和にすぎない。広島と長崎が発信する平和のメッセージ(オリンピック開催の理念)は、いうまでもなく非核ないし反核である。それはいわば平和の「各論」であって、それを押し出すとオリンピックのメッセージが強い政治性を帯びてしまい、「スポーツの祭典」という本来の姿が逆にぼやけてしまいかねない。スポーツを通じて漠然と平和を実感し、平和を希求することがオリンピックの「使命」であると考えた方が、オリンピック「のため」のような気もする。非核・反核運動の一端をそれに背負わすには、少々荷が重い。

むしろオリンピックよりも、広島・長崎両市は紛争をテーマにした国際会議を積極的に誘致し、平和会議、和平会談、紛争当事国(者)どうしや仲介者が議論する定番の都市として国際社会に認知させることの方が、有意義のようにも思える。海外にいる時、HIROSHIMAの名が広く浸透していることを知った(ソロモンの村でも誰もが知っていた)。日本の都市の中では東京と並ぶ(あるいはそれ以上の)国際的知名度をもつ地名である。残念ながらNAGASAKIはHIROSHIMAほど知られてはいないが、それでもおそらく、OSAKAやNAGOYA以上であることは間違いあるまい。名前を聞いただけで「平和」や「非核・反核」のメッセージが聞こえてくる都市は、世界を見渡してみてもそう多くはない。その特性を活かして名実ともに「国際都市」への道を歩むことこそ、両市の使命のような気がする。突拍子もない話になるが、バチカンのように、「広島市国」「長崎市国」として独立し、平和を希求する役割を担った特別な国として国際社会の中に独自の地位を獲得してもよいのではないかとさえ思える。

さしあたり、広島・長崎サミットの開催が現実的なところかもしれないが、パレスチナ和平問題や核軍縮に関わる首脳会議なども、実現するのであれば、広島・長崎以上にふさわしい開催都市はない。

2009年8月28日(金)
風 ・・・追悼

風(北山修・詞、端田宣彦・曲)

人は誰もただ一人旅に出て
人は誰もふるさとを振り返る
ちょっぴりさびしくて
振り返っても
そこにはただ風が
吹いているだけ
人は誰も 人生につまずいて
人は誰も 夢破れ振り返る

プラタナスの枯葉舞う冬の道で
プラタナスの散る音に振り返る
帰っておいでよと
振り返っても
そこにはただ風が
吹いているだけ
人は誰も 恋をした切なさに
人は誰も 耐えきれず振り返る

何かをもとめて
振り返っても
そこにはただ風が
吹いているだけ

振り返らずただ一人一歩ずつ
振り返らず
泣かないで歩くんだ


7歳の頃の自分や家族、親戚、家業の店(精米店)の景色が鮮やかに蘇る。
風を感じ、風に感謝しながら、前を向いて、これからも、永遠に。

2009年4月30日(木)
完全解放

先日SMAPのメンバーが公然わいせつの容疑で現行犯逮捕された。「公然わいせつ」という語感と国民的アイドルとされるスターが「犯人」であるということのギャップとインパクトの大きさに、世間の注目が一気に集まった(その数日後に広まった新型インフルエンザ騒動で一気に衆目はひいてしまったが)。

彼のあの時の状態は、自らを完全に解放した状態であったのかもしれない。いうまでもなく、人は一定の秩序や制約の中で生き、そのことによるストレスを常に内面にしまい込んでいる。程度や質に違いはあっても、老若男女を問わず誰もがその状態の中にあるといっていい。「自由」や「解放」を求め、闘い、もがくことが、個人的にも集団的にもある。たとえそれらを獲得したとしても、一定の秩序による規制を受け続ける限り、その状態は「不完全な(もしくは部分的な)解放」である。「解放」をテーマにした芸術作品が究極のエロスやアナーキズム、時には猟奇性など、反・非・無秩序をテーマにすることがあるが、それは完全なる解放が秩序や制約を全否定するものであることを意味している。しかし、人が人を支え、人に支えられ、人と支え合う存在であるとすれば、人と人との間を規定する秩序は不可欠である。つまり、人であるかぎり「完全解放」はあり得ないのである。

人が日常の制約状態から自らを(不完全に)解放する方法はいろいろある。日常から逃れ旅に出ることや、高価であるために普段買うことをためらっていた物をドカンと買ってしまうこともその一つである。中でもアルコールは自己を解放させる手段の代表格であり、比較的たやすい。身体(脳)に直接働きかけ、それを麻痺させるという意味において「薬物」的でさえある(「酒は百薬の長」というのもうなづける)。SMAPの彼は、深夜の誰もいない公園で、全裸になり、叫び、吠え、誰かを罵る言葉を思いっきり吐いていたという。日常のあらゆる制約や秩序から逃れ、完全解放を達成した瞬間であった。しかし、秩序の中にある近所の人たちがそれを許すはずもない(後日の報道では、近所の人も寛大な処置を願っているようだ)。警察が駆けつけ、彼の解放状態を不完全なものに引き戻そうとする。一度瞬間的にでも手中にした完全解放という夢のような世界を奪われることは、彼にとって十分に抵抗に値する状況だったに違いない(だから、「裸になってなぜ悪い」と言って暴れた)。しかし、すでに述べたように、人が人としてあるためには「秩序」や「制約」から逃れることはできない。完全解放は「罪」なのである。

「罪」を犯したはずではあるが、世間は彼にかなり同情的である。事件当日怒りをあらわにした国務大臣も、「言い過ぎた」と翌日謝罪すらしている。同情的であることの理由は、第一に行為そのものによる直接的被害者がいなかったことである。安眠妨害を受けた近所の住民を「被害者」と言えなくもないが、公然わいせつとは関係ない。もし彼が具体的な誰かにわいせつ行為をはたらいていたら、本当に彼は終わっていた。第二に、「泥酔して広い空間で裸になって叫ぶ」という行為に対して世間一般の人たちが抱く親近感である。「あこがれ」に近い感情といえなくもない(本当にやってはいけないが、やったら気持ちいいだろうな、という感情)。そのことは石原都知事のコメントによく現れていた。そして三つ目に、自己同一感情である。多くの人々(特に男性)はそれに近い思いを抱き、あるいはそれに近い振る舞いの経験がある。彼は今回、「記憶をなくし、次に気がついた時には警察にいた」と話していた。・・・・・他人事ではない。今回の報道を通じて、彼のような記憶のなくし方を「ブラックアウト」と言うことを知った。体内のアルコール濃度が高くなりすぎて記憶を司る海馬が麻痺することをいう。気がついたら警察にいたなんてことは、笑い話でしつつも、酒飲みなら常に無意識のうちにブラックアウトの「恐怖」を抱えている。

私は学生(学部生)時代、酒の強さには自信があった。そして、「今もある」と言いたいのだが、30歳代後半頃から、酒席における会話の中身をたまに忘れるようになった。アルコールの周り方も早くなった気がする(酒量は確実に減った)。学生時代には、「できれば忘れたい」ということでも鮮明に覚えていて、深い自己嫌悪に陥ることもあった。今はどちらこというとその逆である。もちろん、学生時代のような飲み方をしたいわけではない。いくら気をつけていても、どんなに自制しているつもりでも、飲むのであれば自分が今回の一件のようなこと(ブラックアウト→完全解放→警察)にならないという保証はどこにもない。

この騒動は、「公然わいせつ」や「逮捕」、「容疑者」「家宅捜索」という刑事事件用語がならび、スポンサー企業や放送局、広告業界にも大きな影響を与え、社会的影響は大きかった。しかしそれ以上に、多くの人々にとっては、酒や酒席における自分を「見つめ直す」という自戒の機会にもなったのではないだろうか。インパクトとしてはこちらの方が社会的意味があるような気がする。

ブラックアウトの予防にはサフランが効くそうだ。 覚えておいた方がよい豆知識かもしれない。秩序からはみ出さないように。

2008年11月12日(水)
文民統制

国民には日常的に全く意識されることのない分類の仕方がある。−文民と武民である。先日、自衛隊の最高幹部が「太平洋戦争において日本に侵略の意図はなかった」という、政府見解と異なる主旨の「論文」を懸賞企画に投稿し、最優秀賞を受賞したことによってその内容が一般に明らかになり、更迭された。この話題は連日メディアを賑わせている。この一件には、その投稿企画そのものの公平性への疑義や大臣の任命責任など、いくつかの「話題」はあるが、中でも最も重大な問題は、自衛官(職業軍人=武民)が政府見解に反する意見を表明したことと、それに関連する「文民統制」の持続性に関する問題である。

太平洋戦争を経て日本人が痛切に学んだことの一つは、武力を動かすことのできる人間に政治的権力や権限を与えないということである。いわゆる文民統制の貫徹である。今回の問題の人物は、「思っていることも言えないようでは北朝鮮と同じではないか」と言って、「言論統制」を非難している。国を思っての発言、という見方をする人(本人も含め)もいる。しかし、自衛官がいわゆる「職業軍人」であるとすれば、その立場は、国民によって民主的に選出されたその時の政権に忠実であれば良いのであり、政府見解に反する内容の意見を表明するなどという行為はありえないはずである。国のことを思っていれば何を言っても良いと言うことにはならない。憲法で保障された言論・思想の自由は当然尊重されなければならないが、少なくとも制服の任にある限りそのような見解の表明は許されないはずである。

今回麻生内閣がこの人物の更迭を迅速に決定したことは、せめてもの救いであった。上の意味における武民の「誤り」をうやむやにせず「文民」が毅然と対応することこそが、前(さき)の戦争の教訓に適うことになるのである。

今回の一件では、当事者の自衛官が今年4月に名古屋高裁で出された自衛隊のイラク派遣を一部違憲とする判決に対して「そんなの関係ねえ」と発言したことをも合わせて、報道されている。文民統制の危機を煽るようなメディアの報道も、若干ある。あたかも自衛隊が、かつて二・二六事件や張作霖事件を境に戦争に猛進していった旧日本軍の道をたどる恐れがあるかのような論調である。しかしながら、今回の発言に対して防衛大学校の五百旗頭校長が11月9日付け『毎日新聞』紙上で、「軍人が社会における実力の最終的保有者であるだけに、きわめて危険」と述べているように、文民統制に挑戦するかのような芽は、できるだけ迅速かつ確実に摘み取っておくに越したことはない。

戦争の教訓を再確認する行為は、戦後の年数を経るにしたがい、今後益々必要になってくるはずである。

2008年9月28日(日)
異質と調和、そして自由

クラシック音楽に詳しくはないが、嫌いではない。昔、学校で音楽の時間にそれを聴かされていた時は、歌のない音楽に戸惑い、何がなんだかわからずにやりすごしていた。しかし、20年以上前に映画『アマデウス』を観てから興味がわいた。その後、多少の浮き沈みはあったが、また最も好きな音楽ジャンルというわけでもないが、クラシック音楽とは自分なりの感覚的なつきあい方を、ゆるやかに維持してきている。

ところで、大学院に進学して自分で論文を書くようになってから、そしてまた、研究者として他人の論文にもコメントするようになってから、論文を書く作業がシンフォニーをまとめあげることに似ているのではないかと感じるようになった(ちなみに、私自身は楽器とは無縁で、それどころか義務教育時にならったはずの音符すらよくわからない)。高校生の時に、吹奏楽部の指揮をやっていた部員が、「指揮をしていて、各楽器の音が全体として耳に入ってくるが、それと同時に各楽器の音も個々に把握している」というような内容の話をしていたことを思い出し、論文執筆もこれと同じだと思ったのである。いうまでもなく、論文は序論から結論に至るまで様々な「パーツ」(楽器)によって構成される。例えば、問題の所在、目的、研究方法、先行研究の検討、事例提示、分析などである(もちろん、これだけではない)。これら異質なものが適切な文章表現(演奏)と配列(指揮)などを通じて結びつけられる(奏でられる)ことによって「調和」が生まれ、論文ができあがる(曲が完成する)。子どもの頃からピアノだのバイオリンだの、音楽に親しむ機会の多かった人には当たり前すぎることなのかしれないが、そういう経験のなかった(とくにもちたいとも思っていなかった)私は、異質な楽器が「違うこと」を同時にやっているのに、それらが「適切に」まとめられることによって調和し、ノイズにならないことに大人になってから気づき、感動した。「異質なものを調和させる」。そのためには思考とそれに基づく行動が必要である。その意味において、音楽は極めて論理的な行為といえる。

話は飛躍するが、「異質なものを調和させる」ということでいえば、グローバル化した現代世界はまさにそうである。多様な(曖昧な境界しかもたない)文化がひしめき合う中で、「調和」が実現しているとは言い難い。むしろノイズがノイズを生み出している状態である。たしかにオーケストラでも「目立つ」楽器はあるだろう。しかしそれでも、その楽器が他の楽器を「支配」しているわけではない。

指揮者は楽器を超越した存在であり、少なくともどこかの超大国(楽器の一つ)のような存在ではない。異質なものが異質なものとして存在し、それゆえに調和がうまれる状態を、私は「自由」と呼びたい。しかしそのような調和の実現はとても難しい。異質なものを調和させることのできる「適切さ」を求めて、言い換えると、調和を求めて、人は思考し行動している。

楽器が指揮者になれないとすると、調和を生み出す存在は「神」しかいないのだろうか。
ちなみに、私は調和のとれた論文を書けているのか、はなはだ疑問である。

2008年9月27日(土)
「1つ」であり、多様である太平洋

9月18日にフィジーの首都スヴァに到着した。7年ぶりである。国際空港のあるナンディまでは昨年11月に飛行機の乗り換えのために立ち寄ったが、スヴァまで足を伸ばす時間も用事もなかった。今回は、ODA評価に関する調査チームの一員としての渡航である。

久しぶりにみるスヴァは、ソロモン諸島の首都ホニアラばかりをみている者としては、とてつもなく大きく、著しく近代化の進んだ町にみえる。とりわけ、今年5月頃にオープンしたMHCCという3階建てのショッピングモールには驚いた。おそらく現時点で、南太平洋島嶼国にこれほど近代的に洗練されたショッピングスポットはないだろう。エスカレーターまでついている。売られている商品やテナントのロゴだけをみると、一瞬どこの国にいるのかわからなくなる。そうかと思うと、そのちょっと先には野菜や魚介類を売っている昔ながらのマーケット(市場=いちば)があり、賑わっている。太平洋の小島嶼国に馴染みのある人であれば、スヴァの様子は一般的でないことはわかる。その意味において、この町は「特殊」である。

フィジーに数日滞在した後、ソロモン諸島へ向かった。スヴァとソロモンの首都ホニアラとの「近代的差異」は歴然としている。気のせいか、私がホニアラに住んでいた20年前よりも徐々に、そして確実に町や町を構成する建物が荒れて(朽ちて)いっているようにも思える。その要因として、近代化するにつれて必然的に生じるうる「自然荒廃」や、1998年から2003年頃まで続いたエスニック・テンション(「民族紛争」)をあげることはできる。それらに対する行政的、経済的フォローが足りていない。

西洋近代をただ一途に追求することはあってはならないが、現代世界における普遍的部分としての「近代」はどの国にも必要である。途上国と呼ばれる国々は、それを単独かつ主体的、主導的に構築できないから、「開発援助」なるものを必要とする。今回の調査ミッションで、島嶼国への支援(ODA)のあり方について改めて考える機会を与えられた。幸いにも、日本からの援助はこの地域の人々に比較的好印象を持たれていること(多少、現地の人々からのリップサービス的な語りがあったとしても)、そして外国からの援助がやり方や心がけ次第でいつでも容易に植民地主義イデオロギーに包まれるリスクを伴うものであることを再確認した。ODAの援助手法など実務的な業界用語が飛び交う議論については、正直なところ若干の距離をとりたいとは思うが、そういった議論のもとになる議論、つまりこの地域の人々に対する開発援助の方向性やアプローチの仕方、重点セクターなどについては、今後も「私の立場」から発言していきたい。

太平洋島嶼地域は「1つ」であるが、その中身はすこぶる「多様」である。このあたりまえのことを前提にしなければ、小島嶼国の歩みは一歩も前には進まない。しかし、現代世界を生きる人たちは(とりわけ援助する側に立つ人たちは)、このことを忘れるか、たとえ覚えていても括弧で括ってしまうのである。

2008年9月14日(日)
運動会

小学校の運動会に行ってきた。今年は3人の子どもすべてが同じ小学校に通っているため、ビデオ撮影担当としてはかなりハードな1日であった(実際、22種目中、撮影対象は11種目[=うちの子が参加している]+1[紅白リレー]に及んだ)。

6年前にはじめて親として運動会に参加した時、自分が子どもの時と大きく違う点が、少なくとも2つはあると感じた。ひとつは前日に応援席の場所取りがおこなわれること、もうひとつはそこに折りたたみ式テーブルなどのレジャー用品が持ち込まれることである(厳密に言えば、もう少しある。例えば、集合などの号令をかける児童のかけ声が、昔は命令形[元の位置に集まれ!]だったのが、今は呼びかけ調[元の位置に集まりましょう]という気の抜けたものに変わっていたことなど)。

レジャーテーブルにディレクター・チェア、レジャーシート、パラソルなどがあり、もしこれらにバーベキューセットとテントでも加われば、完全に「キャンプ」である。毎年どういうわけか、小学校の運動会は真夏の暑さを感じるほどの良い天気になる。レジャー用品が並び、親子やおじいさん、おばあさんもレジャーテーブルでくつろぐ姿を眺めていると、運動会が一種の「ピクニック」なのだとつくづく感じる。今回の運動会の最中に、「校内は禁酒、禁煙である」旨のアナウンスがあった。おそらくどこかで誰かが、本物のピクニックをはじめてしまったのだろう。

毎年、この「ピクニック」で私の夏が終わる。

2008年9月2日(火)
反捕鯨という独善

インドネシア・レンバタ島に住む人々は、伝統的な手法によるクジラ漁を続けてきた。クジラの捕獲や鯨肉の分配など、その社会にとってクジラは貴重な動物性タンパク源(食料)というだけでなく、その社会の秩序を形成する中心的な存在である。

毎日新聞2008年8月26日付け朝刊の記事によると、イギリスなどに拠点をおく反捕鯨NGO「クジラ・イルカ保護協会」が同島の人々に伝統捕鯨をやめさせ、その代わりに現金収入源になるような代替漁業や「開発プロジェクト」をもちこもうとしているという。具体的には、ホエール・ウォッチングによる観光振興である。

これは、独善的というか、自文化中心主義的(ethnocentristic)というか、 19世紀的発想の典型ではないだろうか。この団体が伝統捕鯨を単にクジラを捕獲し、それによって生計を維持するという経済的側面のみに目を向けているとしか思えない。人は誰でも利潤の最大化を目指して合理的な行動を選択するという、相変わらずの形式主義的経済の単純な発想である。

経済人類学的にみれば、彼らの捕鯨は経済的動機やその結果のみに関係する行為ではない。それは社会構造や秩序、政治的リーダーシップなど、経済以外の社会的諸側面とも密接に関わり合うものである。実際、この村では、「クジラは祖先の生まれかわりで、村を支えるために回遊してくる。だから、クジラに銛を打つ時は祖先への敬称をつぶやく」(『毎日新聞』2008年8月26日朝刊6面より)という。また、干し肉は他の村との物々交換で貨幣に代わって使われるともいう(同上)。そのような行為を通じて、他村の人々の絆を維持し、また強化するのである。いわゆる経済的行為は、近代合理主義的な「単純な」な発想のもとにあるのではない。他の社会的諸側面と密接に結びつき、それによって社会の秩序が維持されているのである。レンバタでは、その中心にクジラやクジラ漁があるということである。

もちろん、レンバタ島社会も、現代世界の中で「孤立」し、自己完結しているわけではないだろう。外部との相互関係の中で生きているはずである。その意味において、従来のクジラ漁もや社会のあり方も不変である必然性はない。しかし、そのことと今回の反捕鯨団体の「善意」とが別物であることは、いうまでもない。

価値の多様性を認識することが叫ばれるようになって一体どれくらいの年月がたつのだろうか。植民地イデオロギーにも似た古典的な「押しつけ」は、もういいかげんにした方がいい。

2008年8月25日(月)
北京オリンピック
北京オリンピックが終わった。
大会期間中は日本選手の結果に一喜一憂していたが、終わってから改めて振り返ってみると、オリンピックには実に様々な側面があることがわかる。

開会前は圧倒的に政治的事柄が目立っていた。とくに今年に入ってからは、チベット問題や新疆ウイグル自治区での暴動など、中国国内の政治的文脈にオリンピックが取り込まれて(巻き込まれて)いった。そこから派生して、参加国首脳が開会式に出席するか否かが取りざたされたり、この問題に乗じて政治家が「人権」や政治的権利に対する自らの立場を明確にするための格好の材料として持ち出されることもあった。それらは、中国はオリンピックを開催する資格があるのかという論調と共に、今年前半期におけるメジャーな国際的トピックの一つとなった。

北京オリンピックが政治的に語られることが多かった理由は、「オリンピックは平和の祭典」という錦の御旗のせいである。「平和」という言葉を政治に関わる者が声高に叫び出すと、そこにはきなくさいものがあると思ってよい。共産党一党支配による独裁国家であること、上記のように少数民族政策に問題があるのではないかという一般的な議論、強大な軍事力、日本との関係に限定すれば、江沢民時代の反日教育、現在の春暁ガス田問題や在日中国人による犯罪の多発化傾向など、「平和」とかけ離れたトピックに常に囲まれている国家を非難するには、オリンピックの聖性を持ち出すのは好都合である。今回の聖火リレーの胡散臭さは、「平和」という言葉がオリンピックの文脈に乗せられることで徹底的に軽んじられたことを示す最もわかりやすい例である。長野でおこなわれた聖火リレーの際に、沿道が中国国旗で埋め尽くされている光景をテレビで見た時、私は一瞬、占領(あるいは侵略)される人々の気持ちを少しだけ実感したような気がした。日の丸かせめてオリンピックの五輪旗を一緒にたなびかせればよいものを、幾重にも五星紅旗が折り重なり、「加油、中国」を連呼する神経を理解できる日本人は、私を含めてなかなかいないだろう。その場でインタビューに答えていた中国人は「平和」を口にしていたが、あの様子はあまりにもそれとはかけ離れていた。

オリンピックがもつ2番目の側面は、選手と選手の家族やコーチとの関係や絆が深い、もう少し正確に言うならば、「深い絆に見える」ところを大きく取りあげようとするメディア報道(特にTVのオリンピック報道)である。とりわけ、日頃からドキュメンタリー番組をほぼ例外なく「感動秘話」的な切り口でまとめようとする民放は、オリンピック報道においても基本的には同じ手法で扱っていた。注意しているとよく分かるが、必ずどこかで最低一度は、泣かせ所をつくっている。視聴者を「泣か」さなければ番組にならないというのも、実に不思議である。メディアの思惑を知っていながら、ついつい私も時々それにはまってしまう(そのことも不思議でたまらない)。

そのこととも関連するが、今回メダルを獲得してメディアに登場した多くの選手たちに共通している点として、「親かキョウダイなど、比較的近しい人が同じ競技をやっていた」というケースが多かったように感じる。特に日本では比較的マイナーな競技であれば尚更である。「親子で勝ち取ったメダル」とか、「両親やキョウダイの支え」など、感動秘話ものにしたくなる要素が備わっていた。それを民放局が見逃すはずはない。

3つ目には、競技そのものである。これが、本来のスポーツ観戦の姿であり、「正しい」オリンピックの見方であるのかもしれない。ロシアと中国のシンクロチームの演技には、素人がみてもとても優れていることがわかった。特にロシアチームの50点満点演技は圧巻だった。またジャマイカのボルト選手の世界新記録には、興奮した。こういうレベルの高い演技や競技をみることがオリンピックの魅力であることは間違いない。逆に高レベルの大会であるだけに、レベルの低いところも目立ってしまう。日本選手に限定すれば、男子柔道、野球、男子サッカーである。期待値が高かっただけに、余計に「弱さ」が目立ってしまった。

さらにもう一つ、競技そのものについて気になった点は、柔道という競技のあり方である。女子48kg級では、何やらほとんど技を出さないで金メダルを取ったようなルーマニアの選手がいた。このような状況は現行のルールの範囲内でおこなわれていることであり、その意味で問題はないのだが、それだけにこの競技の「未成熟さ」を感じる。ちなみに、同じような思いは、かつて冬季オリンピックの時にみたスケート・ショートトラックにも感じたことである。

高いレベルの競技を楽しむ、という純粋な関わり方の「亜種」として、日本選手のみに注目するという側面も当然ある。亜種というよりもむしろ、こちらの方が中心であるかもしれないが、こういう人もたいていは「競技を楽しむ」ことを口にする。日頃はほとんど報道に接することのない競技や選手でも、とにかく「日本人」であれば応援する。画面に映し出されている選手が日本人であれば、勝って欲しいと願う。そして、メダルをとれば自分のことのように喜び、審判の判定や相手選手のルール違反にはTV画面に向かって罵声を浴びせかける。金メダルをとろうものなら晴れやかな気分になり、「勇気をありがとう」などとわけのわからないことを言い出す(ちなみに、このセリフがどうも私には理解できない)。日頃、柔道や女子ソフトボールを見ない私も、谷本選手の鮮やかな一本勝ちや、上野投手の力投には興奮した(「勇気」をもらったわけではない。..念のため)。この点についてはワールドカップでも同じであるが、多種目にわたってナショナリズム的な感情をむき出しにするという点では、オリンピックは独特である。

最後に、日本選手の全般的な印象として、オリンピック選手としての自覚と心構えの不足を感じた大会でもあった。マラソン選手の突然の出場キャンセルや、柔道選手のあっけない敗退、プロ野球選手の素人同然のプレーと采配。近年よく「大会を楽しむ」というコメントを発する選手が多いが、楽しむことは「緩慢」や「怠慢」、ましては「負けてもいいや」という自分に対する甘えを許すこととは違う。男子柔道のある選手が減量に失敗していたという話を聞いた井上康生氏が、「自覚が足りない」と一蹴するコメントをTV番組内で述べていたという。代表選手の背後には、出られなかった数多くの選手たちがいる。もちろん、代表選手がサボっていたとはいわない。どちらかというと、「やり過ぎ」で調子や体調を崩してしまった選手も少なからずいたようだ。しかし、ある意味プロフェッショナルである彼ら/彼女らは、自らのピークを試合当日にもってこられないようでは、オリンピックに出る資格はない。
2007年12月11日(火)
テレコムカップと「20年」

先月、テレコムカップというサッカーイベントがソロモン諸島でおこなわれた。ソロモンに9つある州の代表チームと首都ホニアラの3チームによる総当たり戦をおこない、そのうちの上位4チームがトーナメント形式の準決勝に進出する、という方式である。ソロモン諸島では1990年代からサッカー熱が急激に高まり、オセアニア地区における代表チームの実力は、オーストラリアとニュージーランドに次ぐ。少なくともオセアニア島嶼国の中では強い。ワールドカップはもとよりオセアニア地区の大会時には、人々の関心はサッカーに集中する。今回、たまたま調査でソロモン諸島を訪れていた時にテレコムカップの初日に出くわしたので、競技場(Lawson Tama Stadium)に足を運んでみた。

私が観戦した試合は、Makira-Ulawa州代表の Our Kakamora と Central Honiara、Rennell-Bellona 州代表の Avaiki Chiefs 対 Central 州代表 Central Shields の2試合である。2005年に調査でソロモンに来た時にも、サッカーの試合を観戦した。その時はちょうどワールドカップ・オセアニア地区予選の最終局面で、どういうわけかソロモン諸島代表が好調で、ニュージーランドをさしおいて、本大会出場をかけてオーストラリア代表と争っていた。私もソロモン・ナショナルチームのユニフォームを着てスタンドで声援を送ったが、結果は1-2でやはりソロモン諸島の負け。しかし、事前に想像していたよりもソロモンチームの選手が健闘していたことを覚えている。

今回のテレコムカップでも内心それに近いレベルの試合を期待していたが、マライタ州出身者中心のナショナルチームとそれ以外ではかなりの差があることがわかった。サッカーにあまり詳しくない私が見ても、善し悪しが十分に判断できるレベルであった。

しかし、ソロモン諸島でサッカーを観戦する時、ただ単に試合内容や選手の技術レベルに注目するだけでは不十分である。2005年に観戦した時には、確かにソロモンの勝利を期待していたが、内心(おそらくほとんどのソロモン人と同様に)それが無理であることはわかっていた。勝敗とは別に、私のもう一つの関心は、「スタンド」にあった。「ソロモン・ナショナリズム」が明確な形で立ち上がってくる数少ない現場として、スタンドで観戦する人々に注目していた。そして今回のテレコムカップにおいても、特に応援したいチームがあるわけではないという事情もあるが、スタンドを含む競技場全体を「観察」してみたいと思っていた。

競技場には1人で行った。12:00の試合開始に間に合わせるため、11:30にはスタンドに座っていた。しかし、ピッチでは係員がサイドラインやセンターサークルの線引きをしたり、PKの位置に印をつけたりと、とても試合直前とは思えない作業を極めてゆっくりと進めており、12:00を過ぎても一向に始まる気配はなかった。そのようなことは、ソロモン諸島では珍しいことではない。「そのうち始まるだろう」と気長に待っていると、やがて見覚えのある顔がスタンド脇の通路から私の方をみて、驚きの混じった笑顔で手を振っていることに気づいた。旧知のベンジャミンだった。以前ソロモンのエコツーリズムについて調査している時に世話になった男である。ウェスタン州マロヴォ・ラグーン地域でロッジを経営している。3年ぶりの再会を喜び合い、一緒に観戦することにした。

第1試合のMakira-UlawaとCenrtal Honiaraの試合は、「ソロモンタイム」どおり予定より1時間遅れて午後1:00にはじまった。前後半90分をおこない、結果的には3-1でMakira-Ulawaの勝利で終わった。Makira-Ulawaチームの豪快なミドルシュートによる1点目は印象的であった。

私とベンジャミンの席の隣には「ごく普通の」中年のおばさん2人が座っていた。応援の様子からMakira-Ulawa州の出身者であるようだ。Makira-Ulawaチームのチャンス時にはかなり気合いの入った声援を飛ばし、時には選手のミスに大笑いしていた。Makira-Ulawaチームが後半に3点目をあげ勝利を確実にした瞬間、この2人のおばさんは客席から立ち上がり、両手を挙げ、2〜3度その場でジャンプして喜びを表現していた。私の周りにはMakira-Ulawa出身者が多かったのか、得点をあげるたびに歓喜の渦に見舞われたが、この2人のおばさんは、それこそソロモンで「どこにでもいる」普通の中年女性という風情を醸し出していただけに、彼女たちの盛り上がりがとても印象に残っている。その喜びが私にも伝わる思いであった。

ところで、その試合のハーフタイムのことである。何やら黒い揃いのTシャツを着た数人の若い男女が通路で何かを配っていた。それが何かを知ってか知らずか、結構多くの人がそれをもらっていた。ベンジャミンに尋ねたところ、エイズ予防キャンペーンの一環としてコンドームを無償で配布しているところであった。確かに彼らのTシャツの背中にはエイズ予防に関する言葉が書かれていた。ソロモンでは私の協力隊員時代から(まだソロモンでHIVキャリアの存在が確認されていない1980年代後半頃から)、エイズ予防の政府キャンペーンがラジオなどを通じて盛んに行われていた。現在ではすでにキャリアや発症者の存在は確認されており、特に都市に住む若者たちの一般的な性行動のあり方からみて、今後も広まることが危惧されている。そのような一般状況のためか、意外にも(照れることなく)積極的にコンドームをもらおうとする人が多いことに少々驚かされた。ちなみに、私はベンジャミンに、「もらっておいたほうがよいのではないか」と冗談まじりに促したが、彼は笑うだけで手を出さなかった。やがて私の耳に、3席右隣に座っていた恰幅のよい男性の大きな笑い声が聞こえてきた。そちらの方に目をやると、その前の席にいた男性の老人を中心にその一帯全体が笑いに包まれていた。老人を見ると、手にはしっかりとコンドームが1つ握られていた。どうやら、その老人は何を配っているのかわからず、とにかくもらえるものはもらっておこうということで手を出したらしい。「じいさん、いったいそれを何に使うんだい」、「(その老人がもっていたバッグを指さして)そのバッグに何個入っているんだ?」などと、何人かが軽口をたたいてその場は爆笑に包まれた。老人は多少照れながらも、一緒になって笑っていた。その場の雰囲気(ピジン語の抑揚やニュアンスなど)がここでうまく伝えられないことがもどかしいが、私もベンジャミンも思わず腹を抱えるようにして笑ってしまった。

第2試合のRennell-Bellona代表とCentral代表の試合は、第1試合よりもサッカーのレベルはさらに低かった。特にRennell-Bellona代表のプレーには、サッカーというよりも「ラグビー」の方が近いのではないかと思いたくなるような場面も、時々見られた。Central代表は比較的「形」になっていたが、それでも相手によって調子を狂わされているのか、なかなか得点が入らなかったし、パスも通っていなかった。スタンドの雰囲気は第1試合とはうってかわって「静か」で、Rennell-Bellona州出身者も数多く応援に来ていたが、同郷人の「サッカー」に戸惑っていたのかもしれない。

Rennell-Bellona代表チームの監督(というか、「引率者」)は、世界自然遺産の東レンネルでロッジを経営しているレンスであった(私は気づかなかったが、ベンジャミンが教えてくれた)。2002年に私が東レンネルを訪れた際、彼の所有するトラックをハイヤーし(彼の宿には泊まらなかった)、荒れた道路をパンクに気遣いながら6時間かけて空港まで走ってもらったことがある。その時東レンネルには、レンスのトラックしか「車両」と呼べるものはなかった(レンネル島全域でもトラックは6台しかなかった)。そのレンスは、試合中に突然ベンチから歩き出し、私たちの座っているスタンドの前を通り過ぎていった。観客は口々に「コーチ、どこへ行くんだ?」と声をかけ、レンスはそれに何か返答していた。レンネルの言葉だったため私には理解できなかったが、どうやら「トイレ休憩」だったようだ。自軍の選手が奮闘している最中にチームの責任者がベンチを空ける、という光景にも驚かされた。また、トイレに行く途中にスタンドの客と言葉を交わしながら歩いていくというのも、ソロモンらしい。

前半20分ぐらいが過ぎた頃から、スタンドの「静かな」雰囲気から徐々にRennell-Bellona代表を応援する声援(「Avaikiがんばれ」のような声)が聞かれるようになった。第1試合でMakira-Ulawa代表に声援を送っていた2人のおばさんも、Rennell-Bellonaチームがゴール前に迫ると声が大きくなっていた。ソロモンの人々は、どちらかというと判官びいきである。私もいつの間にかRennell-Bellona代表チームに肩入れしていて、前半30分頃にRennell-Bellonaチームの選手が、ディフェンダーを1人かわし、キーパーをかわし、そしてついにゴールを決めた瞬間、周囲の人々と同様に椅子から立ち上がり、右手を高く突き上げて歓喜の叫びをあげていた。私にはレンネルを応援する積極的理由は何もないはずだが、彼らの奮闘ぶりに勝たせてやりたくなってきた。その後Central州代表が2点目をあげて突き放し、前半を終えた。私は、この試合を最後まで見ることなく、翌日の出国に備え、ハーフタイムでベンジャミンと別れホテルに戻った。お世辞にも上手いとはいえないサッカーの試合ではあったが、それでも、「懐かしさ」に似た至福感と「よいものを見た」という充実感を味わうことができた。2005年のワールドカップ予選を観戦した時とは全く違う満足感であった。

私がはじめてソロモン諸島を訪れたのは、1987年のことである。今回、久しぶりに現地で協力隊員と出会い、自分が何年前の隊員であったかを改めて思い返した時に、「20年」という歳月が経過していたことを思い知らされた。それは、ある意味ショックであった。「20年」という言葉の響きとその重みに、一瞬虚脱感を覚えた。20年間のことが次々と頭をよぎった。隊員時代のこと、MABOプロジェクトのこと、マロヴォやマライタ、イザベルでの調査のこと、それ以外にもソロモンの政治や経済、社会の出来事、数え切れないほどの愉快な、あるいは不愉快な思い。それらが束になって私に押し寄せ、懐かしさと同時に、言いようのない切なさに見舞われたのである。今回の滞在中に、かつての友人2人の死を知らされたことも、その思いに拍車をかけたのかもしれない。テレコムカップの観戦時にスタンドで感得した人々の「生の」喜びや笑い、悔しがったり熱く応援したりする姿は、この20年間に、とりわけ私が「研究対象」としてソロモン諸島の社会や人々と接するようになって以来、薄皮をはがすように少しずつ失っていった初期のソロモンへの思いを蘇らせてくれたようにも感じる。もちろん、これまでの「研究」活動においても、「普通」の人々と接し、「普通」の人々の目線に自らのそれを可能な限り近づけてきたつもりである。しかし、今回のテレコムカップの観戦は、20年前と今という2つの時間的「点」を、ひとつの「線」として私の中でつなげてくれるものであった。

Wokabaoti long Saenataoni
Makem kosi anga long kona
Sutiap, sekem hed, kikim baket enikaeni
Yes iu laf haf senis wota natin

*Tintin baek long iu, lusim hom long taem
Tu iias ova mi no lukim iu, dastawe mi no laikem iu
Mani karange karange hedi lusim mani**

Nomata mi dae long Honiara
Samtin mi lus long taem long iu
Bat sapos iu tin long mi, iu kan weit fo tu iias moa
Letem kam raet sikini longo lelebeti

*〜**繰り返し

ソロモン関係者なら誰もが知っているこの歌(スキヤキソング的に誰もが知っている)を、そして20年前のあの頃、隊員仲間やソロモンの友人たちとよく口ずさんだこの歌のメロディーを、テレコムカップが引き戻してくれた「原点」と共に、私は忘れない。

2007年8月29日(水)
強さの意味:朝青龍問題にみる「親子関係」

横綱朝青龍をめぐる騒動が連日報道されている。社会的に容認されにくい行動をとり、その処分を受けて引きこもる朝青龍(でもなぜ、「処分→引きこもる」になるのかがよくわからないままである)。弟子に会いに行くが会っても心を開いてくれず(時にはインターホンにすらなかなか出てもらえず)右往左往する高砂親方。このような2人の動きには、現代の日本における親子関係の姿が透けて見える。元々相撲部屋は、親方が「父親」でおかみさんが「母親」、その下に弟子(「兄弟たち」)がいる、いわば疑似家族である。本当の家族との明確な違いは、弟子間(「兄弟」間)の力関係が番付の変化と共にコロコロ変わることと、「姉妹」がいないことぐらいである。本場所で同部屋どうしの対戦がないのも、家族だから、という話を聞いたことがある。

子どもが「はずれた」ことをしても叱らない親がいる。叱るとその子の個性をつみ取ってしまうのではないかというゆき過ぎた配慮が子への「遠慮」となって、結果的に取り返しのつかない事態を招く。ありそうなパターンである。10年ぐらい前だったと思う。子育てについて書かれた雑誌記事(本かテレビだったかもしれない)に、「『いけません』とか『ダメ』という否定文で子どもを押さえつけるのではなく、なぜそれがいけないのか、ダメなのかを、肯定文を使って教え諭すことで子どもがのびのびと育つ」という主旨の話に触れたことがある。その当時私も子育てをはじめたばかりだったので、その内容の「新しさ」に関心をもった。しかし実際に子育てをやってみると、そのようなまどろっこしいことをしていられない日常と現実があり、そのような子育て論の空虚さをすぐに実感した。はっきり言えば、それは「違う」のである。

人間にはだれしもその人なりの倫理的基準(あるいは文化的コード)がある。そしてそれは、当然その人が属する社会のコードと密接に関わるものである(だからその人は社会の中で存在していられる)。子ども自身が自らの思考と行動に基づいてコードを身につけることができれば、それは確かに理想である。もしかすると、その実現も決して不可能ではないのかもしれない。しかし、基本的にそのようなコードは、子が汲み取ってゆくものであると同時に、親が中心的な担い手となって子に植えつけるものでもある。それによってその子は当該社会で生きてゆくために必要なコードを身につけ(「文化化」され)、社会化されるのである。親のもつコードが常に正しいとは限らないが、親が信じるコードを子に植え付けることができないのであれば、親をやる資格はない。「ダメなものはダメ」であり、「いけないことはいけない」のである。よく聞かれる友達のような親子関係は、自慢にはならない。時には、決して友達にはみせない、有無を言わせずおさえつける「力」と「強さ」も必要だ。

もちろん、文脈によっては親の「ダメなものはダメ」的判断がダメである場合も、確かにある。その時はダメであった親の判断を凍結して子どもと一緒にコードの修正を図ればよいのである。必要なのは、親の(あるいは、周囲の大人の)子どもに対する「強い」態度である。その強さとは、かつての封建的家父長制下における「理不尽」な絶対的権威とは違う。もしかすると角界にその種の権威が過去にはびこっていて、それを時代や社会に合わせて変化させる過程で、「行き過ぎた修正=遠慮、権威の喪失」がみられるようになってしまったのかもしれない。子に対する強さが、常に理不尽な権威と結びつくわけではない。ここで大事なことは、相手への「配慮」に基づいた権威であるかどうか、相手への「敬意」に裏打ちされた行動や態度であるか、という双方向の「強さ」である。配慮と遠慮をはき違え、敬意を時代遅れの発想と単純に決めつけることのないよう、改めて自らを戒める思いを感じさせてくれる一件である。

今日(8月29日)、朝青龍は「親」同伴で治療のためモンゴルに向かった。「親」は停学中の「子」が退学処分を受けないよう、転地療養先でも交代で監視を続けるのだという。だがその「子」は、確か「横綱」という心技体のそろった、神がかったように完全無欠な(少なくともそうなりうると見込まれた)格闘家であったはず。相撲の強さは確かに神がかり的だったが、一度「心」に問題を抱えてしまい、ある意味「不完全さ」を露呈してしまった横綱が治療の末に復帰できたとしても、彼に対する不完全さのレッテルは簡単には払拭できない。厳しい言い方をすれば、横綱に番付の降格がない以上、「不適格」の烙印は治療や謹慎では消えず、引退しかない。出場停止と謹慎、転地療養という今回の措置は、現代の角界だからこその「配慮」に相当するのかもしれない。

この「親子」が角界における「健全な親子関係」を構築し直し、「親」も「子」も「本当の強さ」を身につけた時にはじめて、待ったなしの仕切り直しがはじまる。そして、彼らに求められる強さは、決して角界だけのことではない。「角界は特殊」という認識が私たちの中には少なからずあるが、今回の騒動を通じて、実はあまり変わらないということも見えてきた。本当の強さとは何なのか。「力関係」が入り込む人間関係には常につきまとう課題である。

それにしても、長い間1人横綱として本場所の土俵を支えてきた功績はどこかにいってしまい、「辞めてほしい」とか「このまま日本に帰ってくるな」とか、「もう、どうでもいい」というコメントがマスコミに氾濫してしまうある種の「冷たさ」には、少々驚く。コードをはずすこと、もしかするとその原因になっているかもしれない(きっとなっている)「親子」間のズレを放置することの恐ろしさが、そこにある。

2007年7月20日(金)
メール人格
「メール人格」という言葉があるそうだ。メールの文面とそれを書いた人の人格が結びつかない。こういう違和感を感じた経験はないだろうか。直接会うとおとなしい会話しかしない人が、メールだと妙に明るい文面(時には躁状態ではないかと思ってしまう程陽気な文面)に出くわしたことがある。

私の場合そこまで極端な違いではないにしても、以前から自分にも「メール人格」なるものがあるような気はしていた。正確に言うと、メールに限らず、文章で表現すると、対面状態の時とは「違う」人になっているのではないかという自意識である。極力無駄を省いた文章を書きたくなるので、自然と表現がきつくなる。文章が硬くなり、親しい間柄でも敬語を使ってしまう。「〜ですよね」という表現ぐらいが、「柔らかさ」の限界である。現代社会におけるコミュニケーションに革命的変化をもたらした「メール」(電子メール)だが、顔がみえず、言葉を交わさず、字面(文章)がすべてであるので、字面(文章)から受ける印象や解釈が書き手の本意とは異なる方向や程度に向かってしまうことは十分にありえる。それがわかっているから、私はこれまで、状況やタイミングによっては敢えてメールを使わず、「直接会って話をする」という超アナログ的行動をとることにしてきた。非・直接話的コミュニケーションが誤解や憶測、「深読み」などを誘発し、人間関係をいたずらに壊してしまう危険性があることを、自分の経験や他人の経験談を通じて知らされてきた。

私にとってメールは、文字通り「手紙」なのである。メールを使い始めた10数年前には、「前略」「草々」を付けていたこともある。だから決してチャット的な文は書かない(それは今も同じ)。絵文字などは論外である。メールには、いつの間にかその人なりの「流儀」や「作法」ができているようだ。チャット的な文や絵文字を入れないことは私の流儀だが、逆に絵文字を入れないと愛がないとか、件名に「Re:」がついている(つまり、単に返信ボタンを押しただけで、件名の自主的な入力を省略している)と相手に失礼とか、どうでもいいようなことにこだわる(そういう流儀をもつ)人もいるという。自分から発信するメールだけでなく、受信メールにも自分と同じコードを適用すると、メールはとても重大な危険性を孕むツールに思えてしまう。

話が少し逸れてしまった。
ところで、メールにあらわれる自分と直接的対話における自分とが他人からは違って見えるような、いわば人格の二重性に関わるような話(ただし、心理学的な意味における二重人格、多重人格とは違う)には、「どれが本当の自分なのか」という問いかけが付随することが多い。しかし、メール人格も対面時人格も、どちらも「本当」であることに変わりはない。会ったときと違う「姿」をメールで醸し出してしまうのも、その時点において切り取られたその人の「真実」の一側面である。この至極あたりまえのことを、「本当」と「本当でない」に二分して自己を照射し、後者を仮のものとしてカッコでくくってしまう。その姿は「現実逃避」ともいえる。私の場合、いちいち馬鹿丁寧な文面を書いてしまうのも、誤って強気な発言をしてしまうのも、どれもこれもその時点における「本当」の自分を形づくっているパーツなのである。
 ネット検索をしていると、特定のテーマに関するスレッドに出くわすことがある。そして、そこに書かれている文面の中には、目を覆いたくなるような箇所が少なからずある。「裏サイト」というのもあるようで、特定個人への中傷や匿名性を背景にした傍若無人な言動で埋め尽くされているという。書いている人たちは、ある種の感覚麻痺状態に陥っているのかもしれない。くどいようだが、そこに書かれた文面は、その時の「本当の自分」以外の何ものをも表現しない。そう考えると、メール人格をはじめとする「もう一つの」人格は、自分の一面を映し出してくれる鏡ともいえそうだ。できればそれと謙虚に向き合いたい。
2007年7月9日(月)
ZARD

5月にZARD(坂井泉水さん)が亡くなった。すぐにここにそのことを書こうと思っていたが、忙しさに紛れて後回しになってしまった。

亡くなる数日前に、たまたまZARDの曲を(本当に久しぶりに)聞いた。MP3プレーヤーには気の向くまま様々な歌手の曲をランダムに入れてある。その時は「音楽を聴く」という行為自体が久しぶりであり、それだけにどの曲にも奇妙な新鮮さがあった。その中にZARDの曲が2〜3曲入っていた。聴きながら、「最近どうしているのかな」とふと思ったところだった。

ZARDの熱狂的なファンだったというわけではない。「負けないで」の歌詞を聴いて励まされるほど乙女チックな心根を持ち合わせているわけでもない。しかし、人並みに彼女の歌う曲は知っているし、良い曲だと思うものも多かった。

曲への好感もさることながら、とりわけ私が興味を抱いていたのは、ZARD(というか、坂井泉水という歌手)のあり方であった。ほとんどテレビやラジオに出演せず、コンサートも数えるほどしかやらない。視覚的には、CDのジャケットの写真か、時折暴露的に週刊誌等に掲載されたレースクィーン時代のハイレグ水着写真ぐらいなものであった。その演出された「神秘性」から、私も坂井泉水という人のイメージをいつの間にか膨らませていった。ジャケットの写真は「清楚で素朴な美人」であり、曲調や歌詞の内容とのズレを感じさせない魅力があった。本人が実際にはどういう人であったか、正面からみた顔の表情がどんなだったか(ジャケットなどの写真はほとんどすべて横顔)は知るよしもないが、多くの人にとってはそれで(イメージの中だけの人で)良かったのかもしれない。かつて、ジャケットの写真や曲だけで勝手なイメージを膨らませ、「オールナイトニッポン」という深夜放送を聞いて大いに戸惑った「中島みゆき像」の例もあるが、清楚で素朴(であるはずの)「坂井泉水像」は、モデル時代の写真がイメージをかき乱すノイズになることもあったが、「であるはず」という神秘性にくるまれながら、そのままで封印された。それによって彼女のイメージは、「きれい」なまま固定された。

しかしそれにしても、あまりにも早すぎる、あまりにも切ない封印であった。

2007年7月5日(木)
長幼の序

2年前にTX(つくばエクスプレス)が開業してから、電車に乗る機会が格段に増えた。私は、車内では仕事絡みのことをしていることが多いが、車内広告や同乗者たちの様子を観察することもよくある。

ある時のことである。向かい側のシート付近にいた2〜3人の中年男性が交わしていた会話が耳に入ってきた。1人分のシートが空いている。
A:すわったら?(他の2人がどちらともなく促す)
B:いや〜、僕は若いから。年長者からどうぞ(といって、特定の1人に強く勧める)。若いもんは年寄りをいたわらないと。
全員:ハハハ(おそらく最年長者と思われる人が座った)。

これに類する車内会話は日常茶飯事だろう。実に頻繁に耳にするし、自分自身がそのような会話の輪の中にいることもある。同じ年齢どうしでそういう場面に出くわすと、「何月生まれ」かが判断の基準になったこともある。たいていこのての会話は冗談まじりでおこなわれるから、絶対的な社会階層が事実上希薄な日本社会では、年齢(あるいは月齢)は、その場を「穏やかに」収めるための方便として持ち出されるのが普通である。

しかし考えてみれば、年齢(月齢)でその場が(冗談まじりにでも)収まるということは、年長か年少かという基準が私たちの心底にまがりなりにも定着しているということでもある。いわゆる「長幼の序」という儒教的精神である。それは、「長じたものは幼い者を慈しみ、幼い者は長じたものを尊敬する」ことによって社会における秩序を育み、持続させようとする考え方である。

私がはじめて「長幼の序」を強烈に意識させられたのは、中学以降(とりわけ高校以後)の部活であったかもしれない。「少し遅く生まれただけで、何でこんな扱いを受けなきゃならないんだ。そんなに先輩というのは偉いのか」という怒り混じりの疑問を抱いたのも、1度や2度ではない(おそらく逆の立場に身をおき、怒りの矛先に転じたこともあったろう)。年少者が「服従させられる」という図式が強かったので、少々歪んだ秩序だったようにも思える。また、企業に就職した頃、「年功序列」という日本的企業経営の特色を通じても、それを実感的に意識した。当時は、脱年功序列=能力主義が声高に叫ばれ始めた時期だった。近年、能力主義の是非が再び論議される傾向にあるが、だからといって昔のような年功序列に回帰しようという論調でもない。いずれにしても、どちらかというとこれまでは、年齢を基準にした物事の判断を正面から支持することにためらいを抱かせるような一般的風潮があった。

しかし、私はこの「長幼の序」という行為規範が決して嫌いではない。もちろん、やみくもに年長者に隷属したり、絶対的服従関係をそこに見ているわけでもない。それが、年長者と年少者との間の双方向的な敬意の表明を本意とするものであるなら、むしろ好ましいとさえ思える。もちろん、「どうしようもない」年長者や「とんでもない」年少者がいることは事実である。年長者であることが「敬意の対象」である必然性はないし、双方向の関係をもつ気になれない年少者がいることも事実である。年少者が年長者に「タメ口」をきいたり、変に馴れ馴れしい態度をとる様子にふれると、良い気持ちはしない。

長幼の序とは相手方からの敬意を「求め期待する」あるいは「強要する」のではなく、「自らを律する」ことによって相手方からの敬意を「引き出し」、それが双方向的に実現することによって成立する秩序といえそうだ。いわば、少なくとも日本人どうしの間では、円滑な人間関係の潤滑油の一つとしてそれを理解しておくべきだろう。

今日もどこかの電車内で、「長幼の序」的表敬行為が実践されているに違いない。

2007年1月29日(月)
夜空ノムコウの創造的ノスタルジア

昨日の夜、『ミュージン』 というテレビ東京の音楽番組をみた。それはチャゲ&飛鳥を特集する内容だった。彼らは2年間の休止期間(ソロ活動期間)を経て、今年チャゲアスとして活動を再開するということであった。「ひとり咲き」「万里の河」「男と女」など、彼らの初期の曲には思い出が重なる。

ミュージンの後にみた他局の番組には、スガシカオが出ていた。その中で彼は、自ら作詞した「夜空ノムコウ」をスタジオで歌っていた。
私はこの曲が好きである。
とくに、「あの頃の未来に僕らは立っているのかな」という歌詞以降が好きだ。SMAPが歌うこの曲[歌詞]を紅白歌合戦ではじめて聴いた時、学生時代に友人たちと交わした「10年後俺たちはどうなっているんだろう」という会話をふと思い出した。結果的に私の場合は、(学部生と院生の違いはあるものの)10年後も「学生」をやっていたのであるが、「あの頃の未来に」自分が立っているという四次元的な現状認識に、奇妙な感動を覚えた。それは、あの頃から「未来」(つまり現在)に至るまでの喜怒哀楽すべてを、この曲の歌詞が包み込んでくれているように思えたからだ。昨日みた「あの頃」のチャゲアスの歌を聴いたときの私の心の有り様は明らかにノスタルジアであったわけだが、そのように考えると、その時の心の様子も掛け値なしに心地よいと思える。

一般に、昔を懐かしむことは、人生に挑戦的な気概を持ち続けようとする人には有害であるかのように捉えられる傾向がある。しかし、過去を振り返ることは決して悪いことではない。問題は自分と「過去」とのつきあい方なのである。自分にとってノスタルジアの対象であるものが、実はそれをリアルタイムで体感や体験していない人たちにとっては「新しい」(未来的な)ものであったりする。言い換えると、あの頃の未来から「あの頃」をみると、実は「あの頃」のものが今を起点とする未来に属するものとしても見ることができるのではないかということである。テレビのCMに昔流行した曲が使われることがあるが、それも新鮮に響くことがある(だから、商品広告に使われる)。私が小学生時代に見ていたヒーローものを、今の学生も子どもの頃に見ていた(リバイバルとして放映していたようだ)という話を聞いて驚いたことがある。過去をそのまま転用することが良いかどうかは別として、肝心なことは、過去の「使いよう」なのである。

あの頃の「未来」(現在)に立ち、あの頃を振り返ることを通じて脳裏に「本物の」未来の姿を映し出した時、その姿はむしろ挑戦的でさえある。それは単なるノスタルジアではなく、いわば「創造的なノスタルジア」としてイメージされるだろう。私はそう考えて、過去、現在、未来を自分の中でつなげてゆきたい。

次にカラオケへ行くときはチャゲアスを歌おう。創造的ノスタルジアの発露として。

2007年1月17日(水)
見えない世代

元日から3日までの朝日新聞に、「ロスト・ジェネレーション:25〜35歳」という特集記事が掲載されていた。今日本にいる25歳から35歳の約2,000万人は最も豊かな時代に生まれ、バブル崩壊後の「失われた10年」に大人になった若者たちである。記事によると、彼らは時代の波頭に立ち、新しい生き方を求めてさまよっているのだという。学校を出ても正規雇用されていない人たちはまさにこの「ジェネレーション」の象徴であり、しかもその存在や動向はこれからの日本の行く末にも大きく関わるという。安倍首相の掲げる「再チャレンジ」もこのジェネレーションを強く意識した政策であることはいうまでもない。

ところで、朝日新聞の元日恒例別刷り特集に、「個性輝く団塊」という記事もあった。同じ日の新聞に、「ロスト・ジェネレーション」と「団塊の世代」という2つの世代に関する特集が掲載されていたことは興味深い。2007年からいよいよ「団塊の世代」が定年を迎えることを受けて企画された特集である。就農、地域デビュー、海外移住など、様々な「第2の人生」の可能性について言及されていた。この世代は、なんとなくではあるが、私の2つぐらい上の世代という印象がある。私自身、いろいろな意味で、様々な場面で、これまでこの世代の人たちからは強い影響を受けてきた。事実、青年海外協力隊員をやっていた時に、今の世界に入るヒントと活力を与えてくれたのは、「団塊の人」であった。この世代は、人数が多い→競争が激しい→ゆえに個性や押し出しが強い、というステレオタイプで語られることが多い。戦後日本社会を再構築する過程で生まれ、育ち、「闘い」、挫折し、働き、バブルに踊り、そしてリストラされてきた世代である。時代の波頭に立ち続けてきたという意味では、上の「ロスト・ジェネレーション」と変わらない。

私は学部生時代(1980年代前半)、「団塊」に憧れたことがある。正確にいうと、彼らのエネルギー、彼らが「固まり」としてもっている言いようのない躍動感を、自分も「欲しい」と望んだことがある。それというのも、私の世代(具体的な年齢の幅は漠然としているが、1962年±4〜5年生まれ)が、彼らやその上の世代から、「しらけている」とか「何を考えているのかわからない」「大人になりきれない」世代と言われ続け、私自身も当時それに近い思いを抱いていたことによる。しかしだからといって、社会に向けて何かを発信したするような活動をおこしたわけでもなく、「三里塚二期工事着工阻止闘争」(当時私の通っていた大学のキャンパスには、この言葉の踊る立て看が常におかれていた)に加わったわけでもない。とりわけ学生運動に関しては、当時の多くの学生たちと同様に、私ももうそれは「違う」と感じていた。ゲバ棒もって、ヘルメットかぶって、ほおかむりして機動隊とぶつかっても、「ここにぃー、結集されたぁー、すべての学生のみなさんっ!」という決まり文句で始まるアジ演説を聞いても、「しょうがないじゃん」という思いである。「しらける」ことに、熱くならないことに慣れていた。憧れがあっても、その方が居心地がよかったのかもしれない。

2000年に、『大事なことは「30代」に訊け:さよなら団塊の世代』という本を読んだことがある。そこでいう「30代」とは、1960年〜1971年生まれの人のことを指していた。その中で宮崎哲弥さん(1962年生)は、こんなことを語っている。「私たちには生まれてこの方、社会が大きく変わった、景色が変わったという記憶がないんですよ。もの心ついたときには、すでに身の回りにはカラーテレビがあり、水洗便所があり、マイカーがあり、スーパーマーケットがあった。(中略)ファースフード、コンビニ、ファミレス、ウォークマンが登場し、定着した。生活の基本構造が変わったという感じはありません。ずっと平坦な状態が続いている」。

宮崎さんと同年齢の私の場合、近所の商店街にスーパーマーケットがあり、物心ついた時にテレビはあったが白黒で、自宅の便所は汲み取り式、車は商用のオート三輪だったので「マイカー」という語感とはちょっと違うような気もするが、概ね「揃ってはいた」。それぞれグレードは上がっているが、確かに生活の基本構造は今と同じである。ずっと続いている「平坦な状態」だ。この点は、時代の波頭を生きてきた(あるいは生きている)団塊やロスト・ジェネレーションとは対照的である。「起伏」がないだけに、団塊の世代のように自ら名のるほどの世代表現が見あたらない。敢えていうなら、「よく見えない世代」、いわば「インヴィズィブル・ジェネレーション」(invisible generation)といったところだろうか。時代の波頭からちょっとズレたところにある、あまりよく見えない平坦な場所が、私たちの居場所なのだ。

元日の同じ新聞に掲載された2つの世代に関する特集。正月の特集記事だから当然かもしれないが、そのいずれもが、これまでのネガティブな世代イメージを払拭し、「これから」に希望を見いだす語り口であった。これからしばらくは、団塊の人たちを相手にしたビジネスや企画もの、彼らや「再チャレンジする」ロストジェネレーションの人たちを取りあげる特集記事やテレビ番組などを目にすることだろう。インヴィズィブル世代は、「平坦な場所」から、これら「目に見える、有名な」世代が抱える問題を共有することになるのだろう。世代の当事者たちには見えにくいことも、「平坦な場所」なら見えやすいかもしれない。そう考えると、昔はあまり好きでなかった自分たちの世代も、決して悪くはない。試しに、こう言ってみよう。

「大事なことは、インヴィズィブル世代にきけ!」

2006年11月28日(火)
その日、トンガで

その日はトンガにとって歴史的な一日になった。まさかその時その場所に自分が居合わせることになるとは、思いもよらなかった。

その日の昼間、トンガの首都ヌクアロファのメインストリートで民主化を要求するデモ行進があった。かねてより懸案となっていた政治システムにかかわる一般大衆の要求を、政府が受け入れるかどうかが決定される日であった。

トンガは王国である。日本でも巨漢の国王(今年9月に逝去)が王宮の周りを自転車に乗って走る姿がTV番組で報道されたことが何度かあり、知る人も多いのではないだろうか。立憲君主制ではあるが、王様と貴族、そして王政を補佐する枢密院の存在など、一般国民の声が政治に届きにくいシステムになっていた。それを改革することを、運動を起こした人々は「民主化」と呼んでいるようだ。彼らは、「王や貴族は尊敬するが、政治に関わりすぎた」と主張していた。このことに関連して、今年に入ってからも何度かデモがおこなわれ、すでにその民主化要求の波は飽和状態になっていた。

そして、その日がやってきた。

首相は要求を斥けた。怒りに満ちた群衆は、はじめに首相府を襲撃した後、首相が私的に所有するスーパーマーケットを襲った。さらに、日頃からトンガ人の敵意の的になっている華人たちの商店を破壊すると共に、略奪や放火を繰り返した。折からの強風も手伝い、ヌクアロファ中心部は延焼し、銀行、トンガ人やインド系住民が経営する商店、ホテル、航空会社オフィスも含めて、相当程度の範囲を焼いた。翌日聞いた話によると、市内の放火は午後3:00過ぎにはじまり、午後5:00頃には「火の海」状態だったという。この事態を受けて首相は、その日の夜、要求拒否の決定を覆し、ラジオで「受諾」の意向を明らかにした。

私が宿泊していたのは、中心部に位置する華人経営のホテルであった。利便性において総合的に優れていたのでそこに泊まっていたのだが、結果的にそれがあだになった。その日、JICAでのスケジュールを終え(実はこれも、暴動騒ぎで中途半端に終わってしまったのだが)、ホテルに戻り、シャワーを浴び、その日の「成果」についてあれこれ考えていた。すると、徐々に外の喧噪が大きくなった(近づいてきた)。少々心配になって外出着に着替え、貴重品をまとめ、ロビーに降りてみようと思ったその時、各部屋のドアを激しくノックしながらあわただしく廊下を駆け回る音が聞こえてきた。はじめは暴動に加担している人たちかと訝り、のぞき窓から見たが何もみえない。ドアを開けると、ホテルのトンガ人スタッフが駆け寄り、「すぐに荷物をまとめて欲しい、このホテルは中国人の経営だから狙われる」と、幾分興奮した様子でまくしたてた。すぐに2〜3人のホテル従業員と共に荷物を手当たり次第にバッグに詰め込み、彼ら(彼女ら)と共に階下におりた。すでに暴徒によって市内の電気は止まっていたのでエレベーターは使えず、階段を小走りに駆け下りた。しばらくの間、ホテルの従業員たちと1階で様子をみていたが、彼らの勧めに従い、「安全」を考えて、ホテルのトンガ人スタッフの自宅に泊まることになった。思わぬ展開に、私も少々あわてた。JICAかパシフィックインターナショナルの大石さんに連絡を取りたかったが、通信手段がない。ソロモン諸島の場合と違い、どこに何があって、どのような選択肢があり、現地事情に照らしてどのような行動をとるべきなのか、初めてのトンガ訪問で、しかも到着して丸2日しかたっていない私には、さっぱりわからなかった。したがって、その時はもう道は一つしかなかった。私はもう1人の客(マルタ人)と共に、ホテルのトンガ人スタッフ宅に向かった。途中で、めちゃめちゃに荒らされた華人系商店の惨状を目にした。

とても親切な家族だった。きれいな家で、電気も来ていた。その家のおばあさんは、私たちをみると、ほおずりして迎えてくれた。そしてその後、悲惨な状況を憂えて泣きながら神に祈りを捧げていた。彼女は敬虔なカトリック信者だった。今回の出張では一般のトンガ人家庭を垣間見る時間も機会も得られないだろうと思っていただけに、不謹慎かもしれないが、この家にお世話になったこと自体はよかったように思う。このことをそう考えることにした。

翌朝、チェックアウトと部屋のキーを返すために華人系ホテルにJICAの車で戻った(逃げるようにホテルを出てきたので、チェックアウトどころではなかった)。ホテルは華人のスタッフが数人いただけで、大きいホテルだけにその静けさが不気味だった。中心部に入る道路は軍隊が鉄砲をもって封鎖し、立ち入れないようになっていた。このホテルは難を免れたが、立ち入り禁止区域になっていた。街中の焼け跡から8人の焼死体が発見されたと聞いた。

南太平洋の島国は、近代政治、経済の面からは、決して「楽園」ではない。最近では、ソロモン諸島の首都で首相指名選挙の結果に怒った人々が華人系の商店やホテルを襲撃し、略奪をおこない、そして放火した。フィジーでは、政府と軍の対立が緊迫化し、あわやクーデターかという事態にまで発展した。そして今回、トンガである。南太平洋の国々は近代国家の形態をとり、「民主主義」国家としての体裁を整えてはいる。しかし実態的には、各国の伝統的な政治システムや資源の分配システムなどと近代的システムとの折り合いをつけられずにいる。

「グローバルとローカルを有機的に結びつける」という議論をよく聞く。私もそのような考えを公けにしたことがあるし、それを「グローカル」などと表現することは、もはや目新しくもない。考えてみれば、南太平洋の島国は、これまで「自分たちのやり方」を近代社会、あるいは近代国家の中で何とか実現させようとしてきた。話は少々古くなるが、かつてフィジーのマラ首相は「パシフィック・ウェイ」という言葉で、そのことを表現した。ソロモン諸島でも、民族紛争以来、新憲法の制定を進めているが、「ソロモン諸島独自の」憲法とか「自家製」憲法と言っていた。これらもグローカル的なものを求める動きだったはずである。トンガの場合も、「王政を維持しつつも新しい民主制国家」を目指す運動であった。しかしこれらを実現するには、大きな痛み、言い換えると多くの人々の血や財産を失うことを伴わなければならないようだ。

確かに、「グローカル」な理想を単なる画餅としてきたことは、どの国にも見られたことではある。為政者がそれを画餅にしてきたから、そのような人間を「民主的な選挙」で選んできたから、といって非難することはできる。しかしだからといって、すべての責任を島国の為政者や国民の近代的無知や近代的未成熟に押しつけることは、酷である。「植民地でなければ独立国」という選択肢は、近代社会において半ば常識であった。しかしどちらにも窮屈さを感じる人々がいることも忘れてはならない。その窮屈さに対して「グローカル」という言葉でもうひとつの方向性を示そうとしても、別の窮屈さを生み出すこともありうる。それが発展的であるならば大局的にはあきらめもつくかもしれない。しかしいずれにしても、「苦しみ」は必然である。

近代(現代)という時代は、少なくとも、いわゆる途上国と呼ばれる国々にやさしくはない。政治経済学的には当たり前のこのことを、「その日(2006年11月16日木曜日)」、トンガで改めて実感させられた。

現地でお世話になった方からの情報によると、今回のトンガ暴動は、一部の民主化急進派と、華人と敵対するトンガ人ビジネスマンを中心とする人々によって引き起こされたものであるという。また、私が滞在している時からすでに大方のトンガ人はこの暴挙を厳しく非難しているという話も聞いた。トンガ人の「良識」が堕ちていなかったことは、せめてもの救いである。

2006年11月4日(土)
ディズニーランドはオリエンタリズム?

昨日、東京ディズニーランドに行った。もちろん、家族とである。休日だったせいもあり、ものすごい人出だった。ディズニーランドが浦安にできたのは、大学3年の時だった(と思う)。その後約20年の間に数回足を運んだが、そのたびに入場者の数が増えているような気がする。

ここでは、何をするにしても、「並ぶ」ことが要求される。朝6:00につくばの自宅を出て、7:30に現地到着。8:00の開園を待つ群衆がすでに入場門前にあふれかえっている。ここで40〜50分待ち、ようやく園内に入った。家族の入念な「予習」に基づく指示に従い、私は「プーさんのハニーハント」のファストパス(説明は省略)を入手するため、「列」に並んだ。この列に約30分。短い方だ。その間、家族は他のアトラクションを2〜3こなしていた。その後、ポップコーンを買う列に約50分並び、家族は何とかいうアトラクションに行っていた。しかし、並んでいたのは私だけではない。午前11:00という早めの時間帯が比較的すいているという事前情報に基づき、家族はレストラン(「クィーン・オブ・ハートのバンケットホール」)に20〜30分並んでいた(私がポップコーンの列に並んでいた時間帯の後半部分に)。昼食後、場所をファンタジーランドからアドベンチャーランドに移し、ウェスタン・リバー鉄道のためにまた数十分並んだ。さらに、その近くで売っていたうまそうな鶏肉を買うための列に約30分並び、夕方4:00頃には持病の腰痛が騒ぎ出していた。

しかし不思議なことに、どんなに長い列に並んで待たされても、そのあげくにアトラクションの時間が十数分だけであっても、結構楽しめて満足してしまう。おもしろいのである。圧巻だったのは、「プーさんのハニーハント」だ。乗り物にのってプーさんの「お話」の世界をトリップするアトラクションだが、乗り物がただ単に進むのではなく、遊園地のコーヒーカップのような動きをしたり、速い動きで後ろに下がったりして、純粋に楽しめた。ファストパスのために並んだ甲斐があった。他のアトラクションにもいえることだが、1回のショーや乗り物の行程の中で効果的にメリハリをつけている。それも終了間際に大きな「仕掛け」をしているので、終わった時に客はその部分の印象を強く残し、「あ〜、おもしろかった」という感想を思わず抱いてしまうのである。基本的にこの「戦術」に沿う限り、おそらくどのアトラクションも大きくはずすことはないのかもしれない。何か別のことにも応用できそうなテクニック、という気もする。もちろん、どのような「仕掛け」を仕込むかが大問題ではあるが。

ところで(ここからが本題)、アドベンチャーランドには、人間や社会についてのステレオタイプな表現がそこかしこに配置されているように思えた。たとえば、ジャングルクルーズの「原住民」(こういう表現は、今あまり使わない)、ウェスタン・リバー鉄道の「インディアン」(今はこういう表現も使わないが、ディスニーランドで聞いたアナウンスの表現のまま、ここでは記述する)、ポリネシアン・テラス・レストランの「ダンス」や「従業員の衣装」、魅惑のチキルームの様々な「ポリネシアもの」(たとえば、どういうわけか「アロ〜ハ〜」とみんなで唱和させられる)などである。

1970年代以降、一般に人文・社会科学の諸分野では、特定のイメージに基づく他者表象(そのことが事実であるかどうかは関係ない)を「オリエンタリズム」といって、批判的に捉えてきた。歴史的にそれが西洋の非西洋に対する人種差別や植民地主義と結びついてきたからである。ディズニーランドのアトラクションをオリエンタリズムだといって非難するのはあまりにも無粋であるが、「野蛮な原住民」とか「未開的かつ楽園的なイメージのポリネシア」という単純な演出には、職業柄、違和感を覚えずにいられない。確かに、そのようなオリエンタリズム的表象を逆手にとって、それを利用しながら現金収入の道を観光開発の文脈などで切り開いている例は、それこそ太平洋の島国の中で決して珍しいことではない。しかし、そのような特定の文脈に基づかないステレオタイプ化が、少々気になるということである。

「魅惑のチキルーム」は、基本的にはオウム(鳥)の合唱を楽しむ場であり、それ自体はノリがよくおもしろかったが、曲はすべて西洋的なアップテンポの曲であり、「メリハリ」の部分でポリネシア風のドラムの音が入って盛り上げていたが、設定全体をポリネシアにする必要があったのか、素朴な疑問を覚えた。入場前に唱和させられた(練習させられた)「アロ〜ハ〜」の合い言葉は結局何だったのか最後までわからなかった。それでも、そのドラムの音と、「森の中で歌うノリのよい歌で神を目覚めさせる」という、一種の「神秘的な」設定と、「アロ〜ハ〜」によって「ここはポリネシアなのだ」と冒頭の部分から何となくすりこまれることで、客は「未開の地」の中にいることを「ちょっとは」連想するのかもしれない。しかし、(もちろん、鳥が人間の言葉で歌を歌うわけはないが)、そういうことは別にして、基本設定が必ずしも事実としてそこにあるわけではない。

とにもかくにも、ディズニーランドは、「列に並ぶのが趣味」という人にはうってつけの場所だろう。というか、徐々に並ぶことに無抵抗になっていく自分に気づかされる。いろんな意味で(オリエンタリズム的表象にも、長蛇の列にも、そして「腰痛」にも)、感覚が麻痺されてゆくのかもしれない。「夢の国」にいることの恐ろしさでもある。

しかしそれにしても、できればポップコーン売り場は今の2倍の数に増やして欲しいと、切に願う。
「楽しく」、そしてとても疲れた一日だった。
ちなみに、私は今月、「本物の」ポリネシアに出張で行く予定である。

2006年11月1日(水)
リニューアル

6年ぶりにホームページをリニューアルした。2000年1月に開設して以来はじめてのデザイン変更である。topページのデザインを全面的に改変し、その他のページも大幅に、あるいは部分的に手を加えた。また雑記帳を開設したことも、新しい試みである。mixiやブログのように、不特定多数の人(mixiの場合は限定されてはいるが)にざっくばらんに自分の内面をさらけ出すことには違和感があったが、どういうわけか自分のホームページ上ではあまり抵抗なく書けそうな気がした。「空を仰ぎ見ながら様々な思いが頭をよぎる」という情景をイメージして、「天空雑感」と名付けた。

今回のリニューアルでは、はじめて「ホームページ作成ソフト」を使ってみた。これまでは、律儀にエディタにタグを打ち込んで作っていた。その方法も、地道な手作業感があって悪くはないが、時間がかかりすぎてしまい、とてもではないが今の日常の状況からは大幅な変更は無理であった。どのソフトの性能が優れているのかよくはわからなかったが、とりあえずIBMのものを買って使ってみたところ・・・・、

確かに簡単だ!

リンクも壁紙の設定も、画像ファイルや表の挿入もほとんど一発でできる。時々私のホームページにアクセスしてくれていた大学時代の先輩たちからの「少しは更新しろ!」というお叱りの言葉も、これで受けずにすむかもしれない、....おそらく。