〈対話〉について



 〈対話〉「討論」「ディベート」とは違いますが、「会話」とも違います。この辺の区別については、中島義道『〈対話〉のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの』(PHP新書)が詳しいので、ぜひ一読ください。北川達夫・平田オリザ『ニッポンには対話がない 学びとコミュニケーションの再生』(三省堂) も参考になります。

以上を精読して、「討論」でも「会話」でもない〈対話〉というものがどういうものか、一通り踏まえた人には、以下の補足を提供します。


〈対話〉再考

2008年1月31日(木)18:10から中央図書館セミナー室341で〈対話〉をテーマに勉強会を3時間ほど(学生さん達はその後も?)開催しました。いろいろ指摘してもらって、〈対話〉について思いを新たにしました。当日参加してくださった、思いのほか多くの方々に感謝します。〈対話〉がテーマのためか、なかなか〈対話〉がうまくいっていたと思います。自分でも薄々感じていたにもかかわらず意識化できなかった(うまく概念化・言語化できなかった)ことを皆さんのソクラテス的問答によって想起させてもらいました。やはり自分の思いを整理するためにも〈対話〉は実に有効ですね。これだから〈対話〉はやめられない! 以下、修正点をまとめてみます。

私は〈対話〉を説明するときに、「対立を恐れるな」と「対決」を強調してきたのですが、〈対話〉の目的はあくまでも「合意」(これは、必ずしも「同じになること」ではなくて、「互いの違いを理解し合うこと」も含みます)であって「けんかをすること」ではないので、言い方を工夫しなければいけないなと反省しました。「対決」を強調したのは、「空気を読む」あまり「自分を偽る」ことのないように、そういう危険性も内包した〈会話〉(これは「和合」を何よりとしています)というコミュニケーションの仕方から〈対話〉を区別するためだったのですが、うまく言わないと、「相手をやっつけること、勝つこと」を主眼とする〈討論〉との違いがはっきりしません。そこで次のように規定してみることにしました。
すなわち、〈対話〉とは、「自分を偽らずに合意できる真実を求め続けるコミュニケーション」であると。

〈対話〉においては「合意する」ことは絶対目的です。相手を一方的に打ち負かしたり、相手を心の中で勝手に断罪し切り捨てて去ったりすることは御法度です。でも、もう一つ、「自分を偽らないこと」(カントの意味で誠実ehrlichであること)も絶対条件です。つまり、「話し合い」においてよく求められる「妥協」は御法度なのです(主張する際の「言い方」は配慮できるならしたほうがいいですが、それを気にするあまり自分の意思をうまく伝えられなくなるぐらいなら気にしなくていいです)。ですから、一人一人が違う人間である以上、現実問題としては、「全面的な合意」が実現することはめったにないでしょう。まずは「主張において自分を偽らないこと」を第一に据え、かぎりなく「合意」を「目指して」「真実」を「求め続けている状態」が〈対話〉なのです。
「妥協」せずに「合意」を目指す以上、各人は「自分が提起した」「主張内容」に固執してはいけません。そうでないと、一人一人が違う人間である以上、とくに深い問題(たとえば「哲学的問題」)については、「合意」に近づくことがありえません。「誰が提示した主張内容」であれ、「自分が心底納得できる主張内容」=「真実」はないか、と虚心に模索するのです。だから、「自分の主張内容」を「自分で」変える覚悟が必要です。でも、納得できなければ「誰が何と言おうと」変える必要はありません。「真実」に達する=「合意」することができたなら、それは「誰の主張内容」でもなく、「〈対話〉参加者全員の主張内容」となります(sonohokaの頁に置いた「私の」雑文の「内容」はそういう意味で「私の」ものではありません。いいことが書いてあっても「私の成果」ではありません。でも、その言葉に対する「責任」(この意味は後述します)は「私」にあります)。つまり、〈対話〉に勝ち負けはありません各人が本当に「自分を偽っていない」(つまり、遠慮せず異議があったら表明している)のであれば、そうなるはずです)。「ここまでは合意できる! だが、ここからはわからない?」という果てしない限定が続きながら、互いに自分の殻を脱ぎ捨て共有できる次のステージへ昇り続けてみる営みが〈対話〉だと言えるでしょう。

〈対話〉に参加できる「資格」と〈対話〉における「責任」について、まとめておきます。
〈対話〉において大事なことは「自分を偽らないこと」と「合意を求めてコミュニケーションを続けること」との両立ですので、「主張内容」に知識やレトリックのハードルを設けることはできません。原則的にはいかなる了解事項も前提してはならないのです。りっぱなことを主張しなければならないのであれば、知識やレトリックに勝る人の主張に対しては、「自分を偽って合意するという形でコミュニケーションを継続する」か、自分を偽らないのであれば、「沈黙してコミュニケーションを中断する」しかなくなるでしょう。特定の「内容」が前提されている場合には、その前提そのものに違和感を感じる人はコミュニケーションを継続できないでしょう。合意できない場合にもコミュニケーションを継続できるように、さしあたり「内容」に高度さを要求しない、否、原則的にはいかなる「内容的」前提も置かないことが重要でしょう(〈対話〉参加に条件を設けることには何か「党派的な意図」が隠れているような気がしてしまうのです。「仲間で固まりたい」「敵か味方か」的な思考に容易に転化してしまいます)。そのかわりに、「合意」なしに一方的にコミュニケーションを絶つことも許されません。相手が求めるなら、「あ」でも「う」でも何でもいいから応答することが、「自分を表現しておくこと」が求められます(とくに違和感がある場合は、それを表明する義務がある)。応答が求められてる場面で沈黙しておいて都合のいいときだけ発言するのは〈対話〉ではありません。〈対話〉における「責任」とは、responsibilityの文字通り、「応答し続けること」(自分の言葉に対する問いかけに答え続けるという意味では(それは、自分の言葉を説明する努力を継続するということなので)「説明責任」accountabilityも含んでいますを本質とするものです。「内容」のりっぱさはさしあたりは要求されないかわりに、「自分を偽らずに応答し続けること」だけは、〈対話〉に参加する「資格」なのです。
厳しく聞こえるかもしれませんが、「りっぱなことを言わなければ」と力む必要はまったくないわけですから、へんなプライドは捨て、まずは気軽に〈対話〉に合流し、「誰のものでもないがみんなのものでもある真実」探究に一肌脱いでみませんか? 以上の原則に注意さえできていれば、必ずメンバーに貢献することができます(自分のためにもなります。〈対話〉は、ありのままの自分を保持しながらできる共同作業なのです)。私の経験では、議論が得意な人の意見より、あまり理屈が得意でない人の「あっ! 今、なんか話がすりかわった気がする!?」みたいな一言が、〈対話〉を深めることが多いなあと実感しています。

〈対話〉における「誠実さ」(Ehrlichkeit)とは、まずは「自分を偽らないこと」と「応答すること」の両立だと思います。その上で「合意できる真実」をできるだけ論理的に精緻に求める努力を継続することだと思います。
こういうコミュニケーションによって、「誰のものでもない真実」に近づけると同時に「個人」が真に尊重され「かけがえのないお互い」の差異(「個性」)も深いレベルで「理解し合える」と思います。理想のコミュニケーションは、「開放性」「多様性」が真に尊重されたものであるべきだと思います。「仲間づくり」に重点を置いたコミュニケーションであっても往々にして「自己防御」のバリエーションにすぎない場合があります。それは「閉じたサークルづくり」「単一価値への固執」に転化しがちです(〈会話〉か〈討論〉かの二者択一になる場合はそう)。もちろん、人間の「理性」に対する最低限の信頼(〈対話〉可能性を信じる!)は不可欠ですが、自己を大事にしながらも特定の「内容」を絶対視することのなく自己を「開放し続ける」ことが、「他」者を「多様性」を大事にすることにつながるのだと思います(「インターネット」などの現代の各種情報ツールの命も「開放性」と「多様性」ですから、これを健全に運用するためにも、現代人にとって〈対話〉の訓練は最も必要とされていることではないかと日頃から感じています(sonohokaの頁においた「言葉の文字通りの意味を尊重する社会へ」を参照))。

※ ただし、「他」人の異質な部分と「心を開いて」向き合い続ける〈対話〉は、かなりの緊張を強いることもあるので、いつもやり続けるのは難しいです。同化(〈会話〉)や排除(〈討論〉)に重心を移したコミュニケーションのほうが楽だったりしますし、あるいは、そのそもコミュニケーションを断って閉じ籠もってしまうしまうことも、人間には必要なときがあると思います。かくゆう私も、自分を守るため、こうした防御的姿勢をとることはしばしばです。でも、少なくとも「教室」では、できるかぎり試みてみましょう。せっかく多様な人間が場を共にしているのですから。意見が言えないときは、「なんで言えないのか」を語ってみるだけでも〈対話〉に参加することになります。
人間に「理性」が与えられているのは、単に「同質な者との輪を広げ」たり、効率よく「他人をけちらし」たりするためにではなく、「他」人と向き合って、「自己を深く見つめ」たり、「新たな世界に踏み出し」たりするためではないかと思うのです。黙って「みずからを見つめ」「他人を検討して」「分かったつもり」でいても、実際、本当に「心を開いてみずからを晒してみる」と、信じられないぐらい「自分のこと」も「他人のこと」も「てんで分かってなかった」と痛感します。一度、この感覚を深いレベルで味わうと、私は今までの薄っぺらで閉じた自己中心的な世界では満足できなくなりました(私は20代なかばぐらいまでは本当に自閉的で自意識過剰で防御的な人間でした(今もそうかもしれません……)。
各人の事情に合わせて、前を向いてほんの少しずつ歩めばいいと思います。だめだと思って閉じたり後ろを向いたりさえしなければチャンスは順次やってきます)。
〈対話〉を妨げる最大の要因はいわゆる「プライド」かもしれません。
このプライドの持ち方を変えることができれば、ずいぶん楽になると思います。
プライドは「力んで守る」ものであるというよりも、
むしろ「他者とのオープンな関係の中で自然に形づくられる」ものではないでしょうか
(よく分からない人は、扉の頁に挙げた文章「個性のつくりかた 社会のつくりかた」を再読してみてほしい)。

(以上は、sonohokaの頁においた私の雑文「公認されない「弱者」」および「私語と死語」に対する補足です)



〈対話〉について補足を二つ(2009.6.6 「西洋思想」授業参加者の皆さんの〈対話〉に触発されてまとめました。感謝いたします)

1.「こちらが〈対話〉しようと思っても、〈対話〉できない人、〈対話〉しようとしない(あるいは、一見〈対話〉しようとしてるように見えるが疑 わしい)人がいる。「だ」「か」「ら」、〈対話〉できない」という見解について。

まず、〈対話〉できない人がいるということを〈対話〉しない根拠にする見解については、そう思う人は、その人自身がはじめから〈対話〉しようと していないと言える。上でも書いたことだが、〈対話〉に資格や条件を設けて、それに合わない人を排除するなら、〈対話〉の核心である「オープン 」「対等」であることが損なわれ、閉鎖的なコミュニケーションになってしまい、「討論」や「会話」と変わるところがなくなってしまう。「思った ことがあるのに何も言わないよりは、アでもウでも表明したほうがいい」と考え、つたない表現にも耳をすませて何かを読みとろうとするところから 出発して、理想的な〈対話〉をめざして粘り強く働きかけ続けるしかない。また、相手を〈対話〉できない人間だと断定することは、相手を一人の「 人格」として認めないということと同じだと思われる。物でも動物でもなく「人格という意味での人間」として認めるということは、〈対話〉できる 可能性をもつ存在と見なすということではないか。そういう意味では、人は生まれながらにして「人格」であるのではないと思われる。人を〈対話〉 相手(少なくともその可能性をもつもの)と見なすとき見なされるとき、「人間」は「人格」になる。よく「ありのままの君でいいんだよ」という言 説が聞かれるが、こういう言葉を「投げかけ」ざるをえない場面があることは重々承知しながらも、こういうことを「要求する」メンタリティが広ま っていることに強い危惧を抱く。こういう認め方は親とか特別な相手にしかしてもらえる可能性がないことだし、ましてや受ける側が「要求」して得 られるようなものではないからである。私たちに「要求」できるのは(それは同時にみずからも実践するということを意味するが)〈対話〉をすることだけである。
(ちなみに、過去の書物とでも〈対話〉を試みることは一応可能です。古典と呼ばれるような特別な書物は、目の前にいる人だけではなく時と場所を越 えて訴えかける「言葉」をもっているからです。ただし、一方的に都合のいいように読み込んでしまわないように、少なくとも複数の人間と一緒に「読 み合わせ」をすることは不可欠であると私は思います。そういう意味では、「一人で古典を読む」よりも、自分より知識等において劣った目の前の人の 「ア」とか「ウ」という反応をもらうほうが(もちろん、有益な反応がもらえるように自分がどれだけ「言葉」を工夫したかにもよりますが)、自分を 変えるためには有効な場面が多いと実感しています。中島さんが『〈対話〉のない社会』の26頁で「ウソでもいいから、すべて正確な言葉にしなさい」 と言っていることについては、「死語よりはましかもしれないけど、やっぱりウソはいかんだろう。自分の実感に忠実であれという原理に反するのでは」 と長らく思ってきましたが、〈対話〉を求める側の発言としては、これもありかもしれないと考え直しつつあるこの頃です)。

また、〈対話〉しようとしない(あるいは、しようとしているかどうか疑わしい)人がいることを〈対話〉をしない根拠にする見解についても、やはり、 そう思う人自身が実は〈対話〉しようとしていないことになると思う。なぜなら、「物事には安心して前提できる客観的な(共通な)基準内容や枠組み などなく、主観一人一人が基準内容の対等な起案者たるべきである」これが「対等」ということ)というのが〈対話〉だから(「主観を決して捨て去ることなかれ」というか、「客 観的な〈立場〉に立てるなどとうぬぼれることなかれ」ということ(主観的〈立場〉に立ちながらも客観的〈視点〉を得ようと努力することは、もちろ ん重要ですが、それは具体的には「相手に受けとめてもらえる言葉にする」ということです))、相手が〈対話〉しようとしているかどうかを「客観的に判断できる」ということをそもそも望むべきではないからである。「会話」 や「討論」と違って、〈対話〉するかどうかは、あくまで自分がどうするかという問題である(もちろん、相手にもしてもらえるように働きかけるわけ ですが、「しているという保証がないとできない」というのは〈対話〉の核心にそぐわないということです。他方、疲れてたり、自分の身の安全を考え ざるをえないときに〈対話〉を保留することや、相手との関係を大切にしたいが故にこそ今は〈対話〉を急がないということなどは十分に許容できます。 常に〈対話〉しなければならないわけではありません。人は「人格」である前に「人間」ですから、「会話」も必要ですし、或る程度枠を決めて「討論」 することではっきりすることもあります。ただ、「今は〈対話〉をしない」という判断をしているのは、あくまでも自分であって、貴重なチャンスをつぶ しているかもしれないこと、「相手のために」と思っているのも自分であって、決して相手のせいにはできないということを確認したのです)。
〈対話〉すべきかどうかの見極めは大事ですが、難しいですね。私は、大学では比較的〈対話〉に努めているほうだとうぬぼれていますが、反面、相手を安心させたり、 楽しくさせたりすることが不得手でユーモアも不足しがちです。〈対話〉〈対話〉と言うことが却って〈対話〉を妨げているかもしれません。これら全体が私の「個性」だと 開き直れないこともないと思いますが、安住せず、精進したいと思います(^^;)

2. 「現実(現状)は〜である」「〜が事実である」。「だ」「か」「ら」、〈対話〉は単なる「理想」(「理論」)であり、「時期尚早」であり、はっ きり言えば「まちがい」であるという見解について。

まず、「理想」という言葉をこの文脈で使うことは卑怯であると言いたい。今現在それに向かって行動を起こす気がないのであれば、その人はそれを最初 から「(実現されるべき)理想」とは認めてないことになるからである。「理論(理屈)としては正しいが、実践的にはまちがっている」という「理屈!」 も同様で、人は必ず何かに役立てる(広義)ために「理論」を見いだすのだから、「理論」と「実践」を切って考えるのは欺瞞である。「実践」できない 「理論」に対しては、はっきり「まちがっている」と言うべきである。「現状が違っていたら正しいと思うけど」という理屈も、私たちは現状をリセットしてポンと別の現状に 移ることなどできず、現状から出発してそれを変えてゆくしかない以上、それこそが「(言ってもしようがない)空論」である。問題は、「〈対話〉は実 現す<べき>ことなのかどうか」である。「理想」(「理論」「理屈」)や「現状」という言葉を使う人は、それによって相手を認めたふりをして批判を かわしているだけではないのかと反省してみる必要がある。違和感があるのなら、はっきり「まちがい」であると説明したほうがいい。

その上で、「〜の現状がある」「〜が事実である」「だから」「それに合わないその考えはまちがいである」と言えるかどうかが問題である。これは「現 状を現状であるという理由で肯定する」立場、「変化は悪である」とする立場、あるいは、「多数派は多数であるという理由で正しい」とする立場ではな いか。そうだとすると、〈対話〉というものは、まさしくこういった立場そのものを批判しているのだから、「現状は〜であるから」等々の理屈は、説明 すべきことを既に前提しまった論点先取であって、〈対話〉を否定する理由として有効ではない(もちろん、いったん或ることを「実現すべきことだ」と 認めた後でなら、「現実」や「現状」を「踏まえる」ことは重要です。ただし、「だから今は何もしない」となるはずはないのであって、「今できること は何か」を慎重に考え、一歩一歩進まなければならないということを意味するだけです)。

なお、「現実」とか「現状」とか「事実」という言葉を使う場合は慎重に行なう必要がある。本当に緻密に検証して言っているのか。「単に自分にとって の現実ないし事実である」ということであれば簡単に言える(ああいう訴えの中にそういう主観的真実が込められていることは確か)が、端的に「現実」と か「事実」と言うとき「客観的にそうだ」と主張することになるので、そんなに簡単に分かることでも断定できることでもないはずだ。単に「自分の個人的な 感情」を「現実」等の名のもとに根拠なしに正当化する議論ではないかと反省する必要がある。「〜は事実である」という言い方は、往々にして、自分の 感情に「客観化(共有化)できる・相手に受けとめてもらえる言葉・理由」が見つからないときに「言葉」以外の武器を紛れ込ませて相手を圧倒しようとする論法になりがちだからである。



<対話>と向き合った一学生による 「対話と承認」をめぐる〈対話〉の記録(2012/9/10更新)