単位とはなにか 登録単位数の上限設定は授業の質を高めるか



 1999年9月14日の「大学設置基準」改正を受けて、1年間に履修登録できる単位数の上限設定が急速に全国の大学に広まりつつあります。しかし、この措置は、省令の目的とは全く裏腹に、日本の大学の卒業生の質を下げる相当確実な結果が予想されるので、直ちに撤回すべきであるように思われます。

〈単位とはなにか 文科省が設置基準を改正した目的〉
 1998年10月26日の大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について−競争的環境の中で個性が輝く大学−」第2章1の(1)の2)のi)の(ア)で、「単位制度の主旨」が以下のように確認されています。
「1単位は,i)教員が教室等で授業を行う時間及びii)学生が事前・事後に教室外において準備学習・復習を行う時間,の合計で標準45時間の学修を要する教育内容をもって構成される。これを基礎とし,授業期間は1学年間におよそ年30週,1学年間で約30単位を修得することが標準とされ,したがって大学の卒業要件は4年間にわたって124単位を修得することを基本として制度設計されている」。
一般的な大学では、週1コマの授業を1年間(30回)履修して「講義」で4単位、「演習」で2単位、「実習」「実技」で1.33・・・単位(1年半で2単位)修得できることになっています。したがって、「実習」「実技」については単位に必要なだけの学修時間が授業時間だけで確保できています(もっとも1コマ90分を2時間と計算する点に問題はあります)が、「演習」については授業外学修が不可欠であり、「講義」に至っては、「演習」の4倍の授業外学修をしなければ、単位を修得できないはずです。
 これは確かに授業形態に即した設定です。「実習」「実技」よりも効率的に単位を修得できるが、教師が親切に課題を指定しチェックしながら丁寧に進む少人数の「演習」という形態のほかに、「演習」等で力をつけた高度な学生がもっと効率的に単位を修得するための、そして人気教師の授業を多数の学生が一度に受講できるための「講義」という形態が用意されているものと思われます。「講義」の授業内容は「演習」よりも高度ないしは多大なので、教師が学生一人一人に合った課題を指定しチェックすることは困難であり、また大人数を受け入れるということも同じ困難を伴います。したがって学生は、自己責任で授業内容についてゆき、「演習」などより厳しい試験等に合格することが要求されます。これが、「演習」の4倍の授業外学修が前提とされているゆえんです。
 ところが、「講義」が多い日本の大学においては、年間に標準の30単位以上を履修する学生が当たり前であり、3年までに多くの学生が卒業に必要な単位(4年次履修が指定された科目以外)を修得してしまう現状があります。これは、日本の学生が国際的に見てきわめて優秀で、多くの学生がいわゆる「早期卒業」に値するということを意味している可能性もあります(その場合は、4年次履修指定を解除し、3年、2年で卒業を認めるべきです)が、実際問題としてそうは思えません。一つ一つの単位認定が甘く、単位に必要とされる学修が確認できていないというのが真相でしょう。
 そこで大学審議会は、単位制度の実質化のために、まず学生の学修時間を確保しようとして履修登録単位数を制限することを上の答申で提案したのです。
「学生の履修科目の過剰登録を防ぐことを通じて,教室における授業と学生の教室外学修を合わせた充実した授業展開を可能とし,少数の授業科目を実質的に学修できるようにすることにより,単位制度の実質化を図る必要がある。このため学生が1年間あるいは1学期間に履修科目登録できる単位数の上限を各大学が定めるものとする旨を大学設置基準において明確にする必要がある。…このような取組は,我が国の単位の国際的評価を確立し,今後,我が国の大学が外国の大学との留学生交流や単位互換等をはじめとした国際交流を円滑に進めていく上でも重要である。」(第2章1の(1)の2)のiii))。
文科省は「大学設置基準」改正に際してこの提案を「努力義務」として盛り込みました。
「第27条の2 大学は、学生が各年次にわたつて適切に授業科目を履修するため、卒業の要件として学生が修得すべき単位数について、学生が1年間又は1学期に履修科目として登録することができる単位数の上限を定めるよう努めなければならない」。
一日の時間割がつまっているようでは(特に「講義」が多い場合)、人間に睡眠時間が不可欠である以上、必要な学修時間が(仮に勉強しかしないとしても)確保できるはずがないからです。

〈4年卒業という文科省および社会の要請があるかぎり、むしろ単位制度の形骸化が助長される〉
 日本の大学の単位認定が甘い一番の原因は、学生を4年で卒業させることが使命として教師の意識に根づいていることであるように思われます。文科省による大学の総定員の管理は厳しく、留年生を出して収容人数が増えようものなら、補助金そのほかに影響がでます。また、卒業できなかったら、その学生に対する教育が不十分であった疑いを誘発しますが、卒業させてしまえば、形の上では教育が完成したことにできるという事情もあります。そして日本社会では、卒業生の学問修得上の質よりも、4年でつつがなく卒業資格を出してもらえることが求められており、留年させたり退学させると「不親切である」と大学の評価が下がる現状があります。こういう状況の中で、年間で履修できる単位数を制限すると、以前よりも一個の科目を落とすことによる留年のリスクは高まるので、「単位は出すもの」という教師へのプレッシャーはますます強まるでしょう。文科省は、登録数を制限すると同時に教師に授業の実質化を求めていますが、できるだけ多くの学生を合格させることが前提であるなら、せいぜい出席を重視したり、課題提出を頻繁に課すなど、学生の能力や達成度に関係なく評価できる外面的基準を重視するようになるだけであり、一人一人の学修の中身を厳正に識別し、差をつける方向へは進まないと思われます。落とされる恐れがなければ、学生も、いくら時間割に空きができて時間が確保されても、その時間を本来の学修に当てはせず、かえって受講科目が減った分、学修量を減らすことにもなるでしょう。これこそ、単位制度のいっそうの形骸化です。
 *それどころか教室は、教師と学生たちとの共依存的な、そして、本来の学修とはかけ離れた次元での駈け引きの場と化す恐れすらあります。一部の高専などにこの傾向が見られるような気がしますが、教室に居続け、試験や追試に出向き続けさえすれば(勉強していなくても)、教師が不可を出すことはできないと知ってる学生たちは、一定の外面的服従を装いさえすればよいと考えがちで、教師を本気で怒らせない程度に授業時間を自分たちに都合のいい楽な時間に変えようと努めることがあります。学修意欲の少ない学生たちも教室に縛りつけていると、そうした学生たちが教室全体を支配する傾向があるのです。また教師も、学生たちに単位を出せる最低限の見かけを求めてしまいがちなので、両者の利害が一致し、教室は、本来の学修とはかけ離れた次元での利害に基づく駈け引きの場になりがちなのです。

〈多様な学び方を尊重しよう〉
 登録数を制限してなかった時代には、多くの科目を広く浅く学ぶ学生や、1,2年次にはわずかの単位しか修得していなかったが、3,4年で目覚ましく学修する学生、逆に、早いうちに単位を修得してしまって、以後は授業外の研究を深めたり、学生の身分を必要とする課外活動に打ち込むなど、多様な学び方が許容されていました。また、登録数が制限されると学生は安全志向になりがちで、難関の科目や専門外の科目に挑戦する意欲が奪われがちです。確かにこれまでの単位認定の平均水準が低かったことは事実でしょうが、学修量についても学修の深さについても、いつもどの学生も不十分であったと言い切ることはできません。登録数の制限はこういった多様な学びの可能性を元から絶ってしまうのです。履修科目中の「優」の率を高めるかどうかも最終的には学生自身の価値観の問題であり、「可」でたくさんの単位をとるという学び方を頭から拒絶することは、学生の学ぶ権利を侵害している可能性が高いです。そもそも、現状では多くの大学で、時間割をすべてうめるような「いわゆる過剰登録」をしても、ほとんど「優」をとれてしまう学生は多いと思います。それなのに登録を制限することは、筋が通らない。単位認定が甘い教師にこそ責任があるのに、学生に責任転嫁しているのではないでしょうか。

〈早期卒業等、実質重視の方向と矛盾している〉
 そもそも多様性の尊重の一環として「早期卒業」を導入しようとしているのに、一律の登録数制限を今更行なうのは、論理的に矛盾した措置ではないでしょうか(みんなが「早期卒業」できてしまうので、苦肉の策として登録制限を導入した事情はわかりますが、本末転倒です。なお、答申で「我が国の単位の国際的評価」に言及していますが、確かに登録数そのものを制限することによって、強制的に1年間でとれる単位数が減りますから、「1年で膨大な単位がとれている現状を示す数値データによって海外に恥をさらす」ことを防げるという成果はあるでしょう。しかし、こういう「外面をとりつくろうことによって中身がますます形骸化する」というパターンはもうやめにしませんか)
 「早期卒業」という考え方は、できる学生の「実質」を尊重して、4年在籍という「形式」主義を見直すもののはずです。皆に一律の「形式」を課すことは、個々人の「実質」の違いを多様性をないがしろにすることだからです。それなのに一律に「登録単位数の上限」を設定するということは、その「実質」重視の方向と矛盾しています。大学も組織ですから、いかなる「形式」も不要ということはないですが、この一律の上限設定という「形式」導入に関するかぎり極めて不適切な措置と言わざるをえません。もし、どうしても上限設定をしたいというのであれば、最初はフリーにしておいて学期ごとの成績の結果を見て次の学期の登録数を制限するということなら、まだ分かります。けれどもそうすると、制限の対象となるような学生の留年が直ちに決定したりするでしょう。ここで「それはまずい」と感じる人は、「登録数の制限」を本当に単位制度の「実質化」のためと考えているわけではないということを認めたことになるのではないでしょうか。

〈単位制度の実質化へ向けて――現状でできること〉
 単位制度の「実質化」は、何も登録数を制限しなくとも、単位数に相当する学修が達成できていないと思われる学生には単位を与えないように厳格な成績評価が行われさえすれば、実現できます。そして、厳格な成績評価をしていれば、学生も勉強するし、へたな授業に対しては学生からクレームがでるでしょうから、教師も手を抜けなくなり、「授業の質」も真に向上すると思われます。また、厳格な成績評価が行なわれ、なおかつ、むしろ登録制限の緩和が実施されれば、数年で単位を取りきる者から何年かけても必要単位を揃えられない者までの横並びでない差別化も実現され、「早期卒業」は自然に導入できるでしょう。当然のことながら、過剰登録しても無駄であることが学生にも自覚されるので、上限を設定せずとも、能力以上の履修登録をする学生は少なくなるはずです。確かに能力のない人は、やみくもに科目を履修すべきではないでしょうが、それはアドバイスとして伝えればよいだけであって、ルール化すべきではないように思います。たとえ前学期の結果に応じた登録数制限であったとしても、その学生が見違えるほど勉強して前学期をはるかに上回る結果を出す可能性をつぶしてしまい、学修の権利を侵害することになるからです(特に単位認定が甘い場合には)。みずからの選択の責任は学生自身に返すべきだと思います。
 ただ、上のような差別化を、卒業がのびる(ないしは、できない)方向へ広げることは、これまでの日本社会では受け入れらてきませんでした。成績評価の厳格化のためには、まず4年卒業を前提とする文科省、社会の要求が解除されることが先決問題です。そうして、「早期卒業者」から何年かけても卒業できない者までの横並びでない差別化が促進されないかぎり、登録数の制限は、単位制度の「実質化」どころか、いっそうの形骸化を惹き起こすでしょう。文科省の対応については変わる余地もありますが、社会の変革は日本の文化そのものと連動したものだけに簡単には期待できません。したがって、少なくとも当面は、単位制度の「実質化」をめざせばこそ、登録数を制限すべきではないと思われます。
 単位制度の実質化へ向けて現状でできることは何でしょうか。まずは、「講義」を極力減らし、「実習」「演習」を大学教育の基本に据えることだと思います。「講義」は本来、高度な学生を相手にした難易度の高い授業であったはずですが、日本では完全に逆転してしまっています。しかし、成績評価を厳しくすることが現状では難しく、また、学生の〈自己責任〉で授業外学修をさせるという方式が我が国に根づいていない現状では、「講義」という授業形態を廃止し、比較的目のとどく「演習」あたりを中心に大学のカリキュラムを組み直すことが、現実的な方策であるように思われるのです。「演習」等では修得できる単位が少ないので、数多く履修せねばならず、時間割が埋まるので、学修意欲に乏しい学生を大学へつなぎとめることもできます (ただし、出席を形式的に重視したり、課題を提出したかどうかの形にこだわったり、発表回数を量的に評価するなどの「形式主義」が強まらないように気をつけるべきです。出席してなくても、もし試験に合格できるのであれば問題はないはずだからです。教室に居なくてもできるのに無理にしばりつけるのは、「早期卒業」等の理念に反します。もちろん、通常の学生が三分の二以上出席していなければ合格できないような難易度の試験ないし課題をだし、出席してまじめに取り組んだ学生が合格できるような授業をする必要はありますが、間違っても、出席「点」をだすことはやめましょう。「出席点」は、つまらない授業でも教室に学生をとどめておけるという教師の側のおもわくと、成績のための保険にしたいという学生のおもわくとが絡み合った共依存関係を惹き起こすからです。教師と学生の両方を授業そのもので真剣勝負をしない方向へ動機づけてしまうからです)。 そうして、実際に卒業生の質を高めて社会に送り出し、教育の成果を社会に認めさせる積み重ねの中で、学生に真の意味での〈自己決定〉を認め、不十分な学生に厳しい対応をすることも少しずつ増やしてゆき、徐々に4年卒業という前提の解体へ向けて社会の同意を得てゆくのがよいのではないかと思います。

文献
・大学審議会「21世紀の大学像と今後の改革方策について――競争的環境の中で個性が輝く大学(答申)」(1998年10月26日)
・「大学設置基準」(1999年9月14日改正)