真理表の哲学
——意味と真理と論理に関するラッセル的、ウィトゲンシュタイン的、ラムジー的考察—— (二)


橋本康二


六 所与説

 我々は第三節で、真ないし偽になり得る原子的事態からなる世界と、原子的事態を名指す原子文からなる言語という、きわめて単純な世界観と言語観を提示した。そして、そこに論理結合子が参入してくる余地がないことを当然のことと見なして、第四節では論理的対象を導入することで世界を拡張し、第五節では規約によって論理結合子を導入することで言語を拡張し、その上で論理結合子をめぐる真理表の問題を考察したのであった。ところが、原子的事態と原子文という単純な枠組みの中で既に論理結合子は与えられていて、真理表の問題を考える準備はすべて調っているのである、という考えも存在する。そうした考えは、例えば、ゴードン・ベイカーの次のような主張に明瞭に示されている。

ほとんど同様の考えをP・M・S・ハッカーも述べている。
もしも否定と連言が原子的事態と原子文の枠内で既に与えられているなら、選言や条件や同値など他の論理結合子は否定と連言から導き出すことができるので、すべての論理結合子が既に与えられていることになる。また、論理結合子のある種の組み合わせから生じる論理的真理も、この単純な世界と言語において既に与えられているということになる。
 ベイカーとハッカーは共にウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の解釈としてこうした考えを述べている(したがって、必ずしも彼らがこうした考えを信じているわけではない)。確かにウィトゲンシュタインは「複合性があるところには引数と関数があり、そうしたものがあるところにはすべての論理定項が準備されている」(32)と断言しており、そこから「複合性は任意の命題の特質であるから、原子命題とともにすべての論理定項が既に与えられていることが帰結する!」(33)と言えるであろう。しかし、論理結合子(=論理定項)がどのようにして与えられているのかの説明を『論理哲学論考』から読み解くことはきわめて困難である。実際、ベイカーとハッカーも、先に引用した箇所では、論理結合子が与えられるメカニズムを、テキスト上の証拠を挙げることなく、一方的に述べているだけである。本節では、論理結合子は原子文と共に既に与えられているというウィトゲンシュタインの主張とベイカーとハッカーが解釈した論理結合子が与えられる具体的メカニズムを一緒にして「所与説」(34)と呼ぶことにし、『論理哲学論考』解釈という問題を度外視して(35)、ひとつの哲学的理論としての所与説それ自体の妥当性を検討したい。
 所与説は次の二つのテーゼからなる。
以下、この二つのテーゼを順に検討していきたい。ただし、両テーゼを一般的に検討するのではなく、第三節で与えられた原子文の意味と真理に関する説明を基礎にし、そこにおいて両テーゼが成立するのか否か、すなわち、そこにおいて論理結合子は既に与えられていると言えるか否かを検討したい。

(一)否定のテーゼについて

 ここでは否定を虚偽と見なすことが可能かどうかを検討する。否定に関する詳細な研究を行ったローレンス・R・ホーンによると、否定と虚偽の同一視というアイディアはアリストテレスから現代に到るまで幾人もの人によって提出され議論されてきたということである(36)。しかしここでは、第三節で提示した世界と言語の枠組みに即した形で否定のテーゼを再構成し、それをもとにして議論を行っていきたい。
 第三節では、まず、世界の中の存在者として個物と性質・関係を認め、個物を名指す名詞と性質・関係を名指す述語を言語の中に認めた。次に、個物と性質・関係は世界の中で原子的事態というある種の複合体を形成していると考え、言語の中では名詞と述語から構成された原子文を考え、原子的事態は原子文によって名指されていると考えた。そして最後に、世界の中で原子的事態が持ちうる真・偽という性質を導入し、これに基づいて原子文の真偽を定義した。以上が第三節で行ったことである。その最後の段階で言語の側で生じたことは、原子文が真・偽性質を持つようになるという、言語にとっては外的な出来事であって、言語内部でどういう変化が起きているのかは検討されなかった。しかし、この言語には既に新しい可能性が与えられていることが見て取れるであろう。なぜなら、原子的事態が真・偽性質と結合することによって、これまでになかった新しい事態——複合的事態の一種——が成立しており、この複合的事態を名指す名前としての文という新しいタイプの文が考えられるからである。新しく導入された複合的事態の基本構造は何かが性質を所有しているというものであり、この点では性質を含む原子的事態と変わりはない。ただ、性質を所有している何かが個物から原子的事態に変わっただけである。そこで、原子的事態に対する名前に真・偽述語を付け足せば、問題になっている複合的事態の名前となる文が得られるように思われる。具体例として、ソクラテスという個物と人間性という性質から構成された原子的事態を考えてみよう。この原子的事態の名前は文「ソクラテスは人間である」であった。さて、この原子的事態は真という性質を有するのであった。そうすると、新しい複合的事態の名前は次のようになるだろう。
しかし、この(1)は我々の日常言語では非文法的であり、文としては認められない。我々が構成しようとしている言語は我々が実際に使用している日常言語のモデルとなることが意図されているのだから、こうした事態は好ましくない。だが幸いなことに、日常言語の中に解決策を求めることができる。なぜなら、日常言語には名詞節(日本語では「・・・ということ」という言い回し)が存在し、これが原子的事態の名前としてふさわしいように思われるからである。そうすると、問題になっている複合的事態の名前となる文は次のようになる。
次に、ソクラテスという個物と馬性という性質から構成された原子的事態を考えてみよう。これは偽という性質と結合して複合的事態を形成している。この事態の名前となる文は次のようになる。
ここで注意したいのは、原子的事態の名前として名詞節を採用したため、次のような普通の(真理述語を含まない)肯定文が我々の言語から消えてしまったことである。
このままでは日常言語のモデルとしてはやはり具合が悪い。では、こうした普通の肯定文は我々の言語にどのように導入され得るのであろうか。ひとつの方法として、(2)の単なる省略形として導入されたのだと考えることができるであろう。つまり、肯定文(4)は真理を述語付けた(2)と完全に同じ意味をもつものとして導入されたにすぎないのである(37)。次のような否定文も同様に考えることができる。
この否定文(5)は虚偽を述語付けた(3)の単なる言い換えとして導入されたに過ぎないと考えることができる。(5)は(3)とまったく同意味である。かくして、第三節の枠組み内で否定文が成立するメカニズムが解明された(38)
 しかし、以上のような考えには明らかな欠点が二つある。第一の欠点は、多くの文が無意味なものとなってしまうという問題である。次の文を考えてみよう。
これは、ソクラテスと馬性からなる原子的事態が性質真と結合してできた複合的事態を名指すことを意図している文である。しかし、問題の原子的事態は性質偽と結合しており、名指すことが意図されていた複合的事態は存在しない。我々の言語では、表現の有意味性はそれが名指すものが存在することによって確保されているから、肯定文(6)は無意味な表現ということになる。否定文に関しても同じことが観察される。次の文を取りあげてみよう。
これが名指すことを意図している複合的事態は、ソクラテスと人間性からなる原子的事態が性質偽と結合してできたものである。しかし、この原子的事態は実際は性質真と結合しているのだから、意図した複合的事態を名指すことに失敗している。よって、否定文(7)も無意味である。(6)や(7)のような無意味な文が大量に存在することは、容易に見て取れるであろう。そしてこのことは深刻な事態をもたらす。なぜなら、我々の本来の目的は真理表——ここでの文脈では否定の真理表——の成立の謎を解き明かすことにあり、たとえば、文(6)が真のとき、それを否定した文(5)が偽になるのはなぜなのかを解明したいのであったが、対になる一方の文——この例では文(6)——が無意味な表現となっていて、否定の真理表の解明を始めることさえできなくなっているからである。
 第一の欠点が生じた理由は明らかである。それは、原子的事態が真か偽のどちらか一方の性質としか結合できないという制約に存する。したがって、この制約を取り払って、世界の在り方をもっと自由に捉えれば、この欠点は乗り越えることができる。すなわち、どのような原子的事態であれ、一方で性質真と結合して複合的事態を形成していると同時に、他方で性質偽とも結合して別の複合的事態を形成している、と考えるのである。そうすると、文(6)や(7)やその他の無意味とされた大量の文が、本来名指すべきであった複合的事態を獲得することになり、その結果、有意味な表現と見なされることになる。かくして、第一の欠点は克服される。
 この克服法には、同一の原子的事態が同時に真と偽の両方の性質と結合するとはどういうことなのかという根本的な疑問も生じるが(この疑問はすぐ後で取りあげる)、それ以前に、第二の欠点を免れないという問題が待ちかまえている。第二の欠点とは、文の真偽が定義できないという問題である。否定を導入する前の我々の言語では、文が名指す原子的事態が真(偽)という性質を有しているなら当の文は真(偽)である、と定義されていた。しかし、この方法はここでは使えなくなっている。なぜなら、文が名指す複合的事態は、もはや真・偽という性質を持っていないからである。もちろん、複合的事態の内部には性質真か偽のどちらかが必ず構成要素として含まれている。しかし、これを用いて文の真偽を定義することはできない。なぜなら、もしそうすれば、すべての肯定文が内容に関わりなく真になり、他方、すべての否定文が何であれ偽ということになってしまい、こうした帰結はとうてい受け入れられないからである。文の真偽も定義できない以上、真理表の問題を解明することもできない。
 第二の欠点を免れるにはどうすればよいだろうか。そのためのもっとも確実な方法は、新しい性質XとYを導入して、性質真・偽を構成要素として含む複合的事態はこのどちらか一方の性質を所有し、そしてその性質のみを所有するのだ、と考える方法であろう。そうすれば、ある文が名指している複合的事態が性質Xを有しているならば、その文は真であり、性質Yを有しているならば偽である、という仕方で文の真偽を定義できるようになる。その上で、性質XとYの所有のされ方に次のような制約を課すことができればなお好都合である。すなわち、同一の原子的事態が性質真と結び付いてひとつの複合的事態を作り、性質偽と結び付いて別の複合的事態を作っているのであったが、この二つの複合的事態が同じ性質X(ないしY)を有することはない、という制約である。例えば、先の文(4)が名指す複合的事態が性質Xを有しているなら、文(7)が名指す複合的事態は性質Yを有することになる、という具合である。このような制約を課せば、否定の真理表が成立する理由を説明することができるようになる。例えば、文(4)が真であるときに文(7)が偽になる根拠は、性質XとYの本質的な振る舞い方に求めることができるのである。しかし、性質XとYの正体として具体的に何を候補に挙げることができるのか、ということが最大の問題として待ち受けている。
 候補のひとつとして、性質真と偽そのものを挙げることができると考えられるかもしれない。この考えを「真偽説」と呼ぶことにしよう。性質真・偽はもともと文の真偽を説明するという役割を担っていたわけだから、ここで文の真偽を説明するものとして想定されている性質XとYの候補として性質真・偽を持ち出すのは当然のことかもしれない。しかし、真偽説に対してはいくつかの疑問が生じる。最大の疑問は、既に触れておいた、同一の原子的事態が同時に真と偽の両方の性質と結合するとはどういうことなのかというものである。我々の原子的事態に関する理論は一時期のラッセルに由来するものであった。ラッセルは、真・偽はともに分析不可能な性質と考えていたから、ある原子的事態が真と偽の両方の性質を持つことは論理的には可能だということになるであろう。しかしラッセルは、両方の性質を同時に持つことが現実にはあり得ないことを当然のこととみなしていたように思われる。ラッセルより先に同様の真理論を表明していた初期のムーアは、性質偽を性質真を持たないことと定義していた(39)。したがって、ムーアにとっては、原子的事態が性質真を持ち同時に性質偽を持つことは論理的に不可能なことである。また、ラッセルの後継者と目されたウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に現れる「事態(Sachverhalt)」はラッセルの「命題(proposition)」(本論文ではこれを「原子的事態」と呼んでいる)を受け継いだものとも解釈できるのであるが、事態は存立する(bestehen)かしないかのどちらかであると考えられている(40)。この存立・非存立を真・偽と見なせば、ウィトゲンシュタインにおいても、ムーアと同様、偽は真によって定義されていることになり、事態が真と偽の両方の性質を同時に持つことは不可能であるということになる。また、第三節では、現代論理学の意味論とラッセルの理論の類似性を見た。すなわち、原子的事態に対応するのは、個体Xと個体の集合Yからなる順序対<X、Y>であり、性質真に対応するのは、XがYの要素になっている、という性質であり、性質偽に対応するのは、XがYの要素になっていない、という性質であった。ここでも偽は真によって定義されており、順序対が真かつ偽であることは不可能になっていることが分かる。もう一つ例を挙げておこう。否定の問題を検討した論文の中で、エリック・トムズは、事態を一種の普遍と見なし、それは例化されるか例化されないかのどちらかであると考えている(41)。例化・非例化を真・偽と見なせば、やはり偽は真によって定義されており、トムズにおいても、普遍としての事態は真と偽の両方の性質を持つことはあり得ないことになる。このように、ラッセルの理論およびそれに類した理論のいずれにおいても、事態(ないしそれに類したもの)が性質真と偽(ないしそれに類した性質)の両方を持つことはない。したがって、真偽説が両方を持つと主張するのであれば、なぜそれが可能であるのかを説明する必要がある。また、もしも説明ができたとしても、次の疑問が生じてくる。すなわち、原子的事態は性質真と偽の両方と同時に結合して二つの複合的事態を生み出すのに、かくして構成された複合的事態が性質真か偽のどちらか一方のみとしか結合できないのはなぜなのか、という疑問である。性質真・偽は原子的事態と複合的事態とではなぜこのように違った仕方で振る舞うのであろうか。さらに第三の疑問も生じる。真偽説は真偽性質が二個含まれる複合的事態の存在を認めるのに、三個以上を含む複合的事態の存在を認めないのはなぜなのか、という疑問である。
 真偽説は以上のような疑問に対して合理的な回答を与えることはできないように思われる。しかし、もしもできないのであれば、否定文の意味と否定の真理表を説明するという目的のために都合のよい振る舞いを性質真・偽に一方的に期待しているだけではないかという非難を真偽説は免れ得ないだろう。否定という現象がある以上、世界はこうなっていなければならないはずだ、という主張なら、こうした期待をすることはある程度許されるかもしれない。しかし、真偽説の土台となっている所与説は、原子文の意味と真偽を説明する狭い枠内で既に否定文の意味と真偽を説明する準備が調っているという主張なのだから、この期待は所与説自体を崩壊させてしまうことになるだろう。実際、性質真・偽にこのような奇妙な振る舞いをさせることは、第四節で見た実在説を採ることとほとんど変わらないように思われるのである。この問題を考えるために、実在説の主張を少し変更しよう。第四節の実在説は否定性という論理的対象しか導入しなかったが、新しい実在説はそれに加えて肯定性という論理的対象も導入する。原子的事態は否定性と結合して否定的事態を作り、同時に、肯定性と結合して肯定的事態も作る。否定的事態も肯定的事態も性質真か偽のどちらか一方のみを有する。原子的事態の部分が同一である否定的事態と肯定的事態は、同じ性質(真ないし偽)を有することはない。否定文は否定的事態を名指し、肯定文は肯定的事態を名指す。名指している事態が性質真を有しているなら、当の文は真であり、性質偽を有しているなら偽である。新しい実在説は以上のように考えるのである。そうすると、真偽説と新しい実在説の類似性は明白である。違いは、新しい実在説の肯定性・否定性という論理的対象の役目を真偽説では性質真・性質偽に負わせているということにある。そして、性質真・性質偽にこうした役目を負わせることができる合理的な説明を与えられない以上、真偽説は性質真・偽に偽装させて実際は肯定性・否定性という論理的対象を導入しているのだと見なせるであろう。つまり、真偽説は所与説ではなく実在説にほかならないのである。
 次に、性質XとYの第二の候補として現実性・非現実性という性質を採る立場を考察してみよう。この立場を「現実説」と呼ぶことにする。現実説は、まず、可能世界という考えを導入することによって、真偽説に対して投げかけられた第一の疑問を解消する。すなわち、同一の原子的事態が真という性質と結び付いた複合的事態と偽という性質と結び付いた複合的事態を形成するのだが、これら二つの複合的事態が同じ可能世界の中に存在することはない、と考えることによって第一の疑問が生じないようにするのである。次に、先に述べたXとYの候補として現実性・非現実性という真偽性質とは異なる性質を持ち出すことによって、第二、第三の疑問が生じる余地をなくしてしまう。諸々の可能世界の中には一つだけ現実世界という特異な世界があるのだが、この現実世界の中に存在している複合的事態は「現実性」という性質を有していると言えるだろう。他方、現実世界の中には存在しておらず他の可能世界の中にのみ存在している複合的事態は「非現実性」という性質を有していると言えるであろう。現実説は、XとYの正体はこの現実性・非現実性という性質だと考えるのである。
 具体的な例に基づいて、現実説が否定の真理表をどのように説明するのか見てみよう。ソクラテスと人間性からなる原子的事態に性質真が結合してできた複合的事態を「P」、性質偽が結合してできた複合的事態を「N」と呼ぶことにしよう。Pは他の可能世界の中にも存在しているだろうが、とりわけ現実世界の中に存在している。Nも現実世界の中に存在しているならば、真偽説に対する第一の疑問がここでも生じてくるところだが、Nは現実世界の中には存在しておらず、どこか他の可能世界の中に存在していると考えられる。したがって、Pは現実性という性質を持ち、Nは非現実性という性質を持っている。肯定文「ソクラテスは人間である」は事態Pを名指しており、この事態は現実性という性質を持つので、定義により、この肯定文は真である。他方、否定文「ソクラテスは人間であるということはない」は事態Nを名指していて、この事態は非現実性という性質を持つので、この否定文は偽である。このように、現実説では、否定の真理表がなぜ成立するのかは、性質真・偽が現実世界と可能世界の中でどのように振る舞うかによって説明されることになる。
 真偽説に対して提起された三つの疑問が現実説の場合には生じないのは明らかであるが、その他の点で現実説には難点はないだろうか。現実説もやはり大きな問題を抱えているように思われる。それは可能世界概念の導入それ自体から生じる。所与説は原子文を説明するために第三節で与えられた枠内で否定文の説明も可能だという立場だから、第三節で存在していなかった可能世界概念を持ち出すことは、既に所与説を捨てたことになるだろう。しかし、この点は大目に見ることができるかもしれない。なぜなら、可能世界はいずれ様相を含む文を説明するときに必要になる装置だから、原子文を説明する段階でもあらかじめ導入しておくこともできたからである。しかし、事情はそれほど単純ではない。というのも、可能世界概念を最初から導入するのであれば、事態が所有すると言われる真・偽という性質を用いる必要がなくなるからである。第三節では、一般に真と思われている文と偽と思われている文の両方の文の有意味性を確保するために、両者が名指す原子的事態が共にこの世界に存在するとされた。しかし、この段階で既に可能世界概念に訴えてよいのであれば、真と思われている文は現実世界の中に存在する原子的事態を名指し、偽と思われている文は、現実世界の中には存在せず、ただ諸可能世界のどこかにのみ存在している原子的事態を名指している、と考えることができる。こう考えることによっても、どちらの文の有意味性も確保することができる。次に、文の真偽を説明するためには原子的事態に差異を設けなければならないのだが、第三節では、原子的事態が所有する性質真・偽を導入することによって、この差異を生じさせた。しかし可能世界を導入した今では、既に原子的事態の間には差異が発生している。すなわち、各々の原子的事態は、現実世界の中に存在する(=現実性)という性質を持つか、現実世界の中には存在せず可能世界のどこかに存在する(=非現実性)という性質を持つかのいずれかである。よって、文の真偽はこの性質を使って定義することができる。すなわち、ある文が真であるのは、その文が名指す原子的事態が現実世界の中にあるとき(=現実性を有するとき)であり、偽であるのは、現実世界の中になく可能世界のどこかにあるとき(=非現実性を有するとき)である。例えば、文「ソクラテスは人間である」はソクラテスと人間性からなる原子的事態を名指しているが、この原子的事態は現実世界の中に存在するから(=現実性を有するから)、この文は真である。他方、文「ソクラテスは馬である」はソクラテスと馬性からなる原子的事態を名指していて、この原子的事態は現実世界の中に存在せず、どこか他の可能世界の中にしか存在しないから(=非現実性を有するから)、この文は偽である。このように、可能世界概念を導入するだけで原子文の意味と真偽は説明できるのだから、現実説が、さらに事態が持つとされる性質真・偽を合理的な根拠もなく導入して否定文の意味と真偽を説明しようとするのであれば、それはもはや所与説とは呼べないであろう。性質真・偽は現実世界しか存在しないと考えたときに必要になるのであり、言わば、現実世界内部での可能世界の代替物なのである。したがって、可能世界概念を導入した以上、もはや性質真・偽は捨て去るべきなのである。現実説があくまで性質真・偽を導入しようとするのであれば、それは、真偽説に対して指摘したのとまさに同じで、性質真・偽に偽装させて否定性や肯定性などの論理的対象を導入していることにほかならず、実在説に堕しているのである。
 我々は性質偽を使って否定を説明しようとする所与説の立場を考察する過程で、可能世界というより一般的な枠組みを用いると、性質偽も真も不要になるということに気付いた。そうすると、この一般的な枠組みを使う限り、性質真・偽はもはや存在しないのだから、所与説の否定のテーゼはそもそも成り立つ余地がないということになる。しかし、今度は、非現実性によって否定は説明できるのではないかという新しい立場が現れてくる。これを「新否定のテーゼ」と呼ぶことにしよう。
果たして新否定のテーゼは否定を説明できるのだろうか。
 新否定のテーゼは元の否定のテーゼと同じような困難に見舞われるように思われる。ソクラテスと人間性からなる原子的事態を「S」、Sに現実性という性質が結合してできた複合的事態を「SA」、非現実性という性質が結合してできた複合的事態を「SN」と記述することにしよう。新否定のテーゼは、文「ソクラテスは人間である」はSAを名指し、文「ソクラテスは人間であるということはない」はSNを名指すことによって有意味性を確保する、と考えたい。ところが、普通に考えた場合、SAは存在するが、SNは存在しない。また、文の真偽を定義する方法も不明である。つまり、否定のテーゼに対して指摘された第一の欠点と第二の欠点が、ここにも見いだされるのである。
 二つの欠点を解消するための一つの方法として、可能世界を階層化することが考えられるかもしれない。我々は、この世界が現実世界であるのは偶然であり、他の可能世界が現実世界であることも可能だったのだ、と考えたりしないであろうか。例えば、現実にソクラテスが人間であることは偶然に過ぎないのであって、ソクラテスが人間でない世界が現実であることも可能だったのだ、と考えはしないだろうか。このような考え方が本当に意味あるものなのか否かは疑問が残るが、もしもこの考え方に意味があるのだとすれば、そこから可能世界の階層構造を、この例に即して、次のように導くことができるだろう。通常の可能世界は事態の集まりによって構成されていると考えられている。こうした可能世界を「一階の可能世界」と呼ぶことにしよう。一階の可能世界の中には事態Sを含む可能世界と含まない可能世界がある。前者の可能世界の集合を「W11」、後者の可能世界の集合を「W12」と呼ぶことにしよう(上の添え字は一階であることを表している)。次に、一階の可能世界の集合W11とW12から構成される世界を考えて、これを「二階の可能世界」と呼ぶことにしよう。このように規定すると二階の可能世界は唯一つしか存在しないと思われるかもしれないが、実際は二つ存在する。すなわち、W11の中のどれかが現実世界になっている二階の可能世界とW12の中のどれかが現実世界になっている二階の可能世界の二つである。前者の可能世界を「W21」、後者の可能世界を「W22」と呼ぶことにしよう。W21はその中に複合的事態SAが存在する世界、W22はその中にSNが存在する世界である。そして、二つの二階の可能世界のどちらかが現実世界である。この例では、W21が現実世界である。つまり、W21の中にあるSAは現実性という性質とさらに結合して、より複合的な事態を形成している。この事態を「SAA」と記述することにしよう(以下、同様な仕方で複合的事態を記述することにする)。W21が現実世界であることによってW22は現実世界ではないことになるので、W22の中にあるSNは非現実性という性質ともう一度結合して、より複合的な事態SNNを形成している。さて、文の意味と真偽は次のように説明される。肯定文「ソクラテスは人間である」はW21の中にある事態SAを名指しており、SAは現実性という性質を有しているので(すなわち、SAAという事態が成立しているので)、この肯定文は真である。否定文「ソクラテスは人間であるということはない」はW22の中にある事態SNを名指しており、SNは非現実性という性質を有しているので(すなわち、SNNという事態が成立しているので)、この否定文は偽である。
 以上の方法は、否定のテーゼの真偽説と現実説をミックスさせたものであり、構造は真偽説と同じであるが、性質真・偽の代わりに現実説の現実性・非現実性という性質を用いている。これによって、真偽説に対する第一の疑問と同様の疑問を生じなくさせている。すなわち、真偽説の第一の疑問のときと同様に、W11の成員の一つとW12の成員の一つが共に現実世界であることは不可能ではないかという疑問が生じるが、それは別々の高階の可能世界W21とW22において成り立っているのであるとすることによって、この不可能性を克服しているのである。しかし、第二・第三の疑問に類した疑問はやはりなお生じてしまうように思われる。まず、真偽説の第二の疑問と同様に、事態Sは現実性と結合してSAを形成し、かつ、非現実性と結合してSNを形成するのに、SAは現実性とは結合してSAAを形成するのに、非現実性と結合してSANを形成しないのはなぜか、SNは非現実性と結合してSNNを形成するのに、現実性と結合してSNAを形成しないのはなぜか、という疑問が生じる。つまり、我々は、Sを含んでいるW11のどれかが現実世界になっている可能世界W21が現実世界であると考えているが、それは偶然的なことであり、Sを含んでいないW12のどれかが現実世界になっている可能世界W22が現実世界であることも可能である(このとき、W21の中ではSANが成立し、W22の中ではSNAが成立している)と考えることも十分できるように思われるのである。かくして我々は、第二の疑問を受けて、可能世界の階層化をもう一段進めざるを得なくなる。すなわち、W21とW22から構成され、前者の方が現実世界となっている三階の可能世界W31と、後者の方が現実世界となっているW32の存在を認めざるを得なくなるのである。しかしそうすると、文の真偽が再び定義できなくなってしまう。なぜなら、肯定文「ソクラテスは人間である」が名指すSAはW31では現実性という性質を有している(すなわち、SAAが存在している)が、W32では非現実性という性質を有している(すなわち、SANが存在している)ので、現実性・非現実性という性質に訴えても、この文の真偽は決定できなくなっているからである。否定文「ソクラテスは人間であるということはない」に関しても同じである。真偽説に対する第三の疑問は、真偽性質を二個より多く含む複合的事態を考えないのはなぜかというものだったが、ここでも同様に、現実性・非現実性という性質を二個より多く含む複合的事態をなぜ認めないのかと問いうる。実際、今問題になっている、文の真偽を定義できるようにするためにも、三個以上を含んだ複合的事態の存在を認めることが不可避であるように思われる。すなわち、可能世界W31の方は現実世界であり、したがって、事態SAAはさらに現実性と結合してSAAAを形成しており、他方、可能世界W32の方は現実世界ではなく単なる可能世界にとどまっており、そのため、事態SANはさらに非現実性と結合してSANNを形成している、と考えるべきであろう。SAAとSANの両方が存在することによって真偽の定義は不可能になっていたのだが、このように考えて、SAAは現実性と結合しているがSANは非現実性と結合しているということに着目することによって、SANではなくSAAの方が現実なのであると認めることができ、これによって、SAを名指す「ソクラテスは人間である」は偽ではなく真なのだと定義できるようになる。しかし、これで文の真偽の定義が可能になるのは一時的なことであり、これまでに述べたのとまったく同じ問題が生じてくる。なぜなら、W31が現実世界であるのは偶然であり、W32の方が現実世界であることも可能であったと考えることができるからである。こうして我々は、W31とW32から成り、前者が現実世界になっている四階の可能世界W41と、同じくW31とW32から成り、後者が現実世界となっているW42を導入せざるを得ない。そうすると、再び文の真偽の定義が不可能になってしまう(なぜなら、W41ではSAAAとSANNが成立しているが、W42ではSAANとSANAが成立しているので、SANではなくSAAの方が現実なのだとは言い得なくなっているから)。そのため、真偽の定義のためにW41の方が現実世界であると考えることを強いられる(こう考えると、W41ではSAAAAとSANNAが成立していて、W42ではSAANNとSANANが成立しているので、SANではなくSAAの方が現実なのだと言い得るようになる)。しかし、これまでと同様の考察を経ることによって、こうした可能世界の階層化はさらに進んで行くことになり、終わることがないように思われる。その結果、我々は、いつまでたっても文「ソクラテスは人間である」の真偽を定義できないのである。以上のことは、現実的であることも可能性の問題であると見なす発想がそもそも不整合であることを示しているのかもしれないが、そう断定することができるのかは、はっきりしない。しかし、少なくとも明らかになったことは、このような発想に基づいて新否定のテーゼを擁護することは、文の真偽を定義することが不可能になっているため、失敗しているということである。
 以上の議論は所与説の否定のテーゼを完全に論駁したものではなく、第三節で提示した世界と言語の枠組み(および、可能世界概念でそれを修正したもの)に即した形での否定のテーゼ(および、新否定のテーゼ)が成り立ちそうにないことを示したにすぎない。否定のテーゼを完全に論駁するためには、原子文の意味と真理に関するすべての理論を列挙して、その各々に即して否定のテーゼが成り立たないことを示さなければならないが、それは我々にできることを大きく超えている。我々は、第三節の枠組み内では否定のテーゼが成立しないだろうというささやかな結果で取り敢えず満足しておきたい。第三節の枠組み内では、否定のテーゼの方法では否定文どころか肯定文の意味や真理さえも説明できない。そのため、当然、否定の真理表が成立する理由も説明できないのである。

(二)連言のテーゼについて

 我々は既に、第三節の枠組み内という限定付きではあるが、否定のテーゼを論駁したと考える。そうすると、もはや連言のテーゼを検討する意味はないと言えるかもしれない。仮に連言のテーゼが成立し、連言の説明ができたとしても、否定の説明ができない以上、選言や条件など他の論理結合子を説明することはできないからである。しかし、否定のテーゼに反対する我々の議論に納得しない者をいるであろう。実際、性質真・偽でもなく、現実性・非現実性でもない、第三の性質に訴えて否定のテーゼを追求する可能性は残っているように思われる。そうした疑いをもつ者がいるとすれば、連言のテーゼが成り立たないことを示すことには意味があるだろう。
 連言のテーゼは、「p」と「q」を連続的に主張することが「pかつq」を主張することに他ならないと述べているが、第三節の枠組みで連言の意味と真理を考えようとしている我々にとって、このテーゼがなんの意味ももたないことは明らかである。なぜなら、我々は言語を自律的なものと捉え、人間による主張といった言語使用の文脈から切り離して文の意味と真理を考えているからである。文はいわば模型ないし絵画であり、模型や絵画はそれがどのように使われようとオリジナルを模したものであり続けるのと同じように、文はどのように使用されようとも事態の名前であり続ける。我々はこのことに着目して、文をその使用から切り離して考察し、文の意味と真理を考えてきた。したがって、主張という概念を持ち出されても、我々の考察には関係ないのである。もちろん、文の意味や真理は言語使用という文脈に本質的に依存しているという立場を取り、抽象的存在者としての文ではなく文の主張の方を真理の担い手と考える真理論も十分あり得るだろう。そうした理論では、連言のテーゼが大きな意味をもつということもあるかもしれない。だが、否定のテーゼのときと同様、我々はここでは可能な限り第三節の意味論・真理論の枠組み内で連言を説明する可能性を探りたい。その際には、連言のテーゼは無意味なのである。
 連言のテーゼを我々の考察の対象とするには、その精神を生かしつつ、改変を加え、第三節の枠組み内に何とかはめ込むようにする必要がある。そのためには、次のように考えることができるかもしれない。以下の二つの原子文を考えてみよう。
この二つの文から次の連言文が得られる。
しかし、これは実は次の文を言い換えただけなのであると見なすことができるかもしれない。
このように、連言文(10)を、その二つの連言肢(8)と(9)を連続的に並べた(11)と同一視する立場を「新連言のテーゼ」と呼ぶことにしよう。新連言のテーゼは、接続詞「かつ」を不要にすることによって、所与説を支持しているように見えるが、果たしてそうであろうか。答は「否」である。
 我々には原子文(8)と(9)の意味と真理の説明は与えられているが、(11)に関しては説明はまだ与えられていない。そもそも(11)は文としてさえ認められていない。そこでまず、二つの文を連続的に並べたものも文であると文法規則を定めなければならない。そうして初めて(11)の意味が問えるようになる。第三節の意味論では、言語表現の有意味性はそれが何かを名指すことによって確保されていた。原子文(8)と(9)はそれぞれ原子的事態を名指している。しかし、新しく導入された文(11)に関しては、それが何を名指すのかまだ決められていなかったので、新しく決める必要があるが、いったいそれは何であり得るのだろうか。(8)と(9)が名指す原子的事態が複合してできた複合的事態だろうか。その様に考えることは連言的事態を導入することに他ならず、第四節で退けた実在説に戻ることになってしまい、所与説ではなくなってしまう。また、真理の説明も新たに必要である。文(8)と(9)は真であるが、だからといって文(11)も真であるとは簡単には言えない。第三節の真理論の基本的な考えは、真偽は本来的には事態がもつ性質であり、文はそうした事態を名指すことによって派生的に真ないし偽になる、というものであった。文(11)が名指す複合的事態が存在し、それが真という性質をもつから文(11)は真である、と言うことができればよいのだが、そのように言うことは完全に実在説に堕してしまうことになる。複合的な連言的事態というものを導入せずに文(11)の意味と真理を説明することは可能かもしれないが、そうした説明は、原子文の意味と真理を説明した第三節の枠組みの中で既に与えられているわけではない。したがって、所与説としての新連言のテーゼは成り立たないのである。
 かつてラムジーは、否定に関する実在説を論駁する文脈で、否定詞「ということはない」を用いなくても、上下逆に書くことで否定を表現することができるということを指摘した(42)。例えば、文「ソクラテスは人間である」の否定は次のように表現される。
確かにこうした可能性を考慮に入れれば、否定詞の指示対象を求めるということはなくなり、否定に関する実在説に傾く理由の一つはなくなるであろう。しかし、この可能性の指摘で否定の意味が明らかになったわけではないことは明らかである。(12)のように書く人は、否定詞にではなく、逆向きという記法に何らかの意味を結び付けているのであり、それが明らかにされない限り、否定の説明をしたことにはならないのである。新連言のテーゼに関しても同じである。(12)とは違って、(11)の場合は、これで連言の意味が説明されたと感じる人がいるかもしれない。しかし、そう感じるのは、我々は(12)の様な記法は採用していないが、(11)の記法は実際に採用しており、それに馴染みがあるからにすぎない。我々の日常言語では、多くの場合、二つの文を連続して書けば、それは連言を意味しているだろう。しかし、どんなに馴染んでいるとはいえ、連続して書くという記法に我々は何らかの意味を結び付けていたのであり、それが説明されるべきなのである。否定と連言だけではなく、選言や条件文などの複合文も、論理結合子のための特別な言葉を用いることなく表現することは可能である。例えば、次の文を考えてみよう。
これは、二つの文の間に一文字分の空白をおくという表記法によって、選言を表現しようとした文である。論理結合子を消去して見せるという方法は、複合文の意味と真理をめぐる問題を解決するためにはまったく無力なのである。この問題は、次節でウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の理論を検討するときに、もう一度取りあげることになる。

 以上、我々は、第三節で与えた原子文の意味と真理の説明の枠内で所与説の否定のテーゼと連言のテーゼを検討し、両方に対して否定的な議論を展開した。この結果を引き受けたとき、我々に残された道は二つある。一つは、第三節の枠組みを完全に断念して、原子文の意味と真理に関するまったく新しい理論を追求する道である(そして、そこでは否定のテーゼや連言のテーゼが成立するかもしれない)。もう一つは、第三節の枠組みをなお可能な限り維持したまま、否定のテーゼや連言のテーゼとは異なる仕方で、そしてもちろん実在説や規約説に堕することなく、否定や連言を説明する方法を模索する道である。第七節では、『論理哲学論考』を手がかりにして、後者の道を追求したい。



(30)Baker (1988), p. 253.
(31)Hacker (1996), p. 33. なお、Hacker (1972), p. 53 にも同様の主張が見られる。
(32)Wittgenstein (1922), prop. 5.47.
(33)Baker (1988), p. 252.
(34)ベイカーはウィトゲンシュタインの主張を「(論理的)対象がないプラトニズム」、「選択肢がない規約主義」と呼んでいる(Baker (1988), p. 255)。「(論理的)対象がない」というのは、第七節で見ることになる、論理結合子が名指す対象は存在しないというウィトゲンシュタインの根本的なアイディアのことを意味している。また、何が論理的真理であるのかは我々の自由な決定にゆだねられている訳ではないという意味で「プラトニズム」、「選択肢がない」と形容しているのだと思われる。しかし、なぜ「規約主義」と言われているのであろうか。おそらく、論理的真理の成立のためには、「(論理的)対象」の存在は必要ないが、原子文のみを含む言語の存在は不可欠であり、この単純な言語も恣意的規約の産物であるのは間違いない(例えば、ある種の果実を指示する名前として「リンゴ」を採用するのは純粋に我々が行う規約の問題である)から、かろうじて「規約主義」と呼ばれる余地がある、と考えているのであろう。言語に規約的な側面があることはウィトゲンシュタイン自身も認めている。すなわち、「我々の表記法では確かに何かが恣意的であるが、次のことは恣意的ではない。すなわち、我々が何かを恣意的に決めたならば、何か他のことが実情とならねばならないのである」(Wittgenstein (1922), prop. 3.342)と。ベイカーはおそらくこの引用の後半部から「プラトニズム」を読み取り、前半部から「規約主義」を読み取っているのではないかと思われる。しかし、「(論理的)対象がないプラトニズム」も「選択肢がない規約主義」も自己矛盾した無意味な表現であることは、ベイカー自身が認めるところである。また、野矢茂樹は問題になっているウィトゲンシュタインの主張を「言語主義」(野矢(二〇〇二)、二五四頁)と呼び、プラトニズムや規約主義から区別している。こちらの方が一般的にはふさわしい名称かもしれないが、本節が関心を持つ側面が何であるのかを明示するため、ここでは「所与説」という名称を用いることにする。
(35)『論理哲学論考』の解釈の問題は第七節で簡単に見ることになる。
(36)Horn (1989), pp. 56-60 を参照せよ。最近のものとしては、Mumford (2007) の議論がある。なお、真理の余剰説ないしデフレーション真理論も否定と虚偽を同一視するが(Ramsey (1927), p. 38, Horwich (1990), pp. 71-3 を見よ)、厳密に言うと、それはここで我々が問題にしている考え方とは違っていることに注意しておきたい。なぜなら、我々は、虚偽を基本的なものとして前提し、否定を虚偽に還元させる可能性を考えているのに対して、デフレーション真理論者たちは、否定の方が基本的であると考え、否定を使って虚偽を定義しようと試みているからである。
(37)ここでも前註と同様のことを指摘することができる。文(2)と文(4)を同意味と捉えるというのはまさにデフレーション真理論の立場にほかならないように思われるかもしれない。しかし、デフレーション真理論が肯定文(4)を基本的なものとして、そこから真理を含む文(2)を定義しようとしているのに対して、ここでの考え方は、真理を含む文(2)を基本的なものとし、そこへ肯定文(4)を還元しようとしている。つまり、二つの立場は実際は正反対の方向に向かっているのである。
(38)この解明によると、名詞節「ソクラテスは人間であるということ」と文「ソクラテスは人間である」が名指すものは異なるということになるが、これは初期のラッセルが抱いていたアイディア(Russell (1903), secs. 38, 52, 478)を受け継いだものであると言えるだろう。
(39)ムーアの真理論は、Moore (1899), Moore (1902), Moore (1953) で述べられている。ただし、最後の著作は一九一〇年〜一九一一年に行われた講演を活字にしたものなのだが、講演が行われたとき、既にムーアはこの真理論を採らなくなっていた。なお、ムーアとラッセルの初期真理論については、リチャード・カートライトの論文「無視された真理論」から多くを学んだ。特に両者の異同については、Cartwright (1987), p. 92, n. 8 を見よ。
(40)『論理哲学論考』の「事態」は第七節でより詳しく検討する。
(41)Toms (1972), p. 10.
(42)Ramsey (1927), pp. 42-3.
(43)ラムジーは横書きの英文を百八十度回転させることを意味しているのであろうが、ここでは、読みやすくするために、縦書きの和文の文字を逆向きに並べることで否定を表現している。

文献



A Philosophical Examination of Truth-Tables (II)

Kouji Hashimoto


Gordon Baker thinks that Wittgenstein’s arguments in his Tractatus Logico-Philosophicus imply the idea that “all of the logical constants are already given with atomic propositions” (Gordon Baker, Wittgenstein, Frege and the Vienna Circle, Basil Blackwell, 1988, p. 252). I call this idea “Givenness Theory”. If Givenness Theory is right, then every complex sentence that includes logical constants is reduced to some kind of atomic sentences, so we do not need any special theories for logical constants. According to Baker, this reduction in Givenness Theory is accomplished by the following two theses.
Since the other logical constants can be defined in terms of negation and conjunction, these two theses, if right, seem to reduce all the complex sentences to atomic ones that do not contain any logical constants. However, in this paper, I argue that neither thesis is right. With regard to Negation Thesis, I argue that if Socrates is a man, then it is impossible to explain the meaning of “it is false that Socrates is a man” within the theory of atomic sentences. With regard to Conjunction Thesis, I argue that the meaning of (#) is not clear because there is no explanation of what juxtaposing two sentences means.