クワインによる「分析−総合」区分擁護

橋本康二



I

 ある言語に属する真なる文は、「分析的な文」と「総合的な文」とに明確に二分割される、という思想を、経験主義哲学者の「ドグマ」にすぎないと激しく攻撃した人物として、クワインはあまりにも有名である。1951 年に発表された「経験主義の二つのドグマ」(1)(以後、TD と略記)が最初の、そして代表的な攻撃論文である。従って、彼が 1934 年にハーヴァード大学で行った講義の原稿である「ア・プリオリ」(2)(以後、AP)を読むと、我々は困惑を覚えざるを得ない。なぜなら、そこでは、分析性概念の明確な規定が与えられ、「分析−総合」区分を実現するための技術が展開されており、そうした区分を興味深いものとして意味付けするための議論が試みられているからである。また、その議論の中で、「規約」概念によって特徴付けられる「分析的な文」とは概念上独立したものとして「ア・プリオリな文」の規定が与えられており、両者の相互関係である「ア・プリオリかつ総合的な文」の問題が検討されている点も、我々の注意を引く。パトナムの批判以来、TD におけるクワインは「分析性とア・プリオリ性を混同した」(3)というのが、定説となりつつあるからである。
 「分析−総合」区分の擁護とその否定 ―― AP と TD の間のクワインに一体なにが起こったのであろうか。英米の哲学者にありがちな「転向」の一事例と見なすべきなのであろうか。そうすべきではない、というのが私がこの論文の前半で主張したいことである。私の結論は、クワイン自身は自分の考えが劇的に変化したと思った(そして今も思っている)かもしれないが、AP と TD におけるクワインの主張の対立は表面的なものであり、言語と知識に対する実質的な考え方に変化はなく、適当な解釈のもとでは二つの主張は整合的であり得る、というものである。
 しかし、AP と TD をこのように結び付けることは、両論文の間の 1936 年に発表された「規約による真理」(4)(以後、TC)の立場を微妙なものにしてしまう。この論文は、規約による真理という考え方が維持できないものであることを論証したものである、と一般には認められている(この論証は TD では用いられていない)。AP では規約によって真である文が分析的な文であると規定されているのだから、この規定によって成立する「分析−総合」区分の考えを TC は論駁したのであり、それによって TD における二分法否定への道を開いたのである ―― 以上のように理解するのが自然ではないであろうか。だが、AP と TD を結び付けようとする私の解釈では、この理解は拒否すべきものである。私が論文の後半で議論したいことは、TC での批判は、AP の規約主義にではなく、別の立場の規約主義に向けられたものである、ということである(5)

II

 AP での議論は、規約によって「分析的な文」を規定するための方法の提示と、そうして得られた「分析−総合」区分の意味付けの議論から成っている。前者の内容の大略は以下の通りである。
 「分析的な文」とは、その文を構成する語の意味のみによって真になる文であると一般には考えられている。クワインによると、語の意味は明示的定義(explicit definition)によっても与えられるが、それは定義項に含まれる語の意味に依存しており、そうした語の意味は、最終的には、非明示的定義(implicit definition)によって与えられねばならない。ある語の非明示的定義とは、しかじかの仕方でその語を含むすべての文は真理として受け入れられるべきである、ということを特定している一群の規則(規約)である。従って、「分析的な文」とは、語の意味(ないし用法)についてのこの規則(規約)によって真理として受け入れるよう定められた文である、と規定されることになる。
 だが、問題は、非明示的定義を恣意的であるべき規約によって首尾よく構成できるであろうか、ということにある。これが不可能であれば、「分析的な文」の規定も機能しないことになるからである。「分析的な文」の規定が与えられるべき言語として、通常の日本語を考えよう。日本語の各々の語は直観的な意味を有しており、我々はこの意味と世界についての知識とに基づいて、幾つかの文を「直観的に真」なるものとして、事実として受け入れている(以下この様な「受け入れられている文(accepted sentence)」を「A 文」と呼ぶ)。ある語を含む有限個の A 文によって、その語の意味を非明示的に定義することは簡単である。これら有限個の文を単純に列挙して、それらを真として受け入れよ、という規約を与えれば良い。このように列挙された文が「分析的な文」である。しかし、無限個の A 文によって定義を行いたいときはどうすれば良いか。その場合は、一般的な規約と論理によってそれら無限個の文についての規約を与えれば良い。例えば、「・・・ということはないし、−−−ということもない」という語の意味を、この語のみを実質的(本質的)に含む A 文(6)の全体によって定義する場合、クワインが提出する一般的規約は次の通りである(「・・・ということはないし、−−−ということもない」を「(・・・−−−)」と略記する)。

通常の論理的な推論規則の適用を受けることによって、(A)と(B)は、意図されていた任意の A 文について、そのすべてをそしてそれのみを(真として)受け入れよ、という規約を与えたことになる。このように受け入れるべく約定された文が「分析的な文」である。
 以上のクワインによる「分析性」の規定について、私がここで指摘しておきたいのは、どんなに無味乾燥なものと思われようとも、これは分析性概念についての一つの完全な「規定」になっている、ということである。つまり、「同義性」のような不明瞭な概念に訴えて「分析性」の規定を与えるということなく、どの文が分析的でありどの文がそうでないかを完全に決定しているのである。言語表現の中のどれが「文」であるのかという、言語の構造についての概念は用いられているが、これは明瞭な概念であると仮定して良いであろう。必要ならば別途に定義を与えれば良い。また、(A)と(B)から個々の規約を導出する際に論理が使用されているが、これも問題にならないであろう。最低限の論理の使用さえ拒否するのであれば、「分析性」に限らず、ほとんどの概念の規定は不可能になるからである。
 しかし、「A 文」や「・・・のみを実質的に含む A 文」という不明瞭な概念に依拠しているではないか、と思われるかもしれない。だが、この感想は間違っている。上の説明では、日本語の文に「A 文」が存在することを利用して、日本語の文における「分析的な文」を約定する一つの例が述べられているだけであって、「A 文」という概念は、この約定そのものにとっては本質的なものではない。任意の文を分析的に真であると定めて構わないのである。極端な例をあげれば、「雪」という語を非明示的に定義するために、「雪は黒い」という A 文ではない文を真として受け入れるように規約を定めることも可能である。この場合、「雪は黒い」は分析的に真だが直観的には偽である、という結果が得られるだけである。また、先の(A)と(B)から導かれるすべての文を除いた形で、「(・・・−−−)」という語を定義したとしよう。このときも、命題論理の定理(従って当然 A 文)であるにもかかわらず分析的に真なのではない文が存在する、という結果が得られるにすぎない。こうした結果がいかに奇妙なものに思われようとも、そこから、これらの場合の「分析性」の規定には何か間違いが生じているのではないかと判断することは誤っている。現実に使用されている日常言語の文は、確かに、「A 文である」とか「命題論理の定理である A 文である」といった性質を(曖昧にであれ)所有している。しかし、ここで考えられている分析性の規定は、こうした日常言語の性質からまったく独立に与えられているのである。どの文が分析的であるかは純粋に規約的に決められるのであり、いかなる制約もない。すなわち、「すべての文が分析的ではない」と「すべての文が分析的である」の両極端を含めて、その中間のどこをも選ぶことができる。もちろん、こうした規約が与えられる以前の言語に対しては、どの文が分析的であるかについて語ることは無意味である。そこにあるのは、「A 文である − A 文でない」とか「論理学の定理である − 定理でない」といった区別だけである。しかし、ひとたびある規約が与えられたならば、その規約に従って、どの文が分析的でありどの文がそうでないかは、完全に決定されるのである。
 AP で展開されている分析性についての規定は、以上のように、純粋な規約に基づいた「分析性」の完全な規定になっている。だが、任意の文を任意に選んで分析的真理と見なすというこの規定から、我々はなにを得ることができるであろうか。クワインは、この規定から、なにか哲学的に興味ある見解を導き出そうとはしていない(7)。そのかわりに、彼は、分析性概念を直ちに応用することを試みる。それも、哲学における一つの立場を表明するための一種の道具として、この概念を応用しようとするのである。以下、この議論を見てみよう。
 既に見たように、日常言語には A 文と呼ばれる文が存在する。しかし、A 文であるという性質は必ずしも固定的なものではない。例えば、「雪は白い」という文は、現在のところ A 文であるが、将来黒い雪が降るようになれば、A 文という性質を失うようになるであろう。ただし、すべての A 文が、将来の可能な経験との関連で、この様な取扱いを受けるのではなく、ある種の文は特別な扱いを受けている。
「ア・プリオリな文」とは、より具体的には、「それを改訂することに我々が最も気の進まないような文」であり、「これは論理学と数学のすべての真理を含み、我々はとにかくこれにしがみつき、改訂はよそでやるように目論む」、そうした文のことである(AP, p. 63)。
 ところで、分析的な文は規約によってまったく任意に与えられるものであった。従って、その無限に多様な選択の中には、「ア・プリオリな文」と「分析的な文」の外延が完全に一致するような規約もある。人はこうした規約を採用することによって、自分の哲学上の立場を表明・宣言することができるのである。それはどの様な立場であるのか。
つまり、ア・プリオリだが分析的でない(従って総合的な)文の存在を認めるような規約を採用する人は、ア・プリオリ性についての新たな形而上学的問題を進んで引き受ける立場を表明したことになり、ア・プリオリな文がすべて分析的となる規約を採用する人は、ア・プリオリ性についての形而上学的解明を拒否する立場を表明したことになるのである。
 クワインが勧める後者の立場においては、分析性概念によってア・プリオリ性概念が解明されたり基礎付けされたりしているわけではいささかもない、ということに注意することが大切である。ア・プリオリ性というのは日常言語において観察される所与であり、それを後から分析的であると規約によって定めたとしても、ア・プリオリな文がしっかりと受け入れられていることの根拠・理由を与えたことにはまったくならない。この根拠を、後から与えたのではない、以前から既に存在していたかもしれない規約そのもののうちに求めることも可能かもしれないが、そのためには独立した論証が必要になるはずである(8)。「ア・プリオリ=分析的」というテーゼは、ア・プリオリな文に「分析的」というレッテルを貼るだけのものであり、そうすることによってア・プリオリ性の形而上学的究明を拒否しようという立場を表明しているにすぎないのである。従って、このテーゼは、形而上学的究明が正しいとも間違っているとも言ってはいないのであり、さらに、ア・プリオリ性についての他の(形而上学的色彩の薄い)究明の試みについても、それが可能であるとも不可能であるとも述べていないのである。ア・プリオリ性の解明を一切問題にしないこの立場が積極的に主張し得ることがあるとすれば、ア・プリオリな文がしっかりと受け入れられていることは、言語と言語使用者における原始的事実である、というものになるであろう。

III

 TD でのクワインは、まず、意味のみによって真である文が「分析的な文」であると規定されてきた、という事実から出発する。しかし、このような分析性の概念の規定は維持できないというのが、TD におけるクワインの基本的な主張である。この主張と AP での分析性の擁護の議論とが実際は整合的であることを示すことが、この節の目標である。
 TD の 1 節から 3 節までの議論では、「分析性」を規定する試みが「意味」、「同義性」、「正しい定義」、「必然性」といった曖昧な概念に訴えてなされざるを得ない事例が取り上げられ、これらの概念が循環的に相互を規定し合っているということが論じられている。この場合、分析性の規定は実際上機能し得ないであろう。だが、AP では分析性の完全な規定が与えられており、このような曖昧な概念は使用されていなかった。つまり、クワインがここで取り上げている事例には、AP の分析性の規定の試みは含まれないのである。従って、この議論は無視して良いであろう。問題になるのは、「意味論的規則」と題された 4 節での議論である。そこでの直接の攻撃目標になっているのはカルナップであるが、それは同時に AP におけるクワインでもあるように思われるからである。
 クワインの批判の要点は、ある文を規約(カルナップの場合は意味論的規則)によって分析的に真であると定める立場は、それだけでは機能し得ないというものである。
ある言語の中の表現には、後からの規約によって意味を規定する以前に、既に原始的な意味が内属しており、この原始的な意味のみによって真であるような文が存在すると仮定しよう。このような文を、仮に、「原始分析的な文」と呼ぶことにする。上で批判されているのは、こうした原始分析的な文によって「分析的な文」を規定しようとする試みである。明らかに、この規定が機能し得るためには、我々は「原始分析的な文」の意味を正確に理解し、どの文が「原始分析的な文」であるのかを判定し得るのでなければならない。しかしながら、AP での分析性の概念は、言語にもとから存在すると考えられた性質から独立して規定されるものであった。それは、「原始分析的」という性質はもとより、「A 文である」というほとんど自明な性質にさえ訴えることなく、純粋な規約による真として規定されるのであった。従って、このクワインの議論は、AP の分析性概念の批判とはなっていないのである。
 もちろんクワインは、「原始分析性」という概念が有意味で理解可能なものなどとは少しも思っていない。原始分析的と言われ得るような文が存在しないことを論じたのが、TD の 5 節以降の議論であり、結局それが TD の唯一積極的な議論なのである。そこでは、「原始分析的な文」はどの様な経験に直面しようとも真として受け入れられ、改訂に対して完全な免疫を持っている、ということが仮定され、改訂に完全な免疫を持った特権的な文が実は存在しないことが論じられている。文の「改訂」が議論の対象になっていることから明らかなように、ここで論じられていることは、AP において「分析的な文」とは独立に規定されていた「ア・プリオリな文」の問題と関わってくるのである。ただし、事態は、AP で認められていたア・プリオリな文の存在が TD では否定されたという単純なものではない。AP では、我々が事実として「最後まで捨てようとはしない文」がア・プリオリな文であると規定されていたが、そこでは同時に、こうしたア・プリオリな文を形而上学的な概念に訴えて基礎付けし、それによってア・プリオリ性を絶対的なものにしようとする試みを、拒否することが提案されていた。TD では、この拒否を正当化する議論が新たに展開されているにすぎないのである。心理的な事実として、「改訂することに気の進まない」ところのア・プリオリな文が存在すること自体は、何ら否定されていない。この心理的事実を支えるかもしれない絶対的な根拠の存在が、一挙に否定されているのである。
 しかし、この議論が正しいとしても、もはやそれは AP の分析性の概念になんの影響も与えない。原始分析的な文が存在しないことと、規約によって任意に選ばれた分析的な文が存在することは、矛盾する事態ではないからである。それゆえ、AP における(純粋な規約による)分析性を擁護する主張と、TD における(原始的)分析性を否定する主張は、整合的な主張であり得るのである。
 AP と TD の主張が対立して見えた理由は、結局、二つの異なる概念に同じ「分析的」という語を用いたことに帰着するように思われる。この語の言葉遣いを正して二つの意味を明確に区分すれば、表面上の対立も解消するように思われる。だが、この言葉遣いに関しては、クワインには言いたいことがあるのである。先の引用に続けて彼は次のように主張する。
恣意的な規約によって規定されるような AP の分析性の概念は興味深くも何ともないので、「分析的」という語を使うべきではない。この語は「原始的分析性」という興味深い概念にのみ用いられるべきである。クワインは概ねこの様に考えているのである。
 ある語によって通常直観的に理解されているものとはまったく違った概念を意味させるのであれば、その語の使用の仕方は正されてしかるべきであろう。ところが、ゲーデルが指摘するように、「分析的」という語は、普通二種類の仕方で理解されているのであり(9)、大雑把にいって、AP の分析性概念と TD の分析性概念はこの二つの理解にそれぞれ対応するものであると考えることができる。従って、混乱を避けるためには、前者を「規約的分析性」後者を「原始的分析性」と呼び分けることは必要かもしれないが、共に「分析性」という語を使っていても、それ程間違ったことにはならないであろう。むしろ、クワインのように、「興味深い」という価値判断を持ち出して、前者から「分析性」という語を剥奪して後者のみを「分析性」と呼ぶことの方が、誤解を招きやすいと思われる。
 ともかく、言葉遣いに関する見解においては、AP と TD との間に対立があるとは言えるかもしれないが、両者において実質的に論じられていることの間には何の対立もなく、整合的である。

IV

 AP の議論と TD の議論は、「規約的分析性」と「原始的分析性」という異なる概念を論じているのであり、TD の議論から「規約的分析性」を否定する議論を読み取ることは不可能である。しかし、このように分析性概念を二分して考えると、規約概念を中心に展開される TC の議論こそ、まさに「規約的分析性」を論じそれを否定するものであるかのように思われる。だが、果たしてそうであろうか。この問題の検討がこの節の課題である。
 TC における規約主義批判の議論は、AP の内容をほぼそのまま繰り返した直後に始まる。
ここで問題にされているのは、論理学の定理のみを規約によって分析的とする立場だけであり、このことは、以下の批判が「規約的分析性」概念に向けられたものであるということを、十分疑わせるものである。我々は無限個ある文の中から自由にその部分集合を選んで、それを規約によって分析的と定めるのであり、その選択が有限集合の場合は単純列挙によって、論理学の定理の全体のように無限集合の場合は一般的規則によって、規約は定められるのであった。ここで、無限集合の外延を定めることが常に無限後退を招き実行不可能であると仮定しよう。そのとき言えることは、無限個の文を分析的と定めることを我々は事実行っていない、そうしたことをすることは我々の自由の中にはない、ということだけである。我々が自由な規約によって真であると定めた文のみが分析的に真であるという「規約的分析性」概念の本質は、このことによってはいささかも損なわれない。従って、批判の矛先は初めから「規約的分析性」以外のものに向けられているように思われるのである。それが何であるかは、「無限後退」が発生する条件を分析することによって明らかになる。
 一般的規約(B)から個別的言明の分析的真理性を導くには、次のような推論が必要である。
前提(1)、(2)から結論(3)への推論は「明らかに健全な論理であるが、論理としてそれは、論理がそこから生じてくると想定されているところの・・・規約の使用を含んでいる。こうした規約に基づいてこの推論を遂行してみよう」(TC, p. 103)。そうすると無限後退に陥るのであるが、その議論は省略して、中心的な問題のみを考察しよう。対象言語の論理的な文の外延を指定し得るためには、確かに、それを行うメタ言語において上の推論がなされねばならない。だが、その推論が規約(この場合、メタ言語に対する規約)に何等かの仕方で依拠している必要はまったくないはずである。必要なことは、(1)、(2)から(3)への推論が、メタ言語固有の性質として「論理的」であること、すなわち、(1)と(2)が(規約によってではなく原始的に)受け入れられているかぎり、必ず(3)も(原始的に)しっかり受け入れられるようになる、ということだけである。メタ言語のこの論理性さえ成立していれば、対象言語の論理的な文の外延を指定することには成功するのである。
 従って、この推論の局面で規約が問題になるとすれば、それは、規約が論理的な文がしっかり受け入れられていることの根拠になっている、という特殊な規約主義の立場を取ったときであろう。この立場を採用したときにのみ、クワインの言うような無限後退は確かに発生し、この立場が維持不可能なものであることが判明する。よって、クワインはこの特殊な規約主義を批判しているのである。これは、「論理は規約を媒介にして進行すべきである」(TC, p. 104)という立場であり、(論理的な)文の外延を指定しようとする「規約的分析性」の考えとは無関係である。
 AP との関係で言えば、この立場は、「ア・プリオリな文」を規約に訴えることによって基礎付けようとする試みである。また、論理的表現に内属する「原始的意味」そのものが規約によって与えられるのであり、そうした「原始的意味」のみによって論理的な文は真となるのである、ということを示すことによって、「原始的分析性」概念を真性の概念として確立しようとする試みであるとも言えよう。従って、TC におけるこの試みに対するクワインの批判は、 TD での「原始的分析性」概念を否定する議論の系列に属することはできるが、AP における「規約的分析性」概念を否定するものではないのである。



(1)W. V. O. Quine, “Two Dogmas of Empiricism”, in his From a Logical Point of View, 2nd ed., revised, Harvard University Press, 1980.

(2)W. V. O. Quine, “The A Priori”, in R. Creath (ed.), Dear Carnap, Dear Van: The Quine-Carnap Correspondence and Related Work, University of California Press, 1990. これは “Lectures on Carnap” と題された三週連続講義の第一回目の原稿であり、Creath 編集のこの本が出版されるまで、長い間、未完であった。

(3)H. Putnam, “‘Two Dogmas’ Revisited”, in his Realism and Reason, Cambridge University Press, 1983, p. 92.

(4)W. V. O. Quine, “Truth by Convention”, in his The Way of Paradox and Other Essays, revised and enlarged ed., Harvard University Press, 1976.

(5)AP、TC、TD の関係を検討した論文として次のものがある。R. Creath, “The Initial Reception of Carnap’s Doctrine of Analyticity”, Nous 21: 477-99, 1987. この論文では、分析性概念が擁護されている AP と、TC との内容上の類似性に注目して、TC は TD における分析性の拒否の立場に直接結び付くのではない、と論じられている。この議論は、AP と TD の主張は単純に対立するものであるということを前提することによって成立している。この前提を疑うべきである、というのが私のこの論文での基本的な発想である。

(6)“Quine’s dagger” と呼ばれる真理関数結合子「↓」(p と q が共に偽のときにのみ p↓q が真となるような結合子)だけを論理定項として含んでいる命題論理の公理系の定理に対応する日本語の文である。こうした文は無限個存在する。

(7)論理学・数学の命題であれ物理学の命題であれ、ある命題が「必然的」と言われるときの「必然性」の意味は、ここで規定されているような純粋な規約に基づく分析性概念によって説明することが可能でありまたそうすべきであると、私自身は考えている。この場合、後述するクワインの意味での「ア・プリオリ性」とは区別されたものとして「必然性」は理解されることになる。だが、この考えをここで展開することは差し控えておきたい。

(8)ただし、AP でのクワインは、technical word の導入に関連して、規約がア・プリオリの根拠となっているという考えの可能性を示唆してはいる(cf. AP, p. 65)。

(9)K. Godel, “Russell’s Mathematical Logic”, in his Collected Works, Volume II, Oxford University Press, 1990, pp. 138-139.

〈後記〉
この論文の最終原稿を作成するにあたり、本誌の匿名論文審査員の方から貴重な助言をいただきました。心から感謝いたします。

[哲学 博士課程]



Quine’s Argument for the Analytic/Synthetic Distinction

Kouji Hashimoto


In 1934 Quine gave a lecture entitled “The A Priori,” in which he put forward an argument in favor of the analytic/synthetic distinction. In this paper the author tries to investigate whether this argument is really refuted or not in his later articles, namely, “Truth by Convention” (1936) and “Two Dogmas of Empiricism” (1951), since both of them are generally believed to attack the notion of analyticity.

First, in Section II, the author examines Quine’s argument of “The A Priori.” There the following two main points are revealed. First, Quine stipulates that an analytic sentence is one which we decide to accept as true by conventions. Second, this stipulation is independent of any qualities, such as truth and apriority, which some sentences might be supposed to have. This means that it is possible to define an analytic sentence even if we cannot have any clear idea of apriority.

Second, in Sections III and IV, the author considers Quine’s argument of “Two Dogmas of Empiricism” and that of “Truth by Convention.” There it is pointed out that these arguments have nothing to do with the stipulation of analyticity mentioned above. They merely show that it is impossible to understand the notion of apriority in any consistent way. This conclusion, whether right or wrong, cannot affect the notion of analyticity because it is stipulated independently of the notion of apriority.

Therefore the author concludes that Quine’s argument for the analytic/synthetic distinction advanced in “The A Priori” is not refuted at all in his later work.