真理表の哲学
——意味と真理と論理に関するラッセル的、ウィトゲンシュタイン的、ラムジー的考察—— (一)


橋本康二


一 序

 今日、多くの論理学のテキストには例えば次のような表が見いだされる。

これは「真理表」と呼ばれるものの一つであり、原子文「雪は白い」が真ならば複合文「雪は白いということはない」は偽であり、「雪は白い」が偽ならば「雪は白いということはない」は真である、という原子文と複合文の間の真偽の依存関係を示している。しかし、真偽の依存関係がなぜこの表に示されたようになるのかの満足ゆく説明を論理学のテキストの中に見いだすことはできない。そうした説明を与えるのは哲学の仕事である。なぜなら、意味や真理や論理に関する考察が必要になるからである。この論文では、哲学的論理学の黎明期にラッセル、ウィトゲンシュタイン、ラムジーが提案したアイディアを導きの糸として、意味と真理と論理に対して哲学的反省を加えつつ、文の間の真偽の依存関係がどうして真理表に示されたようになるのかを明らかにしたい。
 我々の考察は次のように進む。第二節では、真理表の歴史を概観し、真理表が抱える問題点を指摘する。第三節では、準備作業として原子文の意味と真理を考え、原子文は原子的事態を名指すということを核にしたラッセルに由来する一種の真理対応説を提示する。第四節では、複合文が名指している複合的事態の存在を認めることによって真理表を説明する立場を取りあげ、それがなぜ満足ゆく説明ではないのかを述べる。第五節では、真理表は我々による取り決めにすぎないという論理実証主義者によって主張された規約主義を取りあげ、その問題点を指摘する。第六節では、否定と連言は原子文と同時に既に与えられているためその真理表を特別に考慮する必要はないというベイカーとハッカーの立場を取りあげ、その批判を試みる。第七節では、真理表自体を複合文そのものであると見なすウィトゲンシュタインのアイディアを取りあげ、それを徹底させることによって複合文の独自のあり方を明らかにするが、そこにはなお難点が存在することを指摘する。第八節では、ウィトゲンシュタイン哲学をプラグマティズムで補完しようとしたラムジーの試みを取りあげ、それをさらに発展させる形で、複合文の意味は行動への傾向性であり、その真理とは行動が成功することであるという理論を提示する。第九節では、前節の複合文の理論に基づいて真理表の説明を与え、否定、連言、選言の意味について考察し、これらの論理結合子によって成立する論理的真理(トートロジー)とは何かという問題に対して一つの答を与えたい。

二 真理表の問題

 文「ソクラテスは人間であるということはない」はそれ自身の内に他の文「ソクラテスは人間である」を含んでいる。他方、「ソクラテスは人間である」はそれ自身の内に他の文を含んではいない。他の文を内に含んでいない文は「原子文」、含んでいる文は「複合文」と呼ばれる。我々の言語の文はこの二種類のどちらかに分類される。複合文はさらに二種類に分類される。右に挙げた複合文の真偽は内に含まれる文の真偽に完全に依存している。このような複合文は「真理関数的」と形容される。あるいは、こうした複合文は単に「真理関数」とも呼ばれる。他方、「ソクラテスは人間であるとプラトンは信じている」も「ソクラテスは人間である」を内に含んだ複合文であるが、内に含まれる文の真偽が分かったとしても、全体の真偽は決定されず、依然として真であるかもしれないし偽であるかもしれない状態のままである。つまりこうした文は真理関数的ではない。この論文で問題にしたいのは真理関数的な複合文であるので、以下、単に「複合文」と言うだけで真理関数的複合文のことを意味することにする。
 複合文は原子文とそれ以外の語から構成されている。こうした語は一般に「真理関数的結合子」と呼ばれているが、この論文では簡単に「論理結合子」と呼ぶことにする。我々の言語に見出される論理結合子は、否定を表す「ということはない」、連言を表す「かつ」、選言を表す「または」、条件を表す「ならば」、同値を表す「というときかつそのときに限り」などである。論理結合子を一つ含む複合文の真偽が内に含まれる原子文の真偽にどのように依存しているのかを示したのが以下のような真理表である(任意の文を表すために「p」、「q」という文字を使用する)。
これらの真理表を組み合わせることによって、二つ以上の論理結合子を含む複合文の真偽依存関係を示す真理表を作ることができる。たとえば、「p、かつ、qということはない」の真理表は次のようになる。
このようにして論理結合子を二つ以上含む複合文の真偽依存関係を調べていると、きわめて興味深い複合文が二種類見つかる。例えば、次の二つがそうである。
前者のような複合文は、内に含まれる原子文の真偽がどのようになっていても真になる、つまり、世界がどのようになっていても真になる(必然的に真になる)文であり、「論理的真理」ないし「トートロジー」と呼ばれる。逆に後者のような文は世界がどのようになっていようが偽になる文であり、「矛盾」と呼ばれる。
 ある種の複合文が真理関数的であるということは我々の言語についての重要な事実であるが、我々はいつ頃この事実に気がついたのであろうか。セクストス・エンペイリコスは『学者たちへの論駁』第八巻一一三—一一四節において次のように述べている。
仮言命題とは条件を表す「ならば」に相当する語を含む複合文のことである。ピロンは前四世紀末から三世紀初頭のメガラ派ないし問答学派の哲学者であり、遅くとも彼の時代には条件文が真理関数的であることが発見されていたことが分かる。また、山下正男によると、前三世紀から後二世紀にかけて活動したストア派では、否定、条件、連言、選言の真理表が示す真偽の依存関係は熟知されていたということである(2)
 現代になると真理関数の存在は論理学者たちの間で広く知られるようになった。たとえば、ホワイトヘッドとラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』では次のように述べられている。
ホワイトヘッドとラッセルは選言文、連言文、条件文、否定文、同値文が真理関数的であることを明確に理解していた。しかし、真理関数における真偽の依存関係をこのように普通の言葉で表現することは簡単なことではないし、読む方にも困難が生じる。特に真理関数に含まれる原子文の数が多くなると困難は増加する。そこで、真理関数における真理の依存関係を分かりやすくグラフィカルに表示しようというアイディアが生まれ、その結果としてできたのが真理表である。誰が真理表を最初に発明したのかは難しい問題だが、最初に公表したのはポストではないかと思われる(4)。彼の論文「初等的命題の一般理論序説」には次のような図が描かれている(5)
「〜」は否定を意味し、「∨」は選言を意味している。また、「+」は真を、「—」は偽を意味している。したがってこれは否定と選言の真理表そのものである。ただ、ここで注意しておきたいのは、真理表は分かりやすくて便利な道具立てだが、ラッセルからの引用のように普通の言葉で述べることとポストの真理表の間には本質的な違いは何も存在しないということである。たとえば、「『pということはない』は『p』が真なら偽であり、『p』が偽なら真である」という文で表現されている思想と否定の真理表で表現されている思想はまったく同じものである。したがって本論文では便宜上両者を共に「真理表」と呼ぶことにしたい。本論文の関心は真理表の分かりやすさや便利さにあるのではなく、それが表現する思想そのものにあるからである。もちろん本来「真理表」という言葉は文字通り表になっているものに使うべきであろうが、真理表と同じことを表現している文に対する適当な名前が存在しないため、そうした文も「真理表」と呼ぶことにするのである(6)
 古代のピロンから現代のラッセルらに受け継がれた真理表は今日では常識となり、論理学に関する書物の多くで取りあげられている。しかし真理表がなぜそのようになるのかの説明が与えられることはほとんどない。たとえば、「『p』が真なら、なぜ『pということはない』は偽になるのか?」という問いに対する答をそこに見つけることはできない。唯一見られるのは、我々の直観的理解に訴える説明である。たとえば、先に引用したセクストス・エンペイリコスは条件文の真理表を説明するにあたって、「昼である」が真で「光がある」が真なら我々は明らかに「もしも昼であるなら、光がある」を真と考えるであろう、などという事実に訴えているように思われる。現代の論理学のテキストの多くも、必要なら例文を挙げ、真理表の言っているとおりになっていることを読者に直観的に納得させようとしている。そしてその限りでは特に問題は生じていない。我々のほとんどは確かに真理表が教えるように複合文の真偽を捉えているのである(7)。要するに、真理表とは我々がどう考えているのかの調査・報告である。そうすると、我々の問いに対して簡単に答が得られるように思われるかもしれない。問:「p」が真なら、なぜ「pということはない」は偽になるのか。答:我々はそう考えているから。しかしこれは我々の求めている種類の答ではない。我々が真理表の言うとおりに考えていることは疑いのないことであり、この点はこの論文では一貫して前提したい。しかし、我々が問いたいのは、真理表はなぜ正しいのかという問題である。我々が事実として真理表の通りに考えているにしても、そのことは真理表が正しいことを少しも含意しはしない。むしろ、我々はいかなる根拠に基づいて真理表のように考えるのか、ということが問われなければならない。「p」が真であるとき、我々はいかなる根拠に基づいて「pということはない」は偽であると考えるのであろうか。この問いに対して明晰な答を与えるためには、まず文の意味や真理とは何かを明らかにすることが不可欠であるように思われる。

三 原子文の意味と真理

 複合文の意味と真理について考えるためには、最初に原子文の意味と真理を考えておく必要がある。意味と真理に関しては様々な理論があるが、本節では一種の真理対応説を採用し、それを原子文に即して展開したい。本論文の第四節から第七節では、この原子文の真理対応説を基礎にして構成される複合文の真理の理論を取りあげ、それらを批判していくことになる。本節で採用する真理対応説以外の真理論に基づいて複合文の真理の説明を試みることも可能であろうから、本論文での「批判」はあくまで対象が限られた不完全なものであって、網羅的な批判にはなっていない。この点はあらかじめ断っておきたい。しかし、本論文の最大の目的は複合文の真理の問題を曖昧さを残さずに説明することにある。第八節と第九節では、本節で採用する真理対応説に依拠した形でそうした説明を与えることを試みる。
 本節で採用する一種の真理対応説とは初期のラッセルが抱いていた真理論のことであるが(8)、ここでは彼の用語や問題意識にこだわらず、本論文での議論に必要なことに限り簡単に述べることにする。
 原子文は一つの述語と一つ以上の名詞から構成されたものである。たとえば、原子文「ソクラテスは人間である」は述語「人間である」と一つの名詞「ソクラテス」から構成されており、原子文「プラトンはソクラテスを教えている」は述語「教えている」と二つの名詞「ソクラテス」と「プラトン」から構成されている。名詞は個物の名前であり、その機能は個物を名指すことにある。比喩的に述べれば、名詞は個物に張られたラベルのようなものである。名詞の意味は名詞が名指す個物である。名詞「ソクラテス」の意味はソクラテスその人である。述語の機能もほとんど同様であるが、唯一の違いは名指すのは個物ではなく性質ないし関係に限られるという点にある。述語「人間である」の意味はそれが名指している人間性という性質であり、述語「教えている」の意味はそれが名指している教育という関係である。したがってこの真理論では個物と性質・関係が世界の構成要素として要請されることになる。では原子文の意味はどうなるのか。この真理論の特徴の一つは文の意味も名詞や述語と同様に捉えることにある。ただし、文の意味であるところの文が名指すものとは、個物でも性質・関係でもなく、それらから構成されたある種の複合体である。この複合体のことを「事態」と呼ぶことにする。原子文「ソクラテスは人間である」の意味であるこの文が名指す事態とは、ソクラテスと人間性からなる複合体である。原子文「プラトンはソクラテスを教えている」の意味である事態は、プラトンとソクラテスと教育からなる複合体である。ただしこの複合体は、原子文「ソクラテスはプラトンを教えている」の意味する複合体とは区別されるべきものである。したがって、ここで言う複合体はソクラテスとプラトンと教育を要素とする単なる集合に尽きるのではなく、何らかの構造が組み込まれたものになっていなければならないが、その詳細はここでは考察しないことにする。
 この真理論では個物と性質・関係が世界の構成要素として要請されると先に述べたが、個物と性質・関係は複合体である事態を構成することを通してしか存在しておらず、世界の究極の構成要素は実際は事態であると述べる方が適切であろう。この世界は原子文「ソクラテスは人間である」が名指している事態や原子文「プラトンはソクラテスを教えている」が名指している事態からできているのである。しかしそれはおかしいのではないかと思われるかもしれない。なぜなら、プラトンはソクラテスを教えていたりはしないからである。しかし、そうした事実にもかかわらず、この真理論は原子文「プラトンはソクラテスを教えている」が名指している事態の存在を認めるのである。そしてこれがこの真理論の最大の特徴なのであるが、その上でこの真理論は、原子文「プラトンはソクラテスを教えている」が名指している事態は偽という性質を持ち、原子文「ソクラテスは人間である」が名指している事態は真という性質を持つ、と考えるのである。この真・偽という性質は、何か他の性質ないし関係に還元できるような複合的な性質ではなく、それ以上分析できない単純な性質である。事態はこの単純性質としての真という性質を持つか、偽という性質を持つのである。そしてこの事態の真偽から文の真偽は定義される。すなわち、原子文「ソクラテスは人間である」は、それが名指している事態が真という性質を所有しているので、「真」と呼ばれ、原子文「プラトンはソクラテスを教えている」は、それが名指している事態が偽という性質を所有しているので、「偽」と呼ばれる。言語的存在者としての原子文「ソクラテスは人間である」は、それが名指す事態が所有している真という性質を所有しているわけではもちろんない。したがって、文に対しても「真」という述語を適用するのは、厳密に言えば間違いであるし、誤解を招きやすいので、本来は別の述語を用いるべきであろう。しかしここでは、便宜上取り敢えず「真」および「偽」という述語を事態だけではなく文に対しても用いることにする。
 以上見てきた真理論は、真偽を分析不可能な性質としている点、および、偽なる事態の存在を認めている点において、非常に特異な考え方であると思われるかもしれない。しかし、真理対応説というものを突き詰めて考えると、結局ここで見たような真理論にならざるを得ないように思われるのである(9)。たとえば、現代論理学が原子文の真理を説明するときもそうである。現代論理学の一般的な意味論では、名詞は個物を名指し、述語は個物の集合を名指すとされる(正確には、個物の集合を名指す述語、個物の順序対の集合を名指す述語、個物の順序三つ組みの集合を名指す述語など、述語には複雑さの度合いがあるが、ここでは簡単のために個物の集合を名指す述語だけを考える)。そして、文の真理はたとえば次のように定義される。
現代論理学では文が名指すものに特に言及しないが、それは名詞が名指す個体(これをXとする)と述語が名指す個体の集合(Yとする)からなる順序対<X、Y>だと考えることができる。そうすると、先の定義は次のように言い換えられる。
ただし性質αとは、順序対の最初の要素(ここではX)が二番目の要素(Y)の要素になっているという性質である。この性質αを「真」と呼ぶことにし、個物と個物の集合の順序対を「事態」と呼ぶことにすれば、現代論理学の真理論はまさに本節で提示した真理論そのものになる。集合の存在を前提すれば、偽なる事態の存在も問題なく考えられる。たとえば、文「ソクラテスは馬である」が名指す事態は、ソクラテスと馬であるものの集合からなる順序対<ソクラテス、馬の集合>であり、ソクラテスは馬の集合の要素にはなっていないから、この事態は偽であり、文「ソクラテスは馬である」も偽である。現代論理学を以上のように解釈することが可能であることを考えると、本節で提示した真理論がそれほど特異なものではないことが了解されるのではないかと思われる。

四 実在説

 前節で見た真理論に立った場合、複合文の真理はどのように説明されることになるだろうか。きわめて自然な考え方は次のようになるだろう。まず、論理結合子が名指すものの存在を認める。これを「論理的対象」と呼ぶことにしよう。次に、論理的対象と事態から構成された事態の存在を認める。原子文が名指している事態を「原子的事態」と呼ぶことにし、論理的対象と原子的事態から構成された事態を「複合的事態」と呼ぶことにしよう。その上で、複合文は複合的事態を名指しているとみなすのである。すなわち、複合文の意味は複合的事態である。最後に、複合的事態も、分析不可能な性質としての真か偽のどちらかを所有すると考える。複合文の真偽は、原子文のときと同様に、名指している事態の真偽によって定義する。
 以上の考えを例を使って説明すると次のようになる。否定の論理結合子「ということはない」は否定性という論理的対象を名指している。この否定性は、たとえば、原子文「ソクラテスは人間である」が名指しているソクラテスと人間性からなる原子的事態と結合することによって、複合的事態を構成することになる(この複合的事態を「否定的事態」と呼ぶことにする)。複合文「ソクラテスは人間であるということはない」が名指している意味はこの複合的事態である。この複合的事態は偽という性質を有しているので、この複合文は偽である。もう一つ例を挙げておこう。選言の論理的結合子「または」は選言関係という論理的対象を名指している。この選言関係が原子文「ソクラテスは人間である」が名指している原子的事態と原子文「ソクラテスは馬である」が名指している原子的事態と結合することによって、「選言的事態」と呼ばれ得る複合的事態が形成される。この複合的事態が複合文「ソクラテスは人間である、または、ソクラテスは馬である」が名指している意味である。この複合的事態は真という性質を有しているので、この複合文は真である。
 論理的対象や複合的事態の存在を認める立場を「実在説」と呼ぶことにしよう。実在説論者の代表格は初期のラッセルである。彼は徐々にそうしたものの存在に懐疑的になっていくのだが、それでも「論理的原子論の哲学」の頃になっても、選言的事態などは存在しないと確信していたが、否定的事態の存在だけはどうしても必要になるのではないかと考えていた(10)。この問題は実は今日まで引き継がれている。現在、「真理制作者理論(truthmaker theory)」と呼ばれる理論が活発な議論の対象になっている。これは「真なる命題はすべてなにものかによって真になさしめられていなければならない」(11)という原理を中心とした理論であり、真理対応説の現代版と見なされている理論である。この理論を積極的に擁護している哲学者の一人にアームストロングがいるが、彼もまた、何らかの種類の否定的事態は認めざるを得ないと考えている(12)
 「『p』が真なら、なぜ『pということはない』は偽になるのか?」という問いに対して実在説は「『p』が名指す原子的事態が真なら『pということはない』が名指す複合的事態が偽であるからであり、諸事態がそうなっていることは世界の事実であり、文の真偽はそれが名指す事態の真偽に対応している」と答える。形式的には非の打ち所のない答である。しかし実在説は果たして真理表の説明として実質的にも有望であろうか。以下、実在説が抱える諸問題を検討したい。
 まず第一に指摘できるのは、論理的対象や複合的事態が存在するということの信じがたさである。これは選言的事態の存在をラッセルが否定したときの根拠の一つであった。彼は次のように述べている。
これを書いたときのラッセルは否定的事態の存在は認めていたのだが、否定的事態の存在も我々の現実感覚に反したものであることを彼は事実上認めていて、「ハーバード大学でこの問題に関して講義したとき、私は否定的事実が存在すると論じたのだが、ほとんど暴動を引き起こしそうになった」(14)と報告している。この講義の出席者の一人であるデモスは後に「厳密に否定的であるような事実は経験的にはどこにも出会われない」(15)という経験的な考察に基づいて否定的事態の存在を拒否している。
 第二に、複合的事態が真ないし偽という性質をもつことをどのように認識できるのかという問題がある。原子的事態の真偽に関しては、その内容に応じて個別諸科学が真偽の認識の仕方を教えてくれるのだが、個別科学の一つとしての論理学は複合的事態の真偽の認識方法を教えてくれるのだろうか。しかし、論理学のテキストを開いても、そこには真理表が天下り式に書かれているだけであり、どのようにすればそれを認識できるのかはまったく書かれていない。この問題に関して哲学の側から何か言い得ることがあるとしたら、複合的事態の真偽はある種の論理的直観とも言うべき能力によって認識可能である、ということぐらいであろう。だがこの論理的直観は信じがたい能力とならざるを得ない。原子文「ソクラテスは人間である」が名指す原子的事態(以下「A」とする)が真という性質を持つことは通常の能力で分かり、さらに論理的直観を使えば、複合文「ソクラテスは人間であるということはない」が名指す複合的事態(以下「B」)が偽という性質を持つことも把握されるとしよう。しかしこれだけでは否定の真理表の一つの行がどうなるかが判明しただけである。次の行がどうなっているかを知るためには、原子的事態Aが偽であるときに複合的事態Bがどうなっているのかを見てとる必要がある。しかしこの世界では原子的事態Aは真である。したがって、真理表を把握するためには、論理的直観能力は原子的事態Aが偽であるような別の可能世界で複合的事態Bがどうなっているのかを知り得るような能力であらねばならないことになる。実は、別の可能世界の問題は、原子的事態Aが真であるときにさえ生じるのである。確かにこの世界では原子的事態Aは真で複合的事態Bは偽になっているが、それは別の原子的事態Cが真であるからかもしれないので、そうした可能性を排除するために、原子的事態Aが真であるすべての可能世界で複合的事態Bが偽になることを確認しなければならないからである。要するに、原子的事態Aが真であるときに複合的事態Bが偽であることは必然的なことであり、一般に、真理表の述べていること自体が必然性を持つのであって、そのことの確認が必要なのである。また、真理表は特定の原子文と複合文の真理の依存関係を述べたものではなく、すべての原子文と複合文の真理の依存関係について述べたものであるから、いくつかの原子文が名指す原子的事態とそれを含む複合的事態の真偽の依存関係を調べ、そこから帰納法によって知識を拡張しているのではないとすれば、論理的直観はすべての原子的事態とそれを含む複合的事態に関して真偽の依存関係を把握できなければならないことになる。そうした能力を我々人間は本当に持ち得るのだろうか。
 第三に、ラムジーによって指摘されたことだが(16)、実在説では論理的真理の説明が不十分にしか与えられないように思われる。我々は、たとえば、複合文「ソクラテスは人間である、または、ソクラテスは人間であるということはない」はなぜ世界がどうあろうとも真であるのかを知りたいと思う。実在説の答は、この複合文が名指す複合的事態がすべての可能な世界で真になっているからだ、というものであろう。おそらく、そうなっていることは論理的直観によって知られるとも答えるだろう。しかし、このように答えられると我々は次のように言わざるを得ない。我々が本当に知りたいのは、なぜこのような複合的事態は世界がどのようであっても常に真になるという特性を持っているのか、ということである、と。実在説は論理的真理の本質的な問題にはまったく答えていないと言わざるを得ないだろう。
 以上、実在説に対する批判をいくつか見てきたが、いずれも決定的な批判とはならないかもしれない。実在説論者はこうした批判にもかかわらず、なお自説に固執することが可能だろう。しかし我々も決定的な論駁にはこだわらない。我々はむしろ、論理的対象や複合的事態は存在せず、存在するのは原子的事態だけだと仮定した上で、複合文の真理をどのように説明できるか可能な限り検討しようではないかと実在説論者に提案したい。実在説論者も多くの場合は、他により良い選択肢がないから、論理的対象や複合的事態の存在を仕方なく引き受けているように思われる。たとえば、前述のアームストロングは、「存在するものはすべて肯定的である[ということを]拒否することが悪行としては最小である」(17)と述べて、やむを得ず否定的事態の存在を認めるようになった。論理的対象や複合的事態なしでも複合文の説明がつくことを示すことができたならば、実在説は自然に消えていくのではないだろうか(ただし、真理制作者理論の原理を満たした形での説明でなければならないだろうが)。そこで以下では、存在論を切りつめて原子的事態の存在だけを認め、その中で複合文の真偽を説明する可能性を追求することにする。

五 規約主義

 真理表は規約にすぎないというのが規約主義の取る立場である。「『p』が真なら、なぜ『pということはない』は偽になるのか?」という問いに対して、規約主義は「『p』が真なら『pということはない』は偽であると我々は取り決めていたからだ」と答える。規約主義は経験主義の流れをくむ論理実証主義者に好まれた考え方である。「p、または、pということはない」のように必然的に真になる文(後に「トートロジー」と呼ばれることになった文)の存在は経験主義者にとっては悩みの種であった。しかし、規約主義を取ることによって厄介な形而上学に巻き込まれることなく必然性の説明ができるのである。我々は論理結合子「かつ」、「または」などに関して真理表に示されているような規約を取り決めたが、そこから、当初は意図していなかったかもしれないが、「p、または、pということはない」がいかなる場合でも真になることが導かれるのである。論理実証主義者の一人エイヤーは次のように述べている。
「『p、または、pということはない』はなぜ『p』が真でも偽でも真になるのか?」という問いに対して、規約主義者は「『p』が真でも偽でも『p、または、pということはない』は真であると我々は間接的に取り決めていたからだ」と答えることができるのである。
 論理結合子に関して真理表に記されているような規約を我々人類が歴史の中のどこかで明示的に採用したというような事実はないだろうし、あったとしてもその記録は残されていない。したがって、我々が実際にどのようにして論理結合子の規約を採用したのかは分からない。それゆえ、規約主義者はあり得たであろう規約を再構成して提示するしか方法がない。問題は再構成された規約が果たして機能するかである。そしてこの問題に関しては、「機能しない」と答える、ルイス・キャロルに由来し、クワインによって広められた非常に有力な規約主義批判の議論が存在する(19)。それは概ね以下のように展開される。規約主義者は規約を「『p』が真なら『pということはない』は偽である」というように一般的な規約として提示する。そして、「『ソクラテスは人間である』が真なら『ソクラテスは人間であるということはない』は偽である」というような個別的な規約は一般的な規約から導き出された派生的な規約であると規約主義者は考える。しかし、どのようにして導かれるのだろうか。もしも規約以外の何らかのものに基づいて導かれるのであるとすると、「『ソクラテスは人間である』が真なら『ソクラテスは人間であるということはない』が偽になるのは、規約によってそう取り決められていたからだ」と答えることは厳密にはできなくなる。規約以外の何ものかにも依存しているからである。したがって、規約主義を徹底するためには、規約主義者は、一般的な規約から個別的な規約を導く際には、導出のための別の規約に基づいているのだ、と考えざるを得なくなる。しかし今度は、この導出規約と最初の一般的規約から問題になっている個別的規約はどうして導かれるのかという問題が生じる。規約主義者は第二の導出規約を導入せざるを得ない。そしてさらに、最初の一般的規約と第一の導出規約と第二の導出規約から問題になっている個別的規約を導き出すための第三の導出規約が必要になる。かくして規約主義者は次々に新しい導出規約を導入しなければならず、このプロセスは無限に続き、終わることがない。したがって、この方法では、「『ソクラテスは人間である』が真なら『ソクラテスは人間であるということはない』が偽になるのは、規約によってそう決めたからだ」と答えることは、どうしてもできないのである。
 キャロル=クワインの規約主義批判はきわめて説得的であるが、それを避けて規約主義を守り続ける方法も存在する。それはダメットが「純粋規約主義(full-blooded conventionalism)」と呼んだ新しいタイプの規約主義を採用することによってである。彼は、先に見た規約主義は「限定的規約主義(modified conventionalism)」にすぎず、規約主義はもっと徹底することができ、それはある時期のウィトゲンシュタインの思想に見いだされる、と主張している。
純粋規約主義は、一般的な規約を直接明示的に打ち立て、そこから個別的な規約を導出するという方法をとらず、個別的な規約も含めてすべての規約が明示された直接的規約であるとする。したがって、純粋規約主義に立てば、「『ソクラテスは人間である』が真なら、なぜ『ソクラテスは人間であるということはない』は偽になるのか?」という問いに対して、「『ソクラテスは人間である』が真なら『ソクラテスは人間であるということはない』は偽であると我々はたったいま取り決めたからだ」と答えることができる。この答はキャロル=クワインが指摘した無限後退を引き起こすことはない。
 ダメット自身は、「もしもウィトゲンシュタインが正しいとするならば、コミュニケーションは常に崩壊の危機にさらされるように思われる」(22)と述べ、純粋規約主義を受け入れることに難色を示している。しかし、コミュニケーションの問題はさておき、真理表の説明という目的だけに限定した場合、純粋規約主義は成功しているのであろうか。純粋規約主義であれ限定的規約主義であれ、およそ規約主義は真理表の説明になっていないように我々には思われる。本節の残りではそのことを論じることにする。
 規約主義に対する我々の懸念は、真であったり偽であったりすることを我々は取り決めることができるのだろうか、というものである。我々が本論文で採用している真理論に立った場合、このような取り決めは不可能である。我々の真理論によると、ある文が真であるのは、その文が名指している原子的事態が真という性質を持つときである、ということを思い出しておこう。このとき、たとえば、「『ソクラテスは人間である』は真であると取り決める」という規約は可能だろうか。確かに「ソクラテスは人間である」は真だが、この文が真であるのはこの文が名指す原子的事態が真という性質を持っているからであり、こうした性質の所有という出来事は我々の取り決めによって生じたことではなく、世界の事実という所与である。したがって、「『ソクラテスは人間である』は真であると取り決める」という規約には意味がない。この「規約」と称するものによって何が行われたのかまったく不明だからである。次に、「『ソクラテスは人間である』は偽であると取り決める」という規約はどうであろうか。「ソクラテスは人間である」が名指している事態は真という性質を持っているのだが、この性質を剥ぎ取り、代わりに偽という性質を持たせる、ということが我々にできるならば、この規約は可能と言えるのかもしれない。しかし我々にそうした超能力がないことは明らかであるから、この規約は、口に出して述べることはできても、実行することはできない。こうしたことは自明と思われるかもしれないが、真理表になるとなぜか規約が可能であるという思いこみが生じてしまいがちである。だが、真理表を実行可能な規約と見ることも同様にまったく不可能である。たとえば、「『ソクラテスは人間である』が真であるなら『ソクラテスは人間であるということはない』は偽であると取り決める」という規約を考えてみよう。現実に「ソクラテスは人間である」は真だから、「ソクラテスは人間であるということはない」は偽であると取り決めなければならないのだが、この規約はどのようにしてなされるのだろうか。我々は前節で実在説を採らないと決めたのだが、この規約を実行するためには実在説に戻らなければならない。すなわち、「ソクラテスは人間であるということはない」が名指す否定的事態があらかじめ存在することを認めなければならない。あるいは、あらかじめ存在することを認めないのであれば、我々にはそうした否定的事態を世界に生み出す超能力が備わっているとしなければならない。いずれの場合も、我々は超能力を行使して、この否定的事態に偽という性質も持たせなければならない。さらに、真理表は必然的なことを述べているのだから、「ソクラテスは人間である」が真であるすべての可能世界で、超能力によって、問題の否定的事態に偽という性質を付与しなければならない。しかし我々は実際には超能力者ではないのだから、この規約を実行することはできないのである。
 文の真偽は結局のところ文が名指す事態の真偽の内に存すると考える限り、規約主義が成り立つ可能性はないように思われる。そうすると、規約主義の側からは文の真偽について新たな理論が提出されるかもしれない。果たして規約主義と調和するような真理論は存在するのだろうか。以下、この問題を考えてみたい。
 まず手がかりを得るために、真理表の規約主義的説明を与えていると解釈できるブラックの「マントルピース・ゲーム」の例解(23)を取りあげたい。それは以下の通りである。最初に、マントルピース、小物(時計、鉛筆、眼鏡など)、小物の絵が描かれたカードを使って子供と大人で行われる言語ゲームを設定する。大人は小物のうちのいくつかをマントルピースの上に並べ、それ以外の小物はマントルピースの横に置いておき、その状況を少しの間子供に見せて覚えさせ、それからマントルピースに覆いを掛けて子供に見えないようにする。カードに描かれている小物がマントルピースの上にあれば子供の勝ち、横にあれば負け、ということを子供に理解させた上で、子供に好きなカードを一枚選ばせる(絵は隠さずに見せる)。子供は時計のカードを選んだとしよう。マントルピースの覆いを取ってどうなっているかを確認し、時計がマントルピースの上にあれば子供の勝ち、横にあれば負けである。次に、この言語ゲームを以下のように拡張する。まず、赤色の輪ゴムを導入し、これを何枚かのカードに巻き付ける(ただし、複数のカードにひとつの赤色輪ゴムを巻き付けてはいけない)。それから、「[赤色輪ゴム]は『勝』を『負』に、『負』を『勝』に転換するという規約」(24)を導入する。また、一枚のカードに何本もの赤色輪ゴムを巻き付けることも許されており、赤色輪ゴムが二本あれば互いの効果を打ち消すというように規約しておく。子供が三本の赤色輪ゴムが巻き付けられた鉛筆のカードを選び、鉛筆がマントルピースの上になければ(すなわち、横にあれば)、子供の勝ちである。さらに青色の輪ゴムも導入される。これは二枚のカードに巻き付けられてひとつの束を作る。カードの束と一枚のカード、カードの束とカードの束に巻き付けて束を作ることもできる。これに伴い赤色輪ゴムはカードの束に巻き付けることも許される。今回導入される規約は、青色輪ゴムで作られた束を選んだときは、束を構成している二つのカードないしカードの束のどちらか一方でも単独で選ばれたときに勝ちであれば勝ちであり、どちらも単独では負けならば負けである、というものになる。その他の輪ゴムの導入については省略する。さて、用意されたカードの中に赤色輪ゴムが巻き付けられた眼鏡のカードとただの眼鏡のカードのペアに青色輪ゴムを巻き付けてできた束があったとしよう。賢い子供なら記憶に一切頼ることなく勝利を確信してこの束を選び出すだろう。実際、この子供は必ず勝ちを得る。
 ブラックは、明言はしていないのだが、マントルピース・ゲームは我々の言語の真理関数に関する部分のモデルになっていると考えているように思われる。またこれも明言されていないのだが、このゲームでの勝・負は規約の問題であるという立場を取っているようにも思われる。実際、ブラックの意図はどうであれ、我々はこのゲームを提示されると、勝・負は確かに規約の問題であると認めざるを得ないだろう。だとすれば、このゲームの勝・負をモデルにすることによって、我々の言語の真・偽も規約の問題だと見なすことができないだろうか。マントルピース・ゲームは我々が第三節で導入した真理論と構造が驚くほど似ている。原子的事態は小物に、原子文はカードに対応する。原子文が名指す事態は必ず存在したが、同様に、カードに描かれている小物も必ず存在する。原子的事態は真という性質か偽という性質のどちらかを有していたが、同じく、小物はマントルピースの上に置かれているという性質か横に置かれているという性質のどちらかを有している。我々の言語には論理結合子が導入され、複合文が形成されるようになったが、原子的事態の方では追加導入を考えない(複合的事態の存在を認めない)ということに第四節で決めた。同様に、マントルピース・ゲームでは輪ゴムの導入によってカードの束が形成されるようになったが、小物の側では新しいものは追加されていない。ここまではまったく並行的なのだが、我々の言語の真・偽とマントルピース・ゲームの勝・負には何か本質的な違いがある。そのため、論理結合子を導入した際の真・偽の規約はうまくいかないのに対して、輪ゴムを導入した際の勝・負の規約はうまくいくのである。では、どこに違いがあるのだろうか。
 我々の言語の文の真・偽は次のように定義されていた。
これと同じような仕方でマントルピース・ゲームの勝・負も次のように定義されていると見なすことができる。
正確には、勝ったり負けたりするのはカードを選んだ子供なのだが、簡単のため、このようにカード自体に勝・負を帰属させることにする。さて、aは時計が描かれているカードであり、bは時計が描かれたカードに赤色輪ゴムが巻き付けられたものであり、時計はマントルピースの上にあるとしよう。我々はここで「カードaが勝ちならカードbは負けであると取り決める」という規約を実行することができるだろうか。そのためには、カードの勝・負の定義にしたがう限り、赤いベルトか何かが巻き付けられた新しい時計をマントルピースの横に出現させることができなければならない。要するに、我々の言語のときと同様、この規約を実行するためには超能力が必要なのである。しかし我々にはそうした超能力はないし、ブラックの記述でもそうした超能力は必要とされていないように思われる。いったい何が起きているのだろうか。実はブラックは「勝ちの定義に変化がある」(25)と考えているのである。すなわち、普通のカードの勝・負は先に述べたように定義されているのだが、赤色輪ゴムが巻かれているカードに関して我々は勝・負の定義を次のように変えたと彼は考えているのである。
このように勝・負の定義が普通のカードと赤色輪ゴムが巻かれたカードで違うのであれば、確かに、超能力などに訴えずとも、カードaが勝ち(負け)ならカードbは負け(勝ち)であることを説明できる。これにならって我々の言語の否定の論理結合子を含む文の真・偽の定義を新しく与えると、次のようになる。
 原子文の真・偽の定義と否定文の真・偽の定義をこのように別様に与えることによって、真理表の説明はどうなるであろうか。原子文の真・偽の定義は「真」という述語の意味として「真という性質を有している事態を名指している」という性質を指定し、述語「偽」の意味として「偽という性質を有している事態を名指している」という性質を指定している。これらの性質を順に「T」、「F」と呼ぶことにする。否定文の真・偽の定義は述語「真」の意味として性質「否定の論理結合子をひとつ取り除くと偽である」を指定し、述語「偽」の意味として性質「否定の論理結合子をひとつ取り除くと真である」を指定している。それぞれの性質を「T’」、「F’」と呼ぶことにする。そうすると、「『p』が真なら、なぜ『pということはない』は偽になるのか?」という問いは、二つの定義を用意した立場では、「『p』が性質Tを持つなら、なぜ『pということはない』は性質F’を持つのか?」を意味することになる。そして、この問いに対する問題の立場からの答は、「性質TとF’が本質的に有する特徴からそうなる」というものとなる。こうした答を与えるこの立場を「性質説」と呼ぶことにしよう。
 性質説による真理表の説明にはいくつか利点がある。第一に、性質説は実在説よりももっともらしい説に思われる。実在説は、論理的対象とそれを構成要素に含む複合的事態という、その存在が疑わしく思われるものの存在を認めなければならなかった。また、複合的事態が単純性質としての真と偽のどちらを持つのかを現実世界だけではなくすべての可能世界においてチェックできるような論理的直観能力を我々は有している必要があった。これに対して、性質説では、論理的対象も複合的事態も考える必要はない。新しい存在者として性質T、F、T’、F’が導入されるが、こうした性質が普遍者として存在することを認めることは取り敢えず可能であろう。そして、これらの性質の内容を把握できる者であれば、それ以上の論理的直観能力などなくとも、原子文と複合文の真理値の依存関係が真理表に示されたとおりに必ずなることを見て取れるであろう。
 性質説の第二の利点は、規約主義に必要と思われた新しい事態を生み出すような超能力を必要としないという点である。ただし、性質説は規約主義であること自体をもはや止めているということに注意しなければならない。「p」が真のとき(Tを持つとき)、「pということはない」は偽である(F’を持つ)が、それはTとF’が持つ本性上そうなるのであって、我々が取り決めたからそうなるのではない。我々が何もしなくても、もしも「p」が真(Tを持つ)ならば、「pということはない」は最初から偽(F’を持つ)である。もちろん、述語「真(偽)」の意味は性質TないしT’(FないしF’)である、というのは我々による恣意的な取り決め以外の何ものでもない。しかし、このことは規約主義的な説明を導いたりはしない。なぜなら、これは言語そのものに関する規約であり、言葉の意味がすべて規約であるのは当然のことだからである。たとえば、我々は述語「甘い」に対してある種の味を意味として指定する。これは純然たる規約である。だが、だからといって、たとえば、砂糖が甘いのは規約によるのだと主張する人はいないだろう。
 性質説には以上のように利点もあるが、真理表の説明として満足できない点もある。まず、性質説は「真」という述語の意味として二つの異なる性質TとT’を指定しているが、真理述語に対するこのような取扱いは疑問である。我々は真理述語に対して普通は一つの意味だけを指定しており、複数の意味を場合に応じて使い分けるということはおこなっていないのではないだろうか。二つの意味の間に何らかの共通点があれば、それをひとまとめにしてひとつの述語に対して指定するということもあるかもしれないが、性質TとT’の間にどのような共通点があるのか、すぐに見てとることはできないように思われる。また、もしもそうした共通点xが存在するのであれば、そのxこそが真理述語の本当の意味にふさわしいものであり、TやT’を真理述語の意味とするのは間違いであるように思われる。もっともこの問題に関して、性質説は次のような定義を提出するかもしれない。
この定義は真理述語に対して唯一つの性質しか指定していない。それを「T”」と呼ぶことにしよう。このような複合的性質T”を考えることが先の疑念に対する答になっているかどうかは判然としない。しかし、すべての問題が解消されたわけではないことは明らかである。否定の論理結合子が導入される以前の原子文しか存在しない状況では、性質T”が真理述語の意味だと考える人はいないであろう。当然、性質Tの方が真理述語の意味だと考えられるはずである。その後、否定結合子の導入によって性質T”が考えられることになるのだろうが、なぜそれが、かつて性質Tを意味していた述語「真」の意味に置き換えられることになるのであろうか。性質TとT”の間に何らかの共通点があるからこそ、ともに同一の述語「真」の意味とされるのであろう。しかし、その共通点が何であるのかは、依然として不明である。また、より根本的な疑念として、T”は真理述語の意味の候補として本当にふさわしいのだろうかという問題がある。真理述語の意味である真理性質は我々哲学者が任意に定めて良いものではなく、我々一般が直観的に理解しているものをすくい取るようなものでなければならない。第三節で提示した真理論は、真理性質は本来的に世界の中の諸事態が持つ性質であるとした。そして、言語は事態の名前、代理物、像ないしラベルにすぎないと考え、オリジナルである事態が真理性質を持つことを通して、文は派生的に真理性質(すなわちT)を持つとみなした。もちろんこの真理論が真理に関する我々の直観的理解を過不足なく捉えているとはとても言えないだろうが、少なくとも対応説的な真理理解をかなり広範囲にすくい取ったものであることは認められるであろう。これに対して、T”が、我々のいかなる真理理解を反映したものであるのかは、まったく不明である。いや、むしろ、それは自明であると言った方が良いのかもしれない。T”はひたすら真理表で示されている真理述語の特徴を捉えようとしているのである。我々は本来、真理述語(ないしそれが意味する真理性質)がなぜ真理表に示されているような振る舞いをするのかを解明しようと欲していた。これに対して性質説は、正にこのような振る舞いをする性質、たとえばT”を探し出してきて、このT”が実は我々の真理述語の意味だったのだ主張する。したがって、当然、なぜ真理述語が真理表で示されているようになるのかの完全な説明を与えることができる。だがこれは論点先取であり、真理表の説明として受け入れられるものではない。
 我々はこれまで、ブラックのマントルピース・ゲームの記述から、ブラック自身の示唆にしたがって性質説を読み取って、それを考察してきた。しかし、彼の記述からは、彼の意図はどうであれ、別の考え方を読み取ることもできるように思われる。つまり、ブラックは輪ゴムの導入後に勝・負の定義を変えたと述べていたのだが、実際は定義は変わっていないと見なすこともできそうなのである。マントルピースの上にある小物の絵が描かれたカードを選んだときに子供に何が起きるのかというと、ブラックの記述によると、「彼はこのゲームで得点を得る」のであり、それ以外のカードを選んだときは「得点を失う」のである(26)。これは「勝ち(負け)」という語の意味を定義していると見なすことができるだろう。実際に勝ったり得点を得たりするのはカードを選んだ子供だが、簡単のためカード自体が勝ったり得点を得たりすると考えると、定義は次のようになる。
この勝・負の定義は輪ゴムの導入以後も変わっていないと言うべきであろう。導入後も、ゲームに勝つとは得点を得ること以外ではあり得ないからである。では、何が変わったのだろうか。それは、勝つための条件である。あるいは、ゲームの規則、ないし、ゲームそのものが変わったとも言えるだろう。輪ゴム導入以前のゲームでは、マントルピースの上にある小物の絵が描かれたカードでなければ勝てなかった(得点を得られなかった)が、輪ゴム導入以後は、マントルピースの横に置かれた小物が描かれたカードでも赤色輪ゴムが巻いてあれば勝てる(得点を得られる)、というように勝つための条件ないしゲームの規則が変わったのである。そして、ここで注目すべきなのは、条件ないし規則はゲームの中の大人が自由に設定・変更でき、その際に超能力などは必要とされないということである。この点に注目すると、あるカードが勝ちであったり負けであったりすることが規約の問題にすぎないことが明瞭になる。以上のようにマントルピース・ゲームを解釈する立場を「新規約主義」と呼ぶことにしよう。他方、先に考察した、超能力を要請するがゆえに成立不可能と見なした規約主義を「旧規約主義」と呼ぶことにする。
 我々の言語で新規約主義を確立するためには、「得点を得る(失う)」という性質に類似した性質を見いだし、それを述語「真(偽)」の意味としなければならない。またこの性質は、真理についての我々の直観的な理解にある程度合致した性質でなければならない。そうした性質としてどのようなものが考えられるだろうか。カードを選ぶことは文を発話することになぞらえることができるだろう。だが、ある種の文、たとえば、「ソクラテスは人間である」を発話したとしても得点を得ることはない。我々の言語ゲームはマントルピース・ゲームとは違って得点を得ることを目的としたゲームではない。しかし、このような文を発話した場合、広い意味で社会から「是認」されると見なすことはできるだろう。たとえば、子供が発話すれば周りの大人から褒められる、学生が試験の答案に書けば教師から点が与えられる、大人が会話で発言すれば周りから同意してもらえる、などなど。逆に、「ソクラテスは馬である」などとと発話すれば社会から「否認」されることになる(大人から叱られ、教師からは減点され、周囲からは否定される)。このように、ある種の文(「ソクラテスは人間である」など)を発話したときに社会からその発話者に対して何らかの対応がなされるという事実に着目し、この対応を「是認」と総称することにしたい。他方、「ソクラテスは馬である」などの発話に対する社会の対応を「否認」と総称する。そうすると、次のような真理の定義が考えられる(簡単のため、是認ないし否認されるのは文の発話者ではなく、文そのものであるとする)。
直観的に真(偽)と見なされる文が是認(否認)される文と完全に一致するかどうかは分からないが、取り敢えずこの定義は真理定義として一応満足できるものであると仮定しよう。真・偽がこのように定義された我々の言語ゲームでは、マントルピース・ゲームのときと同様に、最初は次のような規約が社会的に制定されていると見なすことができる。
そして、否定の論理結合子の導入に伴って、この規約は次の規約に変わることになる。
この規約にしたがって、文「ソクラテスは人間である」が社会から是認されるならば、文「ソクラテスは人間であるということはない」は否認される。それゆえ、真・偽の定義により、前者の文が真ならば、後者の文は偽である。またこのことは、この世界だけの話ではなく、同じ規約が支配している限り、どの可能世界においても成り立つことである。このように新規約主義は、なぜ否定の真理表が成立するのかを、真・偽の定義と是認・否認の規約によって疑問の余地なく説明することができるのである。
 我々が最初に考えた旧規約主義は実行不可能だったのに、ここで見た新規約主義はなぜ実行可能になるのか、その理由を再確認しておこう。旧規約主義では文の真・偽は文が名指す事態の真・偽に他ならなかった。したがって、たとえば、「ソクラテスは人間であるということはない」を偽にするためには、この文が名指す否定的事態を生み出し、その事態に偽という分析不可能な性質を持たせなければならなかった。しかし、こうしたことを行うには超能力が必要であり、我々には実行不可能であると考えざるを得ないのであった。他方、新規約主義では、文が真(偽)であるとは、「是認される(否認される)」という性質を持つことである。したがって、「ソクラテスは人間であるということはない」を偽にするためには、この文に「否認される」という性質を持たせればよい。そして、「否認される」という性質を持たせるということは、我々が実際に否認することによって実行される。このためには何ら超能力は必要ない。この文が発話されたときに、発話した者を我々が叱ったり、減点したり、否定したりすれば良いだけの話である。こうした規約が成立するメカニズムの細部は確かに不明だが、同種の様々な社会的規約(法律や道徳など)が現に成立していることが承認されるなら、その限りで、真理に関するこの新規約主義も実行可能であると認められるであろう。
 以上のような新規約主義は真理表の説明として受け入れられるだろうか。新規約主義に対しても、やはりいくつかの問題点を指摘することができる。
 第一に、新規約主義は本来の規約主義の意図を裏切るのではないかと思われる。規約主義の目的は、必然的に真である数学・論理学の言明と偶然的にしか真にならない事実的言明の違いを説明することにあった。規約主義によると、数学・論理学の言明は純粋に規約によって真になり、それゆえ必然的に真であるのに対して、事実的言明は事実によって真になり、それゆえ、事実のあり方次第でたまたま真になったり偽になったりするのである。一見すると、新規約主義はまさにこうした説明を与えてくれるように見えるかもしれない。原子文と否定の論理結合子しかない我々の言語に選言の論理結合子が追加されたとすると、先の規約には次のような条項が追加されることになる。
この追加で修正された規約が支配している限り、我々はどのような世界にいても、この規約のみに基づいて、数学・論理学に属する言明のひとつ、たとえば、文「ソクラテスは人間である、または、ソクラテスは人間であるということはない」を是認することになる。したがって、この文はすべての世界で真であり、ゆえに、必然的に真である。新規約主義のもとでは、数学・論理学の言明は規約によって真になると言い得るであろう。他方、事実的言明、たとえば、「ソクラテスは人間である」は、規約のみによっては是認すべきか否認すべきかは分からない。この文が名指している事態がこの世界で真であることを見いだして、我々はこの文を是認することになり、したがってこの文は真になる。このとき、この文は事実によって真になったのだと主張できるだろうか。できないと思われる。なるほど我々は事態が真であることを参照するが、我々が問題の文を真にする(是認する)のは、名指している事態が真な言明は真にせよ(是認せよ)という規約に基づいてである。もしもこのように規約せざるを得ない何らかの強制力が働いているのならば、そうした強制力を行使している事実によって真になるのだと言えるかもしれないが、そうした強制力が存在しているとは考えられない。新規約主義の規約は完全に任意に取り決めることが可能であり、我々は、たとえば、名指している事態が偽な言明は真にせよ(是認せよ)という規約も採用できるし、事態など一切参照せず、「ソクラテスは人間である」は真にせよ(是認せよ)と規約することさえできるのである。新規約主義では、数学・論理学の言明だけではなく、事実的言明も規約によって真になるのであり、この区別自体が規約によって自由に取り決められているのである。これでは両者の本質的な違いを説明したことにはならないであろう。だから、新規約主義は規約主義の本来の目的を達成していないと思われるのである。
 旧規約主義の真理観では、そもそも文を規約によって真にすることが不可能であり、すべての文が事実によって真になるのだと見なさざるを得ない(もちろん、ある文がどの事態を名指すのかは純粋に規約によって定められることであり、その限りでは規約にも依存していると言わなければならないだろうが)。これに対して、新規約主義の真理観では、すべての文が規約によって真になる。そうすると、これら二つの真理観を混在させることによって、数学・論理学の言明と事実に関する言明の間の区別がつけられると思われるかもしれない。すなわち、前者の言明が真であるというときの述語「真」の意味は「是認される」という性質であり、後者の言明が真であるというときの述語「真」の意味は「名指している事態が真である」という性質である、とするのである。そうすると、数学・論理学の言明は規約によって真となり、事実的言明は事実によって真となる、と主張することができるようになる。しかし、この考えに対しては、異なる二つの性質に対して同じ述語「真」を用いるのはなぜなのかという、性質説を批判したときと同じ問題が生じるので、我々はこの考えを受け入れることはできないであろう。
 旧規約主義が拠って立っていた第三節の真理論を唱えたラッセルは、事態の真偽をバラの色にたとえて、「あるバラは赤色であり、あるバラは白色であるのとまさに同じように、ある[事態]は真であり、ある[事態]は偽である」(27)と述べていた。確かにあるバラは我々とは独立に自然の状態でも赤色をしているが、我々が手を加えることによって、たとえば、赤い顔料を吸収させることで、白いバラを赤いバラにすることもできる。そこで、たとえば、日本は自然本来の状態では白いバラしか存在しないと仮定した上で、「日本のバラは赤くせよ」という規約が成立しているとしよう(人々は日本で白バラを見かけたら、たちまち赤色に染め上げてしまうのである)。そうすると、諸外国の赤バラは事実によって赤いのだが、日本の赤バラは規約によって赤いのだ、ということになるだろう。このように、自然状態でも発現し得るが、人為的に発現させることも可能であるような性質を見つけ出すことができ、その性質を真理述語の意味とすることが正当化されるならば、事実による真理と規約による真理という二分法を維持することはできるかもしれない。そうした性質が存在するか否かは不明だが、新・旧の規約主義が真理述語の意味と考えている性質では、この二分法を維持することはできないのである。
 もちろん、二分法に固執しない人にとっては、新規約主義に対するこのような批判は意味がないだろう。そこで、新規約主義に対する第二の問題点に移ることにする。それは、あらゆる真理を規約による真理としてしまうことは、果たして真理についての妥当な見方と言えるのだろうか、という問題である。
 我々の言語において、「真」という述語が帰せられている文の集まりと社会的に是認されている文の集まりが一致することは疑わないことにしよう。しかし、もしも述語「真」が帰せられている文がすべてある性質φを有しているならば、述語「真」の意味は是認ではなくφであり、真なる文(すなわちφを有する文)が是認されているのは「φを有する文を是認せよ」という規約が成立しているからである、と考えるのが自然であろう。少なくとも、そう考える余地はある。したがって、新規約主義者を徹底するためには、そうした性質φの存在を否定しなければならない。その結果、新規約主義の真理は完全に任意な取り決めということになる。我々は何の根拠もなく、つまり、文が有するある一定の性質φに注目したりすることなく、まったく自由に文の集合を形成し、こうして集めた文を「真」と呼んでいるのだ——これが新規約主義の真理観である。このような真理観に対しては、かつてクワインが「経験主義の二つのドグマ」で規約主義のひとつのバージョンを批判したときに用いたのと同じ議論を使って批判することができるように思われるかもしれない。そこでのクワインの標的は「意味論的規則」と呼ばれるもので分析的真理(単なる真理ではない)を特徴づけようと試みたカルナップの議論である。意味論的規則とは、ある言語の分析的言明のすべてを列挙や再帰的方法などによって特定した規則のことであるが、クワインはこのような方法では分析性の概念を説明したことにはならないと批判するのである。その理由は次の通りである。
「分析性」を「真理」に置き換えて考えれば、これはまさに新規約主義に対する批判になるように思われる。では、新規約主義は真理概念の説明に失敗しているのであろうか。そうではない。新規約主義の規約が、文の集合Xを任意に形成し、その要素の各々に対して「真」というレッテルを貼るだけであったとすれば、クワイン流の批判も有効なものとなったであろう。集合Xの要素に共有されている性質φの存在は否定されているのだから、この規約が「真」という述語に対して、その意味としてどんな性質を帰属させているのかはまったく不明である。また、別の規約が採用されるならば、Xとは異なる文集合X’が形成され、その要素にも「真」というレッテルが貼られることになるのだが、このときも我々は述語「真」にいかなる性質を帰属させているのか理解していない。それなのに、なぜ我々はXの要素に対してもX’の要素に対しても、同一の「真」というレッテルを貼り付けるのだろうか。どちらの場合でも真理という唯一の興味深い性質が述語「真」に帰属させられているのだという幻想を抱かせないためにも、一方には「M」、他方には「N」など、別々のレッテルを貼り付けるべきであろう(29)。かくして、規約によっては真理概念を説明したことにはならないのである。しかし、この批判が成り立つのは規約が単なるレッテル貼りの問題であるときに限られる。意味論的規則は文を任意に集めてきて、それに「分析的に真」というレッテルを貼るだけなのかもしれないが、新規約主義の規約は、文を任意に集めてきて、それを是認するように社会に要請、強制、命令し、その文が社会的に是認されるようになるという状況を生み出すものである。そしてこの是認されるという性質が述語「真」に帰属されている性質である。ただしこの帰属は規約によって行われているのではなく、規約以前に既に行われていることに注意しなければならない。クワイン流の批判は、規約主義では文を任意に集めてそれに「真」というレッテルを貼ることによって述語「真」の意味が確定される、と考えている。したがって、集められた文の各々に共有されている性質φが存在しないなら、この規約は述語「真」の意味を確定することに失敗する。仮に共有性質φが存在するならば、それは我々が性質φに着目して、それを有する文を集めてきたからなのであり、述語「真」の意味は規約以前に既に確定しており、文を集めたことで述語「真」の意味が確定されると考えることは循環以外の何ものでもない。これに対して、新規約主義では、述語「真」の意味は是認されるという性質として規約以前に既に確立されている。しかしこの性質は規約によって集められた文があらかじめ持っている性質ではまったくない。文は、集められた後に、規約によって、この性質をはじめて持つようになるのである。したがってここには循環も存在しない。要するに、新規約主義の規約は、真理述語の意味を確定するという静的な役割を担っているのではなく、真理性質(すなわち、是認されること)を文に持たせるという、いわば動的な機能を実行しているのである。したがって、このクワイン流の規約主義批判は新規約主義には当てはまらないのである。
 以上の議論は、すべての真理が規約による真理であるとする新規約主義を、それは形式的な欠陥を抱えているのではないか、というクワイン流の批判から弁護しただけのものであり、決してその実質を擁護することを意図したものではない。むしろ、この立場が実質的な難点を抱えていることは明らかであると我々は考える。我々は、たとえば、「ソクラテスは人間である」を真とする(是認する)規約を採用しているが、ある集団の中では「ソクラテスは人間である」を偽とし(否認し)、代わりに「ソクラテスは馬である」を真とする規約が成立しているとしよう。このとき、新規約主義の立場では、どちらか一方の規約が正しいのだと言うことはできない。もしもそう言い得る何らかの根拠があるとすれば、そうした根拠こそ真理の本質であると考えるべきであって、そうすると規約主義は崩壊してしまうからである。このように真理がアナーキーなものであるという考え方は我々には受け入れがたいものであるように思われる。しかし、真理は時代や地域や文化に相対的なものであるという考えをむしろ積極的に主張する相対主義者達が存在するのも事実である。彼らにとっては、真理表を説明するために生じてきた新規約主義は歓迎すべき立場であろう。ここでは相対主義の全面的な検討を行って、それを批判することはできない。我々にできることは、新規約主義とは異なる仕方で真理表の説明を与えることだけである。それに成功すれば、相対主義への誘惑の種の少なくともひとつは滅ぼしたことになるだろう。そのためには、真と見なされている(是認されている)文のすべてに共有されている性質φを探り当てねばならない。我々はこの作業を第八節で行う予定である。



(1)セクストス(二〇〇六)、二四五—六頁。なお、ピロンについての記述は同書に付せられている訳者による固有名詞索引と補註を参照した。
(2)山下(一九八三)、一六三頁。ただし、ストア派の選言は排他的選言だったということなので、彼らは本文で示した選言の真理表とは異なった仕方で選言を理解していたことになる。具体的には、「p」と「q」がともに真のとき「pまたはq」は偽になる。
(3)Whitehead and Russell (1910), p. 8. 原文では論理記号が使われているが、ここでは日常語に置き換えた。なお、「『p』の真理値(truth-value)は真(truth)である」、「『p』の真理値は偽(falsehood)である」はそれぞれ「『p』は真(true)である」、「『p』は偽(false)である」を意味している。
(4)真理表の歴史に関しては Kneale and Kneale (1962), pp. 531-2 を参考にした。そこにはウィトゲンシュタインの名前も挙がっているが、本論文第七節で考察するように、確かに彼は真理表のように見えるものを考案したが、それは実際は真理表ではないと見なすべきであろう。なお、公刊されなかった文献の中に見られる真理表に関しては、Shosky (1997) と Anellis (2004) が興味深い事実を教えてくれる(一九一二年のラッセルの草稿の裏に書かれたウィトゲンシュタインのメモや、一九一四年のハーバード大学でのラッセルの講義に出席したT・S・エリオットの取ったノート、一九〇二年のC・S・パースの草稿などに真理表が描かれているということである)。
(5)Post (1921), p. 267. この論文が雑誌に発表されたのは一九二一年だが、前年に博士論文としてコロンビア大学に提出されている。なおこの論文では「真理表(truth table)」という用語も使われている。
(6)ショスキーは文字通りの真理表を「真理表装置(truth-table device)」、どういう形であれ真理表のように真理関数を分析することを「真理表の方法(truth-table technique)」と呼んで、両者を区別することを提案している(Shosky (1997) , pp. 12-3)。彼の用語を使えば、本論文の関心は「真理表の方法」にある、ということになる。
(7)ただし条件文に関しては真理表に異議をとなえる者が増えてくる。これは我々の言語には真理関数的ではない条件文が存在するからである。しかし、真理関数的ではない複合文は本論文の考察対象外である。
(8)この真理論は Russell (1903) や Russell (1904) で述べられている。この真理論の詳細に関しては、橋本(一九九七)を参照せよ。
(9)橋本(二〇〇〇)で、私はこうした事態をラッセルやウィトゲンシュタインの真理対応説に即して論じた。
(10)Russell (1918-9), pp. 207-15. この時期のラッセルは偽なる事態の存在を否定し、真なる事態の存在だけを認め、それを「事実」と呼んだ。したがって、彼が存在を認めた複合的事態は、正確に言うと、否定的事実(negative fact)である。
(11)Beebee and Dodd (2005), p. 1.
(12)Armstrong (2004), p. 58. アームストロングは、たとえば、「テアイテトスは飛んでいない」という真なる文を真たらしめている個別的な否定的事態(テアイテトスは飛んでいないという事態)が存在するとは考えない(彼の言う「事態」は我々の「真なる事態」に相当する)。存在するのはあくまで、テアイテトスは座っている、テアイテトスは獅子鼻である、・・・、といった個別的な肯定的事態である。しかし、文「テアイテトスは飛んでいない」を真にするためには、これらの個別的肯定的事態の集合だけでは不十分で、「テアイテトスに関する事態はこの集合ですべてである」という文が表現する、高階の事態が存在しなければならないと彼は考える。ところがこの文は、テアイテトスに関する事態はこの集合以外には存在しない、ということを意味しているから、結局、存在が要請された高階の事態は否定的事態なのである。
(13)Russell (1918-9), p. 209. ラッセルの「事実」という用語については註(10)を見よ。
(14)Russell (1918-9), p. 211.
(15)Demos (1917), p. 189.
(16)Ramsey (1927), p. 42. ラムジーが批判の直接の対象としているのは Chadwick (1927) である。チャドウィックは否定的事態だけでなく連言的事態の存在も認めている。ただし彼の複合的事態の分析方法は本論文の実在説とは少し異なっている。彼によると、たとえば、「Bは緑色ではない」が名指している複合的事態では、否定性はBと緑色を結び付ける二項関係であるとされている(Chadwick (1927), p. 5)。
(17)Armstrong (2004), pp. 81-2. [ ]の中は筆者の挿入である。以下においても同様である。
(18)Ayer (1936), pp. 79-84.
(19)ルイス・キャロルの議論は Carroll (1895) で、クワインの議論は Quine (1936) で展開されている。
(20)Dummett (1959), p. 170.
(21)Dummett (1959), p. 176.
(22)Dummett (1959), pp. 176-7.
(23)この例解は Black (1964), pp. 221-2, 224-5, 229-30 で提示されている。これはウィトゲンシュタインの思想に対する解釈という文脈にあるので、必ずしもブラック自身の真理表に対する見解が述べられたものとは見なせないかもしれないが、ここでは話を簡単にするため彼自身の見解であるかのように扱うことにする。したがって、ウィトゲンシュタイン解釈として正しいか否かという問題にも関わらない。なお、以下の紹介では、本質的ではない点に関して、追加と変更がなされている。
(24)Black (1964), p. 221.
(25)Black (1964), p. 221.
(26)Black (1964), p. 221.
(27)Russell (1904), p. 75.
(28)Quine (1951), p. 33.
(29)Quine (1951), p. 33 を参照せよ。

文献



A Philosophical Examination of Truth-Tables (I)

Kouji Hashimoto


A truth-table shows that the way in which the truth-value of a complex sentence depends on the truth-values of its components. For example, the following truth-table
shows that the truth-value of the complex sentence “Socrates is not a man” is the opposite of that of its component “Socrates is a man”. It must be admitted that the truth-table rightly describes how those truth-values depend on each other. However it seems difficult to explain why it is the right description. In the present paper, I examine several theories which are alleged to explain the rightness of the truth-table and argue that none of them succeeds in doing so; then I state my own theory which I think shows in a satisfying way why the truth-table is the right one.

My arguments of Part I go as follows. In Section 2, I take a brief look at the history of truth-tables. In Section 3, I present the theory of truth for an atomic sentence, which is a kind of correspondence theories of truth and found in early Russell’s writings. According to the theory, an atomic sentence is true (or false) if and only if the atomic state of affair that the sentence denotes has the indefinable, unanalysable property of truth (or falsehood). So the atomic sentence “Socrates is a man” is true because the denoted atomic state of affair that Socrates is a man has the property of truth. In Section 4, I take up what I call “the realist theory” and argue against it. The realist theory contends that there are not only atomic states of affairs but also complex states of affairs such as negative states of affairs, conjunctive states of affairs, disjunctive states of affairs and so on. Then it insists that a complex sentence is true (or false) if and only if the complex state of affair it denotes has the property of truth (or falsehood). So, the complex sentence “Socrates is not a man” is false because the denoted complex, negative state of affair that Socrates is not a man does have the indefinable property of falsehood as a matter of fact. I address several reasons against the realist theory, one of which is this: we cannot know whether “Socrates is not a man” would be true if “Socrates is a man” were false. In Section 5, I turn to the conventionalism, which says that a complex sentence is true (or false) because we stipulate that it is true (or false) if such and such conditions obtain. Thus the complex sentence “Socrates is not a man” is false because we stipulate that it is false if “Socrates is a man” is true. I argue that, on one hand, if the stipulation means that we make the denoted negative state of affair that Socrates is not a man have the indefinable property of falsehood, then it is impossible for us to carry out the stipulation. On the other hand, if it means only that we assert the sentence “Socrates is not a man”, we are able to carry out the stipulation. In this case, however, it must be noted that “truth” means “being asserted”. And I argue that the conventionalism in this sense leads to the view that every truth including factual sentences such as “Socrates is a man” is true by convention, which is an unacceptable view.