物理主義的真理論とは何か
―― フィールドのタルスキ批判をめぐって ――

橋本康二


I 序

 1935 年にタルスキが発表した『形式化された言語における真理概念』(1)という論文において、真理について、哲学的にも興味深い何事かが述べられていることは間違いない。タルスキ自身は自らの真理定義を意味論的真理定義(2)であると特徴付け、アリストテレス流の真理対応説を定式化したものであると考えている(SCT 14-15)。また、真理概念を論理学の概念、対象言語の概念、言語形態論の概念に還元したものであるとも述べている(ESS 406)。こうした哲学的な解説は別にして、1935 年の論文において明示的に成されたこととして、我々が公的に認め得ることは、概ね以下のようなことであろう。(1)言語が形式化されるための条件を特定し、実際に幾つかの形式化された言語を構成したこと、(2)形式化された言語に対する真理定義が実質に適合していると言われるための条件として、規約 T を示したこと(3)、(3)数種類の形式化された言語に対して、規約 T を満たす真理定義を構成したこと、(4)真理定義から幾つかの定理を導出したこと(4)、(5)真理定義不可能生に関する、いわゆるタルスキの定理を与えたこと。ここから我々はいかなる哲学的含意(対応説、余剰説、形式論理説など(5))を読み取るべきであろうか。
 1972 年にフィールドが『タルスキの真理論』と題された注目すべき論文を発表した。そこでの彼の基本的な主張は、「真である」、「指示する」などの意味論的事実は、化学的事実、生物学的事実、心理学的事実がそうされ得たと同様に、物理学的事実に還元されるべきであるという、物理主義の主張である。しかし、原子価という化学的概念を原子の物理的性質によって説明したのと同様に、物理主義者を満足させるような仕方で、真理や指示の概念を、文(語)と事態(対象)との間の、話者の神経生理学的機構をも巻き込んだ、物理的・因果的関係として説明することは困難であるように思われる。だが、「もしこの困難に直面して、非意味論的名辞によって真理と指示の概念を説明することは不可能であると結論するならば、こうした意味論的名辞を捨てるか、物理主義を拒否せねばならないであろう」(TTT 360)。ただ、フィールドはクリプキ流の指示の因果説が意味論的概念の物理的解明という計画に希望を与えてくれると考えているが、それ以上の具体的な示唆は与えていない。しかし、我々にとって彼の論文がなお興味深いのは、物理主義の計画がタルスキ真理論の解釈・批判として提出されているからである。すなわち、フィールドは、タルスキによる真理定義の哲学的動機は物理主義であったと解釈し、物理主義は意味論的概念を語と事物の間の物理的関係として解明すべきものであると理解し、その上で、タルスキによる物理主義の遂行は不十分なものにすぎないと批判しているのである。
 指示の因果説が現に存在する以上、意味論全体を物理学に還元しようとするフィールドの計画も十分検討に値する問題ではあるが、小論の目的はそこにはない(6)。ここで検討したいことは、フィールドが理解したような形での物理主義の主張が果たしてタルスキ自身の主張であったかという問題である。タルスキは確かに物理主義に関与していたが、それはフィールドが理解したような種類の物理主義ではなかったということを、私は以下で示したい。この問題は、今日でも絶えないタルスキ解釈を巡る論争(7)を検討する上できわめて重要であると考えられるからである。

II フィールドの物理主義

 この節ではフィールドがどの様にして上で見たようにタルスキを解釈・批判するようになったかを概観しておく。彼はまず、本来タルスキが提示すべきであったと彼が考える真理定義 T1 と、タルスキが実際に提示した定義 T2 を構成する(TTT I, II)。この場で両者を直接提示することは不可能なので、日本語に対して両定義が与えられたとして、そこから定理として導出される次のような同値式を考察してみることにする。

(1)を定理として持つ T1 と(2)を定理として持つ T2 を比較した場合、何が言えるであろうか。T1 は名前が対象を指示する、対象の順序対が関数記号を満たす、述語が対象に当てはまるという意味論的概念(フィールドは一括して原始的指示概念と呼んでいる)を使用した定義である。すなわち、T1 は真理概念を原始的指示概念に還元したものと言える。他方、T2 ではそうした意味論的概念は使用されていない。そしてタルスキは T2 の方を自身の真理定義として与えている。そこでフィールドは「意味論的名辞を含んでいないという事実は T1 に対する T2 の利点であろうか。もしそうなら、なぜそれは利点なのか」(TTT 356)と問う。モデル理論の構成が真理定義の目的なら、意味論的名辞を除去することは利点にならない。また、真理定義は「真」という語の意味を与えることを目的としているとも考えられない(8)。その目的のためには T2 の方が有利であると言えるような目的とは何か。「その様な目的をタルスキは彼の著作のある箇所で示唆している」(ibid.)とフィールドは考える。その『科学的意味論の確立』という論文でタルスキは、真理のような意味論的概念の定義が与えられないならば、意味論を「科学の統一の要請・物理主義の要請と調和させることが困難になるであろう(なぜなら、そのとき意味論の概念は論理的概念でも物理的概念でもないだろうからである)」(ESS 406)と注意していた。フィールドはこの注意を最大限に重視する。T2 は真理概念を非意味論的名辞に還元しているように見えるが故にタルスキは T2 を選んだのだが、それは物理主義の遂行という目的に照らしてみた場合、そうした性格を持つ T2 のほうが遙かに T1 よりも優れていると言えるからなのである。
 以上のフィールドによるタルスキ解釈には特に問題はない。何故なら、フィールドはタルスキの著作の中から物理主義に関する注意を発掘してきただけにすぎないと言えるからである。上の引用文を読む限り、タルスキは疑いもなく或る種の物理主義に関与していた。この点に関してフィールドは正しい。問題は、フィールドの繰り広げるタルスキ批判において現れてくる。そこにおいて、意味論に於ける「物理主義」という同一の言葉によって、タルスキが理解し意図していた意味内容とフィールドのそれとが食い違っているのではないかということが、私の主張したい論点である。ともかく彼による批判(TTT IV, V)を概観してみよう。
 意味論が表現とそれによって指される対象との間の関係を扱う学問であり、その関係が物理主義的に解明されねばならないとすれば、意味論的概念は表現と対象との間の物理的因果的関係として解明されねばならないであろう。なぜなら、「語と事物の間に或る非物理的な結合があるとすれば、それは極めて驚くべきことであろう」(TTT 373)からである。従って、物理主義的な真理概念の解明は、形式的に述べると、特定の文の真理について次のような部分的解明を与え得るものでなければならないであろう。
(3)と(2)を比較してみれば、T2 が物理主義的な真理の解明を与えていないことは明白であろう。なるほど T2 は真理を語と事物の間の非物理的な関係として説明しているものではない。だがそれと同じく、語と事物の間の物理的な関係として説明しているものでも全くないからである。T2 は真理概念を非意味論的名辞に還元しているが、物理主義的意味論の本来の役目を果たしていないように見える。
 フィールドの批判はこのように単純なものではなく、もっと込み入ったものになっている。問題にされるのは T1 には存在していた原始的指示概念が T2 に於いて消失している点である。もしかしたらタルスキには原始的指示概念に関する定義があったのかもしれない。その存在を仮定して、「指示する」、「満たす」、「当てはまる」の定義をそれぞれ D2、F2、A2 としよう。フィールドの考えは、タルスキの真理定義 T2 は T1 に D2、F2、A2 を加えたものと等しいというものである(TTT 370)。すると、真理概念は原始的指示概念に還元され、原始的指示概念に対しては物理主義的な説明が与えられていた可能性が生じよう。事実タルスキは「指示する」については定義を与えていた(CTFL 194, SCT 45)。フィールドはそれを次のように定式化する(TTT 370)。
(‘c1’ は対象言語 L における名前、‘[c1]’ はメタ言語へのそれの翻訳、‘・・・’ には L のすべての名前についての同様の条項が入るものとする。)そしてフィールドはこれが物理主義的定義になっていないと批判するのである。それは「単なる一覧表という形をした名前の指示の理論」(TTT 369)にすぎず、「指示を非意味論的名辞には実際には還元しておらず」(TTT 365)、「偽理論」(TTT 366)である(9)。フィールドは物理主義者としてこの様な定義に興味を感じない。事態は、各々の元素の原子価を一覧表にすることによっては原子価の概念が物理的に解明されたとは言えないのと同様である。フィールドが多少なりとも興味を持つのは、クリプキらによって展開された指示の因果論である。彼はそれに類した指示の理論の可能性が指示概念を語と事物の間の物理的因果的関係として解明することに不可欠であると考えた(TTT 366-7)。
 タルスキは F2、A2 に相当する定義を与えていないけれども、D2 と同様の一覧表形式の定義をおそらく受け入れたであろう。すると T1 を一覧表形式の原始的指示概念の定義で補完したタルスキの真理定義は、結局は真理概念の物理主義的解明の任を果たしていないことになる。また、D2、F2、A2 が偽理論である以上、タルスキ真理定義の真に内容のある部分は T1 のみであるということが結論される(TTT 370, 375)(10)
 纏めてみよう。タルスキは真理概念が意味論的概念であるとし、それを非意味論的名辞に還元することによって定義を与えた。フィールドはタルスキ自身の注意に基づいて、その目的が物理主義にあると解釈した。フィールドの理解する意味論に於ける物理主義とは、語と事物の間の物理的因果的関係として意味論的概念を解明しようとする試みであった。だが、フィールドが批判するとおり、この試みとタルスキが実際に与えた定義はまったく異質のものであった。ここから生じる立場は二つあるであろう。ひとつは、タルスキが物理主義について注意したときの物理主義とはフィールドが理解した通りのものであることを認めた上で、その注意はタルスキによって深刻に成されたものではないと考え、重要視しないというものである。第二の立場は、注意は深刻に成されたものと考えるが、フィールドの批判が成立する以上、両者に於ける物理主義の捉え方がそもそも根本的に異なっているのではないかと考えるものである。私は第二の立場に立って検討してみたい(11)。そのために、物理主義への注意がいかなる文脈において生じてきたのかを、次節に於いて考察する。

III タルスキの物理主義

 物理主義への注意が成された状況を理解するために、まずタルスキ真理論の歴史的な展開を考慮しておく必要がある。I 節の(3)で述べたように、タルスキは形式化された言語を種類分けして考えている。形式言語は、それが有する変数が属する意味論的範疇とその変数の階数に基づいて四種類に分類され、さらにそれらは、変数の階数があらかじめ与えられた自然数 n を越えない有限階数の言語、任意に高い階数の変数を含む無限階数の言語、に区分される(CTFL 220)。タルスキは有限階数の言語に対しては、数種類の方法を使い分けることによって、規約 T を満たす真理定義を与えることが可能であることを示した(12)。ところが無限階数の言語に対しては、定義を構成することは不可能であると判断し、真理定義不可能性の定理を提出した。その代わりに彼が取った方策は公理的手法によって真理概念を導入することであった。ところでこれは、註(1)で述べたポーランド語論文の段階での話である。独訳版の後記において、タルスキは以前の判断を修正し、メタ言語が対象言語の変数よりも高い階数の変数を有するならば、無限階数の言語に対しても規約 T を満たす真理定義を与えることが可能であると結論し(13)、公理的手法が必要となる場は狭められることになった。従って、II 節で見たタルスキの物理主義についての注意は、「メタ言語が豊かである限り真理概念の定義は常に可能であり、物理主義と調和する」という注意として理解されるべきものなのである。
 真理論の最終形態に至る過渡的過程において、公理的手法による真理概念の導入方法が具体的に提示されている以上、それを定義による方法と比較して検討することが、タルスキの物理主義を理解するために必要である。フィールドのように T1 と T2 を比較することは問題の所在を曖昧にするだけであろう。
 公理的手法による概念の導入とは、問題になっている概念をメタ言語における未定義の原始的概念として認め、その性質をメタ言語に新しい公理を付け加えることで特徴付けることによって成される。真理概念をこのようにして導入する場合にタルスキが必要とした新しい公理とは、(T)型同値式の形をした無限個のすべての文である(CTFL 256)。真理概念のこの用法は実質に適合しているものである(註(3)を参照)が、定義による場合と比べると次のような欠点を持つとタルスキは言う(ESS 405-6)。すなわち、(1)公理の選択が非本質的な要因(我々の知識の現状など)に依存した偶然的な性格を持つ、(2)得られた公理系が無矛盾か否かの問題が生じる、(3)過去に様々な誤解に導いた概念が原始的概念の役を演ずることは心理的観点から見て不自然である、そして既に見た、(4)物理主義の要請と調和しない、である。このうち(2)と(3)は物理主義の問題とは特に関係がないと思われるので、ここでは一応除外して考えることにする(14)。問題は(1)と(4)である。タルスキは公理によって真理概念を導入することが物理主義の要請に調和しないと明言しているが、彼が与えた公理系を見るかぎり、それが語と事物の間の関係を非物理的・非因果的に説明している理論を形成していないことは明らかであろう。それにも関わらずそれは物理主義に調和しないと言われるのである。II 節で見た、タルスキの真理定義が語と事物の物理的関係としての真理概念の説明ではなかったことと合わせて、語と事物の間の関係を物理的に説明しているか否かということは、タルスキの物理主義とは無関係な問題設定であることが結論付けられると思われる。
 では、タルスキの物理主義とは結局何であったのか。それは、真理のための特別の理論を有しないということに尽きると思われる。上で見た公理系が真理のための特別の理論を形成していることは分かりにくいかもしれない。特に定義との差異が不明瞭であろう。実はこの公理系はいまだ不完全であり、タルスキによると、「極めて制限された演繹力しか持たない」(CTFL 257)のである。その意味するところは I 節の(4)で言及した諸定理を導出できないということである(15)。例えば、個々の文 x1、・・・に対して、「x1 は真でないか x1 の否定は真でないかのいずれかである」・・・は証明されるが、矛盾律そのものはメタ言語で仮定された一般的な論理からは証明できない(ibid.)。こうした事態に対応するために、矛盾律等を新しい公理として付け加えて公理系を拡張することが考えられる。だが、「こうした拡張のすべては偶然的な性格を持つものであり、例えばこの領域における我々の知識の現状といった、非本質的な要因に依存しているのである・・・さらなる公理の選択の際に適用したいと望むべき客観的基準が全く使用不可能であることが判明するのである」(CTFL 258)。タルスキは続けて、無限帰納の規則を新しい規則として付け加えれば矛盾律等の新しい公理は必要無くなる(ただし註(14)で述べた無矛盾性証明は言えなくなる)と論じている(CTFL 259)が、真理概念のために特別に公理系が拡張されたという事実に変わりはない。
 他方、定義による場合は真理概念のための特別な理論は用いられていない。真理の理論であるように見えるものは、実際は、メタ言語において仮定されている一般的な論理についての理論、言語形態論(構文論)についての理論、および対象言語で用いられている特定の理論(数学や物理学等)に還元されるのである。先に公理として取られた(T)型同値式の形をした無限個のすべての文は定義に論理的操作を施すことによって得られるから、分析的に真である論理学の定理であると言える(cf. Etchemendy 1988, pp. 56-7)。また、矛盾律も、その証明を実際に構成して検討してみれば分かるが、使用されているのは集合論を含む論理学のみであり、それらの理論に還元可能なのである。この事情を簡単な例を通して見てみよう。我々は、「文『A』が真なら文『A ないし B』が真」という文を真理の理論に属する特有の定理であると考えるかもしれない。その証明は次のように与えられよう。(1)文「A」が真 ≡ A[定義から]、(2)文「A」が真[仮定]、(3)A[(1)、(2)から]、(4)A ないし B[(3)から]、(5)文「A ないし B」が真 ≡ A ないし B[定義から]、(6)文「A ないし B」が真[(4)、(5)から]、(7)文「A」が真なら文「A ないし B」が真[(2)、(6)から]。この証明で本質的なものは(4)で用いられている選言導入規則である。よって先の定理は論理学におけるこの規則を言い換えたものにすぎないと見なすことができるのである。
 真理概念を未定義概念としてそれを公理によって特徴付けることは、真理のために特別な理論を構成することであり、その理論はメタ言語で仮定されている諸理論には還元不可能である。その諸理論とは、構文論と数学を含むものとしての論理学、および物理学の二つに分類されよう。従って、数学(演繹科学)でも物理学(経験科学)でもない第三の科学、すなわち「独立した科学」(CTFL 266)、「特別な科学、すなわち真理の理論」(CTFL 154)を認めねばならないことが、タルスキにとっては「科学の統一の要請・物理主義の要請」と調和しないように思われたのである。「真理の理論」を持たない真理論――定義によって真理概念を導入したタルスキの物理主義的真理論はこのように呼ぶことができよう。
 以上により、「物理主義」という考えのもとでフィールドとタルスキが理解していたものが異なるものであることが明らかになったと信じる。最後に両者の関係を考察してこの相違を確認しておきたい。フィールドの物理主義の規定によれば、タルスキの真理定義が物理主義に調和しないことは言うまでもない。だが、タルスキの物理主義の規定に立つと、フィールドの真理概念解明の計画はどうなるであろうか。物理学の理論にのみ依拠している事によってタルスキの物理主義と調和しているように見えるが、そうではない。フィールドの計画は、真理概念を導入するに当たって、その性質を論理外の公理によって特徴付けるような理論として達成されると思われる。特に、それら公理は経験的な観察によって得られた、「我々の知識の現状」に依存した命題と成らざるを得ないであろう。公理の内に真理以外の意味論的概念も信念・意図などの内包的概念も含まれておらず物理的概念しか用いられていないということは、フィールドの計画が真理のための理論を目指しているという事実に何等の変更ももたらさない。従って、フィールドの計画はタルスキの物理主義の規定から逸脱したものなのである。



(1)1933 年にポーランド語で発表されたが、1935 年に独訳される際に、タルスキ自身による後記が付された。後述するように、この後記が小論での議論にとって極めて重要であるので、タルスキ真理論の完成は 1935 年であると考えたい。ただし、言及・引用するときは、1956 年の英訳版に基づいている。

(2)タルスキによると、意味論とは、言語表現とそれによって指される対象ないし事態の間の関係を扱う分野であり、そこに属す概念として、指示、充足、定義などが挙げられている。真理は文の性質を表す概念であるが、文が記述している事態にも関わっているので、意味論的概念と見なされる。(Cf. SCT 17.)

(3)タルスキは次のような文を真理の部分的定義、(T)型同値式と呼ぶ。
‘X’ には対象言語の任意の文の名前が入り、‘p’ にはその文自身、ないしメタ言語でのその文の翻訳がはいるものとする。(T)型同値式の形をしたすべての文が帰結されるような仕方で真理概念が導入されているとき、真理概念のその用法は実質に適合していると言われる。特に定義によってこのように導入されているときは、定義が実質に適合していると言われる。(Cf. ESS 404.)

(4)定理 1(矛盾律)すべての文 x に対して、x は真でないか x の否定が真でないかのいずれかである、定理 2(排中律)すべての文 x に対して、x は真であるか x の否定が真であるかのいずれかである、など(CTFL 197-199)。

(5)タルスキ真理論に対する様々な評価については、Davidson 1990 を参照されたい。

(6)この計画が抱える問題については、Davidson 1977、McDowell 1978、Putnam 1978 を参照されたい。フィールドのその後の見解は、Field 1986 に見ることができる。

(7)「特に哲学の文献では、[タルスキの真理論に対する]歴史的概念的誤解が著しくはびこっている」(Etchemendy 1988, p. 51)と言われる一方で、そのエチメンディ自身による正しい解釈に対しては、「タルスキがこの評価に同意しなかったことは確実である」(Davidson 1990, p. 291)と反論が成されており、状況は混沌としている。この論争に本格的に取り組むことは今後の課題としたい。

(8)タルスキの真理定義は別々の言語に対しては別様の仕方で与えられるから、「真」という語の数種類の意味が与えられることになり、それらに共通した意味は与えられていない、という議論がある。この議論は、通常はタルスキ批判として用いられる(例えば、Davidson 1990, p. 295 を見よ)が、フィールドは意味を与えることが真理定義の目的ではないことの証拠として用いている(TTT 356)。いずれにしてもこの議論自体が間違っていると私は考えている。

(9)ただしタルスキの指示定義についてのフィールドの理解には同意できない点がある。フィールドは指示定義が日本語に対して成された場合、「『日本』は日本を指示する」、「『米国』は米国を指示する」・・・が定理として帰結されることを指示定義の満たすべき条件として要求している(TTT 365n)。定義に対するこの要求は不可解である。真理定義が帰結することを要求された定理が(T)型同値式であったのと同様に、指示定義の場合も「『日本』は日本を指示する ≡ 日本は日本である」の様な同値式が要求されている定理であろう。真理定義がどの文が真であるかを決定する具体的な基準を与えてはいないように、指示定義もどの名前がどの対象を指示するのかを決定する基準は与えていないのである。もちろん我々は「日本は日本である」がメタ理論で真であれば「『日本』は日本を指示する」を演繹することができる。従って、不正確な言い方をすれば、指示定義は名前が対象を指示するという関係を対象間の同一性の関係に還元しているのである。ただ、このように解釈されたタルスキの指示定義も、語と事物の間の因果的関係として指示概念を解明したことにはならないことに変わりはない。

(10)この見解は現在広く普及しているようだが、ここでも私はフィールドに同意できない。タルスキ自身が充足概念によって真理概念を定義していることが、フィールド流のこの考えにもっともらしさを与えているのであろうが、註(12)で示す定義を見れば分かるように、充足概念(およびその定義において使われる帰納的手法)の使用は真理定義にとって本質的なことではなく技術的な問題にすぎない(cf. Etchemendy 1988, pp. 55-6)。

(11)タルスキ解釈として第一の立場を取るのは McDowell 1978 である。

(12)定義とは一般に、(∀x)(F(x) ≡ G(x)) の形で与えられるものと了解されたい。タルスキが CTFL で実際に与えた真理定義をこのように明示的な形でここに提示することは困難であるので、有限個の n 個の文(原子文ではない)しか含まない言語に対してタルスキが与えた定義(CTFL 188)を挙げておく。
(‘x1’ ・・・には対象言語の名前、‘p1’ ・・・にはその文のメタ言語への翻訳が入る。)タルスキは、真理定義は「部分的定義全体の論理的連言でなければならない」(SCT 16)と述べているが、定義に課されている一般的要件を満たすために、論理的連言と等値な上の形で与えられている(cf. TP 65)。

(13)意味論的範疇の理論が成立しない言語を考え、超限順序数の階数を導入することによって、この結論が得られる。真理定義不可能性の定理もこの結論のもとで一般化されることになる。詳細は CTFL §7 を参照されたい。

(14)無矛盾性が特に重要なのは、真理概念の使用においては嘘つきのパラドックスが生じる恐れがあるからである。定義による場合は、「意味論的概念の使用が我々を矛盾に巻き込まないことの一種の保証を得る」(SCT 23)。なぜなら、定義された概念は消去可能であるから、真理概念導入以前のメタ言語が無矛盾であれば、導入後も無矛盾であり続けるからである(cf. Etchemendy 1988, p. 54)。他方、公理による場合タルスキは独立した無矛盾性証明を与えねばならなかった(CTFL 256)。

(15)排中律が導けないのが特に問題となろう。なぜなら、「言語の通常の用法に一致した真なる文の定義は排中律に矛盾した帰結を持つべきではない」(CTFL 186)からである。証明可能性によって真理を定義すること(真理の「構造的定義」(CTFL 237)と呼ばれる)をタルスキが拒否したのは、それが大抵の場合に排中律を満たさないからであった(CTFL 186)。

文献

Davidson, D. 1977. ‘Reality without Reference’, Dialectica 31: 247-58.
----------- 1990. ‘The Structure and Content of Truth’, Journal of Philosophy 87: 279-328.
Etchemendy, J. 1988. ‘Tarski on Truth and Logical Consequence’, Journal of Symbolic Logic 53: 51-79.
Field, H. 1972. ‘Tarski’s Theory of Truth’ (TTT), Journal of Philosophy 69: 347-75.
----------- 1986. ‘The Deflationary Conception of Truth’, in MacDonald and Wright 1986.
Linsky, L. (ed.) 1952. Semantics and the Philosophy of Language, Urbana: University of Illinois Press.
MacDonald, G. and Wright, C. (eds.) 1986. Fact, Science, and Morality, Oxford: Basil Blackwell.
McDowell, J. 1978. ‘Physicalism and Primitive Denotation: Field on Tarski’, Erkenntnis 13: 131-52.
Putnum, H. 1978. Meaning and the Moral Sciences, London: Routledge & Kegan Paul.
Tarski, A. 1935. ‘The Concept of Truth in Formalized Languages’ (CTFL), in Tarski 1956.
----------- 1936. ‘The Establishment of Scientific Semantics’ (ESS), in Tarski 1956.
----------- 1944. ‘The Semantic Conception of Truth and the Foundations of Semantics’ (SCT), in Linsky 1952.
----------- 1956. Logic, Semantics, Metamathematics, Oxford: Clarendon Press.
----------- 1969. ‘Truth and Proof’ (TP), Scientific American 220(6): 63-77.


〈後記〉
この論文の初期草稿を丹念に検討して下さり、有益な批判を与えて下さった、美濃正氏、中釜浩一氏に感謝致します。

[哲学 博士課程]




What Is Tarski’s Physicalistic Theory of Truth?

Kouji Hashimoto


Alfred Tarski says that his definition of truth is in harmony with the postulates of physicalism. What Tarski means by ‘physicalism,’ however, has not been understood well. In this paper the author tries to make it clear what Tarski’s physicalism in semantics is.

First, the author examines Hartry Field’s well-known article ‘Tarski’s Theory of Truth,’ in which he contends that although Tarski’s philosophical purpose in the theory of truth is to pursue physicalism, Tarski fails to do so. There Field suggests his understanding of physicalism as the basis of his contention. According to Field, physicalistic semantics ought to explain the causal connection between language and (extralinguistic) reality. Such an explanation demanded by Field is something which one may naturally expect from physicalistic semantics. But the problem is: Is it also what Tarski demands of physicalistic semantics?

Second, in order to solve the problem, the author investigates Tarski’s two methods of introducing the concept of truth, namely, the method of definition and the axiomatic method. Tarski regards the former as physicalistic, the latter non-physicalistic. When this distinction is made, whether or not a method can explain the causal connection between language and reality is not used as the criterion by Tarski. According to Tarski, that a method does not contain any special theories of truth is the criterion for the method to be physicalistic. Accordingly, the axiomatic method is judged non-physicalistic because it characterizes the properties of the concept of truth by its own special axioms. From the physicalistic point of view, the concept of truth does not need to be explained at all, but only to be defined. This is Tarski’s physicalistic theory of truth.

Therefore the author concludes that Field’s physicalism is not the same as Tarski’s and that Tarski succeeds in pursuing his own version of physicalism.