論理的帰結関係をどう定義するか

橋本康二


一 序

 「論理的」とはどういうことかを考えるとき、モデル理論の考え方に沿って考えようとすることが、我々にはしばしばある。例えば、ある複雑な文が論理的に真であるか否かを問われると、我々は真理値表と呼ばれるものを描いてみて、その文を構成している要素文に対するすべての真理値配分において元の文が真になっていることを確認すれば、その文は論理的に真であると判定する。また、ある文集合からある文が論理的に帰結するか否かを考えるときも、前者のすべての文を真にするすべての真理値配分において、後者もまた真であることを確認して、確かに論理的な帰結関係になっていると判断する。こうした傾向は、良く知られたゲーデルの完全性定理と不完全性定理における「完全」という言葉によって、我々が一般に理解していることのうちにも窺うことができる。そこでは、ある公理系における定理の全体が、モデル理論によって論理的に真であると認められた文の全体と一致するということが、その公理系において使われている論理が完全であることの証拠である、と理解されているように思われる。あたかも、モデル理論が論理的であることの範型を与えているかのごとくに。
 このように、我々にとって常識的な考えとなったモデル理論、特に、そこで定義される「論理的帰結関係(logical consequence)」および「論理的真理性(logical truth)」の概念の定式化を初めて与えたのが、ポーランドの数学者、アルフレッド・タルスキである(1)。それ以降、モデル理論は、数学基礎論の一分野として活発な研究対象となり、また、自然言語の意味論を構成するための強力な道具を提供するものとして、言語学者、哲学者にとっても学ぶべき重要な分野となってきた。ところが、この後者、すなわち自然言語の意味論を研究している哲学者の一人、ジョン・エチメンディが、80 年代の初め頃から、タルスキのモデル理論、特に、タルスキによる論理的帰結関係の定義に対して批判を行うようになった。彼の基本的な主張は、論理的帰結関係に対するタルスキ流のモデル論的定義は間違っている、というものである。論理についての我々の常識が批判されているのだと言えよう。
 この論文では、まず、そもそもタルスキによる定義が「正しい」とか「間違っている」などと評価され得るとはどういうことであるのかを、論理的帰結関係の定義についてのタルスキの考えを調査することによって、明らかにする。次に、上述のエチメンディによるタルスキ批判を検討し、彼の批判が、単に技術的なタルスキ批判にとどまらず、論理的帰結関係を定義しようとするあらゆる試みに対して一つの難問を突き付けるものであることを指摘する。最後に、この難問を潜り抜けて、論理的帰結関係を新たに獲得する可能性について論じてみたい。


二 タルスキによる論理的帰結関係の定義(1) ── 定義の背景

 タルスキは、「真理(truth)」、「論理的帰結関係」、「論理的概念(logical notion)」など問題の多い概念を定義するに当たって、「定義」についての一般的な考察を行っている。彼は定義を次のような三種類に分類する(2)。第一の種類の定義は定義される語の我々による通常の用法と一致することを目指したものであり、その語によって通常意味されているものの分析を試みる。この場合、定義が正しいものであるか否かが当然問題にされ得る。第二の種類は、現実の用法とは独立にある語の使用の仕方を提案する規範的な定義であり、この場合、定義の正しさを問題にすることはできず、有用性の観点からのみ評価されることになる。第三種は、語の本来の意味、語の背後にある言わばプラトン的イデアのようなものを捉えようとする定義である。
 第三種の定義に関しては、「論理的概念」の定義がこの種の定義になることをタルスキは明確に拒否しているが、この方針は、「真理」の定義においても守られていると思われる。というのは、この定義の拒否は、定義項に未定義の形而上学的概念などを導入することによって、定義自体を曖昧で不明瞭なものにし、厳密性を失わせることを避けることを表明しているとみなせるからである。実際、「真理」の定義において、タルスキは、真理概念を論理学、証明論および対象言語に含まれている理論(数学、物理学など)の概念に還元し、真理に関する形而上学的思弁などの特別な理論が入り込む余地を排除した(3)。「正確な方法」で提示しようとしている論理的帰結関係の定義においても、当然この方針は前提されていると考えても良いであろう。第三の種類の定義ではないこと、すなわち、既に十分に定義されている概念のみが使用された定義であることを、本論文では、定義に対する「科学性の条件」と呼ぶことにし、この条件を満たす定義を「十分な定義」、満たさない定義を「不十分な定義」と呼ぶことにしよう。タルスキの論理的帰結関係の定義は、十分な定義を目指したものである。
 第一種と第二種の定義については、タルスキの態度は若干込み入っている。「真理」と「論理的概念」の定義においては、基本的には規範的定義であるが、両定義が混じり合ったものであり、通常の用法との一致も目指した定義であると考えられている。こうした考えにならざるを得ないのは、「真理」や「論理的概念」が通常は幾つかの異なった意味をもって用いられているという事情に起因する。これらの内のどれを選択して定義を与えるかは、多分に恣意的な問題であり、正しいとか間違っているとかは言えないであろう。例えば、「真理」の定義においてタルスキは、多数の人に使われている用法であるということを選択の基準にしているように思われるが(4)、この選択は圧倒的に有用であっても、正しいと言うには問題がある。従って、原理的には、規範的定義しか与えられないのである。しかしながら、或る一つの用法の選択が成された場合、実際に構成された定義がこの用法と一致しているか、この用法の意味を捉えているか、ということを問うことができ、定義が正しいか間違っているかという問題が生じる。このように、通常の用法の中のある一つの(おそらくは支配的な)用法と一致していることを、定義に課された「実質適合性の条件」と呼ぶことにする。この条件を満たす定義を「正しい定義」、満たさない定義を「間違った定義」と呼ぶことにしよう。タルスキの論理的帰結関係概念に対する定義がこの意味での正しい定義を目指したものであることは、彼が「この概念の正確な定義はすべて、多かれ少なかれ任意的な側面を示すだろうという事実を、我々は最初から認めねばならない」(5)と述べた後で、「通常の概念と本質的に近い、本来の帰結概念を得る」(6)ことを試みていることから明らかである。
 実質適合性の条件の具体的な内容は、定義される概念の種類に応じて変わってくる。論理的帰結関係の場合に、定義が一致すべき用法をタルスキが何であると考えていたのかは、論理的帰結関係の「構造的定義(structural definition)」(7)に対してタルスキが与えた批判の中にみることができる。
 文の集合 K と文 X の対<K, X>によって推論を表記し、文 X と文集合 K が論理的帰結関係に立っているとき、推論<K, X>は「論理的推論」であると呼ぶことにする。構造的定義は、推論を純粋に単なる形としての記号の列として眺め、その記号列が有する特定の構造的特徴を取り上げて、この特徴を有することをもって推論が論理的であることの必要十分条件であると定義する。具体的には、記号の構造に関する操作である推論規則を幾つか特定し、「文集合 K に対してこの操作を有限回ほどこすことによって文 X が得られる(演繹される)ときまたそのときに限り推論<K, X>は論理的である」と定義することになる。しかしながらこの定義によっては、通常は論理的推論であると見なされているものの全体を覆うことはできない、というのが批判の内容である。次のような文集合 a と文 A を考えてみよう。

ある初等的な理論(8)では、文集合 a に属するすべての文はその理論の公理から通常の推論規則によって演繹されるのに対して、文 A は演繹され得ない、という事態が生じる。このことは、推論<a, A>は構造的定義によると論理的推論ではない、ということを意味している。ところが、タルスキに従うと、通常の用法では推論<a, A>は論理的推論であると認められている。ゆえに、構造的定義は、通常の用法の全体を尽くしてはいない。しかし、この失敗は、最初の理論で用いられている推論規則の貧弱さに由来しているようにも思われる。文集合 a から文 A の証明を可能にするような新しい推論規則を付け加えて、もとの理論を拡張すれば、構造的定義によっても推論<a, A>は論理的推論であると判定される。上とおなじような失敗例が拡張された理論においても発見された場合は、そのつど次々に新しい推論規則を付加していけば良い。こうして最終的には、通常の用法で論理的推論であると認められているものと、構造的定義が論理的推論であると規定するものとの間には、完全な外延上の一致が成立することを期待することができる。しかしながら、この期待は叶わぬものであることを、タルスキはゲーデルの不完全性定理を援用して主張する。
構造的定義と通常の用法との間には、どうしても外延上の不一致が付きまとうのである。
 推論<a, A>のような推論が通常の用法では論理的であると見なされるのは何故であろうか。タルスキが、通常の用法における論理的推論によって直観的に意味されている特徴である、と考えている内容は概ね以下のようにまとめられる(10)
従って、論理的帰結関係の定義が実質適合性条件を満たすためには、その定義によって論理的であると判定される推論の全体が、様相的特徴と形式的特徴を合わせ持つ(11)推論の全体と一致しなければならない。構造的定義はこの一致を達成していないので、実質適合性条件を満たさない間違った定義なのである。
 タルスキは実質適合性条件を満たした正しい定義を与えることを試みるのだが、その定義の構成に移る前に、私はここで、後にみるエチメンディのタルスキ批判と密接な関係を有する、構造的定義に関する一つの重要な問題を指摘しておきたい。それは科学性条件の取扱いに注意を促す問題である。
 タルスキは、推論<a, A>が構造的定義によると論理的推論ではない、すなわち、文集合 a に通常の推論規則を適用しただけでは文 A が演繹されない場合、この演繹を可能にするような新しい推論規則を付加することに言及していた。ここで、ゲーデルの不完全性定理が成立しないような空想的状況を考えてみよう。そこでは、この付加によって拡張された構造的定義によって論理的推論であると判定されるものの全体の、通常の用法で論理的推論であると認められているものの全体との、外延上の完全な一致が成立する(12)。この空想的状況のもとで、構造的定義はどの様に評価されるべきであろうか。これが実質適合性条件を満たした正しい定義であることは、疑い得ない。外延上の一致に基づいて、その事を簡単に証明できるであろう。だが、これはタルスキの求めた定義ではないと思われる。なぜなら、科学性条件を満たしているか否かが問題になってくるからである。
 新しい推論規則の導入の仕方を考えてみよう。そこでは、推論<a, A>が通常の用法で論理的推論である、すなわち、様相的特徴と形式的特徴を共に有した推論である、という知識に基づいて、その推論を可能にするために新しい推論規則が導入されている。構造的定義のこうした拡張には、暗黙の内にであれ、様相的特徴と形式的特徴に関する概念が不可避的に介入して来ざるを得ないのである。だが、こうした事態は、新しい推論規則の導入の際のみに特有なことなのではない。通常の推論規則の選択も、任意に行われるのではなく、同じような考察に基づいて成されなければならない。少なくとも、その規則を一回適用したところの推論、すなわち、図式的に表されたその推論規則自体の一つの代入例である推論が、様相的特徴と形式的特徴を共に有した推論である、という知識が前提されていなければならない。従って、構造的定義は、それが暗黙の内に前提している知識(概念)を表面に出して定式化し直すならば、「推論が論理的であるのは、それが通常の用法で論理的と認められているときかつそのときに限る」という同語反復的な定義に帰着してしまう。同語反復的であるがゆえに、この構造的定義は実質適合性条件を完全に満たした定義となり得るのだが、逆に、この完全性のゆえに、科学性条件を満たしているかが危うくなってしまうのである。
 通常の用法で意味されているものを科学的な概念によって直接特徴付けることができるのであれば、問題は生じない。しかしながら、論理的帰結関係の通常の用法を特徴付ける概念は、「必然性」や「経験からの独立」のように科学の概念を越えた、いわば「形而上学的」な概念である。従って、構造的定義は、こうした形而上学的概念を使用して与えられることになる。このとき、二つの可能性が生じる。第一は、形而上学的概念に対して別途に科学的な定義が与えられている場合である。この場合、科学性条件を満たした十分な定義である。しかし、そう言われ得るのは構造的定義の方ではなくて別途な定義のほうであろう。そして、この別途に科学的に与えられた定義こそタルスキが本来目指している定義である。他方、具体的に与えられている構造的定義を見る限り、それは、むきだしの形而上学的概念を使用しているにすぎないから、明らかに科学性条件を満たしていない。第二は、形而上学的概念をあからさまに科学的には未定義な概念として使用し、その意味は形而上学的直観とでもいうべきものによって与えられるとしている場合である。これは明かに科学性の条件を満たすことを放棄している。いずれの場合も、構造的定義は科学性の条件を満たさない不十分な定義である。
 纏めると、たとえ反ゲーデル的な空想的状況においても、論理的帰結関係の通常の用法を特徴付けるものが形而上学的概念であり、かつ、構造的定義がこの用法との一致を目指すものであるならば(13)、構造的定義は実質適合性を満たしはしても、科学性条件は満たし得ない、ということになる。また、この議論の過程で、論理的帰結関係の十分な定義におけるきわめて重要な課題が示唆された。それは、通常の用法で直観的に意味されている形而上学的概念を科学的概念によって定義するという課題である。この課題が達成されれば、直観の段階では形而上学的に基礎付けられていたにすぎない論理的帰結関係が科学的に基礎付けられたことになる、と言っても良いであろう。当然のことながら、この課題の達成のためには相当の困難が予想されてしかるべきである。だが、タルスキは、自分の与える定義はこの困難を克服していると考えているのである。


三 タルスキによる論理的帰結関係の定義(2) ── 定義の構成

 タルスキが与える定義は「意味論的定義(semantical definition)」である。タルスキによると、「意味論(semantics)」とは、言語表現とそれによって指される対象ないし事態の間の関係を扱う分野であり、そこに属す概念として、「指示(denotation)」、「充足(satisfaction)」、「定義」、「真理」などの概念が挙げられている(14)。この意味論の概念を使って論理的帰結関係を定義しようというのが意味論的定義である。論理的帰結関係の様相的特徴においておいては真理概念が用いられていたので、この方針は確かに有望であると思われる。他方、形式的特徴においては、「文が指示する対象に関する知識によって影響されない」と言われていたが、この特徴を意味論的概念で定義することは、一見すると矛盾した方針ではないかとも考えられる。ともあれ、これら二つの特徴が意味論的概念によってどの様に捉えられているのかを見るべく、以下において、論理的帰結関係の意味論的定義を、タルスキ本来の考えに即して、具体例を補いつつ再構成してみよう(15)
 「真理」や「論理的帰結関係」などが述語付けられる対象言語として日常の日本語に近いものを考え、その形式的構造についてはとくに明確にしないままにしておく。ただし、この言語の表現は、幾つかの「意味論的範疇(semantical category)」(「雪」のように個体を名指す表現の集合、「は白い」のように性質の所有を主張する表現の集合、「または」のように二項真理関数を表わす表現の集合、「ということはない」のように一項真理関数を表わす表現の集合など)に分類され得ると仮定する。具体的な目標として、この言語に属する文
が定義によってどう判定されるかを念頭においておく。次に、変項を導入することによってこの言語を拡張する。もとの言語の表現が意味論的範疇に分類されていたのに応じて、変項も各意味論的範疇ごとに異なる種類の変項を用意しておく(例えば、個体を名指す表現を代理する変項として英小文字による個体変項を用いる、といった具合に)。もとの言語の文を構成している表現の一部を、それと同じ意味論的範疇に属する変項に置き換えてできる表現が、拡張された言語における「文関数」と呼ばれる。以下がその例である。
次に、対象の「無限列」という概念を導入する。無限列は変項の集合を定義域とし対象の集合を値域とする関数である。ただし、ここでは種類分けした変項を用いているので、無限列は個体変項に対して個体を、性質変項に対して性質を、文結合子変項に対して二項真理関数を、文作用子変項に対して一項真理関数を指定する関数であるとする。「無限列による文関数の充足」という概念を定義することが目標であるが、ここでは一般的定義を試みることはせずに、具体的な個々の無限列と文関数についての部分的定義の例を幾つか挙げておく。無限列 g は、「a」に草という個体を指定する関数(その他の変項に対する指定は任意、以下同様)、無限列 h は、「a」に石という個体、「A」に固いという性質を指定する関数、無限列 i は、「a」に雪という個体、「A」に白いという性質、「Γ」に「かつ」によって表されている二項真理関数、「γ」に「ということはない」によって表されている一項真理関数を指定する関数であるとしたとき、それぞれの無限列による文関数(3)、(4)、(5)の充足の部分的定義は次のように与えられる。
また、任意の無限列 j による文関数(2)の充足の部分的定義は以下のとおり。
部分的定義(6)と 草は白くないという事実から、無限列 g は文関数(3)を充足するということ、また、部分的定義(8)と雪が白くかつ白くないということはないという事実から、無限列 i は文関数(5)を充足しないことなどを演繹することができる。次に、「もとの言語のある文 S のある無限列 f のもとでの真理」という概念を定義する。まず、もとの言語において「論理定項(logical constant)」と見なされている表現とそれ以外の表現である「論理外の定項(extra-logical constant)」を特定し、文 S の中に生じている論理外の定項をすべて同じ意味論的範疇の変項に置き換えて文関数 s を得る。このとき、同じ表現は同じ変項で、異なる表現は異なる変項によって、斉一的に置換は行われるものとする。どの表現が論理定項であるかについて、ここでは次の四つの仮定を置く。(a)すべての表現が論理定項である。(b)「雪」以外が論理定項である。(c)「雪」と「は白い」以外が論理定項である。(d) すべての表現が論理定項でない。仮定(a)、(b)、(c)、(d)のもとで文(1)から得られる文関数が、それぞれ文関数(2)、(3)、(4)、(5)である。真理の定義は、「文 S が無限列 f のもとで真であるのは、無限列 f が文関数 s を充足するときかつそのときに限る」と与えられる。また、このとき、無限列 f は「文 S のモデル」と呼ばれる。例えば、先の例では、仮定(b)のもとでは、無限列 g は文(1)のモデルであり、仮定(d)のもとでは、無限列 i は文(1)のモデルではないことが分かる。「文集合 L のモデル」も同じように定義される。すなわち、文集合 L において生じている論理外の定項をすべて斉一的に変項に置換して文関数の集合 l を形成し、無限列 f が集合 l のすべての文関数を充足するとき、無限列 f は文集合 L のモデルである。最後に、論理的帰結関係は次のように定義される。
なお、論理的帰結関係と密接に関連した、文の論理的真理性の概念も定義しておく。
文(1)の論理的真理性について判定すると、仮定(a)、(b)、(c)のもとではすべて、文(1)は論理的に真であり、仮定(d)のもとでは論理的に真ではない、ということが容易に見て取れるであろう。
 以上の定義が、科学性条件を満たしたものであるのか、および、実質適合性条件を満たしたものであるのかを、順に検討してみよう。
 科学性条件を満たしていることは一見すると明らかだと思われる。前節で見た空想的状況のもとでの構造的定義のように、様相的特徴や形式的特徴に関する形而上学的概念を直接未定義のままに用いるということは、ここでは行われていない。定義において中心的役割を果たしている充足概念は、真理概念を定義する際に用いられた道具立てであり、既に指摘したように、真理概念の定義は科学性条件を満たした形で行われていた。従って、充足概念には問題はない。しかしながら、「論理定項とは何か」という決定的な問題が残っている。論理定項の科学的な定義が与えられない限り、科学性条件を完全に満たしているとは言えないのではないか。この問題をタルスキは明確に自覚している。
論理定項に対する「客観的な論証」、すなわち、論理定項の科学的な定義が与え得るものであれば、タルスキの定義は科学性条件を満たしたものとなる。だが、そうした定義を与えることができなかった場合には、科学性条件を満たしていないことになるのであろうか。この引用を見る限りでは、タルスキの考えは否である。確かに、科学的定義を与える試みが無駄に終り、論理定項を未定義の形而上学的概念として使用することになるのであれば、論理的帰結関係の定義は科学性条件を満たしていないことになる。しかし、タルスキは、そうした場合には、論理的帰結関係を様々な論理定項の集合に相対的な概念として取り扱うべきであると考えているのである。このとき、論理定項の集合の単一の選択を迫られることはなく、それは任意に選択して良いものになり、論理定項は、論理的帰結関係の定義において、本質的な役割を果たさない空虚な概念として用いられているにすぎないことになる。論理的帰結関係と論理定項の関係をこのように考えれば、論理定項の科学的定義を与える必要もないし、また、論理定項を未定義の概念として使用することを避けることもできる。従って、論理定項の科学的な定義を実際に与えることができるか否かという問題に関係なく(19)、両刀論法により、タルスキの定義は科学性条件を満たしたものであると結論することができるのである。
 実質適合性条件はどうであろうか。まず、前節で見た構造的定義において問題になった推論<a, A>などは、タルスキの定義によって論理的であると判定され得るのであろうか。これについては、タルスキはなにも述べていないが、自然数を指示する表現と全称量化記号を論理定項と考えれば、推論<a, A>がこの定義によって論理的推論であると判定されることは明らかである。また、ゲーデルの定理によってその存在が予想されている他の(通常の意味で論理的である)推論についても、論理定項を適当に選択することによって論理的であると判定され得るであろう(最も単純な方法は、数学と論理学に関するすべての表現を論理定項とすることである)。従って、少なくとも構造的定義が捉え損なっている種類の推論に関しては、この定義はそれらを十分に捉えていると言える(20)。だが、もちろん、このことは実質適合性条件を完全に満たしていることを意味するのではまったくない。完全に満たすためには、様相的特徴と形式的特徴を共に捉えていることが一般的に保証されなければならない。
 様相的特徴を捉えていることについて、タルスキは「幾つかの真なる文の帰結はすべて真であらねばならないことを、この定義に基づいて証明することができる」(21)と明確に断言している。しかし、「できる」と言われたこの証明をタルスキはどこにも与えていないのである。これは、きわめて厄介な事態である。
 形式的特徴に関しても、タルスキは「与えられた幾つかの文の間に成立する帰結関係は、これらの文において生じている論理外の定項の意味から完全に独立であることを、この定義に基づいて証明することができる」(22)と述べているが、やはり証明は与えられていない。だが、タルスキの考えを推測することはできる。彼は、形式的特徴を満たす推論について、「帰結関係は、これらの[推論の中の]文において指示されている対象の指定を、任意の他の対象の指定によって置換することによっては影響され得ない」(23)と述べていた。この性質を捉えるために、タルスキは、論理外の定項を他の定項によって置換する方法を提案する。この提案によって、「文集合 K と文 X の中の論理外の定項を同じ意味論的範疇に属する任意の他の定項によって斉一的に置換して得られる文集合 K’ と文 X’ において、文集合 K’ に属するすべての文が真なら文 X’ も真である」という命題(以下、条件(F)と呼ぶ)が得られる。だが、この条件は推論<K, X>が論理的であることの必要条件ではあるが十分条件ではないと、タルスキは考える。
論理的真理性についてこの事情を考えてみよう。この場合、「或る文に含まれる論理外の定項を同じ意味論的範疇に属する任意の他の定項によって斉一的に置換して得られた文が真である」という条件が得られる。この条件は、或る文が論理的に真であることの必要十分条件であると仮定しよう。すると、例えば、文「雪は白い」が論理的に真であるのは、「は白い」が論理定項であると仮定すれば、文「雪は白い」、文「牛乳は白い」、文「石炭は白い」、・・・がすべて真であるときかつそのときに限る、となる。この場合、文「石炭は白い」は偽であるから、文「雪は白い」は論理的に真なのではないと判定され、我々の直観に適っている。ところが、問題になっている言語には「雪」と「牛乳」という二つの個体定項しか存在しないと仮定すれば、置換によって考察されるべき文は最初の二つだけであり、共に真であるから、文「雪は白い」は論理的に真であると判定され、我々の直観に反している。この言語には、白くないという性質を所有している石炭という「可能な対象」を指示する表現が欠けているということに問題が存しているのである。言語の語彙不足に起因するこの困難は、タルスキの定義では、すべての「可能な対象」の集合を値域として持つ無限列による文関数の充足という概念が導入されることによって、確かに克服されている(25)。この事実によってタルスキは、自身の定義による論理的真理性、および、論理的帰結関係が「論理外の定項の意味から完全に独立」していることは明白であると推論しているのであろうが、この推論はまったく不明瞭である。たとえすべての対象を考慮にいれたとしても、それらすべての対象に関する「経験的知識」が影響してくるという可能性は排除しきれないのではないか、という疑問が残る。
 前節では、タルスキの論理的帰結関係の定義は、科学性条件と実質適合性条件を共に満たした、十分でかつ正しい定義であることを目指していることを確認した。しかしながら、この節で明らかになったことは、タルスキが実際に構成した定義が科学性条件を満たしていることは言えても、実質適合性条件を満たしているかは不明であり、従って、正しい定義であると結論するには問題がある、ということである。この点について鋭いタルスキ批判を展開しているのがエチメンディである。   


四 エチメンディのタルスキ批判(1) ── 必然性をめぐって

 前節で指摘された最初の問題は、タルスキの定義が様相的特徴を捉えたものであるかどうかが不明である、ということであった。論理的真理性の概念に限定して言えば、タルスキの定義によって論理的に真であると判定された文が必然的に真であるか否かが明らかにされていないのである。ところで、様相的特徴を捉えていることを示すには、様相について語るための明確な枠組みが与えられていることが不可欠であろう。現代の我々にとって最も一般的な枠組みは、いわゆる可能世界という装置によって与えられている。すなわち、「必然的に真である文は、すべての可能世界において真である」と我々は様相的概念を理解し語っている。そして、タルスキ流のモデル論的定義において用いられているモデルという装置は、まさに可能世界の代理物として用いられていたのではないか。従って、すべてのモデルで真であることによって論理的真理性を定義しているタルスキの定義が、様相的特徴を捉えていることは自明の真理であり、論証に苦労するような問題ではないはずだ。 ── 以上のような仕方で様相的特徴に関してタルスキの定義を弁護しようとする議論を論駁することが、エチメンディがまず試みていることである(26)
 形式的に与えられたモデル理論は、「表象意味論(representational semantics)」と「解釈意味論(interpretational semantics)」という二種類の異なる意味論として見ることが可能である、というのが議論の第一段階である(27)。日本語の断片である単純な言語とそれに対する命題論理のモデル理論を構成してみよう。この言語は原子文として「雪は白い」と「バラは赤い」の二つのみを含み、文作用子「ということはない」と文結合子「または」によって複合文が構成されるものとする。この言語に対するモデルは、原子文を定義域とし二つの元からなる集合 {T, F} を値域として持つ関数である。この関数を表示するために次のような表を用いる。
英小文字がそれぞれモデルであり、このモデルが二つの原子文の各々を引数として取ったときの値が、そのモデルの下側にそれぞれ記されている。モデルにおける文の真理の定義は次のように帰納的に与えられる(英大文字の S、A、B には任意の文が入るものとする)。(1)「S」が原子文のとき、「S」があるモデルで真であるのは、そのモデルが「S」に T を指定しているときかつそのときに限る。(2)「S」が「A ということはない」という形をしているとき、「S」があるモデルで真であるのは、そのモデルで「A」が真でないときかつそのときに限る。(3)「S」が「A または B」という形をしているとき、「S」があるモデルで真であるのは、そのモデルで「A」が真か「B」が真のときかつそのときに限る。
 文の真偽を決定する要因は、「世界の在り方」と「文が持つ意味」の二つである。モデルがこの二つの要因のうちのどれに関係していると考えるかに応じて、モデル理論に対する二つの異なった見方が生じてくる。第一の見方は、各モデルは可能な世界の在り方を表象ないし代理(represent)していると考えるものである。例えば、モデル f は、雪は白くバラは赤い世界(現実の世界)を表象しており、モデル i は、雪は白くなくバラは赤くない世界(現実ではない世界)を表象していると考えられることになる。この考え方のもとでは、「文『S』はあるモデルで真である」は、「文『S』は世界がそのモデルで表象されているようにあるならば真である」を意味していることになり、モデルにおける真の定義はこの意味に沿って与えられたものであると考えられている。以上のような考え方のもとで意味論を見る立場をエチメンディは「表象意味論」と呼ぶ。表象意味論は、言語の意味は固定して考え(28)(通常の日本語の意味を持つと考え)、世界の変化がその固定した意味を持つ言語の中の文の真理値に対してどの様に影響するかを説明する理論なのである。(なお、本論文では、モデル f のように現実の世界を表象しているモデルを表象意味論の「通常のモデル」と呼び、ある文が通常モデルで真であるとき、その文を「通常の意味で真である」と言うことにする。)第二の見方は、各モデルは単なる記号列としての論理外の定項(ここでは原子文)に対して意味を与え解釈を施していると考えるものである。例えば、モデル f は、文「雪は白い」は真なる何か(例えば、雪は白いということ)を意味しており、文「バラは赤い」は真なる何かを意味している、という解釈(通常の日本語の解釈)を与えており、モデル i は、文「雪は白い」は偽なる何か(例えば、雪は黒いということ)を意味しており、文「バラは赤い」は偽なる何かを意味している、という解釈(通常の日本語とは異なる解釈)を与えていると考えられることになる。この考え方のもとでは、「文『S』はあるモデルで真である」は、「文『S』はそのモデルが解釈を与えている意味を持つとき真である」を意味していることになり、モデルにおける真の定義はこの意味に沿って与えられたものであると考えられている。このような考え方で意味論を見る立場をエチメンディは「解釈意味論」と呼ぶ。解釈意味論は、世界の在り方は固定して考え(現実世界が常に成り立っていると考え)、言語の意味の変化がその固定した世界の中で言語の文の真理値に対してどの様に影響するかを説明するものである。(モデル f のように通常の解釈を与えるモデルを解釈意味論の「通常のモデル」と呼び、表象意味論のときと同様、通常モデルで真なる文を「通常の意味で真である」と言うことにする。)
 モデル理論が常に二つの見方を許すのであれば問題はないが、このことは一般には成立しないというのが、議論の第二段階である。これは、モデルを構成するときに両意味論が従うべき指針の差異から生じてくる。表象意味論の指針は、「モデルの集合は直観的に可能な世界の配列をすべてそしてそれらのみを含まなければならない」(29)というものである。他方、解釈意味論の指針は、モデルの集合は「すべての意味論的に良く振る舞う再解釈を包含」(30)していなければならない、というものになる。これらの指針に従ってモデルを構成したときに、得られたモデルの集合には外延上の不一致が見い出され得るのである。例えば、三つの原子文からなる言語を考え、それに対して次のようにモデルを与えてみよう。
すべての原子文が論理外の定項であるとすれば、解釈意味論は明らかにこのモデルのすべてを必要としている。しかし、雪が二つ以上の色を持つことは有り得ないので、モデル f、g、h、j は可能な世界を表象したモデルではない(31)。従って、表象意味論にとって必要十分なモデルは i、k、l、m のみであり、モデルの集合は解釈意味論のものよりも小さくなる(32)。逆に、解釈意味論のモデルの集合のほうが小さくなることもある。この節の最初に述べた言語において、原子文「雪は白い」を論理定項であるとすれば、必要十分なモデルは f、g のみである。
 モデルが可能世界の代理物であればタルスキの定義を擁護できるというのが、最初に述べた考えであった。これは、タルスキのモデル理論を表象意味論として見た場合に主張できることである。しかし、タルスキはモデル理論を解釈意味論として与えていたのであり、この弁護は不可能である、というのがエチメンディの議論の最終段階における第一の結論である。タルスキが解釈意味論に立っていたことは、モデルの構成においてすべての可能性を尽くすことを考慮にいれておらず、解釈意味論の指針に従っていることから明らかである。だが、タルスキの見方に変更を加え、モデル理論を表象意味論として与えれば、論理的真理概念のタルスキ的定義が様相的特徴を捉えていることを弁護できるのではないであろうか。この方向での弁護も不可能であるというのがエチメンディの第二の結論である。彼の主張は、表象意味論は必然的真理性の概念の、従って論理的真理性の概念の分析を与えるものではない、というものである。その理由は以下の通りである。
表象意味論でモデルを構成するときには、すべての可能な世界が尽くされねばならず、その際に必然性についての理解が前提されていなければならない。この理解が正しければ、表象意味論に基づくタルスキの定義は必然的真理の外延を正しく捉えていることになる。しかし、これでは分析になっていないとエチメンディは主張するのである。この事態は、本論文の第二節で指摘した空想的状況のもとでの構造的定義が抱えていた困難と同種のものであることに気が付かれるであろう。そこでの用語を用いてエチメンディの主張を言い換えれば、表象意味論による定義はそもそも科学性条件を満たしていない不十分な定義にすぎない、と言うことができよう。
 これに対して、タルスキ本来のモデル理論である解釈意味論では、科学性条件は満たされているが、様相的特徴を捉えているかがなお不明なのである。従って、「証明できる」とのみ言われていた証明によってタルスキの定義を弁護することが、どうしても必要になってくる。しかしながら、エチメンディが次に試みることは、この証明を案出した上で、そこには「タルスキの誤謬」と呼ばれる間違いが含まれているがゆえに、この証明によってタルスキを弁護することはできない、と議論することなのである(34)
 論理定項と見なされる表現の集合は任意に与えられるものであると仮定すると、証明されるべきことは、次の二つの命題の同値性である(35)
「(B)なら(A)」を証明することは簡単である。推論<K, S>が(B)で述べられている条件を満たしているならば、文集合 K に属するすべての文が真なら、文 S も真であるということが演繹される。従って、これらの文を構成しているすべての表現を論理定項の集合 F に含ませてしまえば、推論<K, S>はタルスキの定義によって論理的推論であることが示される。この証明には何ら問題はない。問題は「(A)なら(B)」を証明することであり、タルスキはこれを「証明できる」と述べていたが、実際は与えていないのであった。しかし、エチメンディは、「タルスキが言及している証明はきわめて簡単である」(36)として、次のようにその証明を再構成している。
 まず、(P)文集合 K に属するすべての文が真になるようなすべてのモデルにおいて文 S も真である、(Q) 文集合 K に属するすべての文は通常の意味で真である、(R) 文 S は通常の意味で偽である、という三つの仮定を置く。ここから矛盾を導出することが目標である。文 S および文集合 K に属するすべての文が含むすべての表現に通常の(日本語の)解釈を与えるような通常モデルを考えてみる。(Q)と(R)より、このモデルでは、文集合 K のすべての文は真で文 S は偽となる。これは(P)と矛盾する。よって、「推論<K, S>がタルスキの定義によって論理的推論なら、文集合 K のすべての文が真なら文 S も同様に真であらねばならない」が証明された。また、この証明は論理定項の選択からはまったく独立に成立しており、任意の選択に対して成り立つから、当然ある論理定項の集合 F に対しても成り立つ。ゆえに、「(A)なら(B)」が証明された。
 この証明自体は完全に正しいように思われるが、間違っているはずだというのがエチメンディの直観である。そこでエチメンディは、「問題は、我々の証明にあるのではなくて、推論<K, S>の前提と結論の間に何か様相的な関係が成立していることをこの証明は示しているのだと考えることにある」(37)と間違いの源を推測する。論理的な推論の直観的に理解された性質は、前提と結論の間に成立している様相的な関係であった。従って、我々が証明すべきであった「(A)なら(B)」の内容とは、任意の文集合 K と文 S に対して(P)が(ある論理定項の集合 F のもとで)言えるなら、そのとき(Q)と(R)は「相互両立不可能(jointly incompatible)」である、ということであったはずである。様相作用子の作用域を明示して書くと次のようになる([ ]で囲まれたところが様相作用子の作用域である)。
ところが、先の証明が実際に証明したことは、任意の文集合 K と文 S に対して(P)と(Q)と(R)は相互両立不可能である、ということであった。これによって証明されたことは、たかだか次の命題でしかない(38)
先の証明は我々が本来求めていたものを与えているのだと考える人は、(D)から(C)への推論、すなわち、(P)と(Q)と(R)の相互両立不可能性と(P)の真であることから、(Q)と(R)の相互両立不可能性を推論しているのである。だが、この推論は、様相論理の妥当性の観点から見て許されるものではない(39)。様相作用子の作用域を不当に移動させたこの種の推論を行っていることを、エチメンディは「タルスキの誤謬」と呼ぶのである。この誤謬を含むがゆえに、先の証明は「(A)なら(B)」を証明したものであると見なすことはできず、この証明によってもタルスキを弁護することは不可能である。
 エチメンディの以上の二つの議論によって、タルスキの定義は様相的特徴を捉えていないことが示された、と考えるべきではない。第一の議論は、言わばまったく見当違いの方法でタルスキを弁護することに対する批判であった。第二の議論も、タルスキが与えなかった、従って実際はエチメンディ自身が与えた証明に対する批判であり、しかも、その証明の間違いを指摘しただけであって、そこで証明されるはずだった命題の否定を直接示したものではない。つまり、まったく新しい証明によって「(A)なら(B)」を証明する可能性も残っているのである(40)。従って、タルスキの定義が様相的特徴を捉えているか否かという問題は、エチメンディの議論の後でも未解決の問題として残り、タルスキの定義が間違っていると断定することはできない。だが、形式性に関する議論と見なし得るエチメンディの第二のタルスキ批判は、タルスキの定義が間違っていることを端的に示すことを目指したものである。


五 エチメンディのタルスキ批判(2) ── 形式性をめぐって

 論理的真理性の定義が表象意味論において与えられているとすれば、論理的に真なる文は、すべての可能な世界において真なのであるから、現実世界において偶然的に成立している事実によって影響されることはなく、そうした事実についての経験的知識から一切独立した文であると考えることができる。他方、前節で見たように、タルスキは解釈意味論の立場をとっていた。そして、解釈意味論における定義によっても現実世界の偶然的な事実に影響されないものとして論理的真理性を定義できる、というのがタルスキの考えであった。しかし、文の表現の解釈を任意に与えることによって世界の偶然的な事実の影響を排除することが可能であろうか、というのが本論文第三節で指摘した二番目の問題であった。エチメンディは不可能であると論じる。すなわち、タルスキの定義によって論理的に真であると判定される文の中には、現実世界の偶然的な事実(論理外の事実)によって不可避的に影響されて論理的に真であると判定されている文が存在することを、エチメンディは具体的に示すのである(41)
 エチメンディの最初の議論はきわめて単純である。タルスキの定義によると、論理外の定項「e1」、・・・、「en」を含む文「S」が論理的に真であるのは、「e1」、・・・、「en」の各々を同じ意味論的範疇に属する変項「v1」、・・・、「vn」で斉一的に置換して得られる文関数「S’」を任意の無限列が充足するときであった。ところでこの条件は、次のような全称量化文が通常の意味で真であるための条件と同じである(42)
従って、タルスキは文の論理的真理性を対応する全称量化文の通常の真理性に還元したと考えられる。例えば、「リンカーンは大統領であった」が論理的に真であるのは、すべての表現が論理外の定項だとすれば、「∀x∀P[xP]」が真であるときである。「リンカーン」のみが論理外の定項だとすれば、「∀x[x は大統領であった]」が真であるときであり、すべての表現が論理定項だとすれば、「リンカーンは大統領であった」が真であるときである。エチメンディはタルスキのこうした考えを論理的真理性の「量化的説明(quantificational account)」と呼び、量化的説明は次のような「還元原理(reduc-tion principle)」に基づくことになると定式化する。
還元原理のおかげで、論理的真理を定義する際に、科学性条件を満たした真理定義の技術を使用することが可能になった。この点はタルスキの量化的説明の大きな利点である。しかし、エチメンディは還元原理は受け入れられないと論じる。
ある全称量化文が「偶然の出来事によって真」であるとき、すなわち、現実世界において偶然的に成立している事実によって真であるとき、還元原理に従った説明によると、その特例化である文が論理的に真であると判定される。この場合、論理的真理性の判定には現実世界の事実が影響しており、その事実についての経験的知識に依存して判定が成されており、特例化が論理的に真であることは少しも明らかにはされていない。
 しかしながら、以上の議論は論理定項の問題について考慮していないゆえに、タルスキ批判としては単純すぎる。本論文第三節で見たように、タルスキは論理定項が任意に与えられる場合と固定して与えられる場合とを考えていたが、タルスキ批判を徹底させるためには、この二つの場合に対応させて二つの議論を構成しなければならない。
 まず第一の場合を取り上げよう。この場合、論理的真理性の概念は、論理定項の任意の選択に関しての論理的真理として、相対化された概念として理解されることになる。しかし、相対的な論理的真理性とはそもそも何を意味しているのであろうか。唯一可能な答はいわゆる「分析的真理性(analytic truth)」の概念であろうとエチメンディは考える。一般に、「独身者は未婚である」という文は論理的に真なる文であるとは認められないが、分析的に真であることは認められているであろう。このとき、この文は「独身者」、「は未婚である」という表現の特定の意味のみによって真である、ということが分析的真ということによって意味されていると考えられる。すると、分析的真理性の概念にはどの表現に関して分析的に真なのかということが決定的な要素として関与していることがわかる。例えば、この文は「独身者」の意味のみによって真であるとは考えられないであろう(44)。従って、相対的な論理的真理性の概念に定義において任意に与えられる論理定項の選択は、この分析的真理性の概念における「どの表現に関してか」を特定化したものであると見ることができよう。また、表現の意味のみによって真である文は、現実世界の偶然的な事実によっては影響されないものであるから、分析的真理性の概念も形式的特徴を有していると考えられる。このように第一の場合を解釈すれば、還元原理は次のように改定される。
しかし、この原理に基づくタルスキの説明では分析的真理性の概念が捉えられていないことは明らかである。次のような全称量化文とその特例化の一つである文を考えてみよう。
文(2)の分析的真理性の問題を、(1)のような単なる歴史上の事実に関する主張を成している文の通常の真偽の問題と同一視していることにおいて、還元原理 I はもとの還元原理の本質的な困難をそのまま引き継いでいるにすぎない。文(2)の分析的真理性の判定は、文(1)の真偽を決定する歴史的世界の偶然的事実によって影響されるから、還元原理 I に基づいたタルスキの定義は分析的真理性の概念の形式的特徴を捉えていないのである。また、この例では、文(2)は「もし・・・ならば」、「が大統領であった」、「は男であった」の意味のみによって真であるとは、直観的には認められないが、歴代の(アメリカ合衆国の)大統領はすべて男であったから、文(1)は真であり、還元原理 I に従うと文(2)は分析的に真と判定され、直観との外延上の不一致が生じている。
 次に、第二の場合に移ろう。このとき、明らかに論理的な種類の表現のみが正しい論理定項として固定的に与えられることになり、還元原理は次のように改定される。
還元原理 II の正しさを最も強力に弁護するためには、すべての文について、正しい論理定項の選択のもとでのそれに対応した全称量化文が、論理外の事実に依存して真理値が決定されるような種類の文ではなく、論理的に真である種類の文か、論理的に偽である(矛盾した)種類の文である、ということを示すことができれば良い。このとき、全称量化文が真であれば、それは論理的に真であり、対応する特例化が論理的に真となることは自明であろう(45)。例えば、真理関数結合子と作用子のみが正しい論理定項とすれば、以下の直観的に論理的に真であると認められている文(3)は、文(4)の通常の真理性によってその論理的真理性を判定されることになる。
文(4)の真偽は、世界におけるいかなる偶然的な事実にも依存せずに決定されるから、文(3)の論理的真理性の判定には論理外の事実は影響していない。また、文(4)は論理的に真であるから、文(3)は論理的に真と判定され、直観と矛盾しない。論理定項を適切に選択することによって、すべての文について、対応する全称量化文が論理的に真ないし偽となることが意図されているのである。タルスキは何が明らかに論理的な種類の表現であるのかの論証を与えることを留保し、正しい論理定項の集合を与えなかった。しかし、エチメンディは、伝統的に論理定項であると考えられている表現を適当に組み合わせて可能な正しい論理定項の集合を得たとしても、対応する全称量化文の真偽の判定に論理外の事実の影響が不可避的となるような文が存在することを、以下のような四つの組み合わせの検討を通して明らかにしている。
 (一)存在量化記号、同一性述語、真理関数結合子のみが論理的表現であるとする。次のような文を考えてみよう。
任意の自然数 n について文σn は、少なくとも n 個の個体が存在することを主張している。これらの文はいずれも論理的に真であるとは直観的には認められないが、タルスキの説明では、その論理的真理性は次のような全称量化文の通常の真理性と同一視される(46)
各々の n に対して文 [σn] は、文 σn と同様、少なくとも n 個の個体が存在することを主張しているから、その真偽は、実際に幾つの個体が存在しているのかという、「宇宙の大きさ(the size of the universe)」の問題に依存して決定されるものである。従って、ある文の論理的真理性を判定するための全称量化文の真偽に論理外の事実が介入してくることが示された。また、宇宙が無限であれば、σn のすべてが論理的に真であると判断され、宇宙が有限であれば、そのうちの幾つかが論理的に真であると判断されることになり、どれも論理的に真なのではないとした最初の直観に反し、外延的に正しくない結果をもたらすことになる。
 (二)存在量化記号は論理外の定項として扱い(47)、同一性述語、真理関数結合子は論理的表現であるとする。しかし、この方法でも別の例では宇宙の大きさという事実の介入が避けられなくなる。次のような文を考えてみよう。
各々のnに対して文¬σn は、たかだか n-1 個の個体しか存在しないことを主張している。前と同様、この文も論理的に真であるとは認められない。しかし、タルスキの説明は、この文の論理的真理性を次のような全称量化文の単なる真理性と同一視する。
各々の n に対して(5)は、宇宙に存在するすべての個体の集合のすべての部分集合はたかだか n-1 個の個体しか含まない、ということを主張している。宇宙の最大の部分集合、すなわち、宇宙自身がたかだか n-1 個の個体しか含まないときに限り、(5)は真になり、それ以外のときは偽である。宇宙が無限個の個体を含むときには、任意の n に対して(5)はすべて偽となる。従って、(5)は宇宙の大きさについての完全に事実に関する主張である。よって、今の場合も、ある文の論理的真理性を判定するための全称量化文の真偽に宇宙の大きさという論理外の事実が介入してくることが示された。また、宇宙が有限であれば、文¬σn の幾つかが論理的に真であると判断され、どれも論理的に真なのではないとした最初の直観に反し、外延的に正しくない結果をもたらすことになる。宇宙が無限であれば、文¬σn はどれも論理的に真なのではないと判断され、正しい外延が得られるが、この結果はたまたま宇宙が無限であるという偶然の事実に依存しているのである。
 (三)存在量化記号と真理関数結合子のみが論理的表現であるとする。この方法でも、別の例では問題が生じる。次のような文を考えてみよう。(「v>w」は「v は w より大きい」の略記である。)
文αと文βは、より大きいという関係が推移的かつ非反射的関係であることを主張しており、もちろん真である。文γは最大のものが存在しないことを主張しており、偽であると仮定する。三つを組み合わせて次の文を得る。
仮定により(6)は真であるが、論理的に真であるとは認められない。しかし、タルスキの説明は、この文の論理的真理性を次のような全称量化文の単なる真理性と同一視する。
(7)は推移的かつ非反射的な関係はすべて極大要素を持つことを主張している(あるものがすべてのものと少なくとも同じだけ大きければ、それはより大きいという関係の極大要素である)。変項 R の領域を個体の順序対の集合の集合と定めれば、宇宙が有限であれば(7)は真であり、宇宙が無限であれば偽である。従って、ここでも宇宙の大きさという論理外の事実が介入していることが示された。(7)が真のとき(6)は論理的に真であると判定され、我々の直観に反する。(7)が偽のとき正しい外延が得られるが、(7)を偽にする偶然の事実のおかげでそうなる。
 (四)真理関数結合子のみが論理的表現であるとし、次の文を考える。
明らかに文τ1 は論理的に真であるとは考えられないが、この文の論理的真理性は次のような全称量化文の単なる真理性と同一視される。
性質変項 P の領域が個体の集合の集合であるとすれば、宇宙が唯一の個体しか含まないときに限り(8)は真となる。同様にして、論理的に真ではないが、宇宙がたかだか n 個の個体しか含まないときのみ対応する全称量化文が真となるような文τn を構成することができる。ここでも宇宙の大きさが問題になり、宇宙が有限個の個体しか含まなければ、文τn の幾つかが論理的に真であると判定され、我々の直観に反する。任意の文τn の正しい評価がなされるのは、宇宙が無限個の個体を含んでいるという論理外の事実に依存してである。
 以上により、論理定項をどれだけ厳しく制限しても、ある文の論理的真理性を判定するための全称量化文の通常の真理性の判定に、論理外の事実の影響が避けられないものであることが示された。しかしながら、全称量化文が論理的に真ないし偽となることをエチメンディが要求していることは、還元原理に対する強すぎる要求ではないだろうか。還元原理に基づいた論理的真理性の定義が、形式的特徴を捉えた正しい定義であるためには、その定義によって論理的に真であると判定される文の全体が、論理外の事実に依存せずに真であることが直観的に認められる文の全体と一致することが要求されているだけである。従って、還元原理の正しさを示すには、全称量化文が真であれば、対応する特例化が論理外の事実に依存せずに真である、ということを主張できれば十分であり、全称量化文の真であることが論理外の事実に依存していようがいまいが、関係ないはずである。すると、逆に、還元原理の間違いを指摘するためには、全称量化文が真であり、かつ、対応する特例化は論理外の事実に依存した真理値を取ることが直観的に明らかである、そうした文が少なくとも一つ存在することを示さなければならない。還元原理 I の批判で与えられた例文と、還元原理 II の(一)で与えられた例文は、そうした反例が存在することを示すことに成功していると言える。しかし、還元原理 II の(二)、(三)、(四)で与えられた例文は、宇宙が無限であるという仮定を取る限り、全称量化文は偽になるから、反例を与えることには失敗している。 
 この事情をエチメンディは十分承知している。問題は、宇宙が無限であるという仮定がタルスキの定義において採用され得るのか、ということに懸かっている。現代のモデル理論は無限公理を前提した集合論の上で組み立てられているので、宇宙の無限性の仮定が満たされているが、「[タルスキ的]分析の何ものもこの特定の[集合論の]選択を指図してはいない」(48)のである。これは、タルスキの定義が些細な技術的欠陥を有していたことを示す議論ではない。すなわち、無限公理の追加によってタルスキ的定義が完全なものになる、という議論ではない。宇宙が実際には有限であるときに、いかにして宇宙の無限性の仮定を置くことができるのであろうか。おそらく、「実際の宇宙は有限ではあるが、宇宙が無限であることも可能であった」と擁護するしかないであろう。すると、例えば、実際の有限宇宙において文(7)は真であるけれども、可能な無限宇宙においては偽となるから、文(6)は論理的に真ではないと正しく判定できるのである、と反論できる。無限公理はこの可能な無限宇宙を構成するために導入されているのである。だが、この反論は、タルスキの定義の本質を見落としている。
タルスキの定義は形而上学を排除することが意図されていたから、宇宙の大きさに関して形而上学的に考察された可能性を定義に前提することは、タルスキには認められないはずである。このことが些末な事態であると誤解されないためにも、論理外の事実についての形而上学的可能性をめぐる思弁が要求される局面は宇宙の大きさのみにとどまるものではない、ということを注意しておくことは必要なことであろう。実際、エチメンディは、そうした論理外の事実について幾つか言及しているが(50)、最も単純な事例は、還元原理 I の批判の例文においても見ることができる。そこでの問題は、文(1)が歴史的事実によって真となってしまい、文(2)が分析的に真であると判定されることにあった。この問題を克服するためには、男ではない大統領が存在したことも可能であった、という歴史的事実に対する形而上学的可能性についての直観に訴えるしかないであろう。また、この直観を定義に組み込むためには、無限列の個体変項に対する値域に男ではない大統領という形而上学的存在者を含ませるしか方法はないであろう。
 以上のような形而上学的考察を導入しないならば、論理的帰結関係および論理的真理性の概念の定義は、それらの概念の直観的に理解された形式的特徴を捉えることはできない。タルスキの定義は、本論文での用語を用いて述べると、科学性条件を満たした十分な定義であることを目指しているので、実質適合性条件を満たすことに失敗し、間違った定義に堕してしまっている。従って、エチメンディのタルスキ批判は、タルスキの定義が間違っていることを論証したものなのである。論理的帰結関係の定義が正しい定義であらねばならない限り、タルスキの陥った困難をどうにかして潜り抜けねばならない。それは、形而上学的概念をいかに扱うか、という問題に懸かっている。エチメンディは、この難問を我々に対して提起していると言えよう。


六 論理的帰結関係を定義するための可能な方法

 この節では、論理的帰結関係を定義するために有望であると思われる三つの方法を提示する。私自身は、最後の方法が最も興味深く検討に値するのではないかと考えている。
 エチメンディの議論から読み取れることは、形而上学的概念を捉えるには、科学性条件を課すことが強すぎる制約になっているということである。従って、第一の方法として、科学性条件を満たすという目標を諦めることによって定義を与えるということが考えられる。ここで注意しなければいけないことは、この方法は単に表象意味論によって定義を与えることに尽きるものではないということである。というのは、第四節で見たように、表象意味論は既に論理的帰結関係の分析が与えられていることを前提にしているからである。従って、この方法は、論理的帰結関係を形而上学的な可能性概念へと還元し、純粋な形而上学の問題として探究しようとする試みなのである。ある意味ではこれが最善の方法であるかもしれないが、論理的帰結関係という論理学の中心概念を、意味論(モデル理論)はもちろんのこと、二十世紀以降に展開された論理学一般からも完全に切り離してしまうことになり、論理学的観点からの興味はなくなってしまうように思われる(51)
 次に考えられるのは、実質適合性条件の方を改定し、定義が捉えるべき特徴から形而上学的概念を追放してしまう道である。しかし、この改定は慎重に成されなければならない。些細な特徴に置き換えれば、それを捉えた科学的定義を構成することは容易だが、通常の用法と一致させるという実質適合性条件の本質的要件が失われ、第二節で見た第二種の規範的定義に堕してしまう恐れがあるからである。正しい定義を目指す限り、通常の用法を捉え得るような特徴によって置き換えられるべきである。そうした特徴の有力な候補として推論の持つ構造的特徴を考えることができる。従って、第二の方法は、論理的帰結関係の構造的定義を復活させる方法である。
 この方法に対しては四つの反論が考えられるので、順に検討してみよう。最初の反論は、通常の用法で意図されているのはあくまで様相的特徴や形式的特徴のような形而上学的特徴であり、構造的特徴ではない、というものである(52)。こうした反論は直観に深く根差したものであるだけに容易に答えることはできないが、次のように考えることが可能ではないかと思われる。我々は形而上学的概念について予め十分理解しており、その意味が確定したものであるかのように振る舞ってきたが、これは疑ってみるに値する立場である。論理的に真である文は「必然的に真」であり「経験から独立に真」であると述べるとき、我々はなんらかの形而上学的特徴を意味しているのではなく、まったく別の形で規定され得る別の特徴を意味しているのかもしれない。そうした特徴が構造的特徴であると考えるのは乱暴すぎる考えであるが可能性は否定できないであろう。特に、ある構造的特徴を持つ推論が論理的であると通常は見なされているという言語的事実に注目するだけでなく、論理的推論の持つ必然性の源泉はしかじかの構造的特徴を持つ推論を真であると見なす規約に由来するのであるという、論理に関する規約主義の立場を取れば、直観的に理解されていた形而上学的特徴との連関もある意味で保存され、この置き換えも説得力を有するであろう。第二の反論は、第二節の最後に見た空想的状況のもとでの構造的定義に対する反論であり、そこでは、形而上学的概念を前提することによって科学性条件が破られていることが問題になっていた。しかし、今の場合この反論が成立しないことは明らかであろう。なぜならば、構造的定義が捉えるべき推論は、ある形而上学的特徴を有した推論ではなく、まさにある構造的特徴を有した推論だからである。第三の反論は同じく第二節で見たタルスキ自身のものであり、ゲーデルの不完全性定理によって、論理的推論であると通常見なされている推論の全体と構造的定義によってそう判定される推論の全体との間に外延上の不一致が存在することが示される、というものである。しかしながら、外延上の一致が存在することだけを保証すれば良いのであれば、そうした定義は簡単に与えることができる。つまり、論理的推論であると通常見なされている推論の全体を論理的推論の構造的特徴であるとして定義を与えれば、外延上の一致は保証される。だが、これに対しては、次のような第四の決定的な反論が成される。それは、そうした推論の全体がはっきりした集合になっていない、というものである。一般に構造的定義は、幾つかの具体的な推論規則を図式的に与えて、これらを何回か適用して得られた推論が論理的推論である、と定義を与える。だが、この方法では形式化される以前の数学において用いられている論理的推論の全体を捉えることができない。つまり、そうした推論の全体は計算可能な集合とはなり得ない。このことを示したのがまさに不完全性定理なのである。タルスキがゲーデルを援用して構造的定義を批判したときに、実際に問題にしていたのもこのことであった(53)。しかし、なぜ定義は計算可能な方法で、つまり、具体的(effective)に表現できる仕方で与えられねばならないのであろうか。おそらく、論理的と通常見なされている推論の「全体」という理念的な存在に訴えた定義は、科学性の条件を満たしていない不十分な定義だからであると思われる。従って、この第四の反論は、構造的定義は、外延上の一致を保証する実質適合性条件を満たした定義である限り、科学性条件を満たさない、という反論となる。不完全性定理を否定することはおそらく不可能であろうから、構造的定義を復活させたこの方法も、結局、正しい定義を目指す限りは、科学性条件を捨てて、形而上学的な問題として論理的推論について考察せねばならないであろう。
 第三の方法は、タルスキの方法をそのまま受け入れるものである。この場合科学性条件の充足に関しては問題は生じない。だが、エチメンディの批判が正しければ、直観的に理解された論理的推論と定義によって論理的と判定される推論との間にどこかで外延上の不一致が生じているから、実質適合性条件は満たされ得ない。従って、第三の方法も通常の用法と一致した正しい定義である以上、この批判を退けなければならない。そのための方法として、直観的理解についてのエチメンディや我々の捉え方のほうを疑問視することが可能であると思われる。論理的真理性の概念について述べると、エチメンディの批判は、ある文 S が、通常は論理的に真であるとは認められていない(必然的に真であるとも経験から独立に真であるとも直観的には認められていない)にもかかわらず、タルスキの定義によると論理的に真であると判定されるおそれがある、という事実に依存していた。そこで、タルスキの定義によって論理的に真であると判定される文はすべて、論理的に真であると通常は認められている(必然的に真であり経験から独立に真であると直観的に認められている)と考えて、論理的真理性に対する我々の直観の外延のほうを改変してしまうのである。そうすると、定義が捉えるべき特徴は形而上学的特徴のままであるにもかかわらず、科学性条件を満たした上で、実質適合性条件を満たすことが可能になるのである。
 定義としてはこれで問題ないが、この方法に対しては、直観を改変することにどれだけ意味があるのかについての哲学的な議論を与える必要があろう。例えば、宇宙が実際は有限 n 個の個体しか含まないときでも、文「宇宙にはたかだか n 個の個体しか存在しない」は論理的に真ではない、というのが以前の直観であった。これに対して、改変された直観では、宇宙の有限性の仮定のもとでは、この文が論理的に真であるとされるのである。こうした直観の改変が、単にタルスキの方法を救うという目的のためだけに成されているとすれば、それは無意味であり、説得的な提案としては受け入れられないであろう。従って、この改変が有意味なものであり、論理的真理性に対する直観的理解を、いわば、哲学的に洗練化したものである(その結果として以前の直観と外延上のずれが生じる)ということを示す議論を与える必要があるのである。この議論を支えてくれるのは、おそらく以下のような直観であろう。宇宙の大きさの問題を例に取り上げよう。宇宙が仮に有限であるとしても無限であることは可能である、と我々は可能性について考えている。だが、この考えは問い直してみるべきである。すなわち、有限な宇宙において無限な宇宙の存在は可能なのであろうかと。この問いに対して否定的に答えるのが、右の議論を支える直観である。確かに我々は、無限の宇宙について思考すること、或いは少なくとも語ることはできるが、こうした可能性は真の可能性を意味しないと考えるのがこの直観である。では、真の可能性、哲学的に洗練されて考えられた可能性とはどの様なものであるのか。それは、現実の世界で成立している事態に限られることになると思われる。今の事例では、宇宙が無限であるということは現実には成立していないから不可能であり、従って、宇宙が有限であるということが必然的になるのである。この直観を展開させれば、前節で見たエチメンディの批判する還元原理を基本的なところで認めることにいたるであろう。すなわち、論理的真理性の概念は、現実に存在するものに関する通常の真理性の概念に還元されることになる。この試みが具体的にどの様な形をとるかは明確ではない。おそらく、何が論理定項であるのかについての真剣な再考が必要とされよう。だが、この困難な試みが成功すれば、直観の外延を改変するこの方法を、論理的帰結関係を定義する十分有意義な方法として提出することができることになる。
 以上、この節では、論理的帰結関係を定義するための可能な三つの方法を述べたが、いずれも概略的なものにとどまり、その細部、およびそれらの方法の成否については、大まかな見通ししか述べることはできなかった。むしろここで強調したかったことは、論理と形而上学の間には、なお考察すべき幾つかの有意義な問題が潜んでいるということであった。



(1)論理的帰結関係の定義は Tarski 1936a において幾分非形式的な仕方で初めて与えられたが、そこで中心的な役割を果たす充足概念は、Tarski 1935 において厳密に定義されている。ところで、これより以前に、レーヴェンハイム−スコーレム定理、完全性定理など、モデル理論に属する重要な諸定理が既に証明されているという事実は、奇妙に思われるかもしれない。事実、タルスキ自身、モデル論的な考えが当時の多くの論理学者によって共有されていたものであることを認めている。従って、ここで「初めて」と言うのは、この考えを「正確な方法」で提示することがタルスキによって初めて可能になった、という意味においてである(Tarski 1936a, p. 414 を参照)。タルスキ以前のモデル理論、およびそれとタルスキの関係などの歴史的事情に興味あるむきは、Vaught 1974, pp. 154-161, 1986, pp. 869-874, Etchemendy 1988b, pp. 67-68 を参照されたい。

(2)Tarski 1986, p. 145, 1969, p. 63 参照。

(3)例えば、Tarski 1944, sect. 19 を参照。また、Tarski 1936b, p.406 で述べられている「科学の統一、物理主義の要請との一致」という事態も、真理概念のための特別な理論を排除することを意味している。

(4)Tarski 1944, sect. 17 参照。そこでタルスキは、自身の与えた定義が常識的用法と一致するかどうかを、統計的調査によって解決することに言及している。

(5)Tarski 1936a, p. 409.

(6)Tarski 1936a, p. 413. なお、ここで使われている「本質」、「本来」という語から、第三種の定義のところで述べたプラトン的イデアを直ちに連想するべきではない。

(7)今日で言う「構文論的定義」ないし「証明論的定義」に相当する。構造的定義は、多くの論理学者に共有されていた考えであり、タルスキも、Tarski 1930a, 1930b ではこの考えを採用している。ただし、構造的定義の直観的内容が非形式的に述べられているだけであり、実際は、論理的帰結関係を未定義の概念とした上で、一連の公理によってその性質を特徴付けることを試みているにすぎない。構造的定義が初めて厳密な仕方で定式化され得るようになったのは、形式言語の構成が与えられた Tarski 1935, sect. 2 においてである(これについては、Corcoran 1983, sect. 2 を参照)。しかし、この論文で、タルスキは既に構造的定義の限界について言及しており(Tarski 1935, p. 252n, pp. 257-262)、これと関連する問題は、Tarski 1933 でも論じられている。なお、以下で見る構造的定義に対するタルスキの批判は、Tarski 1936a, pp. 409-413 に基づいている。

(8)ω−不完全な理論のことである。詳細は Tarski 1933 参照。

(9)Tarski 1936a, pp. 412-413.

(10)Tarski 1936a, p. 411, pp. 414-415.

(11)タルスキはこの二つの特徴が一緒になって論理的帰結関係の本質を構成しているように述べているが、両者の間の関係は明らかではない。ジラ・シャーは両者の相互限定についての一つの考えを述べている(Sher 1991, pp. 43-44)が、タルスキの意図を捉えたものであるかどうかは疑問である。他方、後にみるエチメンディは両特徴をほぼ同一視して良いものと考えているようである(註(35)参照)。

(12)こうした空想がまったくの無意味というわけではないことは、本論文第六節において構造的定義を再び取り上げるときに論じられる。

(13)この二つの仮定が必要なことについては、本論文第六節を参照。

(14)Tarski 1936b, p. 401, 1944, p.17.

(15)基本的には、Tarski 1936a, pp. 416-418 に基づいている。ただし、「文 S が無限列 f において真である」という言い方はされておらず、「無限列 f は文 S のモデルである」とのみ言われている。エチメンディの提案(Etchemendy 1990, p. 162)に従い、モデル理論の標準的教科書である Chang and Keisler 1973 の用語法と一致させるために、この言い方を導入した。また、充足概念についての定義が一切与えられていないので、充足の具体例を幾つか補っておいた。充足概念の一般的定義については、Tarski 1935, secs. 3, 4 を参照。ただし、ここでは日常言語を対象言語として採用したため、タルスキとは別種の考察が必要になった。その考察の大部分は、Etchemendy 1990, ch. 3 において与えられているものに依拠したので、是非ともそれを参照されたい。一般に見られるモデル理論との関係についても述べておかなければならない。モデル理論は、対象言語の形式的構造(文法)の特定、対象言語に対するモデルの構成、モデルにおける真理概念の定義、論理的帰結関係の定義と進んで行く。ここでは通常の日本語(を扱いやすいように多少変形させたもの)を対象言語にしたため、対象言語の構造の特定は行わず、それに伴って、対象言語の構造的特徴に基づいて帰納的に与えられるべきモデルにおける真理概念の一般的定義も与えられなかったが、これはタルスキの責任ではない。タルスキと一般のモデル理論との差異はモデルの構成において現れる。モデル理論でのモデルは、宇宙と呼ばれる対象の集合と、対象言語の表現に対象を指定する関数との順序対によって与えられる。まず、タルスキでは宇宙の概念が抜け落ちている。これは、量化的表現をどの様に扱うかという問題と関係しており、タルスキのこの論文においては、それは説明されないままになっている。この問題については、註(46)で言及する。次に、タルスキでは、対象を指定する関数に相当する無限列は、対象言語の表現ではなく拡張された言語の変項を定義域として持っている。しかしながら、これは技術的な問題と見なすことができるので(Etchemendy 1990, ch. 4 参照)、無限列は(宇宙の問題を無視すれば)拡張される前の対象言語に対するモデルと見なして差し支えないと思われる。なお、「対象言語に対するモデル」という表現も Chang and Keisler 1973 に一致させたものであり、単に「モデル」と言われているときは「対象言語に対するモデル」を意味させている。最後に、自由変項を含む表現(一般に「開放文」と呼ばれる表現)は文と見なさないので、それに対するモデルにおける真理概念の定義も与えられていないことに注意されたい。

(16)Tarski 1936a, p. 417.

(17)Tarski 1936a, p. 418(ただし、タルスキはこの様な文を「分析的(analytical)」と呼んでいる)。このように、論理的真理性は論理的帰結関係から派生した概念として取り扱い、独立した概念とは見なさない。従って、以下において論理的真理性について議論するときも、論理的帰結関係の一つの(技術的に論じやすい)事例として問題にされているにすぎず、容易に論理的帰結関係についての議論に一般化され得ることに注意されたい。なお、論理的真理性の様相的特徴は、「文 X が論理的に真ならば、文 X は必然的に真である」となる。論理的帰結関係を基本的概念と見なすことがタルスキの特徴であることについては、Etchemendy 1988b, sect. 2.4 を参照。

(18)Tarski 1936a, pp. 418-420.

(19)タルスキは死後公表された論文(Tarski 1986)において、論理的概念の正しくかつ十分な定義を試みている。この論文での「概念(notion)」という語は、個体、個体の集合、個体間の関係、個体の集合の集合などを含む、すべての可能な型(type)の対象を意味するために使われており(Tarski 1986, p. 147)、また、論理的対象を指示する表現が論理定項であるから(Tarski and Givant 1987, p. 57)、論理定項の定義が試みられているのである。この論文の編者であるジョン・コルコランは、「この論文は以前の仕事[Tarski 1936a]の続きと見なすことができる」と述べている(Corcoran 1986, p. 143)。この論文でのタルスキの基本的な発想は、様々な幾何学を統一的に扱うためにフェリックス・クラインが提唱した原理を発展させることにある。エルランゲン目録という名称で知られる考えの中で、クラインは、個々の幾何学には、空間のそれ自身への一対一対応を与える関数(変換)のある集合が対応しており、この集合に属するすべての変換のもとで不変に保たれている概念がその幾何学の概念であり、この概念を研究する学問として当の幾何学を特徴付けよう、と提唱している。例えば、すべての合同変換のもとで不変な概念がユークリッド幾何学の概念であり、すべてのアフィン変換のもとで不変な概念がアフィン幾何学の概念である。ここでタルスキは、「この[変換の集合をより大きくとることの]結果として、変換のこのより大きな集合のもとで不変である概念の、より小さな集合を手に入れる。すなわち、その概念の数はより少なくなり、より『一般的な』性質を持ったものになる」(Tarski 1986, p. 149)という事実に注目する。具体例でみると、直角三角形や二等辺三角形はユークリッド幾何学の概念であるが、アフィン幾何学では三角形というより一般的な概念しか現れていない。従って、変換の集合をどんどん大きくとれば完全に一般的な概念に到達し、これが論理的概念である、というのがタルスキの考えである。すなわち、空間ではなく、より一般的に「話の宇宙(universe of discourse)」と呼ばれる集合を定義域と値域として持つ一対一の変換を考え、この変換すべてのもとで不変である概念が論理的概念であると定義される(Tarski 1986, p. 149)。この定義のもとでは、例えば、個体の全集合、個体間の同一性関係、個体の集合間の包含関係、個体の集合の要素の数に関する性質、などが論理的概念であると判定される。最後に述べた論理的概念に関して、タルスキは、「我々の論理は[内包の論理ではないが]外延の論理でさえなく、数についての論理であり、数的関係についての論理である」と述べている(Tarski 1986, p. 151. なお Lindenbaum and Tarski 1936, p. 388 をも参照)。しかしながら、論理についてのこのような見方は、一見すると、我々の常識的理解から逸脱しているように感じられる。またこの見方が論理的帰結関係についての 1936 年の論文で展開された考えとどの様に関連しているのかも、明らかではないと思われる(Tarski 1986, p.145を参照)。

(20)しかし、数学の表現を論理定項とすることには違和感が付きまとう。前註を参照。

(21)Tarski 1936a, p. 417.

(22)Tarski 1936a, p. 417. 下線による強調は筆者のもの。

(23)Tarski 1936a, p. 417. [ ]内は筆者の挿入。強調も筆者のもの、その部分の英語原語は、the designations of the objects referred to である。

(24)Tarski 1936a, pp. 415-416.

(25)「可能な対象」というときの「可能」という言葉には形而上学的な意味あいはなく、従って、キマイラや丸い四角のような形而上学的意味での可能な対象はそこには含まれておらず、単に、何らかの仕方で現実に存在すると認められているすべての対象のみが含まれていると解釈すべきである。現実に存在する石炭という対象を指示する表現が欠如している言語の内部では、石炭は現実的な対象ではなく可能な対象にとどまっている、という意味において「可能」という言葉が使われているのであると思われる。このように解釈すべき理由は、対象の無限列による文関数の充足という概念は、本来、通常の真理概念を定義するために導入された装置である、ということの内に求めることができる。第一に、真理概念の定義は科学的に与えられることが意図されていたから、形而上学的意味での可能な対象をも無限列の値域となる集合に含ませていたとは考えられない。第二に、仮に含ませてしまうと奇妙な結果が得られることになる。タルスキは、全称量化記号と束縛変項を持った「すべての x について、x は F という性質を持つ」という形をした文(記号化すると「∀xFx」)が通常の意味で真であるための必要十分条件を、すべての無限列が文関数「Fx」を充足するすることとして与えていた(Tarski 1935, pp. 193-195 参照)。ここで、「すべての x について、x が人間であるならば x は五百歳以下で死んだ」という文(H)を考えてみよう。文(H)が通常の意味で真であるのは、すべての無限列が文関数「x が人間であるならば x は五百歳以下で死んだ」を充足するときかつそのときに限られる。我々は、文(H)が通常の意味では真であると認めるが、同時に、可能性についての形而上学的直観に訴えて、五百歳以上生きた人間が存在した事態も可能である、すなわち、文(H)が偽であることも可能である、と考えているものと仮定する。しかし、こうした可能な長命者を無限列の値域に含ませてしまうと、文(H)は通常の意味で偽であるという仮定に反する結論が定義から帰結してしまう。無限列による充足という装置は、本来、「可能的に真」という概念を捉えるためのものではない。従って、形而上学的に可能な対象は、無限列の値域からは排除されなければならないのである。

(26)以下で見る表象意味論と解釈意味論についての議論は、基本的には、Etchemendy 1990, chs. 2, 4 に基づいている。また、Etchemendy 1988a, Barwise and Etchemendy 1989, pp. 253-240 においても簡潔な説明が与えられている。論理的真理性のみを論じていることについては、註(17)を参照。

(27)バーワイズとエチメンディの調査によれば、モデル理論を表象意味論と見るか解釈意味論と見るかについては、「文献では両方の解釈が見い出される」( Barwise and Etchemendy 1989, p. 236)。しかし、集合論の手法を用いたモデル理論においては、彼らが「要因分解の問題(factorization problem)」と呼ぶ問題、すなわち、言語の通常の意味だけを固定しておくことが困難であるという問題が存在するため、表象意味論を首尾一貫して展開することが事実上不可能になっている。彼らが研究している状況意味論は、性質や関係を集合論的構成物としてモデル化するのではなく、それらを基本的(primitive)なものとすることによって、要因分解の問題を克服し、表象意味論を十全に展開することが可能になっているとされる(Barwise and Etchemendy 1989, p. 237)。また、論理学の初等的な教科書として書かれた Barwise and Etchemendy 1991 においてもモデル理論を表象意味論として展開するために注意深い配慮が成されている。

(28)この発想は、クリプキの「固定指定子(rigid designators)」の考えなどに顕著に認められるものである(特に Kripke 1980, pp. 77-78 を参照)。

(29)Etchemendy 1990, p.23.

(30)Etchemendy 1990, p.56. 強調部の原語は semantically well-behaved である。おおまかに述べると、同じ意味論的範疇に属するすべての再解釈のことである。

(31)こうしたモデルは「疑似的(spurious)」であると呼ばれる(Barwise and
Etchemendy 1991, p. 49)。疑似的モデルの典型例は、数学上の真なる命題を表現している文が偽となるようなモデルである。

(32)この不一致は、述語論理のモデル(本論文第三節を参照)を考えるとより劇的に明らかになる。ただ一つの文「雪は白い」のみから成る言語を考える。論理外の定項(ここではすべての表現)を変項に置き換えて文関数「aA」を得る。モデル f は「a」に雪という個体を、「A」に白いという性質を指定し、モデル g は「a」に雨という個体を、「A」に白いという性質を指定するものとする。雪は白いからモデル f で文「雪は白い」は真であり、雨は白くないからモデル g で文「雪は白い」は偽である。モデルを表象意味論の立場にたって考えると、モデル f は雪が白い世界(現実の世界)を表象した通常モデルであり、モデル g は雪が白くない世界(現実ではない世界)を表象したモデルであると考えられる。他方、解釈意味論の立場に立つと、モデル f は個体定項「雪」が雪という個体を指示し、性質定項「白い」が白いということを意味しているという解釈(通常の日本語の解釈)を与える通常モデルであり、モデル g は個体定項「雪」が雨という個体を指示し、性質定項「白い」が白いということを意味しているという解釈(通常の日本語とは異なる解釈)を与えるモデルであると考えられる。ところで、雪は白いか白くないかのどちらかであるから、表象意味論にとっては、モデル f と g ですべての可能な世界は尽くされており、それだけで必要十分である。しかし、解釈意味論にとっては、f と g だけでは不十分である。個体定項「雪」が氷という個体を指示するという解釈を与えるモデル、性質定項「白い」が黒いということを意味しているという解釈を与えるモデル等、遥かに多くのモデルが考慮されねばならない。従って、両意味論においてはモデルの集合の大規模な外延上の不一致が生じることになる。

(33)Etchemendy 1990, pp. 25-26.

(34)以下で紹介する「タルスキの誤謬」をめぐる議論は、Etchemendy 1990, ch. 6 に基づいている。なおこの議論は最初 Etchemendy 1983 で展開された。ただしそこでは、「ボルツァーノの誤謬」と呼ばれている。

(35)註(11)で注意したように、タルスキの定義は様相的特徴と形式的特徴をともに持つ推論と一致することが(少なくとも言葉の上では)意図されている。従って、命題(A)と(B)の同値性の証明を要求するエチメンディは、様相的特徴と形式的特徴を同じものであると解釈ないし判断していることが分かる。しかし、タルスキの考えを文字通りに受け取るべきだとしても、タルスキの定義で論理的である推論は様相的特徴を有するということ(すなわち、「A」なら「B」)はもちろん成立し、以下で見るように、これに対する批判がエチメンディの議論の核心であるから、エチメンディの解釈・判断は彼自身の議論の妥当性に影響を与えるものではない。形式的特徴についての本論文第五節での議論についても、同じような注意が当てはまる。

(36)Etchemendy 1990, p. 86.

(37)Etchemendy 1990, p. 87.

(38)(P)と(Q)および(R)から矛盾が生じた場合、否定導入規則と含意導入規則によって、「(P)と(Q)なら、(R)ではない」が証明される(前提なしで演繹される)。ここからなぜ(D)のように必然性概念を含む命題が証明されることになるのか疑問に思われるかもしれないし、エチメンディも特に説明を与えてはいない。形式的に述べると、「文『X』が証明されるならば、文『必然的に X』が証明される」という様相論理の推論規則に従ったものであると推測される。ただし、この形式的な推論規則が無制限に使用されているのではなく、文「X」の証明に使われた推論規則(ここでは否定導入規則と含意導入規則)の適用によって証明される文はすべて必然的に真である、ということが何らかの仕方で保証されていなければならないはずである。つまり、表象意味論の議論において、様相について語るための枠組みとして可能世界の概念が用いられていたのと類非的に、ここでの議論では、必然的に真なる文を生み出すことが予め保証された推論規則を導入することによって、様相について語る枠組みを与えているのである。この推論規則は、解釈意味論における論理的帰結関係の定義の中に最初から組み込まれているわけではないから、空想的構造的定義や表象意味論における定義のときのような問題は生じない。

(39)様相論理では、<□(P & Q ⊃ ¬R), P ⊃ □(Q ⊃ ¬R)>という図式で表された推論は、妥当であるとは認められていない。

(40)註(38)でみた様相について語る枠組みを用いて証明を与える可能性をエチメンディは否定できないと思われる。つまり、タルスキの定義で論理的である任意の推論<K, S>について、必然性の特徴を生み出すことが既に保証された推論規則を文集合 K に対して有限回適用することによって文 S が得られる、ということが証明される可能性は残っている。実際、ゲーデルの完全性定理は、一階述語論理の言語の中のある限定された言語に対して、このことを証明したものであると解釈することができる。しかし、任意の言語に対してこのことを証明するためには、保証された推論規則の集合を無制限に拡大する必要があり、構成的な証明は不可能にならざるを得ないであろう。また、シャーはエチメンディの議論を承知した上で、「タルスキの真意であると私の信じるきわめて単純な議論」として、「(A)なら(B)」の新しい証明を試みている(Sher 1991, pp. 41-42)。それは、(B)の否定と(A)から矛盾を導き出すという点で、エチメンディの考えている証明とはまったく異なるものである。彼女の証明は、タルスキの意味論を表象意味論として解釈することによって可能になっているが、これはエチメンディ(と私)には容認できない解釈であり、彼女自身も自分の解釈の弱さを認めている(Sher 1991, p. 139)。

(41)以下で紹介する還元原理をめぐって展開される議論は、Etchemendy 1990, chs. 7, 8 に基づいているが、より簡潔な議論が Etchemendy 1988a においても述べられている。なお、再び論理的真理性についてのみ論じる。

(42)対象言語に全称量化記号と変項が存在しない場合には、それらを含むように言語を拡張して、その言語の文について考えればよい。全称量化記号と変項を持つ文に対する通常の意味での真理条件については註(25)を参照。ただし、通常の意味で真であるとは通常モデルで真となることであると定義しているので、厳密には、全称量化文が通常モデルで真であるための条件を定義した上で、その条件は文 S が論理的に真であるための条件と一致するということを示さなければならない。煩些になるのでここではそれを行わないが、直観的に容易に理解できるであろう。

(43)Etchemendy 1990, pp. 99-100.

(44)「ということはない」、「または」のように伝統的に論理定項と考えられてきた表現の意味のみによって真である分析的に真な文が、本来的な意味での「論理的に真」なる文に対応するものであると、一般化して考えることができる。

(45)全称量化文が論理的に偽のとき、対応する特例化は必ずしも論理的に偽とはならないことに注意されたい。その具体的な例は、註(47)において与えてある。

(46)文σ2 には論理外の定項は含まれていないから、事実上、量化は行われない。[ ]の前に 0 個の全称量化記号が存在するものと考えられたい。

(47)存在量化記号を論理外の定項として扱うことについてのエチメンディのタルスキ解釈は、文σ2 を例として説明すれば、次の通りである。まず、文σ2 の論理外の定項「∃」を変項「E」に置換して文関数「ExEy(x≠y)」を得る(この様な置換によって得られた表現を、以下では「σ2(∃/E)」と略記する)。次に、無限列の概念を拡張して、変項 E に対しては可能な対象(ここでは個体)のすべてを含む集合(以下では「宇宙」と呼ぶ)の任意の部分集合を指定する関数であるとする。今、或る無限列 f が変項「E」に対してその様な或る集合 c を指定するとき、充足の部分的定義は次のようになる。
無限列のもとでの真理概念の定義と論理的真理性の概念の定義は今までと同じである。すると、文σ2が論理的に真であるための条件は、全称量化文「∀E[σ2(∃/E)]」が通常の意味で真であるための条件と一致する。この全称量化文は、宇宙のすべての部分集合は少なくとも二個の成員を含んでいる、ということを主張している。ところが、宇宙が実際に幾つの対象を含んでいるのかという問題に関係なく、任意の宇宙の部分集合となり得る空集合は二個の成員を含んではいないので、この全称量化文は論理的に偽となり、文σ2は論理的に真なのではないと判定され(実際σ2は事実として真であるか偽であるかのいずれかである)、この判定には論理外の事実は影響していない。
 以上に見られる量化記号の論理外の定項としての取扱いは、量化の行われる領域を任意に設定することに等しいから、現代の一般的なモデル理論における宇宙の概念に相当するものである。すなわち、Tarski 1936a の考えを自然な形で拡張すれば、現代のモデル理論が得られるというのが、エチメンディのタルスキ解釈である。しかし、そこには重大な問題が潜んでいることをエチメンディは指摘する(Etchemendy 1990, ch. 5)。次のような文は論理的に真であることが直観的に認められていると考えてみよう。
論理外の定項「∃」を置換する変項に犬の集合を指定し、その他の論理外の定項を置換する変項に対してはその定項の通常の解釈を指定する無限列 g を考えると、無限列 g のもとで文(P)は偽となる。従って、タルスキの定義では文(P)は論理的に真なのではないと判定され、最初の直観に反することになる。この困難を最も合理的に解決するためには、無限列の構成において「名辞交差制限(cross-term restriction)」を課すべきであるとエチメンディは考える。それは、無限列が個体変項に指定する個体はその無限列が量化変項に対して指定する集合の成員になっていなければいけないという仕方で、適切な無限列の集合に制限を与えるものである。すると、無限列 g は適切な無限列全体の集合から排除されることになるから、文(P)の論理的真理性は回復されることになる。名辞交差制限は現代のモデル理論でも自明なものとして用いられているが、意味論的範疇の異なる複数の表現にまたがって制限を加えているので、本論文第四節で見た解釈意味論におけるモデル構成の方針から逸脱したものである。エチメンディは、名辞交差制限は(P)のような文の論理的真理性を救うためにのみ導入されているとしか説明され得ないであろう、と主張している。つまり、名辞交差制限を用いた解釈意味論は、(P)のような文は論理的に真であるという直観的理解を前提しており、こうした直観的理解に基づいて与えられる論理的真理性の定義は(本論文での用語を用いると)科学性条件を満たしていないのである。この問題にこれ以上立ち入ることはできないが、名辞交差制限は言語表現に一般的に観察される意味論的事実から導出されたものであり、必ずしも論理的真理についての直観を救うために導入されたものではない、と理解することも可能であると私は考えている。

(48)Etchemendy 1990, p. 114.

(49)Etchemendy 1990, p. 120.

(50)例えば、文(8)が偽になるのは、宇宙が二個以上の個体を含むという仮定だけでは不十分であり、これらの個体が性質によって相互に識別可能であるという仮定が必要である。従って、文τn のすべてが論理的に真ではないと判定されるためには、宇宙の大きさが無限であるという事実だけではなく、宇宙が「同質的(homogeneous)」ではないという論理外の事実にも依存しなければならない。通常のモデル理論は、対集合の公理(pair-set axiom)を採用することによって、宇宙の非同質性を仮定している。

(51)エチメンディはこの方法を選択することになると思われる。彼は、モデル理論は表象意味論であらねばならないと主張しているが(Etchemendy 1988a, pp. 104-105, Barwise and Etchemendy 1991, p. 237 参照)、意味論研究の手段としてのモデル理論は表象意味論でなければならないと考えているのであって、第4節で見たように、表象意味論が論理的帰結関係の定義・分析を与え得ないことをはっきり認めている。従って、彼の立場は、モデル理論の領域から論理的帰結関係の分析の仕事を切り離すものとなろう。

(52)タルスキも、「ある文が他の文から帰結すると日常生活において述べるとき、これらの文の間のある構造的関係の存在とはまったく異なった何かを、我々は疑いもなく意味している」(Tarski 1935, p. 252n)と述べていた。

(53)Tarski 1936a, p. 413n, 1935, p. 238n 参照。

文献

Barwise, J., and J. Etchemendy. 1989. “Model-Theoretic Semantics.” In Posner 1989, pp. 207-243.
----- 1991. The Language of First-Oder Logic. 2nd ed. Stanford: CSLI.
Chang, C. C., and H. J. Keisler. 1973. Model Theory. Amsterdam: North-Holland.
Corcoran, J. 1983. “Editor’s Introduction to the Revised Edition.” In Tarski 1983, pp. xv-xxvii.
----- 1986. “Editor’s Introduction.” In Tarski 1986, pp. 143-144.
Etchemendy, J. 1983. “The Doctrine of Logic as Form.” Linguistics and Philosophy 6: 319-334.
----- 1988a. “Models, Semantics, and Logical Truth.” Linguistics and Philosophy 11: 91-106.
----- 1988b. “Tarski on Truth and Logical Consequence.” Journal of Symbolic Logic 53: 51-79.
----- 1990. The Concept of Logical Consequence. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.
Godel, K. 1930. “Die Vollstandigkeit der Axiome des logischen Funktionenkalkuls.” In Godel 1986, pp. 102-122.
----- 1931. “Uber formal unentscheidbare Satze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I.” In Godel 1986, pp. 144-194.
----- 1986. Collected Works. Volume I. (Edited by Feferman, S., et al.) Oxford: Oxford University Press.
橋本康二、1992、「物理主義的真理論とは何か ── フィールドのタルスキ批判をめぐって ──」、『哲学論叢』19号、84-95頁。
Henkin, L., et al., eds. 1974. Proceedings of the Tarski Symposium. Providence: American Mathematical Society.
Kripke, S. 1980. Naming and Necessity. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.
Lindenbaum, A., and A. Tarski. 1936. “On the Limitations of the Means of Expression of Deductive Theories.” In Tarski 1983, pp. 384-392.
Linsky, L., ed. 1952. Semantics and the Philosophy of Language. Urbana: University of Illinois Press.
Posner, M., ed. 1989. Foundations of Cognitive Science. Cambridge, Mass.: MIT Press.
Sher, G. 1991. The Bounds of Logic. Cambridge, Mass.: MIT Press.
Tarski, A. 1930a. “On Some Fundamental Concepts of Metamathematics.” In Tarski 1983, pp. 30-37.
----- 1930b. “Fundamental Concepts of the Methodology of the Deductive Sciences.” In Tarski 1983, pp. 60-109.
----- 1933. “Some Observations on the Concept of w-Consistency and w-Completeness.” In Tarski 1983, pp. 279-295.
----- 1935. “The Concept of Truth in Formalized Languages.” In Tarski 1983, pp. 152-278.
----- 1936a. “On the Concept of Logical Consequence.” In Tarski 1983, pp. 409-420.
----- 1936b. “The Establishment of Scientific Semantics.” In Tarski 1983, pp. 401-408.
----- 1944. “The Semantic Conception of Truth and the Foundations of Semantics.” In Linsky 1952, pp. 13-47.
----- 1969. “Truth and Proof.” Scientific American 220(6): 63-77.
----- 1983. Logic, Semantics, Metamathematics. 2nd ed. (Edited by Corcoran, J.) Indianapolis: Hackett Publishing Company. [1st ed. (Edited and translated by Woodger, J. H.) Oxford: Clarendon Press, 1956.]
----- 1986. “What Are Logical Notions?” (Edited by Corcoran, J.) History and Philosophy of Logic 7: 143-154.
Tarski, A., and S. Givant. 1987. A Foundation of Set Theory without Variables. Providence: American Mathematical Society.
Vaught, R. L. 1974. “Model Theory before 1945.” In Henkin et al. 1974, pp. 153-172.
----- 1986. “Alfred Tarski’s Work in Model Theory.” Journal of Symbolic Logic 51: 869-882.

 付記
この論文の初期草稿を綿密に検討され、貴重な示唆を与えて下さった、木曽好能、伊藤邦武の両先生に感謝します。

(筆者 はしもと・こうじ 京都大学文学部[哲学]博士後期課程三回生)




How to Define the Concept of Logical Consequence


by Kouji Hashimoto,
Graduate Student in Philosophy,
Faculty of Letters,
Kyoto University


This paper consists of five sections. In the first two sections, Alfred Tarski’s definition of logical consequence, which was advanced in his article “On the Concept of Logical Consequence”, is examined. There, I show that his definition is originally intended to satisfy the following two conditions. The first one, which I call the condition of scientism, demands that the definition should contain only the concepts whose meanings are established scientifically and exclude metaphysical or other undefined concepts. The second one, the condition of material adequateness, requires the definition to conform to the ordinary usage of the definiendum. Then I argue that although Tarski’s definition satisfies the condition of scientism, whether it also satisfies the condition of material adequateness is not clear.

In the next two sections, I take John Etchemendy’s arguments against Tarski’s definition, which appear in his book, The Concept of Logical Consequence. In this book, Etchemendy contends that Tarski’s analysis is wrong, that his definition does not capture the essential feature of the ordinary concept of logical consequence. Namely, it is claimed that Tarski’s definition does not satisfy the condition of material adequateness. Analyzing his arguments, I explain the central difficulty Tarski’s definition meets. It seems impossible for his definition to satisfy both the condition of scientism and the condition of material adequateness at once.

Any definition of logical consequence must satisfy the condition of material adequateness as long as it aims at right one. In the last section, I outline the three possible ways to attain such a definition. The first way introduces the metaphysical theory about the essential feature of logical consequence in ordinary usage. The second way adopts a kind of syntactical definition. The third way is basically the same as Tarski’s definition, but it needs to modify our understanding of the essential feature of logical consequence. The first and second ways can satisfy the condition of material adequateness because they give up satisfying the condition of scientism. On the other hand, the third way seems to be able to satisfy both of the conditions. Therefore, I think that it is worth while pursuing the third way further.