ソロモン諸島がヨーロッパ人に知られるようになったのは、1568年2月7日にスペイン 人の探検家アルヴァロ・デ・メンダーニャ(Alvaro de
Mendana)の一行がイサベル島北 東岸に到達してからである。当時、チリやペルーに滞在するスペイン人の間では、太平 洋の西のどこかに旧約聖書に登場するソロモン王の失われた地が存在するに違いないと
いう風説が流れていた。メンダーニャは自らが到達したその西の果ての島じまを、ソロ モン王の黄金の地にちなんで、「ソロモン諸島」と命名した。メンダーニャは、1595年
にソロモン諸島をスペインの植民地とするためにペルーを出港し、同年、現在のソロモ ン諸島テモツ(Temotu)州々都の面するグラシオサ湾 (Graciosa
Bay) に到達したが、同 行船員の不満や地元住民との不和、メンダーニャ自身の病気によって、植民地化の計画 は実現しなかった。 その後約300年間、ソロモン諸島民とヨーロッパ人との接触に関する 記録はほとんどみられなくなるが、19世紀中頃にはじまるキリスト教諸派の布教活動や 捕鯨船の立ち寄り、ココヤシやシンジュガイ、ベッコウ、ナマコなどを扱う白人交易人 の来島、ブラックバーディング(black-birding)と呼ばれるオーストラリアやフィジーな どのサトウキビ農園における労働などを通じて、ソロモン諸島民は徐々に「近代世界」 に組み込まれていった。 |
19世紀後半期には、ドイツがニューギニアおよびソロモン諸島北西部地域(ショート ランド諸島、チョイスル島、イサベル島)の領有を宣言した。イギリスはその事態に対 して、オーストラリアやその他の太平洋地域における既得権益に対する危機感を抱き、 1893年、ソロモン諸島中部および東部の島じまや、西部のニュージョージア島の保護領 化(植民地化)を宣言した。その後1899年には、ドイツ領に組み込まれていたソロモン 諸島北西部がイギリスに割譲され、現在のソロモン諸島国の全領域がイギリス領に編入 された。植民地時代の正式名称は、イギリス領ソロモン諸島保護領 (British Solomon Islands Protectorate)である。このように、イギリスによるソロモン諸島の植民地化は、 資源の獲得という経済的動機から出発しているのではなく、ドイツとの政治的対抗関係 によって生じたものである。 |
第2次世界大戦後、ソロモン諸島ではマアシナルール (Maasina Rule)と呼ばれる反イ ギリス植民地政府運動、権利獲得運動も発生した。それとともに、戦争で疲弊したイギ
リス経済や植民地独立の気運という国際情勢も加わり、1940年代後半以降、植民地政府 はソロモン諸島民自身によるココヤシ農園経営を奨励したり、島民自身による地方行政
組織の設立を認めるなど、徐々に島民の政治参加や経済参加の機会を拡大させていった。 たとえば、戦後すぐに植民地政府は、イギリス人の駐在弁務官 (resident commissioner) を委員長に、数人のソロモン諸島民からなる行政諮問委員会(Advisory Council) を設 立し、はじめて島民が植民地行政に関わるようになった。1960年に、この委員会は立法委員会(Legislative Council) となり、また同時に新たに行政委員会 (Executive Council) も設置され、島民の権限はさらに拡大した。そして1970年に、植民地政府は、立法委員 会と行政委員会を併せて「政府委員会」(Government Council) を設置するとともに、国 政選挙によって選出されたソロモン人議員による議会を開設した。これによって、植民地における行政および立法機関は、イギリス人よりもソロモン諸島民が多数を占めるよ うになった。 |
イギリス領ソロモン諸島保護領は、1978年7月7日に、イギリス女王を元首とする立憲君 主制国家として独立し、「ソロモン諸島国」となった。 1960年代以降、アジアやアフリカ におけるイギリスの植民地が独立したことや、1960年代にソロモン諸島にも国立の普通学校が創立され、多くの卒業生が外国へ留学する機会を得たことも、1970年代のソロモン諸島における独立気運を盛り上げることに寄与した。しかし、独立に際し、宗主国との武力 衝突や社会的混乱状態を経験した植民地が多い中で、ソロモン諸島の独立は、宗主国であ るイギリス政府自体が率先して独立を推進しようとした点に特徴がある。 1970年にイギリ ス政府は、植民地経営のコストがかかりすぎるという理由から、はじめてソロモン諸島の 独立へ向けた動きをみせはじめたのであるが、何よりも島民の間に独立に向けた政治的要 求がみられなかった点に、イギリス人の行政官たちは戸惑いをみせたという。憲法制定委 員会の発足など、独立のための準備作業が開始されてからはじめて、島民の間で憲法のあ り方や政体、土地権や市民権の認定方法などについて、激しい議論が展開されるようにな った。 |
このように、ソロモン諸島の政治的独立は、宗主国から「克ち取った」独立ではなく、 イギリスの政策に沿う形で「与えられた」独立である。そのため、ソロモン諸島民は、近 代的政治制度に対する国民意識の長期的高まりを経験しておらず、基本的にその点に関して未習熟である。マライタ島の選挙区選出議員であるアラシア(S.Alasia)自身が、「ソロ モン諸島の政治は近代的政党政治の形態をとっているが、実際には今だに候補者と有権者 間の伝統的な互酬的関係が重視されている。自分に何をしてくれたかが、政治家を選ぶ基 準なのである」と述べているように、近代的政治制度の枠組みとそれに関する国民の実践 との間に大きな隔たりがある。そのため、地方レベルから国家レベルの政治において、それぞれの担い手となる人物は、政策や理念の違いとは関わりのないところでめまぐるしく変化する。 |