ラムジーと真理の余剰説

橋本康二


1 序

 1910年台初頭の頃のラッセルは「多重関係理論」と呼ばれる判断論を核とした哲学を構想していた(1)。しかしこの判断論は、当時自分の学生であったヴィトゲンシュタインから批判されたことが大きな原因となり、ラッセル自身によって捨て去られることになった。この事件のしばらく後に発表されたラムジーの論文「事実と命題」(Ramsey 1927)は、この判断の多重関係理論を復活させる試みであった。多少具体的に述べると、ラッセルは判断とは主体、個物、普遍の間に成立する多重関係であるとしか言わなかったのだが、ラムジーはこの多重関係の内実を具体的に描き出そうと試みたのである。しかもその際に、多重関係理論を捨てた後のラッセルの『心の分析』(Russell 1921)に見られるプラグマティズムのアイディアを採用し、さらに、多重関係理論批判の上に成立したヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(Wittgenstein 1922)の命題論をも取り入れるという、非常に複雑な構造になっている。そして、さらにこの論文を決定的に難解にしているのは、多重関係理論ともプラグマティズムとも『論考』ともおそらく無縁な、むしろ矛盾するとさえ思われる、一つの真理論が提出されているという事実である。それは次の一文で与えられている。

この考え方は今日一般に「真理余剰説」と呼ばれている。しかし、上述の通り「事実と命題」の主題が判断の分析にあったため、真理余剰説についてはあまり多くは語られていない。また、ラムジーは後に、真理についての一冊の本を書こうと試み、完成させることはなく早世したのだが、残されている草稿を読むと、真理整合説や有用説に対する批判はあるものの、真理対応説への好意的な言及などがあり、果たして彼が本当に真理余剰説を信じていたのか、疑問が生じる(2)。つまり、ラムジーが真理について本当のところはどのような立場を取っていたのかは必ずしも明らかではない。
 そこで、本論文では、上の引用で示されている考えだけを額面通り受け取り、これをラムジーの「真理の余剰説」と呼ぶことにする。そして、この真理余剰説の妥当性を検討することを本論文の中心課題とすることにより、ラムジー哲学の一つの側面の総決算を行いたい。なお、この「真理の余剰説」という名称は一般的な呼び方に従ったまでであり、「余剰」という語の通常の意味は、ここでの「真理の余剰説」ではとくに意図されていないことに注意しておいてもらいたい。ここでいうラムジーの真理の余剰説とは、我々が使っている「真である」という述語に対応した真理性質は存在しないという学説である。以下で試みたいのは、このように理解されたラムジーの真理余剰説を、真理性質の存在を主張する実質的真理論と対決させることである。そのために、本論文では二つの区別をもうける。一つは、命題の真理と信念の真理の区別である。これは、実質的真理論が真理性質を帰属させる存在者(真理の担い手)の種類に関する区別である。簡単に言うと、命題とは物質と異なる形而上学的な存在者であり、信念とは心理的生理的な人間の状態の一種である。もう一つは、真理をめぐる存在的議論と言語的議論の区別である。これは、世界のあり方を検討する中で出てくる真理に関する議論を、我々が現に所有し使用している「真である」という述語の意味に関する議論から区別するものである。以上の二つの区別に基づいて、真理余剰説と実質的真理論の対決が行われる。まず第2節では命題の真理が扱われ、存在的議論においては真理余剰説にある程度の説得力があるが、言語的議論では実質的真理論に分があることが論じられる。また、真理余剰説の改良版の一つとしてホーウィッチが提唱しているミニマリズム真理論が取り上げられ、これが言語的議論でどの程度実質的真理論と対抗できるのかが検討される。第3節では信念の真理が扱われ、真理余剰説は存在的議論においてさえ命題の真理で持ち得た説得力を失うことが示され、言語的議論では命題の真理のとき以上にもっともらしさを欠くことが論じられる。第4節では、信念の真理に関する実質的真理論の一つとして真理有用説の一バージョンである「サクセス真理論」が取り上げられ、これが信念の真理の領域で言語的議論をどのように展開するのかが考察される。また、サクセス真理論とミニマリズム真理論との対比が行われ、両者の差異が強調される。最後に、本論文の中心課題から外れることになるが、ラムジーがサクセス真理論に与えたコメントが検討され、ラムジーが真理について本当に取っていたと思われる立場についての一つの解釈が提示される。

2 命題の真理

 この節で問題にしたいのは、例えば、「シーザーが暗殺されたということは真である」に見られるような、「・・・ということ」に帰属させられている真理性質である。これは「ことの真理」と呼ぶべきかもしれないが、哲学の一般的な用法にしたがって、「命題の真理」と呼ぶことにする。命題の真理が問題にされるとき、普通は、上に見られるような、我々が現に使っている「真」という語は何を意味しているのかが論じられる。これは当然であり、むしろ「真理」論である限りそうであらねばならない。しかし、我々の言語に最初から「真」という語が存在していたわけではなく、かなり後の段階になって導入されたと考えることは十分許されるであろう。もちろん、その経緯は我々にはまったく知らされていない。そこで以下では、まず、「真」という語が導入されるにいたった一つの架空のストーリーを描き出し、そこでどのような議論がなされるのかを考えてみたい。これは、現実の我々の世界において命題の真理をめぐって対立しあっている、実質的真理論と真理余剰説の間の一つの争点を浮かび上がらせるためである。そして、この架空のストーリーに接続させる形で、我々が現実に使用している「真」という言葉の意味の問題を検討することにしたい。

2.1 存在的議論

 我々の世界とほとんど同じだが、そこで使われている言語には「真」や「・・・ということ」という言葉が存在しないような世界を考えてみよう。この世界にも哲学者がいて、現象の究極的な説明を追求している。例えば、雪は白いという現象を取り上げてみよう。もちろんこの現象は物理法則によって解明され、最終的にはおそらく以下のように原子か、何かそうしたものについての言明の連言に還元されるだろう(「・・・⇔・・・」は「・・・のとき、かつ、そのときに限り・・・」を意味する)。
しかし、哲学者は、このような物理的解明には満足せず、さらにその先の、いわゆる形而上学的な説明を求めるのである。例えば、哲学者の内に「実質的真理論者」と呼ばれる一派が現れ、彼らは次のような説明を与える。便宜上、雪は白いという現象は物理学的にはそれ以上説明ができない基本的な出来事であるとしよう。実質的真理論者によると、この現象が成立しているときには、物理的存在者には還元できないような形而上学的な存在者 x が存在し、これがある性質を所有しており、成立していないときには、やはり x は存在するのだが、それは当の性質を欠いているのである。この形而上学的存在者は「命題」と呼ばれ、現象の成立/不成立に応じて命題が所有したり欠いたりする性質は「真」と呼ばれる。また、別の現象、例えば、草は緑色であるという現象が成立しているときには、命題 x とは異なる命題 y が存在し、これが真という性質を持つとされる。他の現象に関しても、同様に異なる命題が存在するとされる。さらに、命題 x には「雪は白いということ」(あるいは、「雪は白いという命題」)という名前が付けられ、命題 y には「草は緑色であるということ」(「草は緑色であるという命題」)という名前が付けられる。他の命題にも同様な仕方で名前が付けられる。したがって、雪は白いという現象に対する実質的真理論者の形而上学的な説明は次のようになる。
 以上が、「真」という語が導入された架空のストーリーである。ただしこれは完全に空想的な物語というわけではなく、我々の世界にいる幾人かの哲学者、具体的にはムーア、ラッセル、フィールドなどが提案した形而上学の理論に基づいたものである。ただ、彼らは既に存在する「真」という言葉との関連で自身の理論を表明しており、その関連を消去してできたのが、上に見たストーリーである。さらに、上のストーリーでは理論の細部も省略されている。ムーアとラッセルは、命題というものを個物と普遍の単なる集まりを超えた何らかの統一体として考えており、真理性質に関しては、それ以上の分析が不可能で、したがって定義することも不可能な単純性質であると考えている(3)。また、フィールドは、例えば、雪は白いという命題を、雪が白くなっている可能世界の集合と考え、「命題 x は真である」という性質を、「現実世界が命題 x の要素になっている」という性質であると考えている(4)。しかし、ここではこうした細部の問題にはあまり立ち入らず、形而上学的な存在としての命題と、それが持ったり持たなかったりする性質としての真理、というように単純化して話を進めていくことにする。
 では、我々の架空の世界のストーリーに戻ろう。実質的真理論者に対して、どのような批判が可能であろうか(以下、実質的真理論者に対して批判を行うものを「真理余剰説論者」と呼ぶことにする)。即座に思いつかれる反論は、命題という特殊な存在を認めることはできないという、彼らの形而上学そのものに対する批判である。実際、先に言及したラッセルなども、特に真でない命題が客観的に存在するという考え方の奇妙さゆえに、形而上学的存在としての命題という考え方を捨てるようになった。また、「事実と命題」を書いた後の、真理論草稿を執筆していた時期のラムジーも、「命題といったものの存在は一般に疑われている(また、私が思うに、この疑いは正当である)」(Ramsey 1991: 7)と述べ、最初から命題を真理の担い手から除外して真理の考察を行っている。命題の存在が認められない以上、命題が所有するものとしての真理性質も存在しない。これが真理余剰説論者による第一の反論である。
 しかし、命題が存在する/存在しないというのは確かに一つの争点ではあるが、あまりにも根本的な問題であるし、また、果たして真理に固有の問題であるのかも疑問である。命題のような形而上学的存在を認めた上で、なお実質的真理論を批判することはできないであろうか。そこで余剰説論者が持ち出すことができる争点が、「単純化」とその拒否という問題である。実質的真理論によると、あらゆる現象が形而上学的レベルでは Fa という形式、すなわち、実体とその属性という形式をしていることになる。現象レベルでは Gab、Habc など多様な多項関係形式が存在するにも関わらずである。さらに実質的真理論は、あらゆる現象を Fa 形式に還元するだけでなく、この属性 F はすべての現象において同一である(すなわち、真理性質である)と考えている。この二つのことを余剰説論者は単純化であるといって批判することができるであろう。現象の背後に、それを支える形而上学的構造があるかもしれないが、それを単純化して考える根拠はなく、むしろ、現象の多様性はそのまま形而上学的レベルでも成立していると考える方が自然ではないだろうか。かくして余剰説論者は、実質的真理論者による単純化を拒否して、例えば、次のような分析を与えることになるかもしれない。
ここで「<雪>」などの表現は何らかの形而上学的な存在者を指示しているものとする。このような表現方法はインフォーマルなものだが、余剰説論者がここで直観的に伝えようとしているのは、雪が白いときには形而上学的レベルでも同程度の複雑な出来事が生じており、地球が月よりも大きいときには、やはり同程度に複雑な出来事が形而上学的レベルでも生じているのであって、すべてが単純な Fa 構造になっているわけではなく、また、すべてに共通な性質(=真理性質)が存在するわけではない、ということである。
 以上のように、実質的真理論と余剰説の対立を形而上学的レベルでの単純化とその拒否として特徴付けることが可能であると思われる(5)。どちらの立場が正しいのかをここで判定することはできないが、多様な現象の背後に統一的な構造と同一の性質が存在するとは信じがたいという意味で、単純化を拒否する余剰説の方がより説得的な立場ではないかと私は考えている。実際、多様な現象を前にして敢えて単純化を行うのだから、実質的真理論者の方が自説の根拠を説明すべきである、と余剰説論者は挑戦することができるが、実質的真理論者がこの挑戦に答えることは難しいように思われる。したがって、真理余剰説論者の方が有利であると言えるであろう。

2.2 言語的議論

 前節の実質的真理論者と余剰説論者が我々の住むこの世界にやってきたとすると、どのような反応を見せるだろうか。必ずというわけではないが、おそらく実質的真理論者は、我々が使っている「真」という述語は、彼らの形而上学理論で措定されていた真理性質を意味していると見なし、自分たちの理論がかくも普遍的に受け入れられていることに勇気づけられ、自説の正しさへの確信を深めるのではないだろうか。他方、余剰説論者は、(彼らにとって)間違った理論が広く受け入れられているとは考えたくないため、「真」という述語は何か他のものを意味していると見なすであろう。
 我々が使っている「真」という述語の解釈としてどちらの解釈が正しいのかを決定するためには、何らかの基準を設けなければならない。そのために、ラムジーが指摘した次のような現象に注目したい。
我々は一般に「p」という文を主張(ないし拒否)するときは、同時に「p ということは真である」も主張(ないし拒否)する態勢にある。これを「ラムジーの法則」と呼ぶことにしよう。ラムジーの法則は「真」という述語の用法の基本法則であり、その他の用法を説明してくれるものである。例えば、次の文を考えてみよう。
この文を主張する人は現実には存在しないだろうが、存在しても不思議ではない。そうした人はいかにして(1)を主張するようになるのだろうか。それは次のようにしてである。まず、
ということを考え、これを文で表現したくなる((2)で使われている表現は「・・・」という文法で認められていない構成要素を含んでいるので、純正の文ではない)。つまり、雪は白いということなどを一般化した文を得たいのである。これが
のような考えであれば、以下のように容易に一般化できる。
しかし、(2)の構造は(3)のようにはなっていないので、この方法は使えない。ところが、ラムジーの法則によると、(2)は次と同値である。
これは(3)と同じ構造をしているので、次のようにして一般化することができる。
これを普通の言い方に直したものが(1)である。(1)に見られる「真」という述語の用法は以上のようにラムジーの法則によって説明可能である。
 我々の世界のデフレーション真理論者と呼ばれる哲学者達は、我々による「真」という述語の用法のすべてがラムジーの法則によって説明可能である、と主張している。この主張をめぐっては多くの議論がなされているが、ここではそうした論争には立ち入らないことにする。しかし、ラムジーの法則が「真」という述語の多くの用法を説明してくれるということは間違いない。したがって、「真」という述語の意味の説明は、少なくともラムジーの法則が成立することを保証するものでなければならない。そこでこれを求めていた正しさの(最低限の)基準としたい。
 では、実質的真理論者の主張を検討してみよう。彼らは、我々が使っている述語「真」は、彼らの考えていた形而上学的存在者としての命題が持つ真理性質を意味している、と主張するのであった。そして、彼らの考えによると、例えば、雪が白いときかつそのときに限り、ある命題が真理性質を所有しており、この命題は「雪は白いということ」と呼ばれるのであった。したがって、実質的真理論者によると、我々は現象を単純化して説明する形而上学的理論を(仮説として)採用し、かつ、命題の命名法に関する一定の規約を採用しており、これに従って「真」という述語と「・・・ということ」という名詞句を使用しているということになる。このとき、ラムジーの法則が成立することは自明である。よって、実質的真理論者による述語「真」の意味の説明は、正しさの基準を満たしていると言える。
 他方、真理余剰説論者は、我々が使用している述語「真」の意味をどのように説明するのだろうか。彼らは、「p ということ」は形而上学的な存在者としての命題を指示するわけではないし、「真」は命題が持つ性質を指示するわけでもないと考え、そのため、「p ということは真である」は「p」とまったく同意味なものであるにすぎないと主張する。「ということは真である」の部分は、有意味な表現ではなく、強調のための下線や圏点と同類のものなのである。このときもまたラムジーの法則が成立することは明らかであるように思われるかもしれない。しかし、実はそうではない。なるほど、「p」を主張(ないし拒否)するときは必ず「p ということは真である」を主張(ないし拒否)するということに限れば、同意味だからだということで説明はつく。だが、ラムジーの法則が基本法則として機能するためには、「p ということ」が指示対象を持ち、「真」が性質を意味していることが決定的に重要である。なぜなら、先にラムジーの法則を応用して「すべての命題は真である」を導出するプロセスを見たが、そこでは命題が真理性質を持つことを前提した上で、命題への量化を行っていたのだが、もしも命題も真理性質も存在しないとしたら、こうした量化は不可能だからである。これに対しては、そもそも意味など考慮する必要はなく、構文論的構造だけを考慮すればよいのだ、という構文論主義者からの反論が返ってくるかもしれない。つまり、「雪は白いということは真である」を一般化して「すべての x について、x が命題ならば、x は真である」を導くことは、構文論的には何の問題もないというわけである。しかしこの構文論主義に立った場合、「真」という述語の説明はどうなるのであろうか。意味の違いに訴えることができない以上、「p ということは真である」は「p」と構文論的に同じ構造をしているのだと答えるしかないであろう。しかし、両者の構造が異なることは明瞭である。そこで、構文論主義者は、「ということは真である」の部分は下線や圏点と同じで、構文論的構造を形成してはいないのだと答えるしかない。そうすると構文論的構造として残るのは「p」であって、これに構文論的量化規則を適用して「すべての x について、x が命題ならば、x は真である」を得ることは不可能である。このように、余剰説論者は、我々の述語「真」の意味の説明に失敗している。述語「真」は、「p ということは真である」と「p」は同意味であるという取り決めのもとで導入されたのだという説明では、我々が「すべての命題は真である」のような文を有意味に主張可能であるという事実を説明できないのである。
 真理余剰説は存在的議論では実質的真理論に十分対抗できたが、言語的議論ではまったく太刀打ちできない。ところで、我々の世界で現在のところ優勢なのは、デフレーション真理論と呼ばれる理論である。これはどのような立場なのだろうか。デフレーション理論には様々な立場があるが、ここではホーウィッチのミニマリズム真理論を取り上げたい。ホーウィッチは余剰説ではうまくいかないことを十分自覚している(Horwich 1998: 39)。そこで彼は、真理性質の存在も命題の存在も認めてしまう。したがって、我々の規定によるとホーウィッチは実質的真理論者であって、ことさら検討する必要はないということになる。しかし事情はそれほど単純ではない。彼が認める真理性質は「論理的性質」(Horwich 1998: 37)であって、通常の実質的性質とは異なるとされているからである。以下、真理性質が論理的性質であるとはどういうことなのかを考察し、ミニマリズム真理論と実質的真理論、真理余剰説の関係を考えてみたい。
 ミニマリズム真理論によると、我々の言語に「真」という述語が導入されるのは、同値図式
のすべての事例(「p」が個々の文に置き換えられたもの)を我々が規約によって受け入れることによってである(6)。この場合、ラムジーの法則が成立することは明白である。また、既に述べたとおり、「p ということ」は命題を指示し、「真」は真理性質を指示することが認められているので、余剰説のときのような量化の問題は生じない。したがって、ミニマリズムは、我々の設定した基準を満たしているという意味で、述語「真」の正しい説明になっている。問題は、ミニマリズムは実質的真理論とどう違うのかである。特に、論理的性質としての真理性質とはいったどのようなものであろうか。これに関するホーウィッチの説明は明瞭さを欠いているように思われるが、おそらく以下のように説明できるであろう。
 実質的真理論は形而上学理論と命題命名規約によってラムジーの法則を説明した。他方、ミニマリズムは規約のみによって説明する。しかし、同値図式(E)の事例を採用するという規約で、「真」だけでなく「p ということ」の意味も決定されるとホーウィッチが考えているわけではない。彼は、我々が日常的に使っている「p ということ」という表現が何らかの存在者を指示していることは自明であると考えている。さらに、それはフレーゲ型命題(フレーゲのいう意義(Sinn)から構成された複合物)、ラッセル型命題(フレーゲのいう意味(Bedeutung)から構成された複合物)、混合型命題(意義と意味から構成された複合物)であるという哲学的説明さえも与えている(Horwich 1998: 91)。そうすると、例えば、表現「雪は白いということ」が指示する命題は、例えば、意味としての雪と白さから構成された複合物ということになる。実質的真理論のときのように、形而上学的理論に組み込まれた命名規約によって指示対象が決められるわけではない。このように命題の存在をはっきりと認めているのだが、現象の成立の背景に命題が関与しているといった形而上学的理論は少しも示唆されていない。つまり、同値図式(E)の左側になぜ「p ということ」という命題を指示する表現が現れなければならないのか、その理由はまったく述べられていない。また、右側に「p」が現れているときに、なぜ「q ということ」や「r ということ」ではなく「p ということ」が左側に現れなければならないのか、その理由も与えられていない。したがって、どちらも単なる規約の問題にすぎないのだとホーウィッチは考えていると思われる。そうすると次のような可能性が生じる。つまり、我々の世界はたまたま同値図式(E)を規約として受け入れることで述語「真」を導入したが、次のような規約を採用することも可能だったのである。
「:」の部分が理解可能であるためには、すべての文が何らかの仕方で一列に並べられ、同時に、人名も何らかの仕方で一列に並べられておく必要がある。そうしたテクニカルな問題をクリアすれば、(E*)を規約として受け入れることは原理的には可能であろう。この世界ではラムジーの法則は成立していないが、「雪は白い」を主張(拒否)するときは常に「ソクラテスは真である」を主張(拒否)し、「草は緑色である」を主張(拒否)するときは常に「プラトンは真である」を主張(拒否)し、・・・という「ラムジーの法則*」が成立しており、これが成立する根拠は、(E*)が規約として採用されているからだと説明される。また、「ソクラテス」、「プラトン」、・・・は哲学者を指示しているのだから、量化に関しても問題は生じない。すなわち、先に見た(2)という考えは次のような言語表現を得ることができる。
この世界では、「真」という述語の意味は(E*)によって決定されている。その外延は{ソクラテス、プラトン、アリストテレス、・・・}であり、その内包は、非常に驚くべきことだが、「ギリシャ哲学者である」という性質である(そのように「:」の部分はなっているとする)。そうすると、ミニマリズムによると、真理性質は実はギリシャ哲学者性だったということになるのだろうか。もちろんそうではない。我々は次のような規約も採用できたのである。
この世界では、真であるとは素数であることである。また、我々の世界と同じように、意味や意義の複合物としての命題を真理の担い手と考えたとしても、次のような規約を採用することも可能である。
この世界での真理述語の外延は{草は緑色であるということ、地球は平らであるということ、・・・}であり、我々の世界での外延とは異なっている。ミニマリズムによると、我々は規約によって「真」という述語を導入し、この規約によって真理述語が指示する真理性質は一つに決定される。しかし、この決定された特定の性質であることには意味はない。我々の世界では(E)の事例が規約として受け入れられていて、これによって決定されている真理性質は、ひょっとすると、真実在との対応や整合性や有用性などであるかもしれない。あるいは、実質的真理論者がその存在を主張するところの分析不可能な真理性質にさえなっているかもしれない。しかし、別の規約を採用すれば、真理述語が指示する性質はギリシャ哲学者性や素数性にもなりえるのである。ただし、これによって真理述語の《意味》が変わったのだと考えるべきではない。上で見たようなどんな規約を採用しようとも、ラムジーの法則やそれに類した法則が成立し、それによって量化を行うことによってある種の一般的な思想を表現することが可能になる。どの世界でも真理述語はこうした同じ目的に寄与しているという意味で、真理述語の《意味》はどの世界においても同じである。真理述語が指示する真理性質(これが普通は真理述語の「意味」とされるのだが)は規約の異なる世界によって異なる。しかし、そのことは真理述語のこうした量化を可能にさせる役割としての《意味》に何の影響も与えないのである。これが真理性質は論理的性質であると言われるときに意味されていることだと思われる。実質的性質、例えば、水であることを分析して、H2Oという性質に還元することには意味がある。この分析が正しければ、どんな世界においても水はH2Oだからである。他方、論理的性質である真理を分析して、例えば、それが整合性と合致するということを見いだしたとしても、真理の本質にとっては何の意味もない。別の世界では真理性質はギリシャ哲学者性と合致しているかもしれないからである。
 以上のように理解されたミニマリズム真理論は、これまで見てきた真理論とどのような関係に立っていると言えるのだろうか。ミニマリズムは、存在的議論では実質的真理論に賛成することも反対することもできるが、仮に賛成したとしても、言語的議論ではその形而上学的理論に訴えていない。したがって、実質的真理論とは異なる独自の言語的議論を展開した、対立する理論になっている。また、「真」という述語の指示する性質の存在を認めたという点で、真理余剰説とも対立しているが、唯一の真理性質の存在を認めたわけではなく、また、真理性質そのものには本質的な意味はないとしているのだから、ミニマリズムは余剰説のスピリットを継いでいると言えるであろう。
 最後に残る問題は、実質的真理論と(余剰説の後継者としての)ミニマリズムのどちらが正しいのかという問題である。我々は形而上学理論を仮説的に採用して真理述語を導入したのだろうか。それとも、(E*)、(E**)、(E***)等の規約を採用する覚悟も十分あったのだが、便利さ等の観点から(E)の事例を規約として採用して真理述語を導入したのだろうか(7)。どちらが我々が真理述語を導入するにいたった本当の物語なのか、ここで決定することはできない。ただ言えることは、どちらの理論もラムジーの法則が成立することの説明には成功しており、この限りでは、どちらの理論も正しいということである。

3 信念の真理

 この節で検討したいのは、「雪は白いという太郎の信念は真である」に見られるような、個人の信念に帰属させられている真理性質である。真理の担い手としては、命題と信念のほかに文が挙げられることもあるが、本論文では、文は信念の一部であると考えて(例えば、太郎が心の中で描いたり発話したり紙に書いたりする文「雪は白い」は、雪は白いという太郎の信念の特徴の一つであると考えて)、独立した考察は行わないことにする。また、命題の真理のときと同様に、存在的議論と言語的議論を分けて考察することにする。

3.1 存在的議論

 「信念」という語も「真」という語も存在しない世界を考えてみよう。この世界にこれらの語が導入される経緯として、次のようなストーリーが考えられるだろう。実質的真理論者によって、まず、人間の心理的生理的状態の内、なんらかの特徴を共有していることが認められる一群の状態が取り上げられ、これが「信念」と呼ばれるようになる。次に、信念のうち、あるものは F という性質を持つが、他のものは持たないということが観察される。性質 F は、今まで他の存在者が持つことが知られていたのだが、特に信念がこの性質 F を持つ場合、この性質は「真」という述語で指示されるようになる。最後に、ある特定の信念が真であるための因果的な必要十分条件が探求される。こうして実質的真理論者は、以下のような一連の言明を主張するようになる。
 真理余剰説論者は、このような考えに対してどのような批判を与えることができるであろうか。信念というものを命題を対象として持つものと特徴付けているのならば、その形而上学を批判することができるかもしれない。例えば、2節で見た実質的真理論者は、信念とは主体が形而上学的な存在者である命題に対して何らかの関係を結ぶことに他ならないと考えている。しかし、上のストーリーではこうした考えは排除されている。観察可能な人間のある種の状態が信念とされているのであって、形而上学理論などの仮説が持ち込まれているわけではないからである。したがって、形而上学的だという批判は当たらない。次に、過度の単純化だという批判はどうだろうか。主張されている言明の形は命題の真理のときとまったく同じだが、信念における実質的真理論は、雪は白い、地球は平らである、・・・を、信念 B1 は真である、信念 B2 は真である、・・・と分析しているのではない。信念が真であることが先に与えられているのであって、多様な現象を単純化するような仮説が提出されているわけではない。したがって、命題の真理のときに実質的真理論に対してなされた批判は、信念の真理の場合はまったく通用しないのである。
 真理余剰説は真理性質の存在を否定したいと願っている。命題の真理のときにはこの否定が成功する可能性は大いにある。なぜなら、真理性質もそれを担う命題も、形而上学的仮説として導入されたものにすぎないからである。ところが、信念の真理の場合には、真理性質もその担い手としての信念も、その存在に関しては何の問題もないものであるとされている。したがって、余剰説論者が信念の真理に関する存在的議論において実質的真理論を批判することはナンセンスとしか思えない。例えば、次のような実質的真理論の一つを考えてみよう。まず、人間の体温が37度以上である状態が「信念」と呼ばれる。その状態にある人間は咳をしているかいないかのどちらかである。この場合に咳をしていることを「真」と呼ぶことにする。さらに、体温が38度のときに咳をすることの因果的な必要十分条件が研究され、それはインフルエンザ・ウイルスに感染していることであるとされたとする。かくして、この実質的真理論者は以下の主張を行うことになる。
この真理論に対して、必要十分条件の分析が事実として間違っているというような批判を行うことは可能である。しかし、真理性質は存在しないという方向での余剰説的な批判は、咳の存在を認める限り、不可能である。もちろん、この真理論はでたらめであると我々は思うが、それは我々が既に「真」という述語を有しているからであって、真理述語がない世界では、この真理論を批判する理由は(事実として間違っているという可能性を除くと)何も存在しないように思われる。

3.2 言語的議論

 信念の真理における実質的真理論者が我々の世界にきたならば、やはり、我々が使っている「真」という述語は、彼らの使っていた「真」と同じであり、性質 F を指示しているのだと考えるだろう。そして、真理余剰説論者はそれを否定し、別の説明を我々の述語「真」に対して与えるだろう。この場合も、正しさの基準を、ラムジーの法則が成立することを説明できるか否かに求めたい。ただし、この場合のラムジーの法則は、「p」という文を主張(ないし拒否)するときは、同時に「p という信念は真である」も主張(ないし拒否)する態勢に我々があることである。
 真理性質の存在を認めたくない余剰説論者は、ここでも「p という信念は真である」は「p」と同意味なのだと主張するだろう。そうすれば、ラムジーの法則の説明はつく。しかし、命題の真理のときと同様、これは量化に関する困難に出会う。それだけではない。そもそも、同意味だという主張は間違っているように思われる。「p ということ(命題)」という表現が何を指示しているのか、我々に確固たる意見があるわけではない。したがって、それは何物も指示しておらず、強調の下線や圏点と同種のものであり、「p ということは真である」は「p」と同じ意味を持つにすぎないのだ、という主張は、一定程度の説得力を持つ。他方、「信念」という表現に関しては事情は異なる。我々は、それは何か人間のある状態を指示しているのだと日常的に考えている。それゆえ、「という信念は真である」は何も指示しておらず、下線や圏点の類である、ということを含意する余剰説論者の同意味性の主張は受け入れがたいのである。そもそも信念の真理に関して余剰説を主張するような人が、我々の架空のストーリーは別にして、本当にいるのだろうか。真理性質の存在を否定したといわれているラムジーの真理論草稿に、次のような文がある。
ここでラムジーはペアになっている文が同意味だと考えているのだろうか。私にはそうは思えない。天気の例で二つの文の意味が異なることは誰もが認めるだろう。また、天気が悪いことが原因になって悪天候に見舞われることが結果することも明らかであろう。これとパラレルに地球の例を考えているのならば、ラムジーは、二つの文が同意味でないだけでなく、地球が丸いことが思考の正しさの原因になっているとさえ考えているということになる。つまり、ラムジーはむしろ実質的真理論に与しているのではないかとさえ思われるのである。
 では、実質的真理論はラムジーの法則をどのように説明するのだろうか。それを見るためには、実質的真理論の具体的な規定を与えておく必要がある(本節で見た、咳をすることを真理と同一視した実質的真理論では、もちろんラムジーの法則の説明はできない)。これは節を改めて行いたい。

4 サクセス真理論

 実質的真理論において、信念をどのように特徴付け、いかなる性質 F を真理性質と見なすのかに関しては、様々な立場がある。もっともよく知られているのは、信念の言語的特徴に着目して、真理を信念の言語的構造と事実の構造との間の対応と見なす立場、すなわち真理対応説である。しかし、真理対応説は一般に、対応という概念を説明するところで困難に直面し、うまくいかないように思われる(8)。そこで、ここでは、もう一つの有力な実質的真理論である真理有用説の一バージョンを提示して、それをもとに考察を行いたい。これは、信念に関するラムジーの理論(の一部)と真理有用説の基本洞察を合体させたものである。ラムジーの信念論は今日「サクセス・セマンティクス」と呼ばれているので(9)、この真理論は「サクセス真理論」と呼ぶことができるであろう。
 サクセス・セマンティクスはまず、人間の行為の集合を「信念」と呼ぶ。例えば、我々は毛虫に出会うと、それを避け、決して手にとったり口にしたりしないとする。この一連の行為も一つの信念であり、これを「信念 b」と呼ぶことにしよう。次に、この行為は成功する(有用である)か成功しないかのどちらかであることが注目される。具体的には、信念 b は、例えば、空腹を満たしたいが、死んだり腹をこわしたりするのはいやであるという欲求を、充足するかしないかのどちらかである(充足した場合、この信念は成功したことになる)。次に、信念 b が成功するための因果的な必要十分条件が分析され、それは次のようになっていることが判明する。
最後に、「行為の任意の集合に関して、それが有用であるためには p であることが必要十分条件となっているような、そうした行為の集合を『p という信念』と呼ぶ」(Ramsey 1927: 40)という信念の命名規約が採用される。かくして、上の分析は次のように書き改められる。
ここまでがサクセス・セマンティクスである。サクセス真理論は、このサクセス・セマンティクスに、信念の真理とは成功すること(有用であること)であるという、真理有用説のアイディアを結びつける(10)。すなわち、信念の場合の「成功」を特に「真理」と称するのである。したがって、上の分析はさらに次のように書き改められる。
 ある信念が行為の名前で与えられたとき、それが有用であるための必要十分条件は、因果的な探求を行ってみない限り分からない。したがって、我々は
の任意の事例をア・プリオリに知っているわけではない。したがって、例えば、「毛虫は有毒である」を主張している人は必ず「信念 b(=毛虫を避ける行為)は真である」も主張する、というわけではない。しかし、信念が「p という信念」という名前で与えられたときは事情が違う。我々は「p という信念」がどういう行為を指示しているのか、知らないことも十分にあり得る。例えば、「毛虫は有毒であるという信念」と聞いても、それが毛虫を避ける行為を指示しているということは知らないこともある。それにも関わらず、我々は
が成立することは知っている。なぜなら、我々は上で見た信念の命名規約を受け入れていることで、次の図式の任意の事例が成立することをア・プリオリに知っているからである。
つまり、我々はサクセス真理論を採用している限り、ラムジーの法則に従うことになる。よって、サクセス真理論による「真」という述語の説明は正しいと結論できる。
 かくして、信念の真理に関する言語的議論においても、余剰説より実質的真理論の方に軍配が上がることが判明した。しかし、ここでもミニマリズム真理論を取ることが可能である。つまり、真理述語は同値図式
のすべての事例を規約的に受け入れることによって我々の言語に導入されたのだと考えても、ラムジーの法則が成立することを説明することができる。したがって、ミニマリズム真理論もまた正しい真理論である。しかし、ミニマリズム真理論はサクセス真理論とは対立する理論である。この点を以下で確認しておきたい。
 同値図式(EB)に現れている「p という信念」という表現が何を指示するのかに関して、ミニマリズム真理論自体は制約を設けていない(同値図式(EB)の事例で指示対象が決定されるわけでもない)。我々の言語で実際に「p という信念」が指示しているものを指示しているのだと考えればよい。それは何だろうか。これに関しては実はサクセス・セマンティクスが正しいのかもしれない。そこで、事実正しいと仮定しよう。つまり、表現「p という信念」は、p のとき、かつ、そのときに限り成功する行為を指示しているとする。そうすると、この仮定のもとで同値図式(EB)を規約として受け入れることは、サクセス真理論を受け入れることに他ならないのではないかと思われるかもしれないが、そうではない。同値図式(EB)を規約として採用するときには、そこに現れている述語「真」が成功(有用性)を指示するということは意図されていないからである。述語「真」が指示する性質は、我々が同値図式(EB)の事例を規約として採用したことと、世界が現にどうなっているかによって決定される。簡単のため、事例は次の二つだけであるとする。
毛虫は有毒であるということがこの世界における現実だとしよう。この現実と上の二つの規約によって決定される真理述語の外延は{毛虫は有毒であるという信念(=毛虫を避ける行為)}である。この信念(行為)は、この世界で成功を収める有用な信念である。したがって、真理述語の内包はたまたま成功(有用性)になっていることが判明するのである。このことは、次のような規約が採用されている世界を考えればはっきりする(規約以外はこの世界とまったく同じとする)。
ミニマリズムは、こうした規約が採用される可能性を排除していない。この世界の真理述語の外延は{毛虫は無毒であるという信念(=毛虫を食べる行為)}であり、この行為は失敗を導くので、真理述語の内包は成功ではなく、失敗である。つまり、ミニマリズム真理論の考えでは、真なる信念が成功をもたらすのは、たまたま我々の世界で成立している偶然的な出来事であり、真理述語の規約が変われば、真なる信念が常に失敗をもたらすことさえあり得るのである(11)。このように、サクセス・セマンティクスを基盤にして、サクセス真理論とミニマリズム真理論という二つの真理論を手にすることができるが、両者は相互にまったく異なった、しかし我々の規定ではともに正しい真理論である(12)
 ラムジーは真理論草稿の中にサクセス真理論に関する次のようなコメントを書き遺している。
このコメントを有意味なものとして理解するためには、ラムジーは真理性質の存在を認めていたのだと考えなければならない。実際、真理論草稿におけるラムジーは、「p」と「p という信念は真である」は同値であるという立場を取っているにすぎない(13)。したがってここでラムジーが主張しているのは、真理性質は有用性と合致する、ないし、少なくとも外延をひとしくする、ということである。では、ラムジーは真理性質をどのようなものと考えていたのだろうか。可能性は二つ考えられる。一つは、分析不可能な基本的な性質としての真理性質であり、もう一つは、採用する規約によって様々な性質となり得る、論理的な性質としての真理性質である。つまり、ラムジーは実質的真理論者かミニマリズム真理論者のどちらかでなければならなかったのである。どちらを取っていたのかは分からないが、それ以外の第三の道を取ることは不可能であると私には思われる(14)



(1)この理論は Russell 1910 などで展開された。理論の内容については、橋本 1998 を見よ。

(2)草稿は現在、『真理について』(Ramsey 1991)としてまとめられて出版されている。この本の編者によると、草稿が書かれたのは1927年から1929年初めにかけてである(Ramsey 1991: xiii)。真理対応説への好意的言及は、「我々は『対応』という言葉を使わなかったが、我々の定義はおそらく『真理対応説』と呼ばれるだろう」(Ramsey 1991: 11)などに見られる。

(3)Moore 1899、Russell 1904 を見よ。ムーアとラッセルがこの形而上学的理論を抱いていたのは、彼らの研究歴の初期の一時期だけである。この理論の詳細に関しては Cartwright 1987、橋本 1997 を見よ。

(4)Field 1992: 322。もちろんこれはフィールドのオリジナルな考えではない。

(5)もう少し事態を複雑に見ることもできる。例えば、パスカル・アンジェルは実質的真理論に対立するデフレーション真理論に関して、それは「極端な多元主義」に陥っていると批判している(Engel 2002: 58-9)。彼は、デフレーション真理論によると、例えば、「雪は白いということは真である」と「草は緑色であるということは真である」における二つの「真」という語の意味は異なることになる、と考えている。これは、本文の2.2節で明らかになるように、デフレーション真理論(具体的には、その一バージョンであるミニマリズム真理論)に対する誤解である。しかし、彼の批判は、我々の架空のストーリーの中で次のように再構成できる。実質的真理論者は本文と同じである。余剰説論者は、命題の存在を認め、雪は白い、草は緑色である、・・・を、雪は白いということは F である、草は緑色であるということは G である、・・・と分析するが、F ≠ G ≠・・・と主張する。つまり、形而上学的レベルではすべてが実体—属性という単一の構造を持っていることを認めるが、唯一の真理性質が存在することは否定して、現象が成立するときに命題が所有する性質は、すべての命題において異なると考えるのである。ここでパスカル・アンジェが現れて、余剰説のやり方は行き過ぎだと批判する。その理由は、例えば、物理的な出来事の成立と倫理的な出来事の成立などを区別できなくなるから、というものである。区別をつけるためには、最低でも二つの異なる性質 P と E を用意して、雪は白い、草は緑色である、・・・の分析には一貫して性質 P を用い、嘘をつくことは良くない、人殺しは悪いことだ、・・・の分析には一貫して性質 E を用いる、という立場を取ることになるだろう。ただしこの立場も、唯一の性質としての真理性質の存在を否定しているという意味では、真理余剰説の一種と見なすことができるであろう。

(6)Horwich 1998: Chapter 3, Question 14。ただし、この箇所は第二版では大幅に書き改められているので、第一版の記述も参照せよ。

(7)例えば、「『A または A でない』という形をした文はすべて真である」という文を考えてみよう。この文を主張するようになるプロセスは、我々が採用している規約が(E)の事例だとすれば、簡単に説明できる。他方、(E*)、(E**)、(E***)等の規約を採用していた場合、いかにして先の文を主張できるようになるのか不明である。このようにより多様な量化を説明できるという意味で、(E)の方が便利で有用である。

(8)真理対応説の隘路に関しては、橋本 2000 を見よ。

(9)サクセス・セマンティクスは Ramsey 1927 において初めて提出された。この理論に関しては、特に Whyte 1990 以降、多くの研究がなされている。最近の興味深い研究としては Dokic and Engel 2002 がある。

(10)パピノーは、ほぼこの立場を取っていると思われる。Papineau 1993: 80-1 を参照せよ。

(11)ホーウィッチが「信念が真であることと、真なる信念が成功する行為を促進する傾向性を持つこととの間の結びつきは・・・説明されるべき事柄であるに違いない」(Horwich 1998: 9)と言うとき、おそらくここで述べたような事情を意味しているのだと思われる。ただし、「説明されるべきこと」と言い得るのは、ミニマリズム真理論が正しいと仮定した場合に限られることには、くれぐれも注意しておきたい。ホーウィッチは続けて、「[この結びつきは]真理の定義そのものによって単に規約されるべきことではない」とも述べているが(Horwich 1998: Chapter 3, Question 11 も参照せよ)、本節では、信念の真理とは成功すること(有用であること)であると最初から規約しても問題ないということを、サクセス真理論がラムジーの法則を説明できるということを示すことによって、明らかにした。

(12)メラーは「信念の分析に対するサクセス・セマンティクスの貢献は、信念を真にするものは何であるのかを述べたことにあるのだから、サクセス・セマンティクス自体は実質的な真理論である。それゆえ、サクセス・セマンティクスは・・・余剰説を排除するものである」(Mellor 1998: 47)と主張しているが、これは間違いである。本節で見たように、サクセス・セマンティクスは有用説ともミニマリズムとも結合可能な、中立的な信念論である。

(13)両者が同意味であると述べられている箇所はない。なお、真理論草稿の一部ではないが、「事実と命題」よりも前(1921年)に書かれた論文の中でも、「『p は真である』と『p』は、同一ではないとしても、同値ではある」(Ramsey 1991: 118)と述べられており、この時期にも同意味ということにはこだわっていなかったことがうかがえる。

(14)本論文の初期草稿は、日本科学哲学会第36回(平成15年度)大会(於・千葉工業大学津田沼キャンパス)で組織されたワークショップ「ラムジー生誕100年を記念して」(2003年11月16日、オーガナイザ:伊藤邦武)において読みあげられた。その場で有益なコメントを寄せて下さった方々に感謝します。

文献

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Field, H. 1992. “Critical Notice: Paul Horwich's Truth”, Philosophy of Science 59, 321-30.
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Wittgenstein, L. 1922. Tractatus Logico-Philosophicus, London: Routledge and Kegan Paul.
橋本康二、1997、「ラッセルの最初の真理論」、『哲学論叢』24号、64-75頁。
———— 1998、「存在論的転回と多重関係理論 ——中期ラッセル哲学の研究(一)——」、『哲学・思想論集』24号、53-88頁。
———— 2000、「真理対応説の再検討 ——真理と対応(一)——」、『哲学・思想論集』26号、39-60頁。


Ramsey's Redundancy Theory of Truth


Kouji HASHIMOTO


What is truth? A substantial theorist’s answer is that it is a substantial property such as correspondence, coherence, or utility. As opposed to this, Frank Plumpton Ramsey, the inventor of the redundancy theory of truth, claims that there isn’t such property as truth. In this paper, I examine which theory is more plausible. Before the examination, I make two distinctions. One is the distinction between the truth of a proposition as a metaphysical entity and the truth of a belief. The other is the distinction between the ontological investigation and the linguistic investigation. In the ontological investigation, naturalistic phenomena are analyzed and something like the property of truth may be found or not. In the linguistic investigation, what the predicate ‘is true’ means in our ordinary linguistic practice is inquired. Thus each of the following four distinct dimensions should be taken into account:

The conclusion is as follows. With regard to (1), the redundancy theory is more plausible than the substantial theory, but with regard to (2), (3), and (4), the substantial theory is more plausible. However, concerning (2) and (4), the minimal theory advocated by Paul Horwich is on a par with the substantial theory. Although the minimal theory claims that there exists the property of truth, it is not a substantial property but a non-substantial, ‘logical’ property. Therefore, the minimal theory can be considered to be a version of redundancy theory of truth.