G・フレーゲ著
『フレーゲ著作集1 概念記法』
(藤村龍雄編,藤村龍雄,戸田山和久,大木島徹訳,勁草書房,1999年)

『フレーゲ著作集4 哲学論集』
(黒田亘,野本和幸編,野本和幸,大辻正晴,藤村龍雄,土屋俊,関口浩喜,高橋要訳,勁草書房,1999年)

 長い年月をかけて多くの人によって進められてきたフレーゲ著作集出版プロジェクトが,ようやくその具体的な姿を我々の前に現し,全6巻のうち上記の2巻が出版されるにいたった(2000年7月時点).第1巻には,「概念記法」,「概念記法の応用」,「ブールの論理計算と概念記法」,「概念記法の科学的正当化について」,「概念記法の目的について」,「ペアノ氏の概念記法と私自身のそれについて」の5編が収録されている.このうち,「概念記法」は,かつて部分訳が出版されたことがある(石本新訳編『論理思想の革命』(東海大学出版会,1972)所収の「概念文字」)が,全訳はこれが初めてであり,他の4編はこれが初訳である.第4巻には,「論理学[I]」,「論理学についての17のキー・センテンス」,「関数と概念」,「概念と対象について」,「意義と意味について」,「意義と意味詳論」,「論理学[II]」,「関数とは何か」,「論理学入門」,「私の論理的教説概観」,「論理学上の私の根本的洞察」,「思想」,「否定」,「ダルムシュテッターへの手記」,「複合思想」,「論理的普遍性」の16編が収録されている.このうち,「関数と概念」,「概念と対象について」,「意義と意味について」,「関数とは何か」,「思想」,「否定」,「複合思想」の7編(いずれもフレーゲが生前に公刊した論文)は,藤村龍雄訳『フレーゲ哲学論集』(岩波書店,1988)において既に訳されているが,本巻に収められているのはすべて別人による新訳である(「意義と意味について」は,坂本百大編『現代哲学基本論文集I」(勁草書房,1986)所収の土屋俊訳の転載だが,編者による改訂が施されており,オリジナルに見られたいくつかの誤植もほとんど訂正されている).他の9編(フレーゲの死後に出版された『遺稿集』に収録された論文)はこれが初訳である.第4巻には,編者の野本和幸による長文の「編者解説」が付され,収録論文の主要な論点が素人向けにわかりやすく説明されている.第1巻には解説は付されていない(その代わり編者の藤村龍雄による「フレーゲの生涯」が付されており,今まで知られていなかった新しい伝記的事実も明らかにされている)が,編者が以前発表した「論理学の革命」(『岩波講座・現代思想4 言語論的転回』(岩波書店,1993)所収)が,「概念記法」によって成立した記号論理と従来の伝統的論理学との違いがどこに存するかを明快に説明しており,事実上,第1巻の優れた解説になっている.記号論理は我々の常識となってしまっているので,こうした解説がなければ,「概念記法」の革新的意義を知ることはもはや不可能であろう.
 本書を通して読むと,初期の「概念記法」から晩年の哲学論文まで,大雑把に言って次のようなアイディアをフレーゲが一貫して抱いていたことがわかる.

フレーゲの哲学・論理学は以上のアイディアに大きく依存して成立しているように思われる.しかしながら,今日このようなフレーゲのアイディアを支持する哲学者はほとんどいない.フレーゲの直後に出てきたラッセルやヴィトゲンシュタインは,フレーゲのアイディアを徹底的に批判し,それに代わる別のアイディアを提示した.その結果,今日の我々は,最初からフレーゲのアイディアを破綻した考えとしてしか見ないのである──極論すればこうも言えるであろう.だが,このアイディアを抜き去ってしまうと,フレーゲ哲学に何が残るであろうか.何も残らない,とまでは言えないだろうが,フレーゲが断固として自分のアイディアに固執したのは事実であり,それは本書のいたるところから読みとることができる.そうすると興味が出てくるのは,フレーゲは批判に対していかに答えたのか,という問題である.しかし,本書に収められた論文には答は見られない.ヴィトゲンシュタインの『論考』の批判に答えることは時間的に無理だったかもしれないが,ラッセルの批判は早い時期(1906年)から何度もなされており,検討する時間は十分あったはずである.それとも,フレーゲはラッセルの批判を全く知らなかったのであろうか.(もっとも,ラッセルはフレーゲを直接批判したわけではない.ラッセルはムーアの影響のもとで,フレーゲのアイディアと基本的にほとんど同じ考えを抱いて実在論哲学を開始したが,やがて自己批判し,この考えを捨てるようになった.この自己批判が間接的なフレーゲ批判になっているのである.)ただし,論文「否定」(1918)の中で「判断する者は彼が判断することによって,部分の連関,秩序を樹立し,そのことによって判断を成立させるという見解」(4巻,152頁)に批判的に言及している個所があり,訳者の野本和幸は,この見解は「ラッセルの判断論の多項関係説を想起させる」(同,261頁)と注記している(判断の多項関係説とは,上述の自己批判後にラッセルが採用した見解で,フレーゲのアイディアとは真っ向から対立する考えである).しかし,フレーゲがラッセルのことを念頭に置いているにせよいないにせよ,そこでのフレーゲの議論がラッセル流の批判(例えば,偽なる思想が客観的に存在することの信じ難さに訴える批判,など)に答えたものになっていないことは確かである.
 もちろん,ラッセルやヴィトゲンシュタインのフレーゲ批判も決定的なものではないと考えられるのであって,我々としても,フレーゲのアイディアを単なる過去の遺物として最初から見捨てるべきではなかろう.むしろ,フレーゲに代わって我々がラッセルやヴィトゲンシュタインの批判に答えることを試みても良い.そうした試みを通して新しい見解が得られる可能性も開かれるであろう.もっとも期待されるのは真理論における進展である.フレーゲのアイディアに含まれる真理論は,真理とは何らかの客観的存在者が所有したりしなかったりする分析不可能な単純性質である,というものである.この真理論は今日まったく支持されていないだけではなく,こうした真理論が存在することさえほとんど知られていないかもしれない(実際,この真理論には定まった名称すらない).フレーゲを批判したラッセルとヴィトゲンシュタインが提示した真理論はともに真理対応説であるが,フレーゲは,対応で真理を定義することは分析不可能な単純性質としての真理性質を前提しなければ不可能である,と考えていた.しかも,自己批判以前のラッセルもフレーゲと全く同じ論法によって真理対応説を批判していたのである.この問題はどうなったのであろうか.ここからラッセルやヴィトゲンシュタインの真理対応説を再批判することはできないのであろうか.また,フレーゲは「雪は白い」と「雪は白いということは真である」が同義であることを認めていたが,そこからフレーゲが導き出した結論は,真理を通常の性質と同種のものと見なすことはできず,むしろ対象と見なすべきである,というものであった.これはにわかには理解しにくい考えであるが,フレーゲが真理を余分なもの,実質を欠く形式的なものと見なしていないことは,はっきりしている.現代の真理余剰説論者ないし真理デフレーション論者は,この議論をどう受けとめるべきであろうか.このように,フレーゲのアイディアに立ち返り,フレーゲ的観点から現代の哲学理論を再検討することは,有意義な試みであると思われる.そうした試みにとって,本書は欠くことができない存在となるであろう.

(橋本康二)