一ノ瀬正樹
『原因と理由の迷宮』
(勁草書房 2006年 xii + 280 + xxvi頁 3200円)

橋本康二

 本書は確率と曖昧性に関する著者自身の主張を前面に出して論じており、その議論の独創性のゆえに多くの論争を呼び起こすだろう刺激的な書物になっている。多岐にわたる著者の主張の中から、ここでは「過去確率原理」および「過去決定論」をめぐる主張を取りあげて論評したい。
 過去確率原理とは「ある出来事が特定の仕方でたったいま生じてしまったものとして確認されるやいなや・・・その出来事の生起確率は1とならなければならない」(30-1頁)という考えである。著者はこの原理を自明と見なすが、しかし確率1への突然の変化は哲学的な説明を要する現象であると考え、変化の原因は何かという問題を提起する。「私たちがある出来事が過去へと過ぎ去っていくのを観察するやいなや、そうした私たちの観察こそが、その出来事の確率が値1へと崩壊することの原因となる」(54頁)という確率崩壊仮説が著者の与える答である。
 だが私にはそもそも過去確率原理が自明だとは思えない。自分のくじが一等になる確率は0.00001だと信じているとしよう。抽選会場で自分のくじが選ばれるのを見たとき、私は確率を飛躍的に増大させるが、見誤りやだまされている可能性を考えて、0.99ぐらいにとどめておくかもしれない(そして後で新聞で番号を再確認する)。著者は「錯覚とか・・・を別にすれば」(37頁)目の前で生じたことの確率は1だと主張するが、なぜ別にすることができるのかの説明は与えられていない。また、もしも別にすることが許されるのなら、確率1への突然の変化は別の所でも生じるのではないだろうか。例えば、私はくじが完全な八百長であることを知り、当選番号予定一覧表の中に自分の番号があるのを発表前に見たとしよう。私はこのとき確率を0.00001から1へと瞬時に増大させるだろう。過去確率原理はこうした一般的な現象の一部にすぎないと思われるのである。
 確率崩壊仮説の意義も私には不明である。過去確率原理が「確認されるやいなや」という形で与えられている以上、確認ないし観察が変化の原因であることは当然である。私は手持ちの情報に基づいてある出来事に対して一定の度合い(確率)の信念を持つが、新しい情報が得られると、それが原因となって信念の度合いを変化させる。著者が問題にしている現象はこのあたりまえのことに尽きているのではないだろうか。
 以上では確率を主観的なものと解釈してきたが、それは著者が過去確率原理は「頻度解釈の場合を除いて、すべての確率解釈において妥当する」(36頁)と述べているからである。しかし、実際は著者は客観的確率のことだけを考えているのかもしれない。そうすると上で指摘したような問題は生じないからである。例えば世界のあり方を次のように考えてみよう。すなわち、未来には実際には両立し得ない様々な可能性が共存して横たわっているが、それが現在になった瞬間、一つを残し他のすべての可能性は消えてしまう、と。確率を使って述べ直すと、最初は例えば確率0.00001だった可能性が、現在になった瞬間に突然1に変化するのである。確かにこの変化は現在でしか生じない特異な現象である。また、この変化の原因は実は私たちによる観察であるという確率崩壊仮説は驚くべき主張となろう。しかし今度はこの仮説には根拠がない。なぜならここでは、観察とは関係なく現在になった瞬間に確率は1に変化するというように世界は理解されているからである。
 次に、過去決定論の問題に移ろう。工場にロボット、赤玉と白玉の山、番号がふられた箱の山があり、ロボットは箱を適当に選び、それに赤玉か白玉を詰めて蓋をするという作業を繰り返すという状況を考えよう。私はこの工場に行き、8番の箱にロボットが赤玉を入れるのを観察したとする。3時間後、8番の箱に赤玉が入っていることに私はどれだけの確率を付与すべきであろうか。最初の観察に錯覚はなく、記憶に信頼を置いて良く、色があせることやすり替えが行われる可能性などもないとすれば、私は確率1を付与するだろう。しかし著者は、私のこの判断は過去に起きた出来事は変化せず確定しているという過去決定論に依存していることを指摘し、過去決定論に絶対的な根拠はないと主張する。なぜなら、「過去は刻一刻と(?)変化しているのだと、そう考えることさえ理論的には可能」(73頁)だからである。つまり、3時間前にロボットが8番の箱に赤玉を入れたという過去が白玉を入れたという過去に変化している可能性がある。したがって、観察から3時間後の現在、8番の箱に入っているのは白玉かもしれない。この可能性を考慮に入れると、赤玉だということに付与する確率は1より小さくするのが本来取るべき道である。著者はこのように主張する(例は変えてある)。
 私は、過去が変化する可能性を認めたとしても、それを上のような仕方で考慮に入れることは間違っていると思う。観察から2時間後に、観察された過去が「赤玉を入れた」から「白玉を入れた」に変化したとしよう。このとき、当時現場に居合わせた私は「白玉を入れた」を観察することになり、それが記憶として残るはずである。さて、観察から3時間後の私が、もしも「赤玉を入れた」という記憶を持っているならば、この3時間の間に問題の過去は変化しなかったのであり、したがって、「赤玉である」に確率1を付与するという判断は正しい。もしも「白玉を入れた」という記憶を持っているならば、確かに問題の過去は変化したことになるが、この場合は記憶も変化しているため、私は自動的に「赤玉である」ではなく「白玉である」に確率1を付与するであろうし、それは正しい判断である。いずれの場合も当の私には問題の過去が変化したか否かは分からないが、だからといって変化の可能性を考慮する必要はない。自分の記憶に基づいて「赤玉(ないし白玉)である」に確率1を付与するのが最も合理的な判断であろう。記憶だけが変化する以前の過去のものであるということはあり得ないからである。

(はしもと こうじ・筑波大学)