年表


できごと
2万年前 この頃までには、ソロモン諸島(とくに北西部)に人の居住が始まる。
3500年前 ラピタ式土器を製作し、用いる人びとがこの頃までにソロモン諸島に居住しはじめる。
1568 2月7日、スペイン人探検家アルヴァロ・デ・メンダーニャがサンタイサベル島北岸に到着。記録に残るソロモン諸島とヨーロッパ人との初めての接触。
1595 メンダーニャの2回目の航海。サンタクルーズ諸島まできたが、そこで病没。
1643 アベル・タスマンがオントン・ジャヴァ環礁に到着し、そう命名した。
1768 ブーガンヴィルがソロモン諸島に到達。
1769 サーヴィルがソロモン諸島に到達。サンタイサベル島北部に住むロヴァ・サラグアという少年をヨーロッパへつれて帰った。彼がおそらくヨーロッパへ渡ったはじめてのソロモン諸島人である。
1820年代 欧米の捕鯨船が水や食糧の補給のためソロモン諸島の島に立ち寄るようになる。
1840年代 欧米の交易船が、ベッコウやナマコなどを求めてソロモン諸島を訪れるようになる。交易の中心はニュージョージア島であった。
1840年代 ニュージョージア島の諸集団がヘッドハンティング(首狩り襲撃)の遠征を開始する。
1840年代 ニュージョージア島の人びとは、欧米人との交易において、鉄器や銃器以外のものを受け付けなくなった。
1845 12月16日、フランス人のカトリック神父エパルがはじめてソロモン諸島における布教のためにサンタイサベル島ブゴトゥ地域に上陸。しかし、上陸とともに地元民に殺される。カトリックは、その後1847年までサンクリストバル島で布教活動をおこなうが、地元民の抵抗により撤退。
1847 英国国教会系メラネシア・ミッションが、サンクリストバル島で布教を開始する。
1860年代 メラネシア・ミッションがニュージーランドからサツマイモを伝える。
1870年代 ブラックバーディング(労働者狩り)船が来航しはじめる。
1871 9月20日、メラネシア・ミッションのパテソン主教がサンタクルーズ諸島で地元民に殺される。
1886 ショートランド諸島、チョイスル島、サンタイサベル島がドイツ領になる。
1880年代 1890年代までの間、ニュージョージア島からサンタイサベル島、チョイスル島、ラッセル諸島などへのヘッドハンティングが頻繁におこなわれ、過激化する。
1891 イギリス政府が海軍のロイヤリスト号をニュージョージア島へ派遣し、ヘッドハンティングをおこなう集団の村を徹底的に焼き討ちにする。
1893 ニュージョージア島、ガダルカナル島、マライタ島、サンクリストバル島、ゲラ島がイギリス領になる。
1896 イギリス植民地政府の初代駐在弁務官に、博物学者のチャールズ・ウッドフォードが就任する。
植民地政府は、ニュージョージア島へ警察隊を派遣し、ヘッドハンティングをおこなう集団の村を焼き討ちにする。
1898 カトリック・ミッションが再びソロモン諸島で布教をはじめる。
1899 ドイツ領ソロモン諸島のすべての島じまがイギリス領になる。
1901 ヘッドハンティング時代の終焉。キリスト教への改宗者が急激に増加する。
1902 メソジスト派ミッションがソロモン諸島での布教を開始する(主にニュージョージア諸島、チョイスル島で)。
1904 南洋福音派ミッションがソロモン諸島で布教を開始する(主にマライタ島で)。
1904から1906年にかけて、ブラックバーディング(労働者狩り)でオーストラリアやフィジーに連れて行かれていた人たちが大量に帰還した。
1905 リーヴァーズ・プランテーション会社がソロモン諸島に進出。
1910 華僑がソロモン諸島に定住しはじめる。
1914 SDA(安息日再臨派)ミッションがソロモン諸島での布教を開始する。
1918 このころから、植民地政府は人頭税制を導入する。
1927 植民地行政官W.R.ベルが、マライタ島クワイオ地域で地元民に殺害される。
1931 ガダルカナル島で金が発見される。
1938 メラネシア・ミッションのイギリス人宣教師リチャード・ファロウズが、サンタイサベル島、ゲラ島、サヴォ島の人びとを組織し、政治運動(住民の権利獲得運動)をおこなう。彼は1939年に植民地政府から国外退去処分を受ける。
1942 5月3日、日本軍が英領ソロモン諸島の首都ツラギを占拠。7月、日本軍がガダルカナル島に空港を建設。8月7日、アメリカ軍がツラギとガダルカナルに上陸。
1944 戦争で荒廃したツラギに代わり、ガダルカナル島ホニアラが首都になる。
1944-52 マアシナ・ルール運動(反英植民地運動、権利獲得運動)がマライタ島民を中心に起こる。
1947 ホニアラ近郊にあるルンガの土地が、リーヴァーズ社から政府へ譲渡された。ラジオ放送がはじまる。
1948 ホニアラ近郊のマタニコからタヴィオアまでの領域が、地元の土地所有集団から政府へ売却され、ホニアラの一部に組み込まれた。
1949 カンタス・オーストラリア航空がシドニー・ホニアラ間(ポートモレスビー経由)に航空便を開設。
1950 5月25日、太平洋戦争以来駐留していたアメリカ軍が全面撤退する。
1963 ソロモン人初の主教が誕生する(Leonard AlfuraiとDudley Tuti)。国内航空便が開設される
1965 初の女性議員が誕生する。
1973 英領ソロモン諸島政府と大洋漁業(現・マルハ)との合弁企業「ソロモン・タイヨー」が設立される。
1975 英領ソロモン諸島が自治領に移行し、「ソロモン諸島」となる。自治領初代主席大臣(首相に相当)にソロモン・ママロニ(マキラ出身)が選出された。
1978 7月7日、独立。
1986 サイクロン・ナムがソロモン諸島を直撃し、多数の死者、行方不明者を出す。
1999 ガダルカナル島民によって組織された武装集団(イサタンブ解放運動=IFM)とガダルカナル島に居住するマライタ島出身者との間で民族的対立が激化し、6月に非常事態宣言が発令された。
2000 6月4日、アンドリュー・ノリらの指示で、マライタ・イーグル・フォース(MEF)がウルファアル首相に退陣を要求し、事実上のクーデターが発生した。その後、ガダルカナル島内でMEFとIFMの戦闘が激化した。同月末に首相指名選挙が実施され、チョイスル州出身のマナセ・ソガヴァレが首相に選出された。
10月・オーストラリアのタウンズビルで、オーストラリア、ニュージーランドおよび近隣諸国の仲介のもと、MEFとIFM間の和平合意が成立した。
2001 この頃から2002年頃まで、紛争期間中に失った私財に対する補償を政府に求める一般国民(主にホニアラおよびその近隣在住者)の声が高まり、公務員に対する給料不払いの長期化と相まって、ホニアラは社会的混乱状態にあった。
2003 7月に、オーストラリア軍を主力とする部隊および警察、行政官が、ソロモン諸島政府からの要請に基づき、法と秩序の回復、IFM最高幹部の1人ハロルド・ケケの逮捕、行政機能の回復などを目的にソロモン諸島に派遣された(RAMSI=Resional Assistanse Mission to Solomon Islands)。

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