量化をめぐるラッセル

橋本康二


一 量化の分析

 今世紀の初頭頃ラッセルは、それまでイギリスで支配的だったヘーゲル主義的観念論哲学に反旗を翻し、記号論理学によって武装された新しいタイプの実在論哲学を構築し始めた。ラッセルは、この新しい哲学を初めて展開した記念碑的著作である『数学の諸原理 The Principles of Mathematics(1)において、それまでの自らの哲学の歩みを振り返って次のように述べている。

「any」、「all」、「every」、「a」、「some」、「the」で始まる名詞句をラッセルは「表示句 denoting phrase」と呼んでいるが、今日では「量化表現」と呼ぶのが一般的である。量化表現を分析し、その意味を確定し、よって適切な量化の理論を得ることが、ラッセルにとっては哲学の基礎として必須であると思われたわけである。ではラッセルが得た量化理論とはどのようなものであったのか、というのが本論文の主題であるが、その前に予備的考察を行っておきたい。というのも、彼の量化理論はきわめて明晰に解釈することが可能であり、かつ、正しい理論であって、それはとりたてて問題にするに値しない、というのが一般的な理解であるように思われるからである。この一般的理解が根本的に間違っていることを、まず本節では示しておきたい。
 ラッセルは『数学の諸原理』でも一つの量化理論を提出したのだが、それを不十分なものと見なし、数年後に論文「表示について On Denoting」で別の量化理論を提出した。一般的理解をなす者も、前者の理論が誤っているのは自明と見なし、これにほとんど考慮を払わず、後者の理論のみを高く評価する。「表示について」の量化理論は、なぜ現在ほとんど無批判的と言えるまでに彼らによって受容されているのであろうか。その理由は、「表示について」の量化理論は量化表現を含む日常言語の文を体系的に人工言語の文に翻訳する方法を与えており、しかも、この人工言語は彼らにとって馴染み深い言語であった、ということに求められる。この翻訳の具体例として、日常言語の次の文を考えてみよう。
これは人工言語の次のような文に翻訳されることになる。
「表示について」の量化理論がこのような翻訳のための一般的な方法を与えているのは確かである。しかし、人工言語の文に翻訳したからといって、それだけでは、もとの日常言語の文の量化表現が分析され、その意味が確定されたことにならないのは明らかである。翻訳だけではいかなる量化理論も与えられないと言って構わないであろう。それではなぜ一般的理解をなす者は、この翻訳を見ただけで満足したのであろうか。それは、彼らがこの人工言語に対して一定の意味論を有していたからである。この意味論に従えば、例えば文(a)の意味は次のように与えられる。
これは、文の意味とは当の文が真になる条件の事であり、文の構成要素の意味は文が真になる条件に対して構成要素が果たしている役割の事である、という「真理条件的意味論」と呼ばれる意味論である。彼らにとって、人工言語には真理条件的意味論という意味論が完備されており、当然この言語の中で構成される(a)のような文の意味は右の通り既に確定済みである。もちろん彼らは真理条件的意味論が正しい意味論であることを疑ってはいない。従って彼らは、ラッセルが(A)を(a)に翻訳したのを見ただけで、日常言語の量化表現の正しい意味分析が与えられている、と理解したのである。
 以上で素描された一般的理解の問題点は、そもそもラッセルは真理条件的意味論を取っていない、ということにある。彼は、文の意味が真理条件であるなどとは、少しも考えていなかったのである。真理条件的意味論が仮に正しい意味論であったとしても、それをラッセルに勝手に押し付けてしまったのでは、彼の量化理論を十分に解釈し適切に評価することなど不可能である。これが一般的理解が根本的に間違っている理由である(3)
 ラッセルの量化理論を理解するためには、彼が実際に有していた意味論をしっかり把握しておく必要がある。以下、まず二節でラッセルの意味論の基本構成を概観する。次に三節で、この意味論のもとで展開された彼の最初の量化理論、すなわち、『数学の諸原理』の量化理論がどのようなものであったのかを考察する。最後に四節で、ラッセルは最初の量化理論のどこに不満を見い出し、それを克服するために「表示について」でどのような新しい量化理論を提出しようとしたのかを考察する。ラッセルの意味論は非常にはっきりしたものであるが、彼が量化理論を展開するときには、この意味論との関わりはあまりはっきりとは述べられていない。特に「表示について」の量化理論でこのことは著しい。そこでは、後述する見知りの原理という意味論的原理が明確に定式化されているにも関わらず、そうなのである。その結果、右に述べたような真理条件的意味論を勝手に読み込むという事態が一般化してきたとも言えよう。本論での考察は、意味論との関連を中心に据えて量化理論の本質を単純化した形で浮かび上がらせようとするものである。そのため、ラッセルの行っている議論の細部は、かなりの程度無視されることになる。しかしながら、ラッセルの量化理論は我々にとっても受け入れることができるような正しい理論であったのか否か、という積極的な問題を考えるためにも、こうした単純化した考察は不可欠であろう。

二 ラッセルの存在論、認識論および意味論

 本節で見るのは『数学の諸原理』から「表示について」の時期に奉じられていたラッセルの存在論、認識論および意味論である。まず、『数学の諸原理』に典型的に見られる存在論の概略をまとめると、おおよそ次のようになる。世界の究極的な構成要素は、「単純項(simple term)」と呼ばれる存在者である。単純項には「もの(thing)」と「概念(concept)」と呼ばれる二種類のものがある。これらの単純項が複合することによって複合項が形成されるが、複合項は特に「命題(proposition)」と呼ばれる。命題はいくつかの単純項を構成要素としているが、単純項の単なる集まりではない。命題の構成要素の中には必ず概念が存在し、さらにこの概念が他の構成要素を複合するような作用を行うことによって、命題は構成要素の単なる集まりを越えた、「統一的全体(whole as unity)」と呼ばれるものになっているのである。一例を挙げると、「ソクラテスは必滅である」という命題は、構成要素としては、もの「ソクラテス」と概念「必滅」を含んでいるが、概念「必滅」が複合作用を行っており、その結果として、単なる項の集まりを越えた、統一的全体としての命題「ソクラテスは必滅である」が成立しているのである。命題はまた、性質「真」か性質「偽」のどちらか一方を必ず有しているという、もう一つ別の特徴をもっている。この特徴は『数学の諸原理』の直後に書かれた論文「マイノンクの複合体と想定の理論 Meinong’s Theory of Complexes and Assumptions」の中で、バラの花になぞらえて次のように言われている。
名称はまぎらわしいが、単純項も命題も存在論上の道具立てである。また真偽という性質も純粋に存在論上の道具立てとして提出されているのである。
 この存在論に基づいて、ラッセルは我々の認識活動を次のように説明する。我々人間の思考、信念、理解、疑念、判断、願望等々とは、人間精神(主観、主体)が命題に対してそれぞれのケースに応じた一定の関係(すなわち、思考、信念等々といった関係)に立つことである。つまり、人間精神が命題を対象として何らかの関係を取り結ぶことが我々の認識活動なのである。先に言及したバラの花の比喩をこの場面で拡大応用するならば、我々の認識活動を、人間身体がバラの花を眺めること(=思考)、摘み取ること(=信念)、等々にたとえることができるであろう。人間は頭の中にイメージというものを描き、言語記号を並び立てる。だが、思考、信念等はイメージ等の精神内の心理的な出来事にはまったく還元できない、とラッセルは考えているのである。思考、信念等はいかなる場合でも必然的に精神外の事物を含まざるを得ない。例えば、我々が太陽は赤いと信じているとき、この信念は我々と赤い太陽を構成要素として含む出来事以外の何ものでもないのである。これは徹底した外在主義の立場と言えよう。なおラッセルは、命題と関係を取り結ぶ人間精神を、イメージ等の集積には還元できない「形而上学的主体」であると考えている。心理的なイメージや言語は形而上学的主体に付属したものにすぎず、認識活動において何ら本質的な役割は果たしていない。
 しかし、この説明では、我々の認識活動の特性――特に信念は正しいか間違っているかのいずれかであるという特性――は説明不可能ではないか、と思われるかもしれない。だが、上述したように、命題自体が既に(人間精神の存在とは独立に)真偽いずれかであるという特性を担っており、したがって命題を被関係項としている我々の信念は、必然的に、真なる命題を対象としているか偽なる命題を対象としているかのいずれかである、ということになる。さらにラッセルは、我々の認識活動は「『真なる命題を信じることは善であり、偽なる命題を信じることは悪である』という究極的な倫理命題に基づいているに違いない」([2]、76頁)と考える。つまり、信念という認識活動は「真なる命題を信じよ」という規則のもとでの活動である、と言うこともできるであろう。人間精神が真なる命題と信念関係を取り結べば、この規則に合致した活動であるゆえに、「正しい」という評価を受け、偽なる命題と信念関係を取り結べば、規則に違反した活動であるゆえに、「間違っている」という評価を受けることになるのである。再びバラの花の比喩を拡大応用するならば、我々の信念という認識活動を、「赤いバラの花を摘み取れ」という規則のもとでバラの花を摘み取ってゆこうとする活動、になぞらえることができるであろう。このように、命題自体が有する真偽性質とある種の規則(倫理命題)の存在を前提することによって、我々の認識活動の特性は説明されるのである。
 次に言語と意味についてのラッセルの考えを見ておこう。それは、文は命題(存在論で規定された意味での、項の複合物としての命題)を意味し、意味している命題が真ならば文も派生的に真であると考えてよい、というものである。きわめて単純明快な理論であるが、以下の二点が注意されるべきである。第一に、抽象的に考えられた文の意味というものはラッセルにとっては問題にならない。右に述べたように、ラッセルの哲学にとって問題になるのは、形而上学的主体である人間精神が命題と関係を取り結ぶことによって成立する認識であり、そこでは言語は人間精神に付随的に現れているものにすぎない。よって、文が問題になるにしても、それは当の文が認識活動を行っている人間精神によって使用されている限りにおいてであり、この場合に限ってのみ、当の文は人間精神が認識関係を取り結んでいるところの命題を意味している、と言っても構わないのである。例えば、我々が「ソクラテスは必滅である」という命題に対して、思考、信念などの関係を取り結んでいる限りにおいて、我々の使用する文「ソクラテスは必滅である」は命題「ソクラテスは必滅である」を意味する、と考えられるのである。言語の意味作用は人間精神の認識作用に寄生した形で成立しているものにすぎない。
 このように言語は主題的な問題とは成り得ないのだが、それは哲学を進める際の道具には成り得る。これが第二の注意すべき点である。ラッセルは次のように言う。
文と命題の間には、一種の構造上の並行関係が成立しているとラッセルは考える。まず、構成要素間に対応がつけられる。先の例では、文中の語「ソクラテス」が命題中のもの「ソクラテス」に対応し、文中の語「必滅」が命題中の概念「必滅」に対応する。さらに、命題において概念「必滅」が複合作用を行っているということは、文中の語「必滅」が述語としての機能を果たしているということに反映されている。従って、我々が「ソクラテスは必滅である」と信じている時に我々が信念関係を取り結んでいる命題はどのようなものなのかを考察する場合、文「ソクラテスは必滅である」の文法を分析することが大きな手がかりを与えてくれるのである。ラッセルは、日常言語の大部分の文が命題と右のような仕方で対応していると初めは考えているが、この考えは、以下で見るように、量化の問題が契機になって徐々に撤回されていくことになる。

三 『数学の諸原理』の量化理論

 量化理論とは、量化表現を含む文、例えば、「すべてのものは必滅である」という文の意味はどのように分析されるべきか、という問題を扱った理論のことを言う。ラッセルの存在論、認識論、意味論から見た場合、この問題は、人が文「すべてのものは必滅である」を使用しているとき、この人が思考、信念などの関係を取り結んでいる命題は何か、この命題を構成しているものや概念は何か、という問題に帰着することになる。『数学の諸原理』の量化理論は奇妙な考えとして無視されがちであるが、少なくともその基本的なアイディアは理解可能なものであり、もっともらしくさえ思われるものである。この基本的なアイディアから見ていくことにする。
 次の三つの文を考えてみよう。
    (1) I met Socrates. (私はソクラテスに会った。)
    (2) I met a man. (私は男に会った。)
    (3) Any finite number is odd or even. (自然数は奇数か偶数である。)
我々がこれらの文を使用している時に我々が関係を結んでいる命題をいかに分析するべきか。前節で見た言語と命題の並行関係を分析の手段として用いると、文(1)の場合の命題は次のように分析される(命題は単なる構成要素の集まりには還元できないが、ここでは便宜上、構成要素を列挙して命題を記述し、複合作用を行っている概念を丸括弧で括って表示する)。
同様の方法で文(2)、(3)の場合を分析すると以下のようになるであろう。
文(1)の方は問題ない。しかし、あとの二つの場合の分析は正しくないように思われる。というのも、命題(2*)、(3*)はそれぞれ以下のような文とも構造上の並行関係を有するからである。
もちろんこれだけでは、文(2)、(3)は命題(2*)、(3*)を意味すると考えるのは間違っている、ということは帰結しない。しかし、文(2’)、(3’)の意味はまさに命題(2*)、(3*)であるような感じがする。また、文(2’)、(3’)と文(2)、(3)はそれぞれ別の命題を意味しているような感じがする。よって、文(2)、(3)の意味は命題(2*)、(3*)ではないような感じがする。言語と命題の並行関係に頼ったのでは、うまくいかないのではないか。ラッセルは次のように言う。
我々がある命題と関係を取り結んでいる時、その命題の構成要素が何であるのか、特に、複合作用を果たしていない構成要素が何であるのか(xが命題Pの中の複合作用を果たしていない構成要素であるとき、命題Pはxについてのものである、と言われる)、我々は直観を有しているとラッセルは考える。(1)の場合の命題は、概念「男」ではなく、現実の男についてのものであり、(2)の場合の命題は、概念「自然数」ではなく、個々の数についてのものである。このような場合においては、言語はむしろ欺くものであるので、我々は言語以前の直観に頼るべきなのである。
 ラッセルによる、彼の直観に基づいた量化命題の実際の分析は非常に複雑であり、完全に成功しているか否かも疑わしい。そこで、ごく単純な全称量化命題を取り上げて重要な点のみを見ておくことにする。我々が次の文を使用しているとする。
言語に忠実であれば、このとき我々が関係している命題は次のようになるはずである。
しかし我々が関係している命題は、概念「すべてのもの」についてのものではなく、個々のものa、b、c、・・・についてのものである、というのが我々の直観である。よって我々が関係している命題は(4*)ではない。ものa、b、c、・・・の集まりを「もの『a』ともの『b』ともの『c』と・・・」と記述するならば、問題になっている命題は以下のものであるべきである。
ものの「集まり」とは何か、「と」とは何かについて考察する必要があるが、ここでは触れないでおくことにする。重要な点は、我々が文(4)を使用している時に関係している命題において、概念「すべてのもの」が構成要素になっているのではなく、すべてのものa、b、c、・・・が構成要素になっているのである、という点である。
 以上が『数学の諸原理』の量化理論の基本的なアイディアであるが、この理論には続きがある。というのも、このアイディアには重大な問題が潜んでいるからである。問題は、例えば、右の例において、すべてのものa、b、c、・・・の個数が無限であるような場合に、次のようにして生じる。
ラッセルは命題(4#)のような無限に複雑な命題(と仮定する)が存在するかもしれないことは認める。しかし、我々人間の有限な精神がそうした命題に対して認識関係を取り結ぶことはできない、と考えるのである。かくしてラッセルは単純に対立する以下の二つの考えを抱えたことになる。
どちらか一方は捨てねばならない。ラッセルは(β)を捨てる。これは、我々は命題(4#)と直接的に関係することは不可能だが間接的に関係することは可能である、と考えることによってなされる。これが、『数学の諸原理』の量化理論の中で大きな比重を占めている表示の理論である。
 量化の分析の場合、既に見たように言語に頼ることは出来ないが、表示の理論は実は言語からある示唆を得ている。先の命題(4*)は文(4)の構造を忠実に反映しているものであるが、既述の通り、この命題(4*)自体は、我々が文(4)を使用している時に我々が関係を取り結んでいる命題の候補から除外された。しかしラッセルは命題(4*)の構成要素である概念「すべてのもの」に着目し、この概念には一定の意義を見い出すのである。概念「すべてのもの(everything)」、概念「男(a man)」、概念「自然数(any finite number)」など、量化表現に対応している項を、ラッセルは「表示概念(denoting concept)」と呼ぶ。彼の考えでは、表示概念はものの集まりを表示する(denote)。例えば、「すべてのもの」という表示概念は「もの『a』ともの『b』ともの『c』と・・・」という無限に多くのものの集まりを表示しているのである。表示概念とものの集まりの間に成立する表示という関係は、言語表現とその指示対象の間に成立している意味作用という関係と類比的に考えられており、したがって表示概念は「記号的(symbolic)」であると言われたりもする。しかし両者が根本的に異なるものであることもラッセルは強調する。彼によると、意味作用の関係は外的・心理的なものであるのに対して、表示という関係は内的・論理的なものである。すなわち、意味作用の関係は人間精神による認識活動に寄生してのみ成立するものであるのに対して、表示という関係は、人間精神の存在・非存在とは関わりなく、表示概念とものの集まりが存在する限りで、既に世界の中で成立しているような関係である。つまり、表示関係は純粋に存在論内部の問題である。このような表示概念とそれが行う表示関係のおかげで(β)を否定することが可能になる。なるほど我々は、無限に複雑な命題(4#)と関係を取り結ぶことは、直接的にはできない。しかし我々は表示概念「すべてのもの」と関係を取り結ぶことができる。これは部分を持たない単純概念だからである。さらに表示概念「すべてのもの」は、我々の認識活動とは独立に、すべてのものの集まりを表示している。よって我々は、表示概念「すべてのもの」を媒介することによって、すべてのものの集まりを含む無限に複雑な命題(4#)と間接的に関係を取り結ぶことが可能なのである。表示概念と表示関係こそが「無限を扱う我々の能力の最大の秘密」([1]、73頁)だったのである。
 本節の最初に、『数学の諸原理』の量化理論の基本的なアイディアはもっともらしくさえ思われるものである、と述べた。基本的アイディアとは、量化表現を含む文の意味にはすべてのものが関与している、というものだったからである。背景となっている存在論・意味論が違うので簡単に言うことは出来ないが、現代の主流派である真理条件的意味論者でも、「すべてのものが関与している」という論点には同意するのではなかろうか(第一節で見た真理条件的意味論による量化文の意味の規定では、あるモデル内でという制限付きではあるが、存在するすべてのものへの関与が成されている)。しかし彼らは表示の理論には同意しないし、おそらく関心すら払わないであろう。なぜなら、論理と認識論は別物であるという、初期のラムジーに顕著であった態度を守り続けているからである。我々がすべてのものと関係を結ぶことは可能か否かという問題は、量化を分析する際の彼らにとっては、全然問題にならないのである。だがラッセルにとっては、それこそが問題のすべてであったとも言える。言語は認識に寄生してのみ成立するのだから、言語の意味を認識の実際と矛盾する形で規定することなど、およそナンセンスである。基本アイディアを維持するために、彼にはどうしても表示の理論が必要であった。

四 「表示について」の量化理論

 ラッセルは量化の分析のために表示の理論を案出したのだが、やがてこの理論に典型的に現れているような考え方に満足できなくなった。ラッセルは、彼が理解した限りでの「フレーゲの説」を、フレーゲ宛の書簡の中で次のように批判している。
また論文「見知りによる知識と記述による知識 Knowledge by Acquaintance and Knowledge by Description」の中で、いわゆる観念説を次のように批判している。
ここで批判されているいずれの説も、我々はX(思想、観念)を信念などの直接の対象としているが、XとY(思想の対象、外的事物)の間にある関係が成立していることにより、Xを媒介にして最終的にYを対象としているのである、という考え方に依拠しているが、これはまさに表示の理論で使われている考え方そのものである。よって、ここでは、ラッセル自身の表示の理論が批判されていると考えることができる。
 認識の対象は観念であるという見解を取ると、観念以外の存在を認めない観念論の立場に行き着くか、さもなければ、ヴェールの向こうの事物を窺うことはできないという懐疑論(不可知論)に陥ってしまう。そもそもラッセルは、こうした隘路を避けるため、認識における精神と外的事物の直接的結びつきを柱にして実在論を構築しようとしたのであった。しかしながら、量化の分析という局面において、彼はいつの間にか古い考え方である「精神−媒介物X−最終的対象Y」という図式に戻ってしまったのである。もちろん彼の媒介物Xは、観念ではなく、それ自体が外的事物であるところの表示概念であり、媒介物Xと最終的対象Yの関係は、内的・論理的な表示関係であるとされる。この道具立てによってラッセルは懐疑論を克服することが可能であると考えていたのかもしれないが、その内実が語られることはなかった。逆に彼は、こうした古い考え方をきっぱりと断念する道を選び、それを次のような、いわゆる「見知りの原理」として定式化した。
精神は表示概念を媒介にして間接的に無限に複雑な命題を認識する、という表示の理論は捨て去られたのである。これに伴い、表示の理論を必須要件としていた『数学の諸原理』の量化理論も捨てねばならなくなり、量化の問題は考え直さねばならない。その結果が「表示について」の量化理論である。
 「表示について」の量化理論は以下のように、きわめて簡潔に記述されている。
以下では、この理論を今まで見てきた脈絡の中で考察し、その意義を明らかにしたい。
 この理論によると、前節の例文
は人工言語の文
に翻訳されることになる。しかし、第一節で注意したように、文(4”)には真理条件的意味論が備わっているわけではない。文(4”)はむしろ、文(4)の意味である命題(すなわち、我々が文(4)を使用している時に我々が関係を取り結んでいる命題)の構造を言語の構造に忠実に反映させることを意図して導入された人工言語と考えるべきである。そうすると、文(4)の意味する命題は次のようになる。
前節で(α)と(β)という二つの対立する考えを見た。『数学の諸原理』では(β)が捨てられたのだが、「表示について」では(α)が捨てられたのである。つまり、文(4)の意味する命題は、個々のものa、b、c、・・・についてのものではなく、概念「必滅」についてのものである、というのがラッセルが新しく得た直観であった。我々が関係を取り結んでいる命題は、概念「必滅」が概念「常に真」と複合することによって成立している命題(ここで複合作用を行っているのは概念「常に真」の方である)なのである。この新しい直観を得たことによって、ラッセルはもはや(β)に類する問題に悩まされることがなくなった。なぜなら、命題(4+)は二つの単純概念を含むだけであり、そこには何ら無限に複雑な構造は含まれておらず、有限な人間精神もこの命題(4+)を認識の直接の対象となし得るからである。よって表示の理論に類するものを考案する必要性もなくなった。その結果、量化の場合でも、見知りの原理が完全に成立するのである。
 しかし、概念「常に真」は複合的であり、しかも「常に」は無限に多くのものa、b、c、・・・を含意するのではないか、よって概念「常に真」を見知ることは不可能ではないか、と疑問に思われるかもしれない。だが、先の引用文に述べられている通り、ラッセルはこの概念を「究極的で定義不可能」な、つまり単純な概念であると考えている。概念「常に真」は、概念「必滅」などに属し得る何らかの単純概念なのである。よってこの概念はa、b、c、・・・とは独立別個な存在者である。さらにラッセルは、この概念は我々が考えることができる、つまり見知ることができる概念である、とも考えている。それは如何なる概念なのか、と問われても、量化の認識の際に我々が既に見知っているはずの概念である、としか答えることは出来ない。日常言語にはこの概念を適切に表現する語が欠けているのである。ラッセルは「常に真」という人工的な言い回しを用いたが、これはあくまで便宜的なものであって、額面通りの意味で受け取るべきではない。もっとも、概念「常に真」と無限に多くのものa、b、c、・・・との間に何の関係もないわけではない。前者を含む命題(4+)と後者を含む命題(4#)の間には、真理値の依存関係、すなわち、命題(4+)が真であるのは命題(4#)が真であるときかつそのときに限る、という関係が成立している。これはラッセルも認めるところである。しかし、真理値依存関係は言わば外的関係であって、命題(4+)と命題(4#)は存在者としては独立別個なものであり、概念「常に真」と無限に多くのものの集まりも別個な存在者である、という事態に変わりはない。命題(4+)は我々の認識の対象となり得る存在者だが、命題(4#)は認識の対象になり得ない別個な存在者である。
 真理条件こそ文の意味であると見なす真理条件意味論者には、命題(4+)と命題(4#)の区別は理解し難いものに思われるかもしれない。ラッセルは、文(4)の意味は命題(4+)だと言うが、命題(4+)と命題(4#)の真理値依存関係を認めている以上、結局、文(4)の意味を命題(4#)と考えているのではないか。このように思われるかもしれない。しかし、ラッセルにとって、文の意味はあくまで我々が認識関係を取り結んでいる命題にすぎないのであって、意味という問題に真理概念は何ら関わってこない。我々が文(4)を使用している時に認識関係を取り結んでいる命題は、その構成要素のすべてに対して我々が見知りを持っているところの命題(4+)である。命題(4+)と命題(4#)には真理値依存の関係があるが、我々は無限に複雑な構造を持った命題(4#)と関係を結べないのだから、文(4)の意味は命題(4#)ではあり得ないのである。
 以上、量化をめぐるラッセルの思索の展開を見てきた。ラッセルは文「すべてのものは必滅である」の意味は何かと問い、『数学の諸原理』と「表示について」で異なる答えを与えた。我々は彼の答えの意味を解明することに専念し、その妥当性を検討することはできなかったが、ラッセルの問いが通常思われているほど単純な答えを許すものではないことは、もはや明らかであろう。



(1)文献の詳細は論文末の文献表に掲げてある。引用・言及の際は文献番号を用いる。

(2)ここでは、ゲンツェンによって導入され、今日最も一般的となっている人工言語を使っている。「表示について」で実際に使われている文は、

  “If x is human, x is mortal” is alway true.

であり([4]、43頁)、日常言語により親近性のある人工言語が用いられている。しかしいずれの言語においても、任意の命題関数(現代の用語でいえば自由変項を持った開放文)に「∀x」ないし「is alway true」が付置されることで量化表現を含む日常言語の文の翻訳文が形成されることになる。よって、これらの人工言語は構造上は同一であり、単に表記法が異なっているだけである、と見なすことができる。

(3)ラッセルは基本的な問題に関してもしばしば自説を変更した。従って、ラッセルの長期に渡る哲学的思索のどこかに(特にヴィトゲンシュタインに大きく影響されていた1910年代末以降の頃の思索に)真理条件的意味論に類するものを見い出すことも可能かもしれない。しかし、1905年の「表示について」が真理条件的意味論と無縁であったことは明白である。後のラッセルの(あるかもしれない)真理条件的意味論を「表示について」に結び付けて解釈することは許されるべきことではない。

文献

[1] Russell, B. The Principles of Mathematics, Cambridge: Cambridge University Press, 1903. 2nd ed., London: George Allen and Unwin, 1937. References to the latter.
[2] Russell, B. “Meinong’s Theory of Complexes and Assumptions”, Mind 13(1904), pp. 204-219; 336-354; 509-524. Repr. in his Essays in Analysis, ed. by D. Lackey, London: George Allen and Unwin, 1973, pp. 21-76. References to the latter.
[3] Russell, B. “Excerpt from Russell to Frege, 12 December 1904”, in Salmon, N. and S. Soames (eds.), Propositions and Attitudes, 1988, p. 57.
[4] Russell, B. “On Denoting”, Mind 14 (1905), pp. 479-493. Repr. in his Logic and Knowledge, ed. by R. C. Marsh, London: George Allen and Unwin, 1956, pp. 41-56. References to the latter.
[5] Russell, B. “Knowledge by Acquaintance and Knowledge by Description”, Proceedings of the Aristotelian Society 11 (1910-11), pp. 108-128. Repr. in his Mysticism and Logic, London: George Allen and Unwin, 1986, pp. 200-221. References to the latter.

(はしもと・こうじ 筑波大学哲学・思想学系講師)