ラッセルの最初の真理論

橋本康二

I

 「真理は実在する」と言われても、誰もそれほど驚きはしないかもしれない。しかし、「虚偽もまた実在する」と言われると、疑問を感じる人が増えてくるのではなかろうか。むしろ、「真理も虚偽もともに客観的に実在する、つまり、思考し表現する人間精神が存在しなくても、既にして何かが真であり何かが偽である」ということを中核にする実在論的な真理論は、多くの人の直観的な反発を招きやすいであろう。
 1900 年頃にヘーゲル的観念論哲学から離脱したラッセルは、その後の数十年間にわたって実在論的な哲学を構築することを試みることになるが、その過程で彼はいくつかの異なる真理論を展開した。一般にラッセルの真理に対する態度は対応説的であると考えられており、事実彼はある種の真理対応説をいくつか考案したのであるが、観念論から実在論に転向した直後のラッセルが最初に抱いた真理論は、真理対応説とは一見して相いれないまったく別種のものであった。それは、上で述べたような意味での、徹底的に実在論的な真理論であった(1)。本論文では、この実在論者としてのラッセルが最初に抱いた真理論が検討される。この検討を通して、ラッセルの実在論的真理論が、少なくとも真理論の可能なオプションの一つとして何がしかの考慮を払われるに値する、有意味な真理論であることを明らかにしていきたい。

II

 我々が問題にしているラッセルの最初の真理論がいかなるものであったのかを見るためには、この時期の彼の存在論から見ておかなければならない。それはきわめて多岐にわたる主題を含んでおり、また、その論述のされ方も必ずしも明晰なものとは言いがたい。以下では、我々の問題に関係ある主題に話を限って、ラッセルの存在論の基本的な考えをできるだけ簡潔にまとめてみたい(2)
 存在(being)を持つもの、すなわち、存在者(entity)を、ラッセルは「項(term)」と総称する。項には単純なものと複合的(complex)なものとがある。単純な項は「物(thing)」と「概念(concept)」に分類される。常識的な意味で個物と理解されているもの(例えばソクラテスやプラトンなど)が物の範疇に属し、性質と関係(人間や愛など)が概念の範疇に属すると考えられている。項(単純であるとは限らない)が複合することによって複合的項が構成されるが、ラッセルはこの複合的項を「命題」と呼ぶ。命題も項であるから存在を持つ存在者である。
 項の複合ということに関しては、次の二点が注意されねばならない。
 第一に、任意の項がいくつか集まっても、必ずしも複合して命題を構成するわけではない。例えば、物「ソクラテス」と物「プラトン」だけを構成要素とするような命題、また、物「ソクラテス」と関係「愛」だけを構成要素とするような命題は、ラッセルの存在論の中ではそもそも命題とは認められていない。このような項が集まっても、複合して命題を構成することはないのである。つまり、項の複合としての命題には以下のような制限が課されている。(i)命題を構成する項の少なくとも一つは概念でなければならない。(ii)概念にはそれぞれ固有の数が指定されており、この数だけの項と当の概念が命題の構成要素となっていなければならない。上の最初の例は制限(i)を満たしておらず、二番目の例は制限(ii)を満たしていないので(なぜなら関係「愛」に指定されている数は2であるから)、命題とはならないのである。しかし以上の制限さえ満たしていれば、どのような項も複合して命題を構成し、この命題は存在者として認められる。例えば、 P が命題であるとすると、P を構成している項のうち、概念以外の「どの項も任意の他の存在者に置き換えることができ、その際、我々は命題を持つことをやめない」([5], p. 45)のである。この時期のラッセルの存在論では存在者がきわめて豊富である、ということはよく指摘される点であるが、とくに命題が豊富であることが、我々が問題にしている真理論にとっては重要である。具体的に言えば、例えば、物「ソクラテス」、関係「愛」、物「プラトン」から構成される命題だけではなく、物「ソクラテス」、関係「憎悪」、物「プラトン」から構成される命題も、ともに真性の命題であり、ともに等しく存在を持つ存在者であると認められていることが、実在論的な真理論を要請することになるのである。
 項の複合に関して注意すべき第二の点は、それは単なる項の集まりではない、ということである。例えば、上で述べた、ソクラテス、愛、プラトンから構成される命題を、集合{ソクラテス、愛、プラトン}と同一視することはできない(たとえ集合を存在者と認めたとしても)。この時期のラッセルの「命題」という考えは、現在「ラッセル的命題(Russellian proposition)」と呼ばれて再評価され、有力な概念装置として用いられることが増えているが、その際に、ラッセル的命題はなお一種の集合論的対象と見なされていることが多い。例えば、先の命題は、順序対<ソクラテス、愛、プラトン>と単純に同一視されがちである。しかしこのように順序構造を組み込んで構成要素を列挙した集合も、やはりラッセルの考えていた命題ではない。ラッセルの言う命題とは、「本質的に統一体(unity)であり、分析することによってこの統一体が破壊されると、構成要素をいくら列挙しても、もとの命題は回復しない」([5], p. 50)のである。命題を単なる項の集まりではなく統一した全体となさしめているのは、そこに含まれる関係(前段で言われた、命題の中に必ず含まれていなければならない概念)である。この関係が、単なる抽象的な関係としてとどまっているのではなく、命題に含まれる他の項を「実際に関係づけている関係(relation actually relating)」として機能することによって、統一体としての命題が構成されることになる。直観的に言えば、先の命題では、ソクラテスはプラトンを実際に愛していなければならない。また、ソクラテス、憎悪、プラトンから構成される命題では、ソクラテスはプラトンを実際に憎悪していなければならない。そしてこの二つの命題がともに、ラッセルの存在論では存在を認められた存在者なのである。この二つの命題は、一見すると矛盾しているように思われる。ラッセルの存在論は矛盾を許容するような体系なのであろうか。そうではないことを保証するのが実在論的な真理論なのである。
 では真理論に移ろう。真理論の目的は、項の複合としての命題を二つのグループに分割することにある。ラッセルは、それ以上は分析することが不可能で、したがって何か他のものによって定義することが不可能な、そうした単純な性質として「真」と「偽」いう性質を導入する。命題のうちあるものは真という性質を有し、他のものは偽という性質を有している(3)。ラッセルはこの事態をバラの花にたとえて次のように述べている。「真理と虚偽には何の問題も存在しない。あるバラは赤色であり、あるバラは白色であるのとまさに同じように、ある命題は真であり、ある命題は偽である」([6], p. 75)。真という性質を有している命題は「事実(fact)」、偽という性質を有している命題は「虚構(fiction)」と呼ばれる。このようにして命題は二つのグループに分割される。前段で問題になった二つの命題も、一方は真なる命題(事実)として、他方は偽なる命題(虚構)として存在している。したがって、この二つの命題をともに含んでいても、体系が矛盾していることにはならないのである。
 ラッセルの存在論が描き出す世界は、単純な項がそこにおける基礎的存在者であるが、実際は、単純な項は互いに複雑に絡み合って複合的項すなわち命題を形成しているから、命題からなる世界と言える。命題は精神の存在に依存しない、独立した客観的存在者である。客観的存在者である命題のあるものは真という性質を有し、他のものは偽という性質を有している。したがって、何かが真であったり偽であったりするという出来事は、精神の存在に依存しない客観的な出来事である。真理(=真なる命題=事実)も虚偽(=偽なる命題=虚構)もともに等しい資格で客観的に存在する。ラッセルの世界は、真理と虚偽の二元論的世界、あるいは、事実と虚構の二元論的世界であると言うことができよう。以上のような存在論を基礎にした真理論は、あまりにも思弁的すぎて、哲学で通常議論されている真理論とは問題意識がまったく違うのではないか、と疑問に思われるかもしれない。しかしそうではない。ラッセルの実在論的真理論は、知識論と言語論(意味論)に応用することが可能であり、哲学の通常の真理論と問題意識は重なるのである。
 まず知識論との関係について(4)。ラッセルは、信念を精神主体と命題の間に成立する二項関係の一種と考える。つまり、精神主体が命題に対してある態度を取ることを、ラッセルは信念と考えるのである。この考えはそれほど特異なものとは思われないかもしれないが、肝心なのは、ここで言われている「命題」が、まさに上で見てきた複合的項としての命題に他ならない、という点である。複合的項としての命題は、精神主体に依存しない独立した存在者であるが、それは同時に、信念という関係において精神主体の対象ともなり得るものなのである。また、精神主体と信念関係はともに単純な項である。したがって、ラッセルの信念論は彼の存在論の中に完全に組み込まれる。例えば、アリストテレスはソクラテスがプラトンを愛していると信じているという信念は、精神主体「アリストテレス」、関係「信念」、(ソクラテス、愛、プラトンから構成される)命題の三つの項が複合してできる命題として分析されることになる。この複合的項である命題を「信念 A」と呼ぶことにしよう。存在論が教えることは、信念 A は存在する、ということである。実在論的真理論が教えることは、信念 A は真という性質を有するか偽という性質を有するかのどちらかである、ということである。しかしながら、「信念 A は真(偽)という性質を有する」ということが、通常言われる「ソクラテスはプラトンを愛しているというアリストテレスの信念は真(偽)である」ということに対応するのではない。信念 A は、真という性質を有していようと偽という性質を有していようと、いずれの場合も別の種類の二重性を備えている。信念Aの構成要素となっている方の命題(ソクラテス、愛、プラトンから構成される命題)を「信念 A の対象」と呼ぶことにすれば、信念 A のもう一つの二重性とは、信念 A の対象の真偽(真という性質の所有ないし偽という性質の所有)である。こちらの二重性の方が、通常言われている信念の真偽に対応するものである。ラッセルの分析のポイントは、通常曖昧にされている「信念」というものの内実を複合的項である命題「信念 A 」として明晰化したこと、通常ルーズに語られる「信念の真偽」を信念 A の対象の真偽に還元したこと、に求められる。もっとも還元したといっても、ラッセルは、信念 A の対象が真のときでも、「信念 A は真である」とは言わない、いやむしろ言えない。命題としての「信念 A」自体の真偽は確定した別の問題だからである。信念 A の対象が真のとき、「信念 A は正しい(correct)」ないし「信念 A は知識(knowledge)である」、信念 A の対象が偽のとき、「信念 A は正しくない」ないし「信念 A は誤謬(error)である」、とラッセルは言う。したがって彼の語法に従えば、「信念 A は正しい(正しくない)」が「信念 A の対象は真である(偽である)」に還元されることになる。このようなラッセルの考えによれば、信念の真理(正しさ)を云々するためには、あらかじめ信念の対象の真偽についての理論を有していなければならないことになる。逆に言えば、そうした理論を有していれば、何も新しいものを付け加えることなく信念の真理(正しさ)を説明できることになる。もちろんラッセルの実在論的真理論は、信念の対象すなわち命題の真偽を説明できる理論であり、よって派生的に、信念の真理(正しさ)を説明できる理論なのである。
 次に言語論との関係について。存在論における項という概念は言語の問題とはまったく独立なものであるが、項はまた同時に言葉によって指示(indicate, stand for)されることができる。つまり、言葉は項を指示する名前である。ラッセルによれば英語(我々の文脈では日本語)の単語はすべて、名詞であろうとそれ以外の品詞であろうと、単純な項を指示している名前である。例えば、「ソクラテス」、「プラトン」などの単語は、物「ソクラテス」、物「プラトン」などを指示する名前であり、「愛する」、「憎悪する」などの単語は、関係「愛」、関係「憎悪」などを指示している名前である。単語が単純な項を指示する名前であるのに対応して、単語の複合である文(文法的に正しい単語の配列)は項の複合である命題を指示する名前である(5)。例えば、文「ソクラテスはプラトンを愛している」は、ソクラテス、愛、プラトンから構成される命題を指示している名前である。かくして、言語表現の「意味」とは何かという一般的な問が立てられたなら、それは言語表現が指示する項(単純ないし複合的な項)であると一貫して答えることができる。きわめて単純明解な意味論であると言えよう。残念ながら、言語・意味という主題に関して、ラッセルは言語表現と項の間の指示関係以上のことはほとんど論じていない。とくに、通常問題にされる「文の真理」ということはまったく語られていない。しかしながら、先に見た信念論の議論を若干変更して言語論に応用することが可能であろう。どの文 S も、それが合法的に構成された有意味な文である限り、一つの複合的項すなわち命題を指示する。この命題を「文 S の指示対象」と呼ぶことにしよう。ラッセルの実在論的な真理論によれば、文 S の指示対象は真という性質を有するか偽という性質を有するかのどちらかである。通常言われる「文 S は真である(偽である)」という事態は、文 S の指示対象が真である(偽である)ということに還元される。信念のときと同様、文についても「真理」ではなく「正しさ」という言葉を使った方が誤解を生まないであろう。すると、文 S の正しさは文 S の指示対象の真理に還元されるのである。
 以上、真理が一般に問題にされる信念と文がラッセルによってどのように処理され得るのかを見てきた。ラッセルによれば、信念の真理も文の真理もともに、存在論レベルでの命題の真理に依拠し、それによって説明されるべきものなのである。

III

 1906 年頃からラッセルは真理対応説を展開するようになるのだが、その際に自分がかつて奉じていた実在論的な真理論を批判することを忘れなかった。以下ではラッセル自身によるこの批判を見ておきたい。批判は三つある。
 まず、実在論的真理論によると、虚偽(=虚構=偽という性質を有する命題)もまた精神の存在から独立したものであり、客観的に存在するのであった。しかしこのことは「ほとんど信じられないことである。我々は、過ちを犯す精神が存在しないならば、虚偽は存在し得ないと感じる」([9], p. 152)。これが第一の批判である。次に、実在論的真理論を信念に適用した説明では、正しい信念にだけではなく誤った信念にもともに等しくその対象である存在者すなわち命題が存在するのであった(判断についても同様である)。ところが、「我々が正しく判断しているとき、我々の判断にある仕方で『対応』している存在者が我々の判断の外部に見いだされるべきであり、他方、我々が誤って判断しているとき、そうした『対応』する存在者は存在しない、と我々は感じる」(ibid.)。これが第二の批判である。最後に、実在論的真理論が依拠している存在論では、一見すると矛盾するように思われる二つの命題がともに等しく存在を持つ存在者として認められているのであった。しかし、「事実は今日が火曜日であるときに、『今日は水曜日であるということ』のような奇妙な幽霊のようなものが事実のほかに存在してうろつき回っていると述べることは、もっともらしくないと思われる。そうしたものが実在世界の中にうろついているとは、私には信じられない。・・・生き生きとした実在感覚(vivid sense of reality)を有する人は誰もそんなことを想像することはできないと私は思う」([11], p. 223)。これが第三の批判である。
 以上の批判は真剣に受け取るべきものであろう。しかしながら、それらが内在的な批判にはなっておらず、外部から一方的になされた批判にすぎないことには、十分注意しておくべきである。第一と第二の批判は、真理概念に対する古くからの伝統的な見方のみを根拠になされている批判であり、第三の批判は、偽なる命題(虚構)に存在してほしくないという感情を「生き生きとした実在感覚」と称しているにすぎない。旧弊な真理観を打破しようという改革精神にあふれ、偽なる命題が存在しても構わないという「アナーキーな実在感覚」を持った者にとっては、上の批判は決定的なものからはほど遠いであろう。ラッセル自身も、「こうした議論が論理的な強制力を持つものであると主張するつもりはない」([10], p. 153)と述べ、この点を事実上認めている。かくして実在論的真理論はラッセル自身の批判にもかかわらずなお安泰である。
 しかし、実は、前節で解説した実在論的真理論はある内的な困難を抱えており、そのままでは維持できないように思われるのである。この困難は上の三つのラッセル自身の公式の批判の中ではまったく触れられていないものである。次節でこの困難を検討する。

IV

 実在論的真理論にある困難が内在していることは、この真理論を採用しているときのラッセル自身が既に気がついており、いくつかの箇所で問題にしていた(6)。しかし、ラッセルは、「真理の本性は他の分野の諸原理にましてことさら数学の諸原理に関係している、というわけではない。それゆえ私はこの問題を、以上で手短に示した困難とともに、論理学者達にまかせることにする」([5], p. 49)と言い、十分な議論を与えていない。また、不十分ながら与えられている議論も、きわめて混乱しており、理解することが困難である。したがって、限られたスペースの中でラッセルのテキストに基づいてこの困難を検討することは、あまり得策とは言えない。そこでこの節では、一般的な問題として実在論的真理論の抱える困難を検討したい(7)
 問題としたい困難はこうである。ラッセルの存在論で真偽という性質が導入されたのは、命題を二つのグループ(真という性質を有する命題と偽という性質を有する命題)に分割するためであった。しかし、単に真偽という性質を導入しただけではこの分割はうまくいかない。項が複合して命題を構成するときに課されている条件はきわめて弱いものであったことを思い出されたい。その条件によれば、例えば、「人間」や「犬」というような性質概念に指定されている数は1であるから、ソクラテスと人間が複合して命題を形成するだけではなく、ソクラテスと犬も同様に複合して命題を形成することになるのであった(8)。ラッセルは真偽という性質を人間や犬といった性質と同列に考えているように思われる。「真と偽は命題全体に付着している性質であって、それ自体は一般に命題の一部ではない」([7], p. 504)。つまり、ソクラテスと人間が複合して命題を形成するように、例えば、ある命題Pと真という性質が複合して別の命題を形成しているのである。しかしそうすると、ソクラテスと犬が複合して命題を形成するように、命題 P は偽という性質とも複合して命題を形成しているはずである。ラッセルの存在論では、ソクラテスと人間から構成される命題だけではなく、ソクラテスと犬から構成される命題もともに等しく存在する。それとまったく同様に、命題 P と真から構成される命題だけではなく、命題 P と偽から構成される命題もともに等しく存在するはずである。そうすると、命題 P を二つのグループのどちらか一方に分類することは不可能である。命題 P と真から構成されている命題にはさらに(例えば)真という性質が付着しているからグループ分けは結局可能である、という反論は無駄である。命題 P と真から構成されている命題に真という性質が付着してできる命題が存在するならば、命題 P と真から構成されている命題に偽という性質が付着してできる命題も存在するはずだからである。
 以上の困難が生じた原因は、真偽という性質をその他の通常の性質とまったく同列な性質と見なしたことにある。したがってこの困難を解消するためには、存在論における真偽という性質を、その他の通常の性質とは異なるまったく独特な性質であると考えなければならない。具体的には、命題 P が真という性質と複合しているならば、命題 P と偽という性質の複合は存在しないし、命題 P が偽という性質と複合しているならば、命題 P と真という性質の複合は存在しない、と考えることになる。命題 P は必ず真偽のどちらか一方の性質とのみ複合している。また、命題と真偽の複合体そのものにさらに真偽性質が付着することはない。このように考えれば、命題を二つのグループに分割することが可能になる。命題 P が実際に真と偽のどちらの性質を有しているのかは、もとより真理論の関知するところではない。それは個別科学が決定する問題である。どちらか一方の性質を必ず持たねばならない、というのが修正された実在論的真理論の基本テーゼである。このように真偽性質の特殊性を認めることによって存在論と真理論を修正すれば、上記の困難は解消される。しかしこの修正によって、真理概念をめぐるいくつかの問題が反省を迫られることになる。最後にこの点について若干の考察を加えておきたい(9)
 ラッセルの意味論によれば、言語表現は項を指示する名前であり、とくに文は命題を指示する名前であったが、修正された真理論に基づいた場合、この意味論は維持できないように思われる。文 S「ソクラテスは人間である」の指示対象は、ソクラテスと人間からなる命題 P である。では、文 ST「ソクラテスが人間であることは真である」の指示対象は何であろうか。文 ST が合法的に構成された言語表現である以上、それは何かを指示する名前でなければならない。命題 P に真という性質が付着して複合体 PT を形成しているならば、文 ST は複合体 PT を指示している名前である、と言えるかもしれない。しかし、命題 P に偽という性質が付着しているとすれば、修正された真理論によれば複合体 PT は存在せず、文 ST の指示対象はなくなる。一般に、「真(偽)」という述語を含む文には、指示対象が存在しない可能性が常にあるのである。かくして、文を命題を指示する名前と見なす意味論は、このような文に関しては破綻せざるを得ない。
 この事態への対処法はいくつかあるであろうが、ここでは修正された真理論と「文=名前」の意味論の両方を可能な限り維持する方法を示唆してみたい。それは、存在論のレベルで真偽という性質が特別視されたのと同様に、言語においても「真(偽)」という述語を特別視し、一種の真理余剰説を採用する道である(10)。余剰説的な考え方によれば、上の文 ST は、複合体 PT の存在・非存在に関係なく、常に命題 P の名前である。つまり、文 ST は文 S の単なる言い換えであり、「真」という述語は文 ST においてこの言い換えという働きをなしているだけであって、何らかの存在者(つまり真という性質)を指示している名前なのでない。「偽」という述語や否定表現についての考察を加えてこの考え方を徹底すれば、「文=名前」の意味論は基本的に維持できるであろう。ただし注意しておいてもらいたいのは、「真」という述語は存在者を指示する名前ではないが、だからといって真という性質が存在しないわけではない、という点である。真という性質は依然として欠くことのできない存在者である。また、真という性質はある命題と複合しており、この複合体は真という性質が付着しているもとの命題とは同一視できない別個の存在者である。したがってここで示唆されている考えは、存在論のレベルでは、真理余剰説の根本的精神とはまったく相いれないものである。ただ、意味論のレベルで余剰説の精神を受け継いでいるにすぎない。つまり、我々の言語における「真」という述語は、真という存在者を指示していないのである。また、我々の言語における「真」という述語を含んだ文も、真という存在者を含む複合体を指示してはいないのである。そうすると、実在論的真理論で存在が主張されている性質に対して我々の言語の述語である「真(という性質)」を使用するのは不当ではないのか、という批判を受けるかもしれない。この批判は正当なものである。しかしながら、別の述語、例えばラッセルがときどき用いる「論理的意味で主張されている(asserted in a logical sense)」という述語を使用すれば事態は改善されるのかというと、そうではない。どのような述語 X を使用しても、「命題 P は X である」という文が常に合法的に形成され、しかもこの文の指示対象が存在しない可能性がつきまとうので、結局、述語 X も問題の性質を指示する名前ではありえない、と結論せざるをえないからである。要するに、我々の言語によっては、実在論的真理論のいう真理性質を指示することは、いかにしても不可能なのである。これが、修正された実在論的真理論と「文=名前」の意味論の双方を維持した場合に得られる、真理問題についての一つの帰結である。
 この帰結は受け入れがたく思われるかもしれない。しかし、真理性質を指示できないことは、我々の言語の限界や欠陥を示しているのではなく、むしろ、実在論的真理論と「文=名前」の意味論が描き出した我々の言語の本質である、と考えることができる。文が他の存在者とは異なってまさに文であるためには、それが指示する対象(命題)が存在していることが不可欠である。しかしこれだけでは我々の言語における文の本質を尽くしているとは思われない。我々は、ある文を主張し、他の文を拒否している。これはいかなる行いであるのだろうか。まったくの無意味かつ無目的な行いであると見なすことは困難であろう。実在論的真理論と「文=名前」の意味論は、これを「真なる命題を指示している文を主張し、偽なる命題を指示している文を拒否せよ」という規則に従った行いであると考える。このように考えた場合、文の指示対象たる命題が真ないし偽という性質を持つことが、我々による文の主張・拒否という行いにとって不可欠な条件となる。つまり、真偽性質の存在が我々の行いを秩序づけていると言えよう。さて、命題 P と真理性質が複合しているとして、この複合体 PT を指示する文 ST が存在すると仮定しよう。複合体 PT はもはや真とも偽とも複合していないのであった。すると我々には、文 ST を主張する根拠も拒否する根拠もないことになる。我々によって主張されたり拒否されたりすることが我々の言語の文の本質であるとすれば、主張・拒否の対象となり得ないような文 ST は、我々の言語の文ではないと見なすべきであろう。我々の言語の本質上、真理性質は指示できないのである。



(1)この実在論的真理論が多少なりとも主張されている文献は [5]、[6]、[7] である。また、過渡期に書かれた [8] では、実在論的真理論と真理対応説が並記され、どちらを取るべきか決定できないと述べられている。真理対応説をはっきりと取るようになった [9]、[10]、[11] では、批判の対象として実在論的真理論が言及されている。なお、ラッセルの実在論的真理論は、実際は、初期ムーアのアイデアそのものであると見なすことができるものであるが([3]、[4] を参照)、本論文ではムーアについて検討することはできない。

(2)以下の存在論の叙述は基本的に [5], ch. IVによる。

(3)「偽」という性質を導入せずに、ある命題は真という性質を有し、他の命題はそれを欠いている、と述べられることもあるが、便宜上この差異は無視したい。

(4)この時期のラッセルの知識論は主に [6] に見られる。

(5)文が命題を「指示する」とラッセルが言っている箇所はない。文に関しては「the sentence expressing the proposition」([5], p. 42)という表現があるだけである。しかし、この時期のラッセルが文も名前にすぎないと考えていたこと、したがって文は命題を指示すると単純に考えていたことは、後に自己批判を行った次の文から明らかである。「[文]は事実の名前ではない。・・・私はこのことを、以前の私の教え子だったヴィトゲンシュタインによって指摘されるまで、まったく理解していなかった」([11], p. 187)。我々が問題にしている時期のラッセルは、もちろんまだヴィトゲンシュタインと出会ってさえいない。

(6)すなわち、[5], secs. 38, 52, 478 の中で。

(7)初期ラッセル哲学に関する詳細な研究書を著したピーター・ヒルトンも、本節で提示するのといくぶん類似した、実在論的真理論の内的困難を論じている([2], pp. 178-9)。しかし彼も、自分の議論はラッセルの([5], sect. 52 における)議論の十分な解釈ではない旨を断っている。

(8)以上のような、いわゆる「主語−述語」命題に対するラッセルの実際の分析はもっと複雑であるが、議論のためこのように単純化して話を進めることにする。

(9)信念についても同様の問題を指摘できるが、以下では言語の問題に議論を限定する。

(10)真理余剰説の詳細に関しては、その一ヴァージョンを積極的に擁護している [1] を参照されたい。

文献

[1] Horwich, P. Truth, Oxford: Basil Blackwell, 1990.
[2] Hylton, P. Russell, Idealism, and the Emergence of Analytic Philosophy, Oxford: Clarendon Press, 1990.
[3] Moore, G. E. “The Nature of Judgement”, Mind 8(1899), pp. 176-193.
[4] Moore, G. E. “Truth and Falsity”, in Baldwin, J. M. (ed.) Dictionary of Philosophy and Psychology, vol. 2, London: Macmillan, 1902, pp. 716-718.
[5] Russell, B. The Principles of Mathematics, Cambridge: Cambridge University Press, 1903. 2nd ed. London: George Allen and Unwin, 1937. References to the latter.
[6] Russell, B. “Meinong’s Theory of Complexes and Assumptions”, Mind 13(1904), pp. 204-219; 336-354; 509-524. Repr. in his Essays in Analysis, ed. by D. Lackey, London: George Allen and Unwin, 1973, pp. 21-76. References to the latter.
[7] Russell, B. “The Nature of Truth [1905]”, in his Foundations of Logic, 1903-05: Collected Papers of Bertrand Russell, vol. 4, ed. by A. Urquhart and A. C. Lewis, London: Routledge, 1994, pp. 492-506.
[8] Russell, B. “On the Nature of Truth”, Proceedings of the Aristotelian Society 7(1906), pp. 28-49.
[9] Russell, B. “On the Nature of Truth and Falsehood”, in his Philosophical Essays, New York: Simon and Schuster, 1910. Repr. in his Philosophical Essays, London: George Allen and Unwin, 1966, pp. 147-159. References to the latter.
[10] Russell, B. Theory of Knowledge: The 1913 Manuscript, ed. by E. R. Eames, London: Routledge, 1992.
[11] Russell, B. “The Philosophy of Logical Atomism”, Monist 28(1918), pp. 495-527; 29(1919), pp. 32-63; 190-222; 345-380. Repr. in his Logic and Knowledge, ed. by R. C. Marsh, London: George Allen and Unwin, 1956, pp.177-281. References to the latter.

〔神戸大学 非常勤講師〕



Russell’s Realistic Theory of Truth

Kouji HASHIMOTO


In his early writings “The Principles of Mathematics” (1903), “Meinong’s Theory of Complexes and Assumptions” (1904) and “The Nature of Truth” (1905), Russell held an unusual view about truth which I call “the realistic theory of truth”. It is the thesis that truth is an undefinable property which some propositions possess but the others lack; if a proposition possesses the property, it is true, if not, false. Since, according to his ontology, a proposition is an entity whose existence is independent of human minds, a proposition is either true or false without human minds. My aim here is to point out the significance of the realistic theory of truth and to defend it. First, I show that the realistic theory of truth can explain the truth of those beliefs and sentences which are normally supposed to be the primary bearers of truth. Second, I claim that the reasons by which Russell abandoned the realistic theory of truth in his later writings are merely begging the question. Finally, I argue that although the realistic theory of truth seems to contain an intrinsic difficulty, it can be dissolved by adopting some kind of deflationary view of truth.