デフレーション的真理論と実質的真理論

橋本康二



 「デフレーション的真理論(the deflationary theory of truth)」と呼ばれる、近来とみに勢力を増してきている新しいタイプの真理論と、真理整合説や真理有用性説などの従来の他の諸真理論――これらの諸真理論を以後一括して「実質的真理論」と呼ぶことにする――の関係を考察し、両者の対立点を検討することが、この論文の主題である。論文の前半では、デフレーション的真理論とはどのような真理論であるのかを、その原初的形態とも言うべき真理余剰説と対比しつつ、概観する。論文の後半では、実質的真理論が(現に、あるいは、可能的に)主張しようとしている内容を三つに区分し、そのおのおのがデフレーション的真理論とどのように関わっているのか、また、両者が対立する場合、デフレーション的真理論に抗して、実質的真理論を擁護するためには、どのような問題を克服していかなければならないのか、を考察する。

一 デフレーション的真理論

 デフレーション的真理論とは何かを一言で述べるなら、「真理余剰説(the redundancy theory of truth)」という名前で知られる真理論の基本的アイディアを受けて、それを洗練させた理論、ということになる。真理余剰説とは、今世紀の初頭にイギリスのラムジーやエヤーらによって主張された理論で、その基本的アイディアは、ラムジーによると、次のようなものである。

一般に、文「Sということは真である」と文「S」は同意味である、という基本的洞察を得ることによって、余剰説論者は、「真である」という述語は我々の言語において本質的な役割を果たしていない余分な語である、なくても構わない語である、と考えた。ここから彼らは更に、「真である」という述語が指し示しているような真理性質というものは存在しない、という帰結を導き出した。なるほど「シーザーが暗殺されたということは真である」という文を示されたなら、「シーザー」、「暗殺される」および「真である」という語はそれぞれ何を指しているのか、という疑問が生じるのも自然であるが、この文が「シーザーは暗殺された」と同意味であるならば、頭を悩ますべきなのは、「シーザー」と「暗殺される」の指示対象だけであり、「真である」に対応する真理性質の存在を求めるそもそもの動機が消失してしまうからである。したがって、余剰説の観点からすれば、従来の諸真理論は端的に否定されることになる。ラムジーの言うところでは、「真理については実際は何ら独立した問題は存在しない」([5]、38頁)のであり、エヤーによれば、もし従来の「真理論がすべて、語『真理』が指示すると素朴に想定されてきた、『実在的性質』ないし『実在的関係』についての理論であるならば、それらはすべてナンセンスである」([1]、90頁)。
 ラムジーやエヤー以後、真理余剰説は、無視はされないが、あまり重視もされないという中途半端な立場に置かれてきたが、20年程前から、スコット・ソームズ、ハートリー・フィールド、ポール・ホーウィッチらが真理余剰説の考え方を真剣に受け止め、一方でそれを洗練させた真理論を構築することを試み、他方で、それをもとにして、真理論内部に留まらず、科学哲学、言語哲学、倫理学へと積極的な発言をするようになった。特に、1990年にホーウィッチが『真理 Truth』という著作を発表して以来、この運動は活発になっている。彼らの見解相互にはいくつかの違いが存在するが、彼らは彼らの真理論が一つの共通点も持つことを認め、それを「デフレーション的」な真理論である、という点に求めている。では、デフレーション的な真理論とは何か、それは真理余剰説とどのように違うのかを、ここではホーウィッチの見解をもとに見て行きたい(2)
 デフレーション的真理論の考え方では、「真である」という述語は、決して、無くても構わない余分な述語ではない。それは、我々の言語の中である重要な役目を担っている述語であり、その役目とは「一般化」である。我々が、例えば、次のように考えているとする。
我々は更にこの思考(1)を一般化して、次のように考えることができる。
この思考(2)を我々の言語で表明するときには、我々は次の文を使う。
多少、論理的な言い方をするときには、次のような文を使う。
いずれにしても、我々の言語では、「すべて」という語が一般化を行う役目を担っている。しかし、「すべて」という語だけで常にうまく行くというわけにはいかない。例えば、我々が次のように考えているとする。
この一般的思考(5)を、先の(2)に対して行ったように、「すべて」という語だけを使って表現しようとしても、うまくいかない。先の(3)に対応するものは、次のように、そもそも書けない。
先の(4)に対応するものは、取り敢えず以下のように書けるかもしれない。
しかし、我々が我々の言語において通常用いている論理にしたがえば、(7)は無意味であり、合法的な文ではない。かくして、「ソクラテス」のような名詞ではなく、「光速は一定だ」のような文が関わってくる一般化に関しては、「すべて」という語だけでは対処しきれないのである。では、我々はどうしているのかというと、次のように述べることによって対処することになる。
つまり、「すべて」という言葉と「真である」という述語が相俟って、ここでの一般化という役目を果たしているわけである。我々が(5)のような、名詞ではなく文が関わってくる一般的思考を行い、それを言語において表現しようとする限り、「真である」という述語、もしくは、それに類した言葉が、我々の言語には必要不可欠である――これが述語「真である」に関するデフレーション的真理論の主張であり、真理余剰説と相違する第一の点である。
 では、「真である」という述語は、なぜこのように一般化の表現に貢献できるのであろうか。ここでデフレーション的真理論は、先に見た真理余剰説の基本的なアイディアに訴えることになる。しかし、それを次のように改変して、自らの独自のアイディアとして提出する。すなわち、「S ということは真である」という文は、文「S」と論理的に同値である、という具合にである。より正確に述べ直すならば、図式「S ということが真であるのは、S であるとき、かつ、そのときに限る」(以後これを「同値図式」と呼ぶことにする)のすべての事例、すなわち、
はすべて論理的に真である、ということになる。「論理的」というのは、これらの同値図式の事例が正しいことが、経験によって確かめる必要なく、ア・プリオリに知られる、という意味である。なぜア・プリオリに知られるのか。それは、これらすべての事例が成り立つように取り決めて、「真である」という述語を我々の言語の中に導入したからである。我々があらかじめ取り決めた「真である」という述語の用法によって、これらの同値図式の事例は成立し、したがって、その正しさはア・プリオリに知られるわけである。我々が「真である」という述語をこのような取り決めによって導入したことは、我々が常に同値図式の事例(9)を受け入れ、主張するということ、また、同値図式の事例の一方の側、例えば、「光速は一定だ」を主張するときは、常に他方の側の「光速は一定だということが真である」をも主張し、一方の側を拒否するときは常に他方の側をも拒否し、その逆でもある、こうした傾向性を我々が事実として有しているということの内に示されている−−このようにデフレーション的真理論は自らのアイディアを正当化している。
 さて、(9)で列挙された同値図式の無限個の事例がア・プリオリな知識として備わっていると考えることによって、先に見たような一般化のメカニズムを説明することが可能になる。まず、(5)は(9)によって次のように書き換えられる。
つまり、最初の行に関して言えば、二番目に出てくる「光速は一定だ」という文を、それと同値であることが論理的に保証されている「光速は一定だということは真である」に置き換え、同様の作業をすべての行に関して行うのである。こうしてできた(10)に対しては、最初に見た(2)に対するときと全く同じように、「すべて」という言葉を使って一般化を行うことができる。なぜなら、今や、「光速は一定だ」というような文に関わる一般化ではなく、「光速は一定だということ」という名詞節に関わる一般化になっているからである。かくして次が得られる。
これを通常の言葉で述べたのものが先の(8)である。すなわち、
 真理余剰説は、「真である」という述語は余分であり、よって当然、それが指示する真理性質など存在しない、と考えたが、デフレーション的真理論は、この後の方の点でも真理余剰説と袂を分かち、真理性質の存在を認める立場を取る(3)。なぜなら、「『真である(is true)』はまったく申し分のない英語の述語であり、このことを(『性質』という概念そのものに対する唯名論的な懸念を脇に置いておくならば)語がある種の性質を表示していることの決定的な基準と考えることができる」([3]、37頁)からである。ただし、真理性質の独特な性格が強調される。すなわち、「赤い」や「水である」のような語が指示する通常の性質は「実質的(substantial)」、「実在的(real)」、「複合的(complex)」、「自然主義的(naturalistic)」な性質と呼ばれ、他方、真理性質の方は「非実質的(insubstantial)」、「非実在的(unreal)」、「論理的(logical)」な性質と呼ばれ、両者はまったく異質な性質であるとされる([3]、37、52頁)。赤さや水のような実質的性質は、我々の思考とは独立に、自然な世界のなかに予め存在している性質であり、我々はそれを経験的に発見し、それを諸部分へと分析したり、自然科学的な解明を行ったりすることが可能な性質である。これに対して、真理のような非実質的性質は、世界のなかに予め存在している性質ではなく、言わば、我々が作り上げていく性質である。真理性質は、我々が、ある種の思考の一般化という論理的目的のために作り上げたものであり、同値図式の事例(9)をア・プリオリに受け入れ、「真である」という述語の用法を約定することによって、初めて存在するようになる、そうした性質である。この点で、真理性質は論理定項と同種の存在者である。論理語(「すべて」や「かつ」など)が表示する論理定項は存在しない、という考えは、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』以来、支配的な考えとなってきたが、その意味するところは、自然な世界の中に実質的な性質としては存在しない、ということである。他方、「すべて」は二階の属性の一つを表示し、「かつ」は真理関数の一つを表示する、という考えも、今日では一般的なものであるが、こうした二階の属性も真理関数も論理語の用法を支配する規約の採用によってのみ特徴付けられる性質である、と考えられている。真理性質は論理定項の一つである「論理的性質」である。真理性質は存在しない訳ではないが、かといって、通常の実質的性質ほどのリアルな在り方をしているのでもなく、たかだか論理的な性質に過ぎない−−この意味で、つまり、真理性質を無にはしないができるだけ切り詰めて収縮させていくという意味で、ホーウィッチらは自らの真理論を「デフレーション的」な真理論と称しているのである。

二 実質的真理論との対比

 真理余剰説は真理性質の存在を全く認めなかったため、それを認める実質的真理論との対立点も明白であった。しかし、デフレーション的真理論は真理性質の存在を認めるため、対立点は多少、曖昧になってきている。また、真理余剰説が考えた程、実質的真理論の主張内容は単純なものであるのか、という問題もある。つまり、真理余剰説では、実質的真理論とは「真である」という述語が実質的性質を指示していると見なす理論である、と考えられているが、この点に疑問の余地があるのである。私見では、実質的真理論には、いくつかの主張内容が混在しているように思われる。以下では、実質的真理論の主張内容を三つ取り出し、それぞれを、タイプ A、B、C の実質的真理論として分離し、その各々を別個に考察して、デフレーション的真理論との対比を試みたい。ただし、例えば、真理整合説をタイプ A、真理検証説をタイプ B、真理有用性説をタイプ C に分類する、という仕方で実質的真理論を三つのタイプに分離するのではない、ということに注意してもらいたい。真理整合説はあるシステム内での整合性を真理性質と同一視し、真理検証説は検証可能性を真理性質と同一視し、真理有用性説は行為における有用性を真理性質と同一視し、初期ムーアとラッセルの真理論はある定義不可能な単純性質を真理性質と同一視する(4)。いずれも実質的真理論だが、相互に対立する異なるタイプの真理論である。しかし、いずれの真理論をとっても、その中に異なる三つの主張を認めること(あるいは読み込むこと)が可能であり、それらをそれぞれタイプ A、B、C と分類するのである。

二・一 タイプ A の実質的真理論の場合

 実質的真理論のうち、例えば真理検証説は、自説を次のように表現するであろう。
真理余剰説は、(12)は、「真である」という述語は検証可能性という性質を指示している、ということを主張している、と解釈した。しかし、これとは全く異なる解釈を与えることも可能である。すなわち、(12)は次のような経験的仮説を主張していると解釈することも可能である。
なぜならば、第一節で見た同値図式のすべての事例(9)がア・プリオリな知識として備わっているならば、これを次のように有限の長さの文で主張することができるからである。
そして、これを普通の言い方で言い表わしたものが(12)である。以上のように解釈された限りでの実質的真理論を「タイプ A の実質的真理論」と呼ぶことにする。
 タイプ A の実質的真理論がデフレーション的真理論と何ら対立するものではないことは明らかである。タイプ A の実質的真理論の言わんとすることは(13)に尽きるのであり、デフレーション的真理論それ自体は、(13)の主張に反対すべき理由を何ら持ち合わせていないからである。さらに、タイプ A の実質的真理論とデフレーション的真理論は対立しないだけではなく、むしろ、相互に協力し合う理論である、と言うこともできる。タイプ A の実質的真理論の主張(13)は無限に複雑な構造を持ち、そのままでは表現することはできないが、デフレーション的真理論の助けを借りて、すなわち、(9)のア・プリオリ性に訴えることによって、我々の言語で表現可能になるからである。同じことだが、タイプ A の実質的真理論とデフレーション的真理論の関係を次のように述べることもできるであろう。すなわち、タイプ A の実質的真理論は、デフレーション的真理論を受け入れた上で、右の例に即して言えば、デフレーション的真理論の意味での「真である」という述語の外延は「検証可能である」という述語の外延と完全に一致する、ということを主張しているのである、と。真理述語と外延が一致する実質的な述語が存在する、という主張は、デフレーション的真理論者にとっては驚くべき主張であると思われ、彼らはそれを否定することに向かうかもしれない。しかし、それは、デフレーション的真理論とは異なる何らかの考察に基づいて(13)を拒否することによって成されねばならない。デフレーション的真理論が内的に(13)を排除するのでは決してない。また、結果的にタイプ A の実質的真理論の主張が事実として正しいことが判明すれば、デフレーション的真理論はそれを受け入れなければならない。タイプ A の実質的真理論とデフレーション的真理論は無矛盾なのである。
 かつてタルスキは、自身の意味論的真理定義の特徴を次のように解説した。
この「中立性」という特徴のゆえに、タルスキの真理定義は哲学者の間でも広く受け入れられるようになった、と推測される。タルスキの真理定義とは、対象言語(「真である」が述語付けられるべき文からなる言語)の任意の文 S に対して、「『S』が真であるのは、S であるとき、かつ、そのときに限る」が成立するように、述語「真である」をメタ言語で定義する試みである。この定義によって規定された真理概念がデフレーション的真理論のそれと同種のものであるのか否か、という問題は、ここでは問わない。ただ、タルスキの真理概念の中立性という特徴が、デフレーション的真理論にも受け継がれている、ということは指摘しておく価値があるであろう。ただし、認識論的態度に関して中立的なのではなく、タイプ A として解釈された限りでの諸実質的真理論に関して中立的となっている。右では真理検証説を例に取ったが、真理整合説、真理有用性説、初期ムーアとラッセルの真理論のいずれに対しても同様の扱いを施し、それらを(13)に類したものを主張する真理論であると解釈することが可能である。このように、タイプAの実質的真理論としての真理検証説、真理整合説、真理有用性説、初期ムーアとラッセルの真理論はいずれも、先に見たように、デフレーション的真理論と無矛盾であり、その意味で、デフレーション的真理論はこれらの真理論に関して中立的である。
 また、デフレーション的真理論は、ある意味で、「認識論的態度」に関しても中立的であるとも言い得る。それは以下のようにしてである。実在論が自説を次のように表現しているとしよう。
これは次のことを主張しているものと解される。
(16)と(9)を組み合わせることにより、次の量化文(一般化された文)が得られる。
(17)を普通の仕方で述べたものが(15)である。以上のように、実在論をタイプ A の実質的真理論の一変種と見なすことが可能である。このように解釈された限りでの実在論がデフレーション的真理論と対立するものではないことは、もはや自明であろう。次に反実在論。反実在論を実在論の否定と考えれば、それは次のように表現される。
この主張は次のように解される。
(9)を用いて(19)から次が得られる。
(20)を普通の仕方で述べた直せば(18)が得られる。このように理解すれば、反実在論もやはりタイプ A の実質的真理論の一変種となり、それがデフレーション的真理論と無矛盾であることは自明である。よって、デフレーション的真理論は、実在論対反実在論という問題に関しても中立的であると見なせるのである(6)

二・二 タイプBの実質的真理論の場合

 真理余剰説は、実質的真理論は「真である」という述語は何らかの実質的な性質を表示していると見なす学説である、と解釈したのであった。このように解釈された限りでの実質的真理論を「タイプ B の実質的真理論」と呼ぶことにする。タイプ B の実質的真理論として解釈された場合、真理整合説は整合性を、真理検証説は検証可能性を、真理有用性説は有用性を、初期ムーアとラッセルの真理論はある定義不可能な単純性質を、「真である」という述語が表示する性質であると主張していることになる。他方、デフレーション的真理論も、「真である」という述語はある性質を表示している、と主張しているのであった。したがって、タイプ B の諸実質的真理論とデフレーション的真理論は同一線上に並んでおり、ただ「真である」という述語の表示対象として候補に挙げる性質が、それぞれ異なっているだけである。そうすると、例えば、真理整合説が真理有用性説と対立するのと同様の仕方で、デフレーション的真理論は、例えば、真理検証説と対立しているのであろうか。そうではない。タイプ B の諸実質的真理論内部での相互対立とは本質的に異なる仕方で、デフレーション的真理論はタイプ B の諸実質的真理論全体に対して対立していると考えられる。この対立点は、デフレーション的真理論における「真である」という述語の表示対象としての真理性質が非実質的(非実在的、論理的)であるのに対して、タイプ B の諸実質的真理論におけるそれが実質的である、という点に求められる。
 述語「真である」の表示する性質が実質的であるということは、どのようなことなのであろうか。それは、述語「真である」の用法を次のように理解するということにほかならない。
これに対して、述語「真である」の表示する性質は非実質的であるとするデフレーション的真理論においては、述語「真である」の用法は次のように理解されている。
両者の本質的な差異は、経験 T の必要性の有無に存する。タイプ B の実質的真理論においては、文「S ということは真である」を主張するためには、文「S」を主張するのに必要な経験 E とは異なる、別種の経験 T が必要である(もちろん、経験 T の内実に関しては、諸実質的真理論相互で異なるが、以下ではこの違いは無視することにする)。他方、デフレーション的真理論においては、規約(9)がア・プリオリに受け入れられていることによって、経験 E が与えられれば、文「S ということは真である」を主張することも可能になり、別種の経験 T というものは必要ない。このように、経験 T の必要性/不必要性が、タイプ B の実質的真理論とデフレーション的真理論の真の対立点を構成しているのである。
 対立点は以上のように明らかになったので、次に、この対立点をめぐって両者でどのような論争が成され得るのか、という問題を検討したい。
 デフレーション的真理論は、タイプ B の実質的真理論のように述語「真である」を理解すると、述語「真である」を一般化を行うための道具として使用することが不可能になる、と批判することになると思われる。例えば、我々がある経験を得ることによって「光速は一定だ」という文を主張する立場に到ったとする。しかし、タイプ B の実質的真理論にしたがえば、この経験だけでは、「光速は一定だということは真である」という文を主張する立場には、まだ到っていない。これを主張するためには、さらに別の経験が必要である。また、その経験の内容によっては、「光速は一定だということは真である」という文を拒否することになる可能性さえある。よって、タイプ B の実質的真理論では、「光速は一定だということが真であるのは、光速は一定であるとき、かつ、そのときに限る」という同値図式の事例が正しいことを我々はア・プリオリに知っている、ということには到底ならない。また、経験によって文「S」と文「S ということは真である」が同値であることを一つ一つ確かめ、幸運にも反例が存在しないことを一つ一つ確認していくことは可能かもしれないが、無限個のすべての事例を確かめることは明らかに不可能である。したがって、同値図式の事例(9)の正しいことがア・プリオリには知られず、ア・ポステリオリに知ることも事実として不可能であるため、第一節で見たような一般化を行うための道具として「真である」という述語を用いることはできないことになる。(9)の無限個の同値式は経験的帰納的仮説として受け入れられているのだ、とすれば、述語「真である」が一般化の道具として機能するように思えるかもしれないが、我々がそうした仮説を受け入れているということは、およそありそうにもないことだと思われる。また、経験的帰納的仮説として(9)を用いて第一節の(5)から(8)への変形を行っているのだとすれば、(8)は(5)の内容を演繹的に言い換えたことにはならない。結局、述語「真である」は一般化の道具としては機能していないのである。このようにデフレーション的真理論はタイプ B の実質的真理論を批判するであろう。
 以上のようなデフレーション的真理論の批判に対して、タイプ B の実質的真理論はどのように答えることができるであろうか。タイプ B の実質的真理論の真理述語では一般化は行い得ない、という論点は認めざるを得ない。そこで、まず最初に思いつかれる答は、我々は真理述語によって一般化など行っていない、というものである。しかしながら、この答に固執することは不可能ではないかもしれないが、デフレーション的真理論が、第一節で見たように、一般化が行われている例を鮮やかに示した以上、この答はあまり有望なものとは思われない。真理述語による一般化が行われている/行われていない、という論点にデフレーション的真理論とタイプ B の実質的真理論の論争を帰着させるこの答は、タイプ B の実質的真理論にとっては好ましくないであろう。次に思いつかれる答は、真理述語は、一般化を行うためにも使われるが、実質的性質を表示するためにも使われる、というものである。なるほど、我々の言語には「真である」というただ一つの述語しか存在しないが、あるときには一般化を行うための論理的性質としての真理性質を表わすために述語「真である」を使い(すなわち、右の(22)のプロセスにしたがって真理述語を使い)、またあるときには、ある種の経験にかかる実質的性質としての真理性質を表わすために、同じ述語を使っている(すなわち、右の(21)のプロセスにしたがって真理述語を使っている)。結局、我々の言語における「真である」という述語は二義的なのである。以上のように答えれば、デフレーション的真理論の批判を完全に回避することができる。また、真理述語が二義的であることを認めることは、真理述語による一般化を認めないことと比べて、より維持しやすい立場である。述語「真である」は実質的性質を表示するために使われている、ということを否定することは、述語「真である」は一般化のための道具として使われている、ということを否定することと同様、困難であろう。
 デフレーション的真理論とタイプ B の実質的真理論の論争を、真理述語の一義性/二義性に帰着させる、この第二の答は、それ自体としては哲学的にあまり魅力的なものとは言えないかもしれない。しかし、この答の背景にある次の二つの点には注意しておくべきであろう。
 まず、デフレーション的真理論の側で注意すべきなのは、以下の点である。デフレーション的真理論は、同値図式の事例(9)がア・プリオリに成立することを、「あらゆる」真理論が満たさねばならないミニマムな条件である、と考えている。よって、実質的真理論が存立するとすれば、それは、このミニマムな条件を保存した上で存立していなければならない、ということが要求されることになる。同じことだが、ホーウィッチは、実質的真理論があり得るとしたら、それは、同値図式の事例(9)のア・プリオリ性によって規定されている真理性質(論理的性質としての真理性質)を自然科学的に分析することによって、それをより単純な実質的性質へと還元し、論理的性質としての真理性質の自然科学的下部構造を解明するような理論であらねばならない、と考えている([3]、14節参照)。還元的分析の結果得られた実質的性質は、論理的性質としての真理性質を構成しているものであるはずだから、論理的性質としての真理性質の振舞いは、分析の結果得られた実質的性質の振舞いから説明されるはずである。ところが、論理的性質としての真理性質の振舞いは、一般化を可能にするという論理的な振舞いである以上、いかなる実質的性質であれ、それを説明するということは原理上できない相談である(論理的性質に基づくア・プリオリな真理、すなわち、同値図式の事例(9)を、実質的性質の持つア・ポステリオリな真理から説明することはできない)。よって実質的真理論の試みは、試みてみるまでもなく、挫折することが始めから明らかである。これがデフレーション的真理論による批判の根底にある考え方である。しかし、同値図式の事例(9)のア・プリオリ性を絶対必要な最低条件として要求することは、タイプ B の実質的真理論に対する不当な要求である。タイプ B の実質的真理論は、むしろ最初から同値図式の事例(9)のア・プリオリ性から解放された「実質的」真理性質探究の試みであることを、デフレーション的真理論は認めるべきであろう。
 タイプ B の実質的真理論の側で注意すべきことは、右に述べたことと本質的には同じことだが、以下の点である。タルスキの真理定義の影響が大きかったこともあって、これまで、実質的真理論もデフレーション的真理論を完全には否定できなかったように思われる。その結果、同値図式の事例(9)には「敬意を払う」という言い方がされることも、時折、見かけられる。実質的真理論は同値図式の事例(9)と両立する、という考えに基づいて、そのような言い方がなされるのであろう。しかし、デフレーション的真理論は(二・一節で見たように)タイプ A の実質的真理論とは両立可能だが、タイプ B の実質的真理論とは両立不可能である(真理述語の二義性という観点を導入して調停を図らない限り)。デフレーション的真理論では同値図式の事例(9)が「ア・プリオリ」である、という点に気がつけば、このことは即座に理解されるはずである。タイプ B の実質的真理論では、同値図式の事例は、真であるにしても高々ア・ポステリオリに真であるに過ぎず、いくつかは偽であることさえあり得る。タイプ B の実質的真理論は、このことを明瞭に自覚し、実質的真理性質と非実質的(論理的)真理性質が本質的に相容れない異質な二つの性質であることを理解し、よって、タルスキ以来の強迫観念から自由になるべきであろう。

二・三 タイプCの実質的真理論の場合

 最後に検討したい「タイプ C の実質的真理論」は、「真である」という述語の使用においてではなく、言語使用一般において実質的真理性質が関わってくる、という学説である。すなわち、タイプ C の実質的真理論は、我々の認識と言語使用一般は以下のようなプロセスになっていると考える。
例えば、まず、光速は一定だという命題を把握し、次に、どのような時にそれが真であるのかということを把握し、その上で、そこで特定されていることを経験することによって、「光速は一定だ」という文を主張するに到る、というのが、認識と言語使用のプロセス(23)の具体的な在り方である。二・二節で見た(21)との違いは、「光速は一定だ」という文を主張する際にも真理性質が関わっていることに存する。
 タイプ C の実質的真理論は、このように、認識一般とは何かが真であることの認識である、という見解に立った理論である。こうした見解は、現在では見かけることが少ないが、哲学史上では、例えば、フレーゲがまさに、こうした見解を取っていた。彼は、認識とは、例えば、光速は一定だという命題(彼の言葉では思想)から真理値への前進であり、この真理値への前進が、「光速は一定だということは真である」という文ではなく、「光速は一定だ」という文の主張によって表現される、と考えていた([2]、34頁)。また、初期のラッセルは、命題をバラの花に、真偽をバラの花の色に、それぞれ喩え、我々は、あるバラが赤色であることを知覚するように、ある命題が真であることを認識するのである、と考えていた([6]、75頁)。このような見方を取る限り、実質的性質としての真理性質の存在を認め、認識と言語使用一般のプロセスを(23)のように理解し、よって、タイプ C の実質的真理論を取ることは、ごく自然であるように思われる。
 では、デフレーション的真理論とタイプ C の実質的真理論は、どのような関係に立つのであろうか。一見すると両者は何ら対立していないように思われる。というのも、タイプ C の実質的真理論は「真である」という述語の用法に関しては何も述べていないからである。対立していないだけでなく、むしろ、相互に補い合うものであると見なすことも可能である。なぜなら、デフレーション的真理論は「・・・ということは真である」という特殊な種類の文の用法について述べており、タイプ C の実質的真理論は、その種の文を除いた文の用法について述べていると考えられるからである。したがって、両理論を合わせることによって、言語使用に関するより包括的なプロセスが次のように得られる。
ただし、このような仕方で言語の中に導入された述語「真である」が表示している対象は、あくまでデフレーション的真理論の言う論理的性質としての真理性質であって、(b)の段階で問題になっている実質的性質としての真理性質ではない、ということに注意すべきである。タイプCの実質的真理論の考えでは、実質的真理性質は言語の中に対応する述語を持っていないのである。
 以上のように、表面的には、デフレーション的真理論とタイプCの実質的真理論は対立しないが、実際は、深層部において対立することになる。デフレーション的真理論は、文「S ということは真である」の用法を説明する際に、必然的に、文「S」の用法に言及せざるを得ない。文「S」が主張されるのと同一の状況において文「S ということは真である」は主張される、というのがデフレーション的真理論の核心だからである。したがって、文「S」の使用プロセスに関する説明がなければ、理論として不完全である。実際、デフレーション的真理論はその説明を与えている。それは常識的なものであり、二・二節の(22)で既に与えておいたが、文「S」の部分だけ抜き出せば、次のようになる。
タイプ C の実質的真理論のプロセス(23)では、文「S」の使用に真理性質が関わってくるとされている。他方、デフレーション的真理論のプロセス(25)によると、真理性質は関わってこない。この点に両真理論の対立点は帰着するのである。この対立点をめぐって両者にどのような言い分があるのかを、最後に検討しておきたい。
 文「S」を主張するために必要な経験とはどのようなものであろうか。例えば、文「光速は一定だ」を主張するために必要とされている経験が何であるのかを我々の言語で完全に述べようとすれば、「光速は一定だということの経験」と言うしかないかもしれない。しかし、ここで使われている「光速」および「一定」という言葉が表示している対象、性質だけが当の経験において関わっているのだ、と見なすことは明らかに間違っていると思われる。「光速は一定だ」というような単純な文においても、それを主張するために必要とされている経験は、他の多くの対象、性質、関係などを巻き込んだ、非常に複雑なものであることは明らかであろう。したがって、そこに真理性質が関わっていると見なすタイプ C の実質的真理論の主張が成立する余地は十分にある。他方、同様に、そこに真理性質は関わっていないと見なすデフレーション的真理論の主張も十分可能である。両者の主張は共に可能性としては認められる。
 しかし、タイプ C の実質的真理論は、真理性質という存在者をことさら導入しているのであるから、オッカムの剃刀の原理を適用すれば、真理性質をなしで済ませているデフレーション的真理論の方が正しい見解ということになるかもしれない。よって、タイプ C の実質的真理論の側に、なぜ真理性質を導入する必要があるのか、を説明する義務が生じる。タイプ C の実質的真理論の説明は次のようなものになるであろう――ある命題を把握し、その命題に文「S」を結び付けただけでは、文「S」の主張の傾向性を獲得し、文「S」を主張する準備が整ったことにはならない。そこにはギャップがあり、傾向性を獲得するためには何らかの概念が介在しているはずである。個々の命題間の差異は命題を把握する際に把握されているであろうから、この概念はあらゆる主張に共通な一個の概念であると思われる。これが真理性質である――。デフレーション的真理論はこの一見もっともな説明を根底から否定する――ある命題を把握し、その命題に文「S」を結び付けるということは、文「S」を主張する傾向性を獲得することに他ならないのであって、そこにはギャップなど存在しない。それゆえ、命題が真であることを把握するというステップを導入する動機がなくなり、よって当然、真理性質という存在者を導入する必要もなくなる――。文「S」に結び付けられた命題の把握を文「S」の意味の理解、文「S」を主張する傾向性の獲得を文「S」の使用規則の理解、と考えて事態を捉え直せば、次のように言えるであろう。タイプ C の実質的真理論は、文の意味理解と使用規則の理解は独立しており、内的連関は存在しないと考える。つまり、文「S」の意味を完全に理解していながら、どのようにして文「S」を使用して良いのか全く理解していない、ということが十分考えられるのである。かくして、文の意味理解から使用規則の理解へと移行していくためには、真理性質が不可欠な媒介者として要請されることになる。他方、デフレーション的真理論では、文の意味理解がすなわち使用規則の理解であり、よって、媒介者としての真理性質を要請する必要はない(7)
 意味理解と使用規則の理解の独立性/同一性という対立点をめぐって、形勢が不利なのはタイプ C の実質的真理論の方である。タイプ C の実質的真理論の考え方では、文「S」の意味(命題)の真理性の把握が文「S」の主張の傾向性の獲得に存するのであって、文「S」の意味自体の把握が文「S」の主張の傾向性の獲得に存するのではない。それでは、文「S」の意味の把握とはいったい何に存するのか。この問いに答えて、先のプロセス(23)で命題の把握(a)を独立のステップとして立てたことを正当化することが、タイプ C の実質的真理論を維持するためには必要である。即座に思い付かれる答は、文の意味の理解とは構文論の理解である、というものであろう。すなわち、文が与えられたときに、それが文法に合致した文であるか否かを答えられる傾向性を獲得することが、文の意味を理解することである、というものである。これならば、確かに、文の意味理解と使用規則の理解(主張の規則の理解)の間に明瞭な区別をつけることができる。しかし、これは、あまり説得的な答とは思えない。意味・命題の理解のためには何らかの自然的な経験が必要であると思われるのに対して、文法の理解にはそれが必要ないからである――。もちろん、文の意味すなわち命題は、我々の精神から独立した存在者として頑として存在するのであり、我々はそれを何らかの能力によって把握するのである、とあくまで主張し、それだけに留まることもできよう。実際、実質的真理論者としてのフレーゲや初期のラッセルは、この立場に留まっているだけで、それ以上のことは述べていない。しかし、言語論的転回を遂げた後の我々にとっては、この立場は不満足なものである。意味・命題の把握という独立したステップは、我々の言語活動においてどのように示されているのか。この問いに対する答が、我々にとっては必要である。この問いに答えることは困難であろうが、もしも言語論的転回後の我々にとっても満足行く答が得られないならば、タイプ C の実質的真理論を擁護することは不可能であり、デフレーション的真理論に屈することは、不可避であるように思われる(8)



(1)引用は論文末の文献表により、文献番号の後に頁数を付す。

(2)ホーウィッチはデフレーション的真理論の自身のバージョンを「最小理論(the minimal theory)」と呼んでいる。

(3)したがって、真理余剰説の基本的アイディアは、既に見たような単なる改変を受けるだけではなく、否定されることになる。なぜなら、デフレーション的真理論の考え方によれば、文「Sということは真である」の意味の構成要素には真理性質が含まれているのに対して、文「S」の意味の構成要素には真理性質が含まれておらず、よって、両者の意味は明らかに同じではないからである。つまり、文「Sということは真である」は一般化を許す性質をその意味として有しているのに対し、文「S」はそれを意味として有していないのである。

(4)最後の真理論に関しては、拙論「ラッセルの最初の真理論」(1997)を参照されたい。

(5)ここでの「検証可能性」は、「現実世界ないし可能な世界のどこかにおいて検証される」という原理的検証可能性の意味で使われているのではなく、「現実世界の過去、現在、未来のどこかで検証される」という意味で使われている。

(6)第一節において、デフレーション的真理論の真理性質は非実在的性質であると特徴付けられた。しかし、真理性質が非実在的であること(真理性質は我々が作り上げた性質であるということ)は、ここでの実在論(真理、すなわち、真理性質を有する命題、は我々の検証から独立しているという立場)に対立するものではないし、反実在論(真理は我々の検証に依存しているという立場)を含意する訳でもない、ということに注意されたい。

(7)意味理解を使用規則の理解と同一視する「意味使用説(the use theory of meaning)」は、ホーウィッチの『真理』においてもデフレーション的真理論の基礎として述べられていたが、彼の『意味 Meaning』(1998)において主題的に論じられようになった。なお、タイプCの実質的真理論は、意味使用説と対立するだけではなく、いわゆる真理条件意味論とも対立することに注意されたい。真理条件意味論は、意味理解と真理条件の理解を同一視するが、タイプCの実質的真理論はこの同一視を認めないからである。タイプCの実質的真理論とは、赤/白がバラの本質に属していないのと同様に、真/偽や主張/拒否といった二極性は意味の本質に属していない、とする学説である。

(8)本論文の初期草稿は、筑波大学哲学・思想学会第20回大会(1999年10月23日、筑波大学)において読み上げられた。その席で有益なコメントを寄せて下さった方々に感謝します。

文献

[1] Ayer, A. J. Language, Truth and Logic, London: Gollancz, 1936. 2nd ed., 1946. References to the latter.
[2] Frege, G. “Uber Sinn und Bedeutung”, Zeitschrift fur Philosophie und philosophische Kritik 100(1892), S. 25-50.
[3] Horwich, P. Truth, Oxford: Blackwell, 1990. 2nd ed., Oxford: Oxford University Press, 1998. References to the latter.
[4] Horwich, P. Meaning, Oxford: Oxford University Press, 1998.
[5] Ramsey, F. P. “Facts and Propositions”, Aristotelian Society Supplementary Volume 7 (1927), pp. 153-170. Repr. in his Philosophical Papers, ed. by D. H. Mellor, Cambridge: Cambridge University Press, 1990, pp. 34-51. References to the latter.
[6] Russell, B. “Meinong’s Theory of Complexes and Assumptions”, Mind 13(1904), pp. 204-219; 336-354; 509-524. Repr. in his Essays in Analysis, ed. by D. Lackey, London: George Allen and Unwin, 1973, pp. 21-76. References to the latter.
[7] Tarski, A. “The Semantic Conception of Truth and the Foundations of Semantics”, Philosophy and Phenomenological Research 4 (1944), pp. 341-376. Repr. in Linsky, L. (ed.) Semantics and the Philosophy of Language, Urbana: University of Illinois Press, 1970, pp. 13-47. References to the latter.
[8] 橋本康二、「ラッセルの最初の真理論」、『哲学論叢』24号、1997年、64-75頁。


The Deflationary Theory of Truth and the Substantial Theory of Truth

Kouji HASHIMOTO


The purpose of the present paper is to examine the relationship between the deflationary theory of truth and the substantial theory of truth. In the first section, I give an outline of the deflationary theory of truth, which is advanced by Paul Horwich in his Truth (1990), through comparing it with the redundancy theory of truth. In the second section, I point out that the substantial theory of truth has the following three forms which should be distinguished from one another as separate doctrines. The first form of the substantial theory of truth claims that any true proposition has a substantial property, for example, usefulness. The second form of the substantial theory of truth claims that the predicate “is true” stands for a substantial property. And the third form of the substantial theory of truth claims that when we assert, for example, “Snow is white”, we speak of a proposition (i. e. the proposition that snow is white) that it possesses a substantial property. Then I investigate whether or not the substantial theory of truth in each form is compatible with the deflationary theory of truth. My conclusion is as follows. The first form is completely compatible with the deflationary theory of truth because it says only that the predicate “is true” in the deflationist’s sense is coextensive with the predicate, say, “is useful”. The second form is incompatible with the deflationary theory of truth because the latter claims that the predicate “is true” stands for an insubstantial, unreal, logical property. The third form seems to be compatible with the deflationary theory of truth, but they are in fact incompatible with one another because the deflationary theory of truth as a theory of meaning claims that we can assert “Snow is white” without experiencing any substantial property such as usefulness.