私が出席点をださない理由
私が学生時代には大学の授業で出席をとる教師は稀でしたが、最近は出席をとり、点数化することが教師に義務づけられる傾向にあります。出席重視という考え方は、日本文化の深いところに根ざしたものであり、それが強化されてきたにすぎないということは承知していますが、この傾向は、とくに現代においては教育の質を損なう元凶のように思われますので、私は出席点を廃止することを提案したいと思っています。その理由を以下で述べます。
〈出席主義における教師と学生の共依存関係〉
教師が出席を重視する理由としては、「出てなければ分からなくなるだろうから」という老婆心もあるだろうが、他方で、「つまらない授業内容でも、とにかく学生が座っていてさえくれれば授業が成立していることになるので、授業内容を充実させる努力をしなくてすむから」というずるい計算がひそんでいるように思われる。
他方、学生の方にも、試験やレポートで勝負するのが怖いので、出席点を出してもらって保険にしようという打算がありそうだ。
つまり、教師と学生の両方が、授業で真剣勝負をすることを避けることができるという意味で、「出席を取り、それに点数を与える」というやり方はおいしいのである。
しかし、「学ぶ」ということは本来どういうことなのだろうか。教室がうまってさえいればよいのだろうか。次に見る芹沢俊介氏の大胆な試みは、この問題に鋭く切り込んでいると思われる。
〈履修登録者は全員「優」!〉
芹沢氏は、ある大学で非常勤講師をしたときに初回の授業で次のように言った。
「出席・欠席にかかわりなく、またレポート提出の有無にかかわりなく、受講届けを出している人には全員、評点は最高点を差し上げる」。
当然、「それはずるい」という学生さんが出てきた。教室にこない人、レポートも出さない人、そういう人たちが出席もし、レポートも提出している人と同じ点数を得るのはずるいというのである。ここで芹沢氏は次のように聞き返した。
「あなたはこの教室にすわっていて得るものがありましたか」。
学生さんは「あった」と答えた。
「だったらそれでいいじゃないですか。こなかった人は得るものがあったかどうかも分からない。あなたは得るものがあったと言ってくれた。人のことは関係ないと思うんだけど」。
学生さんはちょっと顔を赤くして「分かりました。それが教育ですね」と答えて、不満に思う気持ちを収めてくれたそうである。
このエピソードは、現代の学生が授業というものに対して抱きがちな意識をよく表わしている。授業の内容そのものから自分自身が何を得ることができるかということよりも、他人と比較し、自分がどう評価されるかということの方に関心が向きがちなのである。芹沢氏の型破りな成績評価に対する姿勢は、このことを鮮明に浮かび上がらせた。しかし、「学び」において他人との比較は一番大事なことではないだろう。小山俊一氏の言うように、「教育とは、本来、〈自分で自分を教育する〉自己教育においてしか成り立たない」のかもしれない。
〈単位認定とはなにか〉
しかし、芹沢氏のやり方には問題もある。大学は、学生が学ぶ場であると同時に、学生の単位認定の場でもある。カルチャーセンターのような場であれば、芹沢氏のやり方に問題はないだろう。しかし、単位および成績は、客観的な指標として社会で比較に用いられるのである。したがって、この場合は、個人の問題ではないので、他人との比較は当然考慮すべきである。学生さんの達成度を客観的に識別することなしに一律に「優」を出すのは公正ではなく、社会に対する責任を果たしていない。。
ただ、出席やレポート提出にこだわるのは、単位認定という側面から考えても、少しおかしいと思われる。授業の場にいたかどうかとか、レポートを出したという行為そのものは、本人の達成度とは必ずしも関係ないからである。学生の発言やレポート・答案の「内容そのもの」を厳格・公平に評価すべきであろう。
〈自己教育を充実させるために〉
芹沢氏が強調する「自己教育」という考え方は、「教えてやっている」という教師の思い上がりを正す鋭い指摘だと思う。教師は、ついつい偉そうにしてしまう自分を戒めるべきだろう。しかし、この考え方は、教師の怠慢を助長する恐れもあると思う。「お前ら自分でやれよ!」とほったらかしにしてしまったとすれば、教師としての給料は何なのかということになる。教師として大事なことは、学生の自己教育の支援に心をくだくことであろう。ここにこそ、学生さんに対する教師の責任がある。
また教育機関の社会的役割には、学生本人の学びの動機づけを促進するということも含まれるかもしれない。学生自身も教師に動機づけの手助けを望むことがある。これは甘えかもしれないが、社会の要請に応えることにもなるので、学びを促進する工夫が教師には必要かもしれない。しかし、この場合にも、本人の自己教育を阻害しないように注意深く行なう必要があるだろう。
〈昨今の授業風景と出席点を廃止することによって期待される効用〉
昨今の教室では次のような風景はめずらしくない。
1. 私語や居眠りや内職が多い。
2. 遅刻やエスケイプが多い。
3. 質問しない。問いかけられても答えない。授業に対して受け身である。
4. 教師も授業内容の改善に消極的で、古色蒼然たる授業を続けている。
これらの現状は、出席点を盾にとって学生を無理に教室に縛りつけようとしていることによるところが大きいように思われる。「やる気がないのなら、来なくてもかまわないんだよ」と穏やかにケジメを述べた方が、かえって学生本人が自分を見つめ直すチャンスになるように思われる。そのためには純然たる出席点というものは廃止するということである。「出席をとられるから授業に出る」とか「あの先生は出席をとらないから出ない」とかいう次元で行動するのは貧しい風景である。どういう動機からにせよ、授業そのものから何かをつかもうとしている人だけが、授業に臨めば教室の雰囲気は変わるだろう。
もちろん、「来なくてもかまわない」という言葉は、本当は来るのが当たり前だと思いこんでる教師が脅しで発したのであれば、問題発言である。しかし、学校や教室に来ることばかりがよいことではないという広い視野をもった上で言うのであれば、教室で学ぶ上での前提を述べただけなのだから、学生を傷つける恐れはないはずである。教室で学ぶことが本当にイヤなら、他の道を考えた方が本人のためだからである。
また、出席を人質にとらないこのやり方なら、学生が学ぶに値すると思えないような授業をしている教師の教室からは、どんどん学生が消えてゆくであろう。教師が授業に熱を入れざるをえない状況づくりという点からも、出席点を廃止することは有効なのである。
〈補足:担任制の問題点〉
上のような改革と同時に、「管理」的な「担任」制を廃止する必要を感じる。日本の「担任」制は、単に「学生が相談をもちかけたときに応対する」だけのものではなく、学生本人が望もうが望むまいが、「学生の学業上および生活上の行動に責任(つまり管理責任)をもつ」ものとされる傾向がある。こういう現状では、教師は、学生がへんなことをすれば自分の責任になるので、どうしても管理的になり、いつも目が届くように出席重視のような発想を抱きがちである。学生のほうも、まずい状況になると「担任」が何とかしてくれるだろうと甘えがちになる。学生の自主性を尊重し、また、学生自身に自覚をもってもらうためにも、教師が不適切におせっかいになりがちなこの「担任」制をまず廃止しておく(あるいは、「学生の方から相談をもちかけたときにだけ応対する」ように用務を制限しておく)ことが大事であるように思われる。
念のため確認しますが、出席点をださないことでもって、授業に出席しないことを推奨しているわけではありません。「単位とはなにか」で確認したように、通常の学生が三分の一以上休めば、到底合格できないような試験等を実施すべきであり、また、逆に、授業にまじめに取り組んだ学生さんはできるだけ合格できるような授業内容にすべきと思われます。授業に出るのが、単位修得の一番の近道であると思える授業内容にすべきであるということです。ただ、何らかの事情で授業にでても集中できないようなときには、ただ居るだけのために出てくる必要はないということが言いたいだけです。むろん、休んだ分を取り戻すためには、授業に出たとき以上の努力を必要とすることになるでしょう。
〈文献〉
芹沢俊介「桜の下の大学論 上 一年生になった人へ」『朝日新聞』1998年4月6日朝刊