存在論的転回と多重関係理論
  ――中期ラッセル哲学の研究(一)――

橋本康二


 かつて信奉していたヘーゲル的観念論から離脱したラッセルは、ほとんどあらゆる種類のものの存在を認めることによって彼独自の哲学活動を本格的に開始したが、やがて大きな転機を迎え、一つの重要な種類のものを自身の存在目録から抹消するようになった。それは「命題(proposition)」である。命題が存在するという立場から存在しないという立場への変化――以下では「存在論的転回」と呼ぶことにする――は、存在論内部の局所的変化に留まるものではなく、命題の存在を前提することによって始めて成立していた彼の他の哲学理論にも改変を迫るものであった。命題の存在を前提していた彼の哲学理論は次の四つである。

命題が存在しなくなった以上、これらの哲学理論をそのまま維持することは不可能である。存在論的転回を遂げたラッセルは、これらの哲学理論をどのように改変したのであろうか。まず本論文の第一部「存在論的転回と多重関係理論」では、真理論、認識論、言語論および論理学の分野におけるこの問題を形式的に考察する。ラッセルは認識論においては「判断の多重関係理論(the multiple relation theory of judgment)」と呼ばれる新しい理論を明示的に形式化し、命題の存在に依存しない認識論を打ち立て、それに基づいて新しい真理論を構築したが、言語論と論理学に関しては僅かな示唆を与えたにすぎない。そこで言語論と論理学に関しては、与えられた示唆を手がかりにしつつ、可能な改変の方向を検討したい。私見では、判断と同様、意味と論理定項をも多重関係と見なすことが可能であり、これによって存在論的転回に対応し得る言語論と論理学の新しい理論を形式化することが可能である。次に本論文の第二部「判断と真理」では、真理論と認識論の問題に戻り、この問題をめぐるラッセルの考えを批判的に考察する。存在論的転回後のラッセルは、真理値の担い手を命題から判断へと移し替え、判断の真理を対応説によって説明した。ところが多重関係として理解された限りでの判断と真理対応説の間には不整合が存在し、このことを自覚したラッセルは、真理対応説の方に固執し、判断の多重関係理論を廃棄するに到った。しかしこの廃棄は性急に過ぎたのではないか、というのが私が第二部で提出したい論点である。真理対応説以外の真理論ならば判断の多重関係理論(および命題の存在の否定)と両立することが可能であるように思われる。この真理論とは、新奇なものではなく、むしろ存在論的転回以前のラッセルの真理論の精神を受け継いだものである。

一・一 存在論的転回

 ラッセルの哲学をいくつかの時期に区分する一つの方法として、その真理論に着目する方法――より具体的に言えば、真理値の担い手として何が取られていたかに着目する方法――がある。この方法によれば以下のような三つの時期に区分することができる。
本論文での考察の対象となるのは中期のラッセル哲学であるが、この節では前期から中期への移行の過程について簡単に見ておきたい。
 前期のラッセルは、ケンブリッジ大学のヘーゲル主義者から教え込まれた観念論を捨て去った直後にあり、その哲学はきわめて多くの種類のものの存在を認める実在論であった。後年、彼は当時を振り返って、「私はヘーゲル主義者が信じなかったすべてのものを信じるようになった。これによって私には非常に豊かな宇宙が与えられた」([12]、48頁)と述べている。この豊かな宇宙の中で特に注目すべき存在者が命題である。「命題」という語は、この時期のラッセル哲学の専門用語であり、独特な意味を持って使われている(2)。それは次のようなものである。宇宙を構成している究極的な存在者をラッセルは「単純項(simple term)」と呼び、単純項には「物(thing)」と「概念(concept)」と呼ばれる二種類のものがあるとされる。太郎、花子、地球、月などの個物が物の範疇に属し、人間、犬、愛、嫌悪などの抽象的普遍としての性質や関係が概念の範疇に属す。項がいくつか集まることによって「複合項(complex term)」と呼ばれる新しい存在者が形成される。ラッセルは、言語的名辞や心的観念ではなく、まさに個物や抽象的普遍そのものが構成要素となっているこの複合項を(英語そのままでも日本語に翻訳しても紛らわしいのだが)「命題(proposition)」とも呼ぶのである。この命題の特異性は次の三点にある。第一に、命題は単なる項の集まりに尽きるものではなく、「本質的に統一体(unity)であり、分析することによってこの統一体が破壊されると、構成要素をいくら列挙しても、もとの命題は回復しない」([2]、50頁)ような存在者である。例えば、物「太郎」、概念「愛」と物「花子」が集まることによって一つの命題が形成されているが、そこでは、物「太郎」と物「花子」の間で概念「愛」が実際に関係づけている関係(relation actually relating)として機能することによって、統一体としての命題が形成されているのである。つまりこの命題は、直観的に言うならば、句「太郎と愛と花子」によってではなく、句「太郎は花子を愛しているということ」によって名指されてしかるべき存在者なのである。第二に、項の存在と命題の存在の間の関係は偶然的なものではなく、必然的なものである。例えば、宇宙の中に物「太郎」と概念「人間」が存在するならば、これら二つの項からなる命題(太郎は人間であるという命題)が必ず存在する。この宇宙の中に更に概念「犬」が存在しているならば、先の命題に加えて、物「太郎」と概念「犬」からなる命題(太郎は犬であるという命題)も必ず存在する。一方だけしか存在しない、あるいは、両方とも存在しない、ということはどちらもあり得ないのである。第三に、命題のうちあるものは「真理」という性質を有し、他のものは「虚偽」という性質を有している。この真理ないし虚偽という性質は、それ以上分析することも何か他のものによって定義することも不可能な、単純な性質である。なお、真理という性質を有している命題は「事実(fact)」ないし「客観的真理(objective truth)」とも呼ばれ、虚偽という性質を有している命題は「虚構(fiction)」、「客観的虚偽(objective falsehood)」ないし「客観的非事実(objective non-fact)」とも呼ばれることになる。
 以上で見てきた命題というものが存在することを前提として、ラッセルは他のいくつかの重要な哲学的諸概念を説明しており、その意味で、命題という概念は前期のラッセル哲学の中心的概念であったと言えよう。しかしながら、やがてラッセルは、いわば存在論的転回を遂げ、命題の存在を次のようにあっさり否定してしまうに到るのである。
命題という概念を認めるならば、先に見た命題の第一と第二の特異性より、「今日は水曜日であるということ」という句によって名指される命題が必然的に存在することを認めなければならない。しかし今やラッセルは、こうした命題の存在は(今日が火曜日であるならば)認められないと言うのである。ただし右の引用からも判るように、存在が否定されたのは、すべての命題ではなく、かつて虚偽という性質を有していると考えられていたところの命題、すなわち、虚構、客観的虚偽ないし客観的非事実であって、かつて真理という性質を有していると考えられていたところの命題、すなわち、事実ないし客観的真理は、依然として存在目録の中に残っている。ただ、このようになお存在を認められた命題も、もはや「命題」と呼ばれることはなくなり、単に「事実」ないし「複合的対象(complex object)」とのみ呼ばれることになる。このような仕方で命題の存在(正確に言えば偽なる命題の存在)を否定する立場を取ることによって、ラッセルの哲学は中期に移行し、この立場はその後も変わることはなかった(右の引用は後期に属する論文からである)。しかし、命題の存在を否定しなければならない決定的な議論をラッセルに求めることはできない。というのも、彼は、はっきりと次の様に述べているからである。
したがって、命題の存在が否定されたといっても、単にオッカムの剃刀が適用されたに過ぎないと見なすべきであろう。つまり、命題は不必要であるがゆえに存在目録から抹消された、というのが実情である。前期では、哲学的諸概念を説明するために命題という概念を用いることが不可欠に思われた。よって、仮にそれ自体として見た場合どんなに途方もないものであったとしても、命題の存在を認める必要があったのである。しかし、命題に訴えずに哲学的諸概念を説明することが可能であれば、仮にそれ自体としてはどんなに魅力的なものであっても、命題の存在を認める必要はなくなるであろう(たとえ本当は存在しているかもしれないとしてさえも)。つまり、命題なしで哲学的諸概念を説明することが可能ならば、それは、命題の存在の否定という存在論的転回に、論理的とは言えないまでも、合理的とは言いうる根拠を与えることになるのである。中期のラッセルは、命題なしの説明が可能であると考え、もっぱらそれを具体的に示す作業に従事した。まずもって説明されるべき哲学的諸概念の一つが、判断などの認識論の概念(および、そこに附随して現れる判断の真偽などの概念)であり、次節では、これに対してラッセルがどのような説明を与え認識論を再構築したのかを見ることにする。

一・二 認識論と真理論の再構築

 前期のラッセルは、認識とは人間精神と単一の対象の間に成立する二項関係である、と考えた。ここで言う人間精神とは、経験論的な観念の束、イメージの連鎖、心的言語に還元される心理的主体ではなく、認識作用を担っている当体としての、言わば「形而上学的主体(metaphysical subject)」([14]、20頁)のことであり、単一の対象とは、既に見た命題である。つまり、精神が命題に働きかけることによって、認識が成立するのである。認識作用には、判断、信念、否認、疑念、理解、空想、願望など何種類も存在するが、いずれも精神と命題の間の関係であり、精神による命題への作用であるという点において変わりはない。さらに前期のラッセルは、認識作用に附随する特有な性質、例えば、判断における真偽という概念を、次のように説明した。既に見たように、命題自体が既に真ないし偽という分析不可能な性質を有しており、判断の真偽はそこから派生して得られる概念なのである。すなわち、精神が判断作用を及ぼし、関係を結んでいるところの命題が真という性質を有しているならば、当の判断は「真」であり、偽という性質を有しているならば、当の判断は「偽」である。命題の真偽は定義不可能な概念だが、判断の真偽は命題の真偽によって定義されるのである。
 このような前期の認識論を、存在論的転回を遂げた中期のラッセルが維持できないことは明らかである。例えば、花子は人間であると仮定した上で、太郎は花子が人間であると判断している、という事態が成立しているとしよう。これは真なる判断という事態の成立の一例である。花子は人間なのだから、花子は人間であるというのは事実(前期の真なる命題)であって、中期のラッセルの存在論においても存在を認められることになる。したがって、この事態は、花子は人間であるという単一の事実と太郎の精神の間に判断という二項関係が成立しているのである、と説明可能かもしれない。しかし、偽なる判断という事態が成立しているとすると、例えば、太郎は花子が犬であると判断している、という事態が成立しているとすると、この事態はもはや前期のようには説明できなくなる。というのも、花子は人間なのだから、花子は犬であるというのは虚構(前期の偽なる命題)であって、中期のラッセルの存在論においては存在を認められていないからである。ではどのようにすれば、こうした事態も含めた判断一般を説明することが可能なのであろうか。説明可能な最も簡明な理論は、真なる判断は事実を単一の対象として持つが、偽なる判断は対象をまったく持たない、という理論であろう。この理論によると、真なる判断の場合の判断は依然として二項関係であるが、偽なる判断の場合の判断はそもそも関係ではなくなり、この二種類の判断は本性上異なる判断である、ということになる。この理論に対して即座に思い付かれる反論は、複数の偽なる判断の間に区別を付けることが不可能になる、というものである。例えば、太郎が花子は犬であると間違って判断しており、また、明子は猫であるとやはり間違って判断しているとすれば、太郎のこれら二つの判断は共に偽なる判断だから、共に対象を欠いており、よって二つの判断を区別することは不可能である。したがって、この理論を採用すれば、偽なる判断はすべて同一の事態の成立に還元される、という受け入れ難い帰結を認めざるを得ないであろう。この反論に対しては、判断の内容に訴えれば区別可能である、と答えられるかもしれない。つまり、先の太郎の前者の判断では、太郎の精神は一定の観念ないし心的表象像を抱いており、これは後者の判断で太郎が抱いている観念ないし心的表象像とは異なっており、かくして、判断の対象の差異に訴えることができなくても、判断内容としての観念ないし心的表象像の差異に訴えることによって、複数の偽なる判断の間に区別を付けることは可能である、と答えることができるかもしれない。この簡明な理論は、ラッセル自身が言及し、即座に否定した理論であるが、その否定の根拠は、今述べたものではなく、次のようなものである。
真なる判断と偽なる判断の本性上の同一性を保つためには、両判断ともに対象を持たないのである、と考える道も残されている。この場合、判断の真偽はともに判断の内容に委ねられることになり、観念論の真理論、すなわち、一種の真理整合説に到ることになるであろう。しかし観念論の真理整合説は、実在論者たるラッセルには最初から受け入れられない考えであった([7]、第泄博Q照)。同一性を保つためにラッセルが取ったのは、判断は関係であるという前期の考え方をあくまで維持し、真なる判断も偽なる判断もともに対象を持つ、と考える道である。つまり、あらゆる判断が「何か」についての判断である、という考え方に実在論者として断固として固執するのである。しかし、この「何か」はもはや命題ではあり得ない。ラッセルはこのディレンマをアクロバティックとも思える手段で切り抜ける。それが判断の多重関係理論である。
 関係は項の個数で分類することが可能である。例えば、ある関係がただ二つの項しか持たないとき、その関係を「二項関係」と呼び、二つより多くの項を持つとき、その関係を「多項関係」と呼ぶことによって、関係を二つに分類することができよう。「X は Y の友人である」が二項関係の例であり、「 X は Y と Z の友人である」や「X は Y と Z の仲裁者である」が多項関係の例である。ところが、多項関係には、複数の二項関係へと分析可能な関係と不可能な関係という、二種類の関係を認めねばならないのである。「X は Y と Z の友人である」は分析可能な関係である。すなわち、これは、「 X は Y の友人である」と「X は Z の友人である」というより単純な二項関係の集まりとして分析することができる。他方、「X は Y と Z の仲裁者である」はこうした分析が不可能な関係である。ここにあるのは、「二つの項の間の関係のいくつかの事例なのではなく、二つより多くの項の間の関係の一つの事例」([8]、154頁)なのである。この一つの事例において、「仲裁者である」という関係が三つの項 X と Y と Z を「一つの複合的全体(one complex whole)へと結び合わせているのである」([9]、73頁)。このように、「ある関係が生起し得る最も単純な命題が二つより多くの項を含む(ただし当の関係は数えない)」とき、ラッセルは、こうした関係を「多重関係(multiple relations)」と呼ぶ([8]、155頁)。さて、判断の多重関係理論の革新的なアイデアは、判断は二項関係ではなく多重関係である、と見なしたところにある。つまり判断は、精神 S と単一の物 X の間に成立する二項関係ではなく、精神 S と複数(二個以上)の物 A、B、・・・の間に成立する多項関係(三項以上の関係)であり、しかも、精神 S と物 A の間の二項関係、精神 S と物 B の間の二項関係、・・・の集まりとして分析することが不可能なような多重関係なのである。換言すれば、判断において精神 S は、単一の物 X を対象として有するのではなく、複数の物 A、B、・・・を諸対象として有するのである。ただし、「精神 S は物 A を対象として有し、かつ、精神 S は物 B を対象として有し、かつ、・・・」と分析することはできない。判断は多重関係であり、精神は判断という単一の作用で一括して「諸」対象を有しているのである。以上の多重関係というアイデアにより、先に見たディレンマ――虚構(偽なる命題)は存在すべきではないという「生き生きとした実在感覚」から来る要請と、判断は対象を持たねばならないという頑固な実在論から来る要請を同時に満たさねばならないという困難――をくぐり抜けることが可能になる。先の例の、太郎は花子が犬であると判断しているという事態が成立しているとき、成立している判断という関係は、物「太郎」と命題「花子は犬である」の間の二項関係ではなく、物「太郎」と先の命題の構成要素である物「花子」と概念「犬」の間の多重関係である。換言すれば、花子は犬であるという太郎の判断において、物「太郎」は、単一の命題「花子は犬である」を対象として有するのではなく、物「花子」と概念「犬」を諸対象として有するのである。中期のラッセルは、偽なる命題「花子は犬である」の存在は否定するが、物「花子」や概念「犬」の存在は否定していない(花子は人間であるという真なる命題(事実)の構成要素として物「花子」は存在し、(犬の)ポチは犬であるという真なる命題の構成要素として概念「犬」も存在するであろう)。したがって、判断をこのような多重関係と考えれば、偽なる命題の存在に訴えず、しかも、判断には対象があらねばならないという要請を満たした形で、判断の成立を説明することが可能となる。なお、判断という多重関係は以上の例のような三項関係に限定されるのではない。例えば、太郎が花子は明子の友人であると判断している時に成立している関係は、物「太郎」と物「花子」と物「明子」と概念「友人」の間に成立する四項関係としての多重関係であり、一般に判断は、任意の個数の項の間の多重関係であり得る。
 判断の多重関係理論では、判断の真偽という付随的な性質も説明可能である。太郎が花子は犬であると判断している場合、太郎は花子と犬を諸対象として有するのであるが、これら諸対象が構成要素となっている複合的対象(統一体)が存在するならば(すなわち事実であるならば)、当の判断は真であり、存在しないならば、当の判断は偽である。この例では、花子と犬を構成要素とする複合的対象は存在しないと仮定しているので、この判断は偽である。仮に、花子と犬を構成要素とする複合的対象が存在する(事実である)と仮定していたとすれば、この判断は真であったであろう。判断の成立を説明するという目的だけのためならば、前期の偽なる命題(虚構)はおろか真なる命題(事実)の存在さえ認める必要はなかったかもしれない。物と概念の存在を認めておけば十分であろう(ただし、判断という事実の存在は認めておく必要がある)。しかしながら、判断の真偽の成立をも説明するためには、かつての真なる命題(事実)の存在を認めておかねばならない。もちろん、右の例からも分かるように、かつての偽なる命題(虚構)の存在を認めておく必要はない。
 今まで例として取り上げてきたのは判断だけであるが、判断の多重関係理論は他の認識論的概念にも容易に拡張することができる。すなわち、信念、否認、疑念、理解、空想、願望などはすべて、精神と複数の諸対象の間に成立する多重関係として説明することが可能である。ただし、認識論的概念に附随する概念の説明は、個々の場合に応じて適当に言い換えねばならない。例として、否認の場合を取り上げてみよう。太郎が花子は犬であることを否認しているとするならば、ここで成立している関係は、太郎と花子と犬の間の多重関係としての否認関係である。この関係において太郎が対峙している諸対象である花子と犬を構成要素とする複合的対象が存在するならば、この否認は「真」ではなく「間違っている」と言うべきであり、また、こうした複合的対象が存在しないならば、この否認は「偽」なのではなく「正しい」と言うべきであろう。
 以上、多重関係理論による認識論の再構築を見てきたが、これは同時に真理論の再構築にもなっていることに注意しておくべきである。前期では真理および虚偽は命題が有する単純な性質とされており、真偽は存在論に属する概念として考えられていた(3)。中期では命題の存在を否定するのだから、前期の真偽概念をそのまま維持することは不可能である。では、どのように真偽概念を説明すべきであろうか。ラッセルの答えは劇的であり、かつ、単純である。それによると、真偽概念は存在論的概念ではなく認識論的概念なのである。前期では、存在のレベルにおける命題の真偽という概念が本来的な真偽概念であり、認識の真偽はそこから派生的に得られる二次的概念にすぎなかった。これに対して中期では、認識における真偽概念こそが本来的な真偽概念であるとされるのである。しかし、そこから派生的に存在における真偽が得られるわけではない。真偽は存在のレベルでは端的に存在しないのである。したがって、存在の真偽を説明する必要はない。かくして、真理論は認識の真偽を説明するだけで十分であり、それは右に見たように判断の多重関係理論によって既に与えられた。
 ラッセルは比較的短い時期に、いくつかの論文と著作で判断の多重関係理論を提示しており、本節では、それらの言わば最大公約数的概観を与えた。しかしながら、歴史的な興味からも、また、後の展開の準備のためにも、個々の論文・著作の内容について、いくつかの注意を与えておくことが有益であろう。
 (一)ラッセルが最初に判断の多重関係理論を非常に萌芽的な形であれ提示したのは、「真理の本性について On the Nature of Truth」(1906)の第。部においてである。そこでは、判断の対象は複数であるという見解が示され、虚構抜きでの真偽の説明が与えられている。ただし、多重関係という視点は欠けている。また、判断対象の複数性を判断内容である観念の複数性によって説明しており、判断の説明に観念が大きな比重を占めている。これは、この時期のラッセル哲学にとっては異色のことであり、むしろ後期のラッセルを思わせる内容となっている。さらに、そこで自ら示した見解にラッセルは未だ自信を持っておらず、虚構の存在を認める前期の理論と「どちらに決すべきか、今のところ私には分からない」([7]、49頁)と述べている(よってこれは中期に属す論文とは見なさない方が適切であろう)。また、判断の問題とは独立の問題として論理定項の問題が論じられているが、これは本論文第四節で主題的に取り上げることになる。
 (二)ラッセルは「真理の本性について」を論文集に収録する際、問題の第。部を削除し、題名も変更した。その代わりに、第。部を全面的に書き改めたものを別の独立の論文として収録した。それが「真理と虚偽の本性について On the Nature of Truth and Falsehood」(1910)であり、ここで初めて判断の多重関係理論が本節の概観で見た形で(自信を持って)提示された。また、この論文では、本節の概観で触れなかった一つの問題が扱われている。それは、太郎が花子を愛しているという次郎の判断と、花子が太郎を愛しているという明子の判断は、異なる判断であると我々は考えるが、この差異は何に由来するのか、という問題である。(この差異は「愛」のような非対称な関係が判断されているときに生じ、「友人」のような対称的な関係では生じないので、この問題を以後、「非対称問題」と呼ぶことにする。)ここで問題になっている差異にとって、判断を行っている主体の差異が関係ないことは明らかであろう。しかし、判断の諸対象を考慮しても、両判断ともに判断の諸対象は物「太郎」と物「花子」と関係「愛」であり、二つの判断の間には差異が存在しないことになってしまう。これに対してラッセルは次のように答えた。「愛」のような非対称な関係が「判断に参入する時、それは『方向(sense)』を持たねばならない」([8]、158頁)。先の前者の判断では、関係「愛」は太郎から花子へと進むという方向を有しており、後者の判断では、関係「愛」は花子から太郎へと進むという方向を有している。関係「愛」が有する方向の差異が二つの判断の差異の源なのである。しかし、判断の諸対象の一つに過ぎない関係「愛」自体が方向を有するというこの考えは、いかにも理解し難いものであり(なぜなら、太郎が花子を愛していなくても、太郎が花子を愛しているという判断においては、関係「愛」は太郎から花子へと進んでいるとされるからである)、ラッセルも後に、この考えを取らなくなる。
 (三)「真理と虚偽の本性について」と同年に公刊されたホワイトヘッドとの共著である『数学原理 Principia Mathematica』第一巻(1910)においても、判断の多重関係理論が提示されている。ラッセルは判断の例としてもっぱら要素的判断(論理定項を含まない判断)を取り上げるが、この著作では要素的ではない判断である全称判断が取り上げられているのが注目に値する。この問題は本論文第四節で主題化することになる。また、判断との関連で言語論の問題についての言及がなされており、この問題は本論文第三節で検討することになる。
 (四)一般人向けの哲学入門書として書かれた『哲学の諸問題 The Problems of Philosophy』(1912)においても、判断の多重関係理論が提示されている。ここでは非対称問題に対して、先に見た説明とは異なる説明が与えられている。すなわち、方向を有するのは、判断諸対象の一つとしての関係(先の例では関係「愛」)ではなく、判断関係そのものの方である、とされる。あくまでも比喩であるが、判断という関係は、「その諸対象をある順序(order)に置く」([9]、73頁)のである。したがって先に見た二つの判断においては、判断諸対象はまったく同じだが、それらが異なった順序に置かれており、この順序の差異が二つの判断の差異の源となっているのである。判断関係が成立している限り関係項の間には一定の順序関係が成立しているのである、という考えは理解可能なものであり、この点において、関係「愛」が成立していなくてもそれが有する方向によって関係項と成り得たはずのもの(太郎と花子)の間に順序関係が成立しているのである、と見なそうとする以前の考え方よりも、より説得的な説明が与えられていると言えよう。関係を順序 n 対の集合として理解することに慣れている現代の我々にとっては、むしろ、こうした説明すら必要なく、そもそも非対称問題は問題にさえならないかもしれない。しかしこの説明も、理由はまったく不明だが、後に採用されなくなる。
 (五)ラッセルは判断の多重関係理論を体系的に展開した著作を公刊することを意図していた。それが『知識論 Theory of Knowledge』(1913)である。しかしこの著作は、ヴィトゲンシュタインの反論を受け(4)、ラッセル自身もその失敗を認め(5)、執筆半ばで未完成のまま放棄されてしまうという悲劇的な結末に終わってしまった(6)。残されていた未完の原稿が発見され全集の第七巻として出版されたのは1984年のことである。この著作で注目すべきなのは次の三点である。第一に、「形式(form)」と呼ばれる存在者が導入された。すなわち、太郎が花子は明子の友人であると判断している時、太郎が対峙している判断諸対象は、物「花子」、物「明子」、概念「友人」および形式「何かと何かがある関係を持つ」である、とされる([10]、116頁および99頁参照)。「形式」の導入は、それまでの多重関係理論に対してきわめて大幅な変更を加えるものであり、それの含意するところについては本論文第二部で論じる予定である。第二に、要素的ではない判断についての理論が著作の第。部で展開されることが意図されていた。しかしこの部分は、執筆放棄によって書かれることなく終わり、どのような理論が展開されようとしていたのかは不明である。第三に、非対称問題に対して新たな説明が与えられた。その詳細は大変入り組んだものであるが、簡単に述べると、非対称的な関係に関する判断は、対称的な関係に関するいくつかの連言肢を持った連言的判断へと分析することが可能であり、分析の結果、先に見たような二つの判断の差異は明らかになる、というものである。しかしこの分析のためには連言的判断のような要素的ではない判断についての理論が必要不可欠だが、既に述べたように、この理論が書かれることはなかった。ラッセルは判断の多重関係理論を完全に廃棄して後期哲学へと移行して行ったのである。
 本節では、いかにしてラッセルが命題の存在に訴えずに認識論と真理論を再構築したのかを見てきた。そこで提示されている理論は、ラッセル哲学の発展という文脈から取り出して、認識論、真理論そのものとして批判的に吟味されるべきであろう。また、何よりもこの理論は創始者自身によって破棄された理論なのであるから、その直接の契機となったヴィトゲンシュタインの反論、およびラッセル自身による自己批判を検討することは、是非とも成されねばならないことである。だが、こうした作業は第二部で行うことにしたい。第一部では、命題の存在を前提しなくても認識論と真理論を構築することが可能である、少なくともその可能性は示された、という結果に満足したい。第一部の目的は、ラッセルの存在論的転回の妥当性の検討にあるからである。しかしながら、命題抜きの認識論と真理論の可能性の示唆のみによっては、命題は存在しないという存在論的転回に合理的な根拠が与えられたことにはならない。前期のラッセル哲学では、言語論と論理学という二つの分野も命題の存在に訴えて展開されていたからである。命題抜きでの言語論と論理学の再構築の可能性を示すことが、存在論的転回に合理的根拠を与えるためには不可欠であろう。第一部の残りの二節では、この可能性を検討する。

一・三 言語論の再構築

 判断の多重関係理論は、一見すると、判断文の意味分析を与えた言語論であるかのように思われるかもしれない。例えば、次の判断文を考えてみよう。
判断の多重関係理論によると、太郎と花子と人間の間に成立している多重関係としての判断が、判断文(A)の意味なのである。このような理解がなされるかもしれない。しかし、こうした理解は間違っている。多重関係理論が述べているのは、太郎が花子は人間であると判断していると仮定するならば、太郎と花子と人間の間に判断という多重関係が成立している、ということであって、言語については何も述べていないのである。それでもなお、判断の多重関係理論の中に言語論を読み込もうとする試みがなされるかもしれない。すなわち、太郎が花子は人間であると判断しているならば、判断文(A)の意味は、太郎と花子と人間の間に成立している判断という多重関係である。あるいは、真理の余剰説(「太郎は花子が人間であると判断している」が真であるのは、太郎が花子は人間であると判断しているときかつそのときに限る)を使うならば、判断文(A)が真ならば、判断文(A)の意味は、太郎と花子と人間の間に成立している判断という多重関係である。しかしながら、以上のような読み込みも許されるべきではない。というのも、この読み込みによると、判断文(A)が偽の場合、判断文(A)の意味はいったいどうなるというのであろうか。偽なる文の意味を説明できない言語論は欠陥言語論であり、ある文が真である時の意味の説明と、その同じ文が偽である時の意味の説明が異なるような言語論は、間違った言語論であると言わざるをえまい。これに対して、判断論は、判断が成立していない場合を考慮する必要はまったくない。そもそも判断が成立していない場合の判断の成立など説明できるはずがないからである。判断論で問題になったのは、判断の対象が真である場合(真なる判断である場合)と判断の対象が偽である場合(偽なる判断である場合)を等しく説明できねばならないということであって、いずれの場合にも判断自体は成立していると仮定しているのである。したがって、判断論から言語論を読み取ろうとすることは、初めから無理がある。判断の多重関係理論は、すぐ後で見るように、言語についての考察をまったく含まないわけではない。また、本節の最後で試みられるように、判断の多重関係理論をヒントにして、それと類比的な形で言語論を構築することも可能である。しかし判断の多重関係理論自体は、少なくとも明示的には文の意味について何も述べていないと考えるべきであろう。文一般どころか、判断文の意味についてさえ、何も述べられていないのである。ラッセルの言語論を検討する場合、まずは以上のことを確認しておかなければならない。
 前期のラッセルは、あまり明確な形では言語論を述べていないが、後に過去を振り返って次のように述べている。
これは後期における回想であるから、前期・中期のラッセルは文を名前と同列に捉えていたのである、ということが分かる。しかし、通常の名前、例えば「太郎」は、物としての太郎その人を名指し、太郎そのものを意味として有するとしても、文は何を名指し、何を意味として有するのであろうか。前期の場合は、「命題を表現する文(the sentence expressing the proposition)」([2]、42頁)という言い回しが使われていることからも読み取れるように、命題である。例えば、文「花子は人間である」は、花子は人間であるという命題を名指し、それを意味として有しているのである。またラッセルは、文と命題の間の名指し関係は、それらの構成要素間の名指し関係に還元可能であると考えている。すなわち、語「花子」が物「花子」を名指し、語「人間である」が概念「人間」を名指し、さらに語「人間である」が文中で名詞ではなく動詞として機能していることによって、文「花子は人間である」は命題「花子は人間である」(この命題の中で概念「人間」が単なる項の集まりを超えた統一体としての命題を形成する機能を果たしている)を名指しているのである。このように、文とそれが名指す命題との間には一種の構造上の対応関係が成立しているのであるが、これは如何なる意味でも真理対応説に関与するものではない、ということに注意しておかなければならない。文の真偽は端的に命題の真偽のみに依存するのである。すなわち、ある文の名指している命題が真という性質を有するならば、当の文は真であり、偽という性質を有するならば、当の文は偽である。事情は判断の真偽とまったく同じであって、存在のレベルにおける命題の真偽が根元的な真偽概念であって、文という言語のレベルでの真偽は、そこから派生的に得られる二次的概念にすぎない。文とそれが名指す命題の間には確かに対応関係が存在するが、この対応関係は、文が真であろうと偽であろうと成立しているのである。よって、ラッセルの前期の考えは、文と命題の間の対応関係を主張していても、対応の成立/不成立によって真/偽を説明しようとする真理対応説とは無縁である。ある文は命題と対応していても、当の命題が偽ならば当の文は偽であるのであって、ここでの対応は真理の生成に何ら関与していないのである。
 中期のラッセルが、文の意味と真偽に関して、以上のような前期の考えを取り得ないことは、もはや自明であろう。例えば、花子が犬ではないとき(すなわち、花子は犬であるという命題が偽のとき)、文「花子は犬である」は偽である。この場合、前期ならば、文「花子は犬である」は偽なる命題「花子は犬である」を名指し、それを意味として有すると説明できたが、中期ではもはや偽なる命題「花子は犬である」の存在は認められておらず、意味の説明ができなくなってしまう。ある文が真であるとき、その文は命題(事実)を名指し、偽であるときは何ものをも名指さないのである、という考え方は、既に述べたように取れない。文の意味は文の真偽とは独立に定まっているはずであり、文の真/偽に応じて文の意味が変動するという考えは、意味論として間違っている。我々は、ある文が真であるか偽であるかを理解する以前に、既にその文の意味を理解しているのである。また、偽なる文が何ものをも名指していないとすると、偽なる文を無意味な文(何ものをも意味していない文)から区別することもできなくなってしまうであろう。したがって、認識論のときと同様、真なる文と偽なる文の意味をひとしく説明し、しかる後に文の真偽を説明するような、新しい別種の言語論を構築することが、存在論的転回を遂げたラッセルにとっては急務なのである。いったい文は何を名指し、意味として有しているのか。残念ながら、中期のラッセルにおいて、この問題は明示的には扱われていない。しかし、言語に関するいくつかの示唆は与えられている。本節では、それらを基にして中期ラッセルの言語論の問題を検討して行く。
 ラッセルは判断の多重関係理論を展開する中で、言語の問題に関わる次のような注意を与えている。
ここから何か積極的な言語論が読み取れそうに思われるかもしれない。しかしながら、あまり多くは期待できないというのが実情である。以下でその実情を説明しよう。
 ラッセルは「表示について On Denoting」(1905)において、現在「記述理論(the theory of description)」と呼ばれている理論を提出した。それは「すべてのもの(everything)」のような記述句を分析する理論であったのだが、右の引用では、「花子は人間であるということ(that Hanako is human)」のような名詞節に対しても同様の分析をなすべきである、ということが主張されているのである。したがってまず、本来の記述理論について、簡単に見ておかなければならない(7)。記述理論は、記述句を含む文、例えば、「すべてのものは可分的である」を、記述句を含まない文「可分性は常に真である」へと変形する。しかしなぜ、このような変形によって記述句が分析され、その意味が明らかにされたことになるのであろうか。実は、記述理論自体は以上の変形を行うだけであり、意味について何も語っていないのである。記述理論は、言語の意味についての一定の理論が既に存在することを前提して、その理論に寄生する形で、意味について何がしかを説明しているにすぎないのである。ラッセルが記述理論を考案した時に採用していたのは前期の意味論――語は項を意味し、それを介して文は構造的に対応している命題を意味するという意味論――である。この意味論によるならば、変形後の文「可分性は常に真である」の意味は、概念「可分性」と概念「常に真」を構成要素とする命題(そこでは概念「常に真」が統一体を形成する機能を担っている)である。変形前の文「すべてのものは可分的である」は、本来、もはや我々の言語から消去されてしかるべき無用のものである。が、便宜上、我々の言語に残しておいても構わない。だがその場合、この文の意味は、すべてのもの「太郎」、「花子」、「地球」、「月」、・・・と概念「可分性」を構成要素とする命題(そこでは概念「可分性」が統一体を形成する機能を担っている)である、と誤って考えてはいけない。便宜上残されている文に対して正規の意味論を適用することはできない。変形前の文の意味は、あくまで、右に述べた変形後の文の意味であるところの命題であると考えるべきであろう。変形前の文に現れている記述句「すべてのもの」も便宜上残された表現であるので、それに対して正規の意味論を適用することはできない。それどころか、文について取った方法も、記述句については取れないのである。文「すべてのものは可分的である」は、変形後においても一個の文であり続けた。そのため、変形前の文の意味は変形後の文の(正規の意味論にしたがって得られた)意味である、とも見なすことができたのである。(正確に言えば、変形前の文の意味は変形後の文の意味であるという約定のもと、変形前の文を我々の言語の中に存続させているのである。)これに対して、文の中の語は、変形において表現としての同一性を保つとは限らない。右に挙げた例は非常に単純なものであるが、それでもこのことは見て取れるであろう。変形前の文の中の記述句「すべてのもの」は、変形後の文の中の動詞「常に真である」に対応しており、したがってその意味は概念「常に真」である、と見なし得るであろうか。記述句「すべてのもの」を存続させるための約定であるのだから、それも許されるかもしれない。しかし、より複雑な変形の例を考えると、こうした約定も困難になってくる。例えば、記述句「現代のフランス王」と述語「ハゲである」の二語からなる文「現代のフランス王はハゲである」を記述理論によって変形すると、得られた文は二つより多くの語を含むことになってしまう。よって、記述句「現代のフランス王」に対応する語を変形後の文の中から指定して、その語の意味を記述句「現代のフランス王」の意味と約定することは不可能である。かくして、「[記述]句はそれ自体では決していかなる意味も持たない」([5]、43頁)としか言えなくなるのである。ちなみに、ラッセルは中期及び後期においても記述理論による記述句の分析を維持し続けた。我々はラッセルの中期や後期の意味論について未だ知らないが、それがどのようなものであれ、その中で記述理論を展開することができるのであり、その意味で、記述理論は諸意味論に対して中立的であると言えよう。この中立性は、記述理論が文の意味に関する理論ではないことの帰結である。
 本来の記述理論が右に述べたようなものである以上、それを名詞節を含む判断文に適用しても、同じ結果しか得られない。いや、事態はさらに悪化していると言えよう。記述理論の応用により、文
は、次の文に変形される。
文(B)は日本語として適切ではないかもしれない。日本語では「判断する」という動詞を多重関係としてうまく使えないからである。文(A)から文(B)への変形のポイントは、判断を二項関係から多重三項関係へと変換することにある。この点を明瞭にするために、先ず文(A)自体を、論理学の教科書で使われている次のような論理的言語の文に翻訳しておくのが良いであろう。
記述理論の応用によって、これは次のような論理的言語の文に変形されるのである。
ここで前期の意味論が採用されているとするならば、文(B)の意味は、概念「判断」、物「太郎」、物「花子」および概念「人間」を構成要素とする命題(そこでは概念「判断」が統一体を形成する機能を担っている)である、と言うことができる。変形前の文(A)は我々の言語から消去すべきだが、便宜上残しておくならば、その意味は文(B)の意味と同じである。「花子は人間であるということ」という名詞節も消去すべきだが、同様に残しても構わない。だが残しても、この名詞節に指定できるような単独の意味といったものは存在しない。しかしながら、命題の存在を否定した中期のラッセルは前期の意味論をもはや採用できないのであった。したがって、右に述べたような仕方で、判断文や名詞節の意味を説明することは不可能である。記述理論を使って判断文や名詞節の意味を説明するためには、既に言語の意味についての一般的な理論が与えられていなければならない。一般的な意味論が存在していなければ、記述理論は判断文や名詞節の意味さえ説明できないのである。
 このように、記述理論によっては、文一般の意味どころか判断文や名詞節の意味についてさえ、何ら新しい知見は得られないのであるが、記述理論をまったく違った仕方で応用することによって、文一般の意味について何ごとかを述べようとしているように思われる箇所が、ラッセルの多重関係理論の記述の中には存在する。その箇所とは次の通りである。
我々は「命題『花子は人間である』」や「花子は人間であるということ」というような表現(すなわち名詞節)をそのまま発話したり書き記したりはしない。「命題『花子は人間である』は真である」や「太郎は花子は人間であるということを否認している」のように、必ず何らかの言語的付加を行った上で使用する。これに対して我々は、「花子は人間である」というような表現(すなわち文)の方は、何ら言語的付加をも行わずに、そのままの形で発話し、書き記して使用している。ただし、こうした文の使用には、判断作用が必ず伴っている。ここまでは常識的なことでもあり、理解可能である。しかし、判断作用によって文「花子は人間である」の意味が完全にされるとは、如何なる謂なのであろうか。文「花子は人間である」は、判断作用が非言語的に伴うことによって、何を意味しているというのであろうか。
 右の引用でのラッセルの論述は簡潔にすぎて、多くは推測に頼らざるを得ないのだが、ラッセルはおそらく以下のような意味論を構築しようとしていたのではないかと思われる。先ず明確にしておかなければならないのは、ラッセルが意味を与えようとしているのは、判断文に限定されるのではなく文一般に対してであり、また、名詞節ではなく文そのものに対してである、ということである。以下では例として「花子は人間である」という文を取り上げることにしよう。しかし、抽象的に考えられた文「花子は人間である」それ自体の意味を問うことはできない。意味を問い得るためには、文は使用されていなければならない。仮に、太郎は花子が人間であると判断しており、文「花子は人間である」を発話したり書き記したりして使用しているとしよう。この限りにおいて、すなわち、太郎によって使用された限りでの文「花子は人間である」に対してのみ、意味を問い得るのである。したがって、記述句「すべてのもの」の意味分析において、記述句「すべてのもの」ではなく、それを含む文「すべてのものは可分的である」の意味が問題になったように、文「花子は人間である」の意味分析において我々が問題にしなければならないのは、文
ではなく、文
である。文(D)は文(C)を一部として含んでいるのであって、名詞節が問題になっているのではないということを明示するためにも、文(D)の代わりに次のような論理的表記を用いた方が良いであろう。
文(D)のような表記法には疑問が残るかもしれないが(文を名前と見なす立場からすれば、こうした表記法には論理的な問題はないのだが)、ここでは立ち入らないことにする。というのも、最終的には消去されるからである。つまり、記述理論によって文(D)は次のように変形される。
このような変形がなされなければならないのは、文(D)の中の文「花子は人間である」が名指している命題の存在が中期では保証されていないからである。存在しない場合、文(D)への意味の指定は不可能になってしまうであろう。これに対して、文(e)の中の「花子」と「人間」がそれぞれ名指している花子と人間性は中期でも存在しており、文(e)への意味の指定の可能性は残る。しかし問題は、だからといってどうやって文(e)の意味を指定するのかである。ラッセルはここで前期の意味論に固執しているのではないかと推測される。すなわち、文(e)の意味は概念「判断」、物「太郎」、物「花子」および概念「人間」を構成要素とする命題である。命題は構成要素の集まりに尽きるものではないが、便宜上、これを次のように表記しておこう(丸括弧は、それで括られた概念が統一体を形成する機能を担っていることを示す)。
こうした命題(X)の存在は保証されていなかったのではないか、と反論されるかもしれない。しかし、現在考察中の文脈では、命題(X)の存在は保証されているのである。なぜならば、我々は、太郎が花子は人間であると判断しているならば、という仮定のもとで考察を進めてきたからである。命題という言葉を避けるならば、事実ないし複合的対象(X)が存在している、というのが我々の最初の仮定であり、文(e)の意味をこの事実ないし複合的対象(X)に求めることには何の問題もないのである。文(D)は文(e)へと変形された後は我々の言語からなくしてしまうべきであるが、便宜上残しておくこともできる。しかしその場合、文(D)の意味を命題
と考えてはいけない。命題(Y)の存在は、現在考察中の文脈においても、保証されていないからである。文(D)は文(e)の便宜上の代替物として言語の中に存在を認められているのだから、文(D)の意味は文(e)の意味と同じで、事実ないし複合的対象(X)であると考えねばならない。文(C)の意味はどうなるのか。これも我々の言語から消去すべきだが、残しておくこともできる。このとき、二つの場合が考えられる。第一の場合は、文(C)が文(D)のタイプの文の一部として使われている場合である。この場合、文(D)の意味は複合的対象(X)であり、文(D)の要素である文(C)の意味として対応し得る要素は複合的対象(X)の中には存在しないので、文(C)に意味を指定することは不可能である。よって、記述句「すべてのもの」や「現代のフランス王」と同様、文(C)は単独では意味を持たないと考えるべきであろう。第二の場合とは、文(C)が単独で使われる場合である。記述句と違って、文(C)は文であるから、言語の中に残しておくと、こうした使われ方をされるのである。この場合の文(C)は、判断作用による補足が言語的付加という形で示されていないだけであって、本来は文(C)ではなく、言語的付加が成されている文(D)を使うべきなのである(判断作用によって補足されていなければ、そもそも意味を問題にできない単なるインクの染みないし音である)。よって、単独で使われている文(C)は文(D)の省略と見なすべきであろう。そうすると、文(C)の意味は文(D)の意味と同じで、複合的対象(X)である、とも言い得るであろう。このように場合が二つに別れるのは意味論として良くない徴候だと思われるかもしれないが、そうではない。記述理論によって我々の言語が整備された結果、文(C)は本来消去されてしかるべきものだったのであり、ここで考察中の意味論は、もともと文(C)の意味など正規には扱う必要もなかったのである。整備の結果、我々の言語の中に存在を許された文は文(e)のタイプの文だけであり、現在考察中の意味論は、それらに対しては一意的に意味を指定できるのである。また、文の真偽を説明することもできる。それは前期のときとまったく同様になされる。すなわち、文の意味が真である時、当の文は真であり、文の意味が偽である時、当の文は偽である。しかし、例えば、文(e)の意味は(X)であり、これは複合的対象ないし事実であって、前期のときの命題とは異なり、真偽という単純性質は持たないはずである、と言われるかもしれない。その通りであるが、(X)は判断でもある。そして、判断の真偽は既に認識論において定義されていた。すなわち、判断の諸対象を要素とする複合的対象が存在するならば、当の判断は真である。したがって、物「花子」と概念「人間」を構成要素とする複合的対象が存在するならば、判断(X)は真であり、このとき、判断(X)を意味として有している文(e)も真である。文の真偽は文の意味である判断の真偽から派生して得られる概念である。最後に、文(D)の特異な性格について注意しておきたい(これは論理的に書き直した文(D)および記述理論による変形後の文(e)にも当て嵌まる注意である)。すなわち、文(D)は判断作用による補足を必要としない、完全な文である。文(C)は補足を必要とする不完全な文であるが、その補足が実際になされ、そのことを言語的に示しているのが文(D)である。つまり、文(D)は、それが名指す命題(X)の存在が保証された文(それが事実ないし複合的対象(X)を名指していることが保証された文)である。簡単に言えば、文(D)は名前である。文(C)は、それが名指すと考えられる命題(物「花子」と概念「人間」を構成要素とする複合的対象)の存在が保証されていないため名前ではなく、その意味で「不完全」と呼ばれるのである。この点において、文(D)は文(C)等の一般的な文から区別されるべき、特異な文なのである。しかし、そうすると疑問が生じる。例えば、明子は、複合的対象(X)が存在しない場合でも、そのことを知らないで、文「花子は人間であると太郎は判断している」を有意味に使用するではないか。確かにその通りであるが、この場合この文は、文(C)と同レベルにある名前ではない不完全な文であって、次のような補足を必要としているのである。
このように、本来我々の言語から消去されるべき文を残しておくと混乱が生じる。すなわち、文「花子は人間であると太郎は判断している」に類する文が使用された時、それが文(C)と同レベルの不完全な文なのか、文(D)と同レベルの完全な文(名前)なのか、判定できなくなるからである。したがって、名前であることが確定している文以外は、やはり我々の言語から消去しておくべきであろう。しかし、まだ疑問は残る。名前であることが確定していることを我々は如何にして知り得るのか。例えば、文「花子は人間であると太郎は判断している」が名前であることを、すなわち、それが名指す複合的対象(X)が存在することを、我々は如何にして知り得るのか。たとえ太郎が「花子は人間である」と発話したとしても、彼が花子は人間であると判断していない可能性(否認している可能性ではない)は残るのではないか。これに対しては、名前が存在することが原理的に可能であれば言語論としてはそれで十分である、と答えることができるかもしれないが、原理的な可能性だけでは、我々が現実に使う言語を構成することはできない。だが、幸いにも、我々が判断しているということを我々自身は確実に知り得る。したがって、文(C)を判断作用で補足し、それを言語的に示したものとして、文「花子は人間であると私は判断している」を利用できるであろう(ここでの「私」は太郎である)。これを論理的に書き換えると、文「判断(私、花子は人間である)」となり、これを記述理論によって変形すると、文「判断(私、花子、人間)」となる。一般に、
という形式を有した文(「O1」等は判断の諸対象の名前である)だけが、判断作用による補足と記述理論による変形・消去の後で我々の言語に残された文となるであろう。これらの文はすべて、構造的に対応している複合的対象の存在を保証された、名前である。
 以上、文は不完全記号であるという『数学原理』での注意をもとにして、ラッセルが構想していたと思われる意味論・言語論の再構成を試みた。推測に頼ったため、必ずしもラッセルの意図していたものではないかもしれないが、文イコール不完全記号説を整合的に理解するためには、右のように解釈するのが最も適当ではないかと思われる。したがって、留保付きだが、右に示した言語論をとりあえず「中期ラッセルの言語論」と呼んでおきたい。中期ラッセルの言語論は、偽なる命題の存在に訴えることなく、偽なる文を含む文一般の意味を説明することに成功している。だが、その発想には相当無理があるように思われる。以下では、これに代わり得る、より自然でラッセルの前期の言語論と中期の認識論の発想にも沿った、別の言語論の可能性を示唆したい。
 中期ラッセルの言語論は、文の使用には判断作用が伴っているということに着目し、文と判断との間に密接な関係を認めた。前期のラッセルもこの点に変わりはないが、文と判断の関係、より一般に、言語と認識の関係について、具体的には次のように考えている。まず、語(名詞や動詞)が項(物や概念)を意味するという関係は、精神が項に対して「見知り(acquaintance)」という関係を持つということに依存している。また、文が命題を意味するという関係は、精神が命題に対して判断関係を持つということに依存している。前期のラッセルは、実は、語は観念を「表す(express)」と考えていた([4]、59頁)。したがって、語は見知りの内容である観念を表し、それを介して、見知りの対象である項を意味するのである。また、文は判断の内容である観念複合を表し、それを介して、判断の対象である命題を意味するのである。このようなメカニズムによって、語(文)が項(命題)を意味するという関係は、精神が項(命題)と見知りの関係を持つ(判断関係を持つ)ということに依存しているのである。これはむしろ寄生関係になぞらえた方が分かりやすいかもしれない。すなわち、語(文)は、精神に寄生することによって、精神が項(命題)と見知りの関係を持つ(判断関係を持つ)ことを利用して、項(命題)を意味しているのである。中期ラッセルの言語論も語に関しては同様の見解を取っており、見知りの対象が語の意味であると考えている。しかし、文に関しては見解が揺らぐようになった。というのも、判断の多重関係理論により、判断の対象は単一の命題ではなく、複数の物や概念であることが明らかになったからである。ここで道は二つに別れることになる。第一の道は、文は精神に寄生して、精神が行う判断作用を利用して意味作用を行うのである、という考えを維持する道である。第二の道は、文は単一の命題を意味するという考えに固執する道である。中期ラッセルの言語論は第二の道を選んだ。ただし、中期ではもはや偽なる命題は存在しないから、文は単一の事実(かつての真なる命題)を意味すると見なすことを強いられることになる。真なる文であれ偽なる文であれ、それを使用している時に必ず存在する事実として発見されたのが、判断そのもの、すなわち、文を使用している精神、判断関係、および判断諸対象という三種類のものを構成要素としている複合的対象(事実)である。これが当の文の意味となる。しかし、この中期ラッセルの言語論には少なく見積もっても二つの難点がある。第一に、文と意味との対応関係も維持されたので、我々が通常用いている大半の文が不完全記号として消去され、「・・・と私は判断する」という形式の文しか言語の中に存在を許されなくなる、という信じ難い帰結を招く。ヴィトゲンシュタインでなくとも、「[文]はもちろん不完全な記号なんかではありません」([15]、125頁)と言いたくなるところである。第二に、意味作用を判断作用になぞらえることができなくなってしまうため、文が判断という事実を意味するという時の「意味する」ということの意味が不明になってしまう。文は判断という事実に単にラベルのように張り付いているにすぎないとでも言うのであろうか。これらの難点に関して弁護することは可能かもしれないが、でき得るなら避けたい難点である。また、こうした難点を引き受けてまで第二の道を選ぶ理由も理解し難い。文が命題を意味するという考えは、精神による判断の対象が文の意味であるという考えから出てきたものであり、前期の判断論では判断の対象が命題だと考えられたため、文の意味は命題だと考えられるようになったのである。中期の判断論によって、判断の対象が単一の命題ではないことが明らかになったにもかかわらず、なぜ文の意味は命題であるという考えに固執しなければならないのであろうか。むしろ、中期判断論の新しい知見を積極的に取り入れて、文の意味も単一の命題ではないと考えるのが自然な成りゆきであるように思われる。つまり、第一の道を選んで言語論を再構築する方が妥当な方策だと思われるのである。この言語論による文の意味の説明は次のようになる。文は精神に寄生することによって、精神が複数の物や概念と判断という多重関係を持つことを利用して、複数の物や概念と意味という多重関係を持つのである。文による意味作用は多重関係であり、文は単一の意味を持つのではなく、複数の諸意味を持つ。例えば、文「花子は人間である」は、物「花子」と概念「人間」を諸意味として有し、これら諸意味と多重的な関係に立っているのである。論理的表記法を用いて表現すれば次のようになる。
この言語論は中期ラッセルの言語論の二つの難点をさけることに成功している。第一に、すべての文は完全記号であって、「・・・と私は判断する」で言語的に補足される必要もなければ、消去されるいわれもない。例えば、文「花子は人間である」は、そのままで物「花子」と概念「人間」を諸意味として持つと考えても、何ら問題は生じない(ただし、判断文は記述理論によって変形され、そこに含まれていた名詞節は消去されることになる)。第二に、文の意味作用は精神による判断作用になぞらえて理解することができる。すなわち、文と諸意味の間の意味作用という関係の成立は、精神と判断諸対象の間の判断作用という関係の成立に依存しているのである、と理解することができる。また、この言語論は、文の真偽を説明することもできる。中期ラッセルの言語論も文の真偽の説明が可能であったが、それは判断全体に依存することによってであった。しかし判断の真偽を決定するのに必要なのは判断諸対象だけであり、判断する精神も判断関係も考慮に入れる必要はない。現在考察中の言語論は、判断諸対象だけを利用して文の真偽を決定できるようになっている。すなわち、文の諸意味を構成要素とする複合的対象が存在するならば、当の文は真であり、存在しないならば、当の文は偽である。そして最後に、この言語論は、偽なる命題の存在に訴えることなく、文の意味と真偽を説明することに成功している。判断論と並行的に構築されているため、この点は自明であろう。
 以上、中期ラッセルの言語論を再構成し、それが含んでいる困難を克服した別種の言語論を提示した。ラッセルの考えていた言語論が後者でないことは明らかであり、前者も本当にラッセルが抱いていた言語論であるのか疑問が残る。しかし、いずれにしても命題抜きの言語論の再構築を成し遂げており、よって、言語論に関しては、存在論的転回に合理的な根拠が与えられたと言い得るであろう。

一・四 論理学の再構築

 ラッセルは判断の多重関係理論の説明において、もっぱら「太郎は花子が人間であると判断している」のような要素的判断(論理定項を含まない判断)のみを取り上げて分析したため、「太郎は花子が人間でないと判断している」のような要素的ではない判断(論理定項を含む判断)の分析がどうなるのか、疑問が残ることになり、これをめぐって多くの議論がなされてきた。だが、こうした議論では、論理定項の問題はラッセル哲学においては本来、判断の問題とは独立の問題であった、という事実が無視されている。そこで本節の前半では、独立の問題としての論理定項の問題を取り上げ、存在論的転回の合理化という我々の目的のために、この問題の解決を試みる。しかし、多くの論者が要素的ではない判断の分析のみに関心を持ったのにも理由がある。すなわち、論理定項は判断(ないし文)に固有の現象である、という立場を取ることも可能なのである。後半では、この立場を取った場合の問題を検討する。
 前期のラッセルは論理定項が存在すると考えた(8)。すなわち論理定項は、物や概念と同様に、宇宙の中に単純項として存在しているのである。例えば、論理的名辞「ない(not)」は宇宙の中に存在するある論理的対象を名指している。この論理的対象の名前は「ない」であるが、これでは混乱をきたすこともあるので、以下では「否定性」と呼ぶことにしよう。また、論理的名辞「ならば(if)」もある論理的対象を名指している。この論理的対象は「含意関係」と呼ぶことにしよう。否定性と含意関係は、太郎、花子、人間、犬、友人、愛などと同じ資格で存在しているのである。ただし、否定性は一種の性質であり、含意関係は一種の関係である。つまり、例えば、人間という性質が花子という物と複合することによって命題「花子は人間である」が存在するようになるのと同様に、否定性という性質が命題「花子は人間である」と複合することによって命題「花子は人間ではない」が存在するようになる。また、愛という関係が太郎および花子という物と複合することによって命題「太郎は花子を愛する」が存在するようになるのと同様に、含意関係という関係が命題「花子は人間である」および命題「太郎は花子を愛する」と複合することによって命題「花子が人間であるならば太郎は花子を愛する」が存在するようになる。このような論理的対象の存在を認める立場からは次のことが帰結する。すなわち、論理学は論理的対象を研究する科学であり、この点において、物理的対象を研究する物理学や生物を研究する生物学などの通常の経験科学と何ら異ならない。例えば、生物学者が命題「花子は人間である」を調べて、この命題に真理という性質が属していることを発見するのと同様に、論理学者は命題「花子が人間であるならば花子は人間である」を調べて、この命題に真理という性質が属していることを発見するのである。方法の違いはあるが、対象を調査してその諸性質を研究するという点において変わりはない。こうした帰結は人によっては受け入れ難いものかもしれないが、ラッセルはむしろ論理学のこの経験科学的性格を積極的に認めている。
カント的な「含む」という概念や言語規約などによって論理学の真理の必然性、ア・プリオリ性ないし分析性を説明しようという発想は、ラッセルには無縁である。そもそも彼にとって論理学の真理は、偶然的で、ア・ポステリオリで、かつ総合的だったからである(9)
 存在論的転回を遂げた後も右のような論理定項についての考え方を取り続けることができるなら問題はないのであるが、偽なる命題の存在を否定してしまった以上、やはり右の考え方は取れないのである。このことは、ラッセル自身が明瞭に意識していた。
現在の文脈に合致させた形で問題を表現すると次のようになる。花子は犬ではないと仮定する。このとき、命題「花子は犬ではない」は真であり、存在論的転回後の中期でも存在を否定されることはない。つまり、事実「花子は犬ではない」は中期においても存在が認められている存在者である。しかし、花子は犬ではないのだから、命題「花子は犬である」は偽であり、この命題の存在は中期では否定されることになる。そうすると、事実「花子は犬ではない」は命題「花子は犬である」と否定性から構成されているのである、と述べることはできなくなってしまう。つまり、事実「花子は犬ではない」において、否定性は何に帰属している性質であるのか、説明不可能になるのである。もう一つ例を挙げてみよう。仮定するまでもなく、花子が犬ならば花子は犬である。よって、命題「花子が犬ならば花子は犬である」は真であり、事実「花子が犬ならば花子は犬である」の存在は中期でも認められねばならない。しかし、最初の仮定により命題「花子は犬である」の存在は否定されているのだから、事実「花子が犬ならば花子は犬である」において含意関係は何と何を関係付けているのか、説明できなくなってしまう。以上が、従来無視されてきた、偽なる命題の存在を否定した場合に生じる論理定項・論理学の問題である。これが判断の問題とは独立の問題であることは明白であろう。
 この問題に対処する方法は二つある。第一の方法は、論理的対象およびそれを構成要素として含む事実(「花子は犬ではない」のような否定的事実や「花子が犬ならば花子は犬である」のような含意的事実)が存在するという考え方を維持した上で、それに対する説明を前期とは異なる形で構築して行く方法である。第二の方法は、論理的対象およびそれを含む事実の存在をあっさりと否定してしまう方法である。これによって右に述べた問題は完全に解消してしまうことになる。ただし、この方法を取った場合には、論理定項を含むように思われる判断に関する理論、および、論理的名辞を含んでいる文に関する理論を、論理的対象の存在に訴えないで構築するという課題が課されることになる。順に検討して行こう。
 第一の方法は、ラッセルがまだ存在論的転回を行うことを躊躇していた頃の「真理の本性について」(1906)の中で示唆されている方法である。右の引用の二番目のものの直後に、ラッセルは次のように述べている。
具体的な分析は与えられていないが、ここでは明らかに、判断のときと同様の分析を論理定項に関しても施すべきである、ということが示唆されているように思われる。以下、この示唆に従って、存在論的転回にも対応し得る論理定項の新しい理論を具体化して示したい。
 まず否定性から検討しよう。否定性は、単一の命題に帰属する性質ではない。それは、複数の物と概念の間に成立する多重関係である。例えば、花子が犬ではないとき、花子は犬であるという命題に否定性という性質が帰属しているのではなく、物「花子」と概念「犬」の間に否定性という多重関係が成立しているのである(この場合は多重関係ではなく二項関係であるが、一般には多重関係になるので、便宜上「多重関係」と呼ぶことにする)。論理的表記法を使うと次のようになる。
つまり、花子が犬ではないとき、否定性と花子と犬を構成要素としている複合的対象ないし事実(そこでは否定性が統一体を形成する機能を担っている)が存在するのであり、これが存在するためには、否定性と花子と犬が存在すれば十分であり、花子と犬を構成要素とする複合的対象ないし事実が存在する必要はない。次に含意関係。含意関係も、二つの命題の間に成立する関係ではなく、複数の物と概念の間に成立する多重関係である。例えば、花子が犬ならば太郎は猫であるとき、花子は犬であるという命題と太郎は猫であるという命題の間に含意関係が成立しているのではなく、物「花子」、概念「犬」、物「太郎」および概念「猫」の間に含意関係という多重関係が成立しているのである。論理的表記法で表現すると次のようになる。
つまり、花子が犬ならば太郎は猫であるとき、含意関係、花子、犬、太郎および猫を構成要素としている複合的対象ないし事実(そこでは含意関係が統一体を形成する機能を担っている)が存在するのである。このときに必要なのは、含意関係、花子、犬、太郎および猫の存在だけであって、花子と犬を構成要素としている複合的対象ないし事実も太郎と猫を構成要素としている複合的対象ないし事実も存在する必要はない。論理定項を多重関係と見なす以上の理論は、連言や選言等の他の論理定項にも適用することが可能であり、また、複数の論理定項が含まれている複合的対象ないし事実も、煩瑣になるが、同様にして分析することが可能である。この点は容易に理解されるであろう。さらに、論理定項の多重関係理論によって、論理定項を含む判断の分析には何ら技術的な問題はないことが分かる。例えば、太郎が花子は人間ではないと判断しているとき、太郎、否定性および命題「花子は人間である」の間に判断という多重関係が成立しているのではなく、太郎、否定性、花子、人間性の間に判断という多重関係が成立しているのである。このときの判断諸対象である否定性、花子および人間性を構成要素としている複合的対象ないし事実が存在するならば、当の判断は真であり、存在しないならば、当の判断は偽である。つまり、普通の判断を分析するのとまったく同様にして論理定項を含む判断を分析することができるのである。論理定項を含む文に関しても事情は同じである。文「花子は人間ではない」を例に取り、前節で提示した二番目の言語論を使って説明しよう。この文はまず(判断文等を分析するときと同様)記述理論によって文「否定性(花子、人間性)」へと変形される。この文は否定性、花子および人間性を諸意味として有する。これら諸意味からなる複合的対象ないし事実が存在するならば、当の文は真であり、存在しないならば、当の文は偽である。煩瑣を厭わなければ、論理定項を含む判断を報告する論理定項を含んだ文なども、問題なく分析することが可能である。
 第一の方法を選び、右に示したような仕方でそれを展開して行けば、命題の存在に訴えない論理定項の理論を構築することができる。よって、論理学に関しても、存在論的転回の合理化を成し得たと言えるであろう。しかし、第一の方法はラッセル自身によってきわめて早い時期に示唆されたものであるが、その後ラッセルはそれを具体的に展開しなかった。だからといって別の理論を明示的に提示したわけでもない。しかしながら、いくつかの状況証拠から判断する限り、ラッセルは第一の方法を捨て、第二の方法に傾いていたように思われるのである。そこで最後に、ラッセルがどのようにして第二の方法を追求しようとしていたのかを考察したい。
 まず準備として、一般性という論理的対象が存在すると仮定しよう。これは概念と結合することによって複合的対象ないし事実を形成する性質である。例えば、すべてのものが可分的であるとすれば、概念「可分性」に一般性という論理的性質が帰属しており、概念「可分性」と一般性を構成要素として持つ複合的対象ないし事実(一般的事実)が存在しているのである(この事実の中で統一体を形成する機能を担っているのは一般性である)。(一般性は命題ではなく概念と結合する論理的性質であるから、この節の最初に見た問題は生じず、とりあえず、これを多重関係と見なす必要はない。)この仮定のもとでは、太郎による「すべてのものは可分的である」という判断は、次のように分析されることになる。すなわち、この場合、太郎と可分性と一般性の間に判断という多重関係が成立しており、判断諸対象である可分性と一般性を構成要素として持つ一般的事実が存在するならば、太郎の判断は真であり、存在しないならば偽である。さてラッセルは、『数学原理』において判断の多重関係理論を展開した後に、一般的判断に関して次のように述べている。
つまり、ここでラッセルは、一般性という論理的対象およびそれを構成要素として含んでいる一般的事実(引用文では「単一の対応した複合物」と呼ばれている)の存在を否定した上で、一般的判断を説明しているように思われるのである。一般的事実の否定という考えは、実は、前期の論文にも見られる。「『解決不能問題』および記号論理学によるその解決について On ‘Insolubilia’ and their Solution by Symbolic Logic」(1906)の中で彼は次のように述べている。
前期の偽なる命題の存在は中期では否定されるが、一般的命題の存在の否定は、前期から中期へと引き継がれたように思われる。しかし、『数学原理』のラッセルは、φと A から成る複合的対象、φと B から成る複合的対象、・・・のすべてが存在するとき、判断 (X).φ(X) は真である、という判断の真偽の説明を与えており、なるほどこれは一般的事実の存在に訴えない説明になっているのだが、判断 (X).φ(X) が具体的にどのように成立しているのかについては、何の説明も与えていない。右の引用からラッセルが第二の方法を追求しようとしていることは読み取れると思われるが、追求の際に不可欠な肝心の一般判断の分析が欠けているのである。だが、『知識論』(論理定項の問題を論じることを約束しておきながら、結局その部分は書かれることなく終わった、未完の著作)の中に手掛かりを求めることができる。ラッセルはそこで次のような注意を与えている。
ここでラッセルは、論理的対象(否定性や選言関係)が構成要素となっているような論理的事実(否定的事実や選言的事実)が存在することをはっきりと否定している。ただし論理的対象の存在は否定していない。よって、第二の方法を完全に追求しているとは言えないかもしれない。しかし論理的対象は「『もの』ではない」([10]、98頁)のであって、通常の存在者とはステータスの異なる、きわめて独特な存在者である。ラッセルはこれを「(分子的)形式」と呼んでいる。形式という概念は、第二節で述べたように、『知識論』において初めて導入された概念である。この概念の導入により、太郎が花子は人間であると判断しているという事態は、太郎と花子と人間性と原子的形式「何かがある性質を持つ」の間に判断という多重関係が成立しているのである、と分析されることになるのであった。論理的表記法を使うと、これは次のように言い表される。
右の引用から読み取れるように、判断(A)が真になるのは、花子と人間性と原子的形式を構成要素とする事実が存在するときではなく、花子と人間性を構成要素とする事実が存在するときである。花子と人間性を構成要素とする事実が存在しなければ、判断(A)は偽である。形式という概念がこのように判断の多重関係の中に組み込まれていることと、論理的対象も形式(分子的形式)であると見なされていることとを合わせると、ラッセルは論理定項を含む判断を次のように分析しようと考えていたのではないかと推測される。太郎が花子は人間ではないと判断しているとしよう。この場合には、太郎と花子と人間性と分子的形式「これ、ではない」の間に判断という多重関係が成立しているのである。これは論理的表記法では次のように言い表される。
これでは第一の方法の分析とまったく同じではないかと思われるかもしれないが、そうではない。違いは判断の真偽の説明において現れる。すなわち、第二の方法では否定的事実は存在しないと考えているのだから、判断(B)が真になるのは、花子と人間性と分子的形式「これ、ではない」から構成される事実(否定的事実)が存在するときなのではなく、花子と人間性から構成される事実が存在しないときなのである。このような事実が存在するならば、判断(B)は偽である。また、太郎が花子は犬か猫であると判断しているとき、論理的表記法を使うと次のような事態が成立していることになる。
花子と犬から構成される事実が存在するか、花子と猫から構成される事実が存在するならば、判断(C)は真であり、いずれの事実も存在しないならば、判断(C)は偽である。他の論理定項を含む判断に関しても、真偽の説明を適切に変えるならば、同様の分析が可能である。例えば、最初に問題にした、太郎による「すべてのものは可分的である」という一般性を含む判断は、論理的表記法では次のように言い表されることになるであろう。
太郎と可分性から構成される事実、花子と可分性から構成される事実、地球と可分性から構成される事実、・・・のすべてが存在するとき、判断(D)は真であり、いずれかの事実が存在しないならば、判断(D)は偽である。
 以上、中期ラッセルが最終的に抱いたであろうと推測される、論理定項を含む判断に関する理論を再構成することを試みた。しかしながら、この(論理定項を含む形で)拡張された判断論に関しては、どうしても疑問を感じざるを得ない点が存在する。それは、判断が(A)、(B)、(C)、(D)と変わるにつれて、判断の真偽の説明が異なってくる点にある。以前の判断論では、判断の諸対象を構成要素とする事実が存在するならば判断は真であり、存在しないならば判断は偽であると、一貫して説明できたが、右に見た理論では、こうした説明が(形式を判断諸対象の一つと見なさないとしても)できなくなっている。この点に疑問を感じるというのは、単に理論の単純性が失われたことを嘆いているのではない。(A)、(B)、(C)、(D)で規定されている条件が満たされたとき、なぜ判断(A)、(B)、(C)、(D)は真となるのか、その説明の必要性を感じているのである。これに対するラッセルの答えは、真なる判断は事実に「対応」している、というものである。だが、判断が真のとき判断は事実に対応しているとは、いったい如何なる事態の成立をいうのであろうか。そもそも精神と諸対象の間の多重関係としての判断は、何かに対応することができるようなものであるのだろうか。こうして我々は、ラッセルの判断論および真理論に立ち返って、「対応」という観点からそれらを再考することを迫られることになるのである。これが第二部「判断と真理」の主題である。

(第一部・了)




(1)文献の詳細は論文末の文献表に掲げてある。なお引用・参照箇所を示す時は文献番号の後にページ数等を付す。

(2)ラッセルは一般的な意味で「命題」という語を用いることもあり、また、後期においては心的表象像を公式に「命題」と呼んでいるが、この論文では混乱を避けるために、「命題」という語を常に前期の独特な意味を持った専門用語として用いることにする。

(3)初期ラッセル哲学の真理論が抱える問題については、拙論「ラッセルの最初の真理論」(1997)を参照されたい。

(4)この反論は、『ノートブック Notebooks 1914-1916』(1914-6)に収められているノートや手紙、および『論理哲学論考 Tractatus Logico-Philosophicus』(1922)にも見られるが、大部分は私的な会話においてなされており、その詳細は必ずしも明らかではない。

(5)ラッセルの自己批判は『私の哲学の発展 My Philosophical Development』(1959)で簡潔にまとめられている。

(6)しかし後に、ヴィトゲンシュタインとラッセルの両方の哲学に通じていたラムジーが、「事実と命題 Facts and Propositions」(1927)において、判断の多重関係理論を再評価し(ヴィトゲンシュタインの影響を受けて成立した後期のラッセルの判断論よりも優れているという論証を与えている)、独自の仕方でそれを発展させようと試みていたことは、歴史的にも哲学的にも大変興味深い事実である。

(7)詳細は、拙論「量化をめぐるラッセル」(近刊)を参照されたい。

(8)本稿では「論理定項」という語が論理的名辞と論理的対象の両方を意味し得るように多義的に使用されているが、文脈によってどちらであるかは明瞭であろう。例えば、「論理定項が存在する」という文中の「論理定項」は論理的対象を意味している。

(9)ここでの「必然−偶然」という概念は、我々が可能世界意味論などで理解している限りでの概念として理解されたい。ラッセルは「必然−偶然」という概念を独自の仕方で理解していたからである。

文献

[1] Ramsey, F. P. “Facts and Propositions”, Aristotelian Society Supplementary Volume 7(1927), pp. 153-170. Repr. in his Philosophical Papers, ed. by D. H. Mellor, Cambridge: Cambridge University Press, 1990, pp. 34-51. References to the latter.
[2] Russell, B. The Principles of Mathematics, Cambridge: Cambridge University Press, 1903. 2nd ed., London: George Allen and Unwin, 1937. References to the latter.
[3] Russell, B. “Meinong’s Theory of Complexes and Assumptions”, Mind 13(1904), pp. 204-219; 336-354; 509-524. Repr. in his Essays in Analysis, ed. by D. Lackey, London: George Allen and Unwin, 1973, pp. 21-76. References to the latter.
[4] Russell, B. “Russell to Victoria Welby: 3 February 1904”, in Monk, R. and Palmer, A. (eds.), Bertrand Russell and the Origins of Analytical Philosophy, Bristol: Thoemmes Press, 1996, pp. 58-60.
[5] Russell, B. “On Denoting”, Mind 14 (1905), pp. 479-493. Repr. in his Logic and Knowledge, ed. by R. C. Marsh, London: George Allen and Unwin, 1956, pp. 41-56. References to the latter.
[6] Russell, B. “On ‘Insolubilia’ and their Solution by Symbolic Logic”, in his Essays in Analysis, ed. by D. Lackey, London: George Allen and Unwin, 1973, pp. 190-214. French version published as “Les Paradoxes de la Logique”, Revue de Metaphysique et de Morale 14(1906), pp. 627-650. References to the former.
[7] Russell, B. “On the Nature of Truth”, Proceedings of the Aristotelian Society 7(1906), pp. 28-49.
[8] Russell, B. “On the Nature of Truth and Falsehood”, in his Philosophical Essays, New York: Simon and Schuster, 1910. Repr. in his Philosophical Essays, London: George Allen and Unwin, 1966, pp. 147-159. References to the latter.
[9] Russell, B. The Problems of Philosophy, Oxford: Oxford University Press, 1912.
[10] Russell, B. Theory of Knowledge: The 1913 Manuscript, ed. by E. R. Eames, London: Routledge, 1992.
[11] Russell, B. “The Philosophy of Logical Atomism”, Monist 28(1918), pp. 495-527; 29(1919), pp. 32-63; 190-222; 345-380. Repr. in his Logic and Knowledge, ed. by R. C. Marsh, London: George Allen and Unwin, 1956, pp.177-281. References to the latter.
[12] Russell, B. My Philosophical Development, London: George Allen and Unwin, 1959.
[13] Whitehead, A. N. and Russell, B. Principia Mathematica, Vol. I, Cambridge: Cambridge University Press, 1910. 2nd ed., 1927. Paperback ed. to *56, 1962. References to the last.
[14] Wittgenstein, L. Tractatus Logico-Philosophicus, London: Routledge and Kegan Paul, 1922.
[15] Wittgenstein, L. Notebooks 1914-1916, Oxford: Basil Blackwell, 1961. 2nd ed., 1979. References to the latter.
[16] 橋本康二、「ラッセルの最初の真理論」、『哲学論叢』24号、1997年、64-75頁。
[17] 橋本康二、「量化をめぐるラッセル」、『哲学・思想論叢』17号、1999年、59-70頁。


Russell’s Ontological Turn and the Multiple Relation Theory

Kouji HASHIMOTO


The fundamental thesis of early Russell (from The Principles of Mathematics (1903) to “Meinong’s Theory of Complexes and Assumptions” (1904)) is that there are objectively false propositions (fictions) as well as objectively true propositions (facts). Depending on the thesis, he constructs philosophical theories as follows. Theory of judgment: Judgment is a dual relation between the judging mind and a proposition. Theory of meaning: Meaning is a dual relation between a sentence and a proposition. Theory of logical constant: A logical constant, say, implication is a dual relation between two propositions. Middle Russell (from “On the Nature of Truth and Falsehood” (1910) to Theory of Knowledge (1913)), however, denies his early thesis. Namely, he comes to think that there are no propositions that might be either true or false and that there are only facts. This ontological turn forces him to reconsider the above theories. With regard to judgment, he advances the multiple relation theory of judgment. According to the theory, judgment is a multiple relation of the judging mind to more than two objects, which are particulars or universals, but not propositions. With regard to meaning and logical constant, Russell does not have any new theories that are independent of the existence of propositions. So we must do it by ourselves. My first proposal in this paper is that we should regard meaning as multiple relation too. Take, for example, the sentence “John loves Mary”. This sentence does not mean the proposition that John loves Mary. It has John, Mary, and the relation “love” as its meanings, and is multiply related to these meanings. My second proposal is that we could regard logical constant as multiple relation. Suppose, for example, that it is the case that if John is a dog, then Mary is a cat. What there is in this case is not the dual relation “implication” between the proposition that John is a dog and the proposition that Mary is a cat, but the multiple relation “implication” among John, the property “dog”, Mary, and the property “cat”. The multiple relation theories of meaning and of logical constant are completely free from the existence of propositions. Although these theories might seem to be implausible, I can not find any reason to reject them while maintaining the multiple relation theory of judgment.