論理的帰結関係と真理概念
 ── タルスキを基礎にした言語哲学的諸問題の研究 ──

橋本康二





   目次

緒言
第一章 論理的帰結関係
   1 序
   2 タルスキによる論理的帰結関係の定義(1) ── 定義の背景
   3 タルスキによる論理的帰結関係の定義(2) ── 定義の構成
   4 エチメンディのタルスキ批判(1) ── 必然性をめぐって
   5 エチメンディのタルスキ批判(2) ── 形式性をめぐって
   6 論理的帰結関係を定義するための可能な方法
第二章 真理概念
   1 序
   2 真理についてのタルスキの議論
    2.1 タルスキによる真理述語の定義
    2.2 タルスキの真理論
   3 タルスキの真理論と真理の対応説との関係
    3.1 平易な形の対応説
    3.2 洗練された対応説
    3.3 物理主義的対応説
    3.4 対応説の本質
   4 タルスキの真理論と真理のミニマル説との関係
    4.1 T 型同値文と古典的真理概念
    4.2 真理の T 型同値文説
    4.3 ミニマル説
    4.4 T 型同値文説とミニマル説
   5 結論
結語

文献


緒言

 論理と真理という言語哲学上の二つの問題を検討することが、この論文の目的である。「論理とは何か」、「真理とは何か」という二つの問題は、フレーゲ、ラッセル、ヴィトゲンシュタインらによって創始された現代の言語哲学にのみ固有の問題なのではなく、哲学の歴史において繰り返し論じられてきた問題でもある。
 前者の論理の問題は、論理的命題と事実的命題の区別という認識論の文脈で扱われてきた。論理についての伝統的な見解は、『純粋理性批判』におけるカントの分析的判断の特徴付けに見られるような、主語概念の内に述語概念が含まれているものが論理的命題である、というものであった。この特徴付けは、主語−述語形式を有した命題にしか適用できないという制約を持っている。この制約から解放された特徴付けを与えたのが(カントより時代は前であるが)ヒュームである。ヒュームは命題の一般形式を諸観念間に成立する関係として捉えているので、最初から伝統的論理学の束縛(主語−述語形式)を断ち切っていた。『人間本性論』におけるヒュームの特徴付けは、関係が諸観念に含まれている(関係が諸観念に対して内的である)ものが論理的命題である、というものであった。またヒュームは、観念間における内的関係の成立を、その否定を思考することが不可能である、とも特徴付けている。
 しかし、伝統的見解にしてもヒュームの見解にしても、明晰なものとは言い難い。「含まれる」、「否定の思考可能性」という曖昧な概念を使用しているからである。これに対して、言語哲学の創始者達は、いかなる特徴付けを与えたのであろうか。『算術の基礎』においてフレーゲは、定義と一般的論理法則から証明される命題として論理的命題(分析命題)を規定した。この規定は一般に次のように理解された。すなわち、公理に論理法則を適用して演繹されたものが論理的命題である、と。このような形で理解されたフレーゲによる特徴付けは、今日の論理学では論理的命題に対する一つの標準的特徴付け(構文論的、ないし、証明論的特徴付け)として受け入れられている。「含まれる」、「否定の思考可能性」のような適用条件がきわめて曖昧な概念を使用していない点が、この特徴付けの利点である。しかし、公理や論理法則はなぜ論理的と見なせるのか、という根本的問題は放置されたままである。この問題に対して、初期のラッセルは、特定の物に言及しない一般的な命題が論理的命題であると考えたが、それを十分な形に定式化することはできなかった。他方、『論理哲学論考』におけるヴィトゲンシュタインは、原子命題のおのおのは真・偽の二極を取り得るということに着目し、この可能性をすべて尽くしている(したがって真にしかなりえない)複合命題が論理的命題であると考え、それを「トートロジー」と呼んだ。このトートロジーによる特徴付けは、その命題論理の部分に関してのみ、今日の論理学において論理的命題に対する一つの標準的特徴付け(モデル論的特徴付け)として限定的に受け入れられている。そして、述語論理に拡張された論理的命題のモデル論的特徴付けとして、今日の論理学が一般的に採用しているのが、タルスキの与えた特徴付けである。ゲーデルの完全性定理までを扱っているほとんどの論理学の教科書では、このタルスキによる論理的命題の特徴付けを基にしたものが採用されている(そこでは、論理的命題は「妥当」な命題と呼ばれるのが普通であり、命題論理の妥当な命題に限って「トートロジー」と呼ばれることもある)。
 第二の真理の問題は、哲学の伝統では存在論との関係で特に論じられてきた。誰よりも実在論者が真理の対応説を擁護し、観念論者は、例えば、真理の整合説を主張する、という構図が認められる。言語哲学の創始者は真理の問題についてどのような貢献をなしたのであろうか。彼らはいずれも実在論者であり、ラッセルは、論文「真理と虚偽の本性について」などで、ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で、それぞれの真理対応説を展開した(ただしフレーゲは対応説を批判し、採用しなかった)。観念と存在との一致(ヒューム)、認識と対象との一致(カント)、という素朴な形の真理対応説に対して、ラッセルとヴィトゲンシュタインは、より精密な定式化を与えたと言えるであろう。しかし、誰もがそれを受け入れるほど、精密で納得ゆくものというわけではなかった。技術的な点について言えば、ラッセルの対応説は「aRb」という形式をした命題(信念)の真偽しか説明できず、多様な形式を有する命題一般に拡張することができない。ヴィトゲンシュタインの対応説に至っては、具体的な命題(文)に対する真偽の説明は、何一つ与えられていない。さらに、より本質的な点について言えば、彼らの真理論は、結局、「対応」という形而上学的概念を使用した、形而上学の理論である。ヴィトゲンシュタインは、この対応関係は言語によっては語りえない、とまで述べた。これでは、形而上学に与することを潔しとしない者は、彼らの真理論を受け入れることはできない。事実、今日の論理学のどの教科書を開いても、彼らの真理対応説は採用されていないし、紹介さえされていない。
 こうした状況を打開したのがタルスキの真理論であった。彼は、形而上学的概念を使用することなく、真理概念を定義することに成功したからである。論理学に形而上学を引き入れることを嫌っていた者は、直ちにこれを受け入れた。ほとんどの論理学の教科書においてこのタルスキの真理定義が採用され解説されている、と言うことはできないが、ゲーデルの不完全性定理を扱い、その系として真理定義不可能性の定理を解説している場合は、(少なくとも暗黙のうちに)タルスキの真理論が採用されている。
 論理と真理の問題の哲学史における流れを以上のように見る立場も可能であろう。この見方によるならば、「論理とは何か」、「真理とは何か」という二つの伝統的な哲学の問題は、言語哲学の誕生以前の原始的な理論から、言語哲学の創始者のいくらか明晰な理論を経て、最終的にタルスキの厳密で完全に明晰な理論によって解決された、ということになる。そして、タルスキのこの不朽の業績は現代の論理学の教科書に結晶している、ということになろう。
 もちろん、現代の言語哲学の研究に従事している者で、以上のような見方をはっきりと取る者は少数であろう。タルスキの理論によっては、論理の問題も真理の問題も完全には解決されていないと、多くの研究者は少なくとも漠然と考えているものと思われる。本論文の基本的立場も、上に見たタルスキの成功物語を疑問視するものである。
 「論理とは何か」、「真理とは何か」という問題を検討するにあたって、タルスキの理論をまったく無視して論を進めて行くことも可能かもしれない。しかし、本論文では、タルスキが到達した理論を基礎にして、それを吟味、批判することによって、論理と真理の問題を検討して行きたい。第一章「論理的帰結関係」では、エチメンディの議論の助けを借りて、論理に対するタルスキの理論が間違っており、したがって成功していないことを論じ、それに代わりうる理論の可能性について考察する。第二章「真理概念」での議論は、もっぱらタルスキの真理論の解釈にあてられ、タルスキの真理論が間違っているという帰結は引き出されない。しかしながら、タルスキの真理論が形而上学からは解放されていないことが示唆される。したがって、この示唆が正しければ、タルスキの成功物語を信じている(形而上学の概念を論理に引き入れたくない)者があらためてタルスキの真理論を見るならば、タルスキの真理論を全面的に受け入れることはもはやできなくなるであろう。

 本論文の第一章「論理的帰結関係」は、「論理的帰結関係をどう定義するか」という題で、1993年1月に京都大学大学院文学研究科に博士後期課程第三学年度の研究報告として提出され、後に同じ題で『哲学研究』560号(1994年)に掲載された論文に、若干の修正を加えたものである。この部分の初期草稿を綿密に検討され、貴重な示唆を与えて下さったことに対して、木曽好能、伊藤邦武の両先生に感謝します。第二章「真理概念」の研究執筆は、米国マサチューセッツ工科大学言語学・哲学科博士課程への留学中に行われた。この留学研究は、フルブライト委員会およびマサチューセッツ工科大学からの奨学金によって援助された。また、タルスキの真理論についての私の以前の研究(「物理主義的真理論とは何か ── フィールドのタルスキ批判をめぐって ──」、『哲学論叢』19号、1992年、の英訳)に注目し、さらに真理論の研究を続けるように私を励まして下さったことに対して、ネッド・ブロック教授、ジョージ・ブーロス教授、ポール・ホーウィッチ教授に感謝します。最後に、日本語ワードプロセッサーを貸与して下さったことに対して、五歩一寿子氏に感謝します。


第一章 論理的帰結関係

1 序

 「論理的」とはどういうことかを考えるとき、モデル理論の考え方に沿って考えようとすることが、我々にはしばしばある。例えば、ある複雑な文が論理的に真であるか否かを問われると、我々は真理値表と呼ばれるものを描いてみて、その文を構成している要素文に対するすべての真理値配分において元の文が真になっていることを確認すれば、その文は論理的に真であると判定する。また、ある文集合からある文が論理的に帰結するか否かを考えるときも、前者のすべての文を真にするすべての真理値配分において、後者もまた真であることを確認して、確かに論理的な帰結関係になっていると判断する。こうした傾向は、良く知られたゲーデルの完全性定理と不完全性定理における「完全」という言葉によって、我々が一般に理解していることのうちにも窺うことができる。そこでは、ある公理系における定理の全体が、モデル理論によって論理的に真であると認められた文の全体と一致するということが、その公理系において使われている論理が完全であることの証拠である、と理解されているように思われる。あたかも、モデル理論が論理的であることの範型を与えているかのごとくに。
 このように、我々にとって常識的な考えとなったモデル理論、特に、そこで定義される「論理的帰結関係(logical consequence)」および「論理的真理性(logical truth)」の概念の定式化を初めて与えたのが、ポーランドの数学者、アルフレッド・タルスキである(1)。それ以降、モデル理論は、数学基礎論の一分野として活発な研究対象となり、また、自然言語の意味論を構成するための強力な道具を提供するものとして、言語学者、哲学者にとっても学ぶべき重要な分野となってきた。ところが、この後者、すなわち自然言語の意味論を研究している哲学者の一人、ジョン・エチメンディが、80年代の初め頃から、タルスキのモデル理論、特に、タルスキによる論理的帰結関係の定義に対して批判を行うようになった。彼の基本的な主張は、論理的帰結関係に対するタルスキ流のモデル論的定義は間違っている、というものである。論理についての我々の常識が批判されているのだと言えよう。
 この章では、まず、そもそもタルスキによる定義が「正しい」とか「間違っている」などと評価され得るとはどういうことであるのかを、論理的帰結関係の定義についてのタルスキの考えを調査することによって、明らかにする。次に、上述のエチメンディによるタルスキ批判を検討し、彼の批判が、単に技術的なタルスキ批判にとどまらず、論理的帰結関係を定義しようとするあらゆる試みに対して一つの難問を突き付けるものであることを指摘する。最後に、この難問を潜り抜けて、論理的帰結関係を新たに獲得する可能性について論じてみたい。


2 タルスキによる論理的帰結関係の定義(1) ── 定義の背景

 タルスキは、「真理(truth)」、「論理的帰結関係」、「論理的概念(logical notion)」など問題の多い概念を定義するに当たって、「定義」についての一般的な考察を行っている。彼は定義を次のような三種類に分類する(2)。第一の種類の定義は定義される語の我々による通常の用法と一致することを目指したものであり、その語によって通常意味されているものの分析を試みる。この場合、定義が正しいものであるか否かが当然問題にされ得る。第二の種類は、現実の用法とは独立にある語の使用の仕方を提案する規範的な定義であり、この場合、定義の正しさを問題にすることはできず、有用性の観点からのみ評価されることになる。第三種は、語の本来の意味、語の背後にある言わばプラトン的イデアのようなものを捉えようとする定義である。
 第三種の定義に関しては、「論理的概念」の定義がこの種の定義になることをタルスキは明確に拒否しているが、この方針は、「真理」の定義においても守られていると思われる。というのは、この定義の拒否は、定義項に未定義の形而上学的概念などを導入することによって、定義自体を曖昧で不明瞭なものにし、厳密性を失わせることを避けることを表明しているとみなせるからである。実際、「真理」の定義において、タルスキは、真理概念を論理学、証明論および対象言語に含まれている理論(数学、物理学など)の概念に還元し、真理に関する形而上学的思弁などの特別な理論が入り込む余地を排除した(3)。「正確な方法」で提示しようとしている論理的帰結関係の定義においても、当然この方針は前提されていると考えても良いであろう。第三の種類の定義ではないこと、すなわち、既に十分に定義されている概念のみが使用された定義であることを、この章では、定義に対する「科学性の条件」と呼ぶことにし、この条件を満たす定義を「十分な定義」、満たさない定義を「不十分な定義」と呼ぶことにしよう。タルスキの論理的帰結関係の定義は、十分な定義を目指したものである。
 第一種と第二種の定義については、タルスキの態度は若干込み入っている。「真理」と「論理的概念」の定義においては、基本的には規範的定義であるが、両定義が混じり合ったものであり、通常の用法との一致も目指した定義であると考えられている。こうした考えにならざるを得ないのは、「真理」や「論理的概念」が通常は幾つかの異なった意味をもって用いられているという事情に起因する。これらの内のどれを選択して定義を与えるかは、多分に恣意的な問題であり、正しいとか間違っているとかは言えないであろう。例えば、「真理」の定義においてタルスキは、多数の人に使われている用法であるということを選択の基準にしているように思われるが(4)、この選択は圧倒的に有用であっても、正しいと言うには問題がある。従って、原理的には、規範的定義しか与えられないのである。しかしながら、或る一つの用法の選択が成された場合、実際に構成された定義がこの用法と一致しているか、この用法の意味を捉えているか、ということを問うことができ、定義が正しいか間違っているかという問題が生じる。このように、通常の用法の中のある一つの(おそらくは支配的な)用法と一致していることを、定義に課された「実質適合性の条件」と呼ぶことにする。この条件を満たす定義を「正しい定義」、満たさない定義を「間違った定義」と呼ぶことにしよう。タルスキの論理的帰結関係概念に対する定義がこの意味での正しい定義を目指したものであることは、彼が「この概念の正確な定義はすべて、多かれ少なかれ任意的な側面を示すだろうという事実を、我々は最初から認めねばならない」(5)と述べた後で、「通常の概念と本質的に近い、本来の帰結概念を得る」(6)ことを試みていることから明らかである。
 実質適合性の条件の具体的な内容は、定義される概念の種類に応じて変わってくる。論理的帰結関係の場合に、定義が一致すべき用法をタルスキが何であると考えていたのかは、論理的帰結関係の「構造的定義(structural definition)」(7)に対してタルスキが与えた批判の中にみることができる。
 文の集合 K と文 X の対<K, X>によって推論を表記し、文 X と文集合 K が論理的帰結関係に立っているとき、推論<K, X>は「論理的推論」であると呼ぶことにする。構造的定義は、推論を純粋に単なる形としての記号の列として眺め、その記号列が有する特定の構造的特徴を取り上げて、この特徴を有することをもって推論が論理的であることの必要十分条件であると定義する。具体的には、記号の構造に関する操作である推論規則を幾つか特定し、「文集合 K に対してこの操作を有限回ほどこすことによって文 X が得られる(演繹される)ときまたそのときに限り推論<K, X>は論理的である」と定義することになる。しかしながらこの定義によっては、通常は論理的推論であると見なされているものの全体を覆うことはできない、というのが批判の内容である。次のような文集合 a と文 A を考えてみよう。

ある初等的な理論(8)では、文集合 a に属するすべての文はその理論の公理から通常の推論規則によって演繹されるのに対して、文 A は演繹され得ない、という事態が生じる。このことは、推論<a, A>は構造的定義によると論理的推論ではない、ということを意味している。ところが、タルスキに従うと、通常の用法では推論<a, A>は論理的推論であると認められている。ゆえに、構造的定義は、通常の用法の全体を尽くしてはいない。しかし、この失敗は、最初の理論で用いられている推論規則の貧弱さに由来しているようにも思われる。文集合 a から文 A の証明を可能にするような新しい推論規則を付け加えて、もとの理論を拡張すれば、構造的定義によっても推論<a, A>は論理的推論であると判定される。上とおなじような失敗例が拡張された理論においても発見された場合は、そのつど次々に新しい推論規則を付加していけば良い。こうして最終的には、通常の用法で論理的推論であると認められているものと、構造的定義が論理的推論であると規定するものとの間には、完全な外延上の一致が成立することを期待することができる。しかしながら、この期待は叶わぬものであることを、タルスキはゲーデルの不完全性定理を援用して主張する。
構造的定義と通常の用法との間には、どうしても外延上の不一致が付きまとうのである。
 推論<a, A>のような推論が通常の用法では論理的であると見なされるのは何故であろうか。タルスキが、通常の用法における論理的推論によって直観的に意味されている特徴である、と考えている内容は概ね以下のようにまとめられる(10)
従って、論理的帰結関係の定義が実質適合性条件を満たすためには、その定義によって論理的であると判定される推論の全体が、様相的特徴と形式的特徴を合わせ持つ(11)推論の全体と一致しなければならない。構造的定義はこの一致を達成していないので、実質適合性条件を満たさない間違った定義なのである。
 タルスキは実質適合性条件を満たした正しい定義を与えることを試みるのだが、その定義の構成に移る前に、私はここで、後にみるエチメンディのタルスキ批判と密接な関係を有する、構造的定義に関する一つの重要な問題を指摘しておきたい。それは科学性条件の取扱いに注意を促す問題である。
 タルスキは、推論<a, A>が構造的定義によると論理的推論ではない、すなわち、文集合 a に通常の推論規則を適用しただけでは文 A が演繹されない場合、この演繹を可能にするような新しい推論規則を付加することに言及していた。ここで、ゲーデルの不完全性定理が成立しないような空想的状況を考えてみよう。そこでは、この付加によって拡張された構造的定義によって論理的推論であると判定されるものの全体の、通常の用法で論理的推論であると認められているものの全体との、外延上の完全な一致が成立する(12)。この空想的状況のもとで、構造的定義はどの様に評価されるべきであろうか。これが実質適合性条件を満たした正しい定義であることは、疑い得ない。外延上の一致に基づいて、その事を簡単に証明できるであろう。だが、これはタルスキの求めた定義ではないと思われる。なぜなら、科学性条件を満たしているか否かが問題になってくるからである。
 新しい推論規則の導入の仕方を考えてみよう。そこでは、推論<a, A>が通常の用法で論理的推論である、すなわち、様相的特徴と形式的特徴を共に有した推論である、という知識に基づいて、その推論を可能にするために新しい推論規則が導入されている。構造的定義のこうした拡張には、暗黙の内にであれ、様相的特徴と形式的特徴に関する概念が不可避的に介入して来ざるを得ないのである。だが、こうした事態は、新しい推論規則の導入の際のみに特有なことなのではない。通常の推論規則の選択も、任意に行われるのではなく、同じような考察に基づいて成されなければならない。少なくとも、その規則を一回適用したところの推論、すなわち、図式的に表されたその推論規則自体の一つの代入例である推論が、様相的特徴と形式的特徴を共に有した推論である、という知識が前提されていなければならない。従って、構造的定義は、それが暗黙の内に前提している知識(概念)を表面に出して定式化し直すならば、「推論が論理的であるのは、それが通常の用法で論理的と認められているときかつそのときに限る」という同語反復的な定義に帰着してしまう。同語反復的であるがゆえに、この構造的定義は実質適合性条件を完全に満たした定義となり得るのだが、逆に、この完全性のゆえに、科学性条件を満たしているかが危うくなってしまうのである。
 通常の用法で意味されているものを科学的な概念によって直接特徴付けることができるのであれば、問題は生じない。しかしながら、論理的帰結関係の通常の用法を特徴付ける概念は、「必然性」や「経験からの独立」のように科学の概念を越えた、いわば「形而上学的」な概念である。従って、構造的定義は、こうした形而上学的概念を使用して与えられることになる。このとき、二つの可能性が生じる。第一は、形而上学的概念に対して別途に科学的な定義が与えられている場合である。この場合、科学性条件を満たした十分な定義である。しかし、そう言われ得るのは構造的定義の方ではなくて別途な定義のほうであろう。そして、この別途に科学的に与えられた定義こそタルスキが本来目指している定義である。他方、具体的に与えられている構造的定義を見る限り、それは、むきだしの形而上学的概念を使用しているにすぎないから、明らかに科学性条件を満たしていない。第二は、形而上学的概念をあからさまに科学的には未定義な概念として使用し、その意味は形而上学的直観とでもいうべきものによって与えられるとしている場合である。これは明かに科学性の条件を満たすことを放棄している。いずれの場合も、構造的定義は科学性の条件を満たさない不十分な定義である。
 纏めると、たとえ反ゲーデル的な空想的状況においても、論理的帰結関係の通常の用法を特徴付けるものが形而上学的概念であり、かつ、構造的定義がこの用法との一致を目指すものであるならば(13)、構造的定義は実質適合性を満たしはしても、科学性条件は満たし得ない、ということになる。また、この議論の過程で、論理的帰結関係の十分な定義におけるきわめて重要な課題が示唆された。それは、通常の用法で直観的に意味されている形而上学的概念を科学的概念によって定義するという課題である。この課題が達成されれば、直観の段階では形而上学的に基礎付けられていたにすぎない論理的帰結関係が科学的に基礎付けられたことになる、と言っても良いであろう。当然のことながら、この課題の達成のためには相当の困難が予想されてしかるべきである。だが、タルスキは、自分の与える定義はこの困難を克服していると考えているのである。


3 タルスキによる論理的帰結関係の定義(2) ── 定義の構成

 タルスキが与える定義は「意味論的定義(semantical definition)」である。タルスキによると、「意味論(semantics)」とは、言語表現とそれによって指される対象ないし事態の間の関係を扱う分野であり、そこに属す概念として、「指示(denotation)」、「充足(satisfaction)」、「定義」、「真理」などの概念が挙げられている(14)。この意味論の概念を使って論理的帰結関係を定義しようというのが意味論的定義である。論理的帰結関係の様相的特徴においておいては真理概念が用いられていたので、この方針は確かに有望であると思われる。他方、形式的特徴においては、「文が指示する対象に関する知識によって影響されない」と言われていたが、この特徴を意味論的概念で定義することは、一見すると矛盾した方針ではないかとも考えられる。ともあれ、これら二つの特徴が意味論的概念によってどの様に捉えられているのかを見るべく、以下において、論理的帰結関係の意味論的定義を、タルスキ本来の考えに即して、具体例を補いつつ再構成してみよう(15)
 「真理」や「論理的帰結関係」などが述語付けられる対象言語として日常の日本語に近いものを考え、その形式的構造についてはとくに明確にしないままにしておく。ただし、この言語の表現は、幾つかの「意味論的範疇(semantical category)」(「雪」のように個体を名指す表現の集合、「は白い」のように性質の所有を主張する表現の集合、「または」のように二項真理関数を表わす表現の集合、「ということはない」のように一項真理関数を表わす表現の集合など)に分類され得ると仮定する。具体的な目標として、この言語に属する文
が定義によってどう判定されるかを念頭においておく。次に、変項を導入することによってこの言語を拡張する。もとの言語の表現が意味論的範疇に分類されていたのに応じて、変項も各意味論的範疇ごとに異なる種類の変項を用意しておく(例えば、個体を名指す表現を代理する変項として英小文字による個体変項を用いる、といった具合に)。もとの言語の文を構成している表現の一部を、それと同じ意味論的範疇に属する変項に置き換えてできる表現が、拡張された言語における「文関数」と呼ばれる。以下がその例である。
次に、対象の「無限列」という概念を導入する。無限列は変項の集合を定義域とし対象の集合を値域とする関数である。ただし、ここでは種類分けした変項を用いているので、無限列は個体変項に対して個体を、性質変項に対して性質を、文結合子変項に対して二項真理関数を、文作用子変項に対して一項真理関数を指定する関数であるとする。「無限列による文関数の充足」という概念を定義することが目標であるが、ここでは一般的定義を試みることはせずに、具体的な個々の無限列と文関数についての部分的定義の例を幾つか挙げておく。無限列 g は、「a」に草という個体を指定する関数(その他の変項に対する指定は任意、以下同様)、無限列 h は、「a」に石という個体、「A」に固いという性質を指定する関数、無限列 i は、「a」に雪という個体、「A」に白いという性質、「Γ」に「かつ」によって表されている二項真理関数、「γ」に「ということはない」によって表されている一項真理関数を指定する関数であるとしたとき、それぞれの無限列による文関数(3)、(4)、(5)の充足の部分的定義は次のように与えられる。
また、任意の無限列 j による文関数(2)の充足の部分的定義は以下のとおり。
部分的定義(6)と 草は白くないという事実から、無限列 g は文関数(3)を充足するということ、また、部分的定義(8)と雪が白くかつ白くないということはないという事実から、無限列 i は文関数(5)を充足しないことなどを演繹することができる。次に、「もとの言語のある文 S のある無限列 f のもとでの真理」という概念を定義する。まず、もとの言語において「論理定項(logical constant)」と見なされている表現とそれ以外の表現である「論理外の定項(extra-logical constant)」を特定し、文 S の中に生じている論理外の定項をすべて同じ意味論的範疇の変項に置き換えて文関数 s を得る。このとき、同じ表現は同じ変項で、異なる表現は異なる変項によって、斉一的に置換は行われるものとする。どの表現が論理定項であるかについて、ここでは次の四つの仮定を置く。
仮定(a)、(b)、(c)、(d)のもとで文(1)から得られる文関数が、それぞれ文関数(2)、(3)、(4)、(5)である。真理の定義は、
と与えられる。また、このとき、無限列 f は「文 S のモデル」と呼ばれる。例えば、先の例では、仮定(b)のもとでは、無限列 g は文(1)のモデルであり、仮定(d)のもとでは、無限列 i は文(1)のモデルではないことが分かる。「文集合 L のモデル」も同じように定義される。すなわち、文集合 L において生じている論理外の定項をすべて斉一的に変項に置換して文関数の集合 l を形成し、無限列 f が集合 l のすべての文関数を充足するとき、無限列 f は文集合 L のモデルである。最後に、論理的帰結関係は次のように定義される。
なお、論理的帰結関係と密接に関連した、文の論理的真理性の概念も定義しておく。
文(1)の論理的真理性について判定すると、仮定(a)、(b)、(c)のもとではすべて、文(1)は論理的に真であり、仮定(d)のもとでは論理的に真ではない、ということが容易に見て取れるであろう。
 以上の定義が、科学性条件を満たしたものであるのか、および、実質適合性条件を満たしたものであるのかを、順に検討してみよう。科学性条件を満たしていることは一見すると明らかだと思われる。前節で見た空想的状況のもとでの構造的定義のように、様相的特徴や形式的特徴に関する形而上学的概念を直接未定義のままに用いるということは、ここでは行われていない。定義において中心的役割を果たしている充足概念は、真理概念を定義する際に用いられた道具立てであり、既に指摘したように、真理概念の定義は科学性条件を満たした形で行われていた。従って、充足概念には問題はない。しかしながら、「論理定項とは何か」という決定的な問題が残っている。論理定項の科学的な定義が与えられない限り、科学性条件を完全に満たしているとは言えないのではないか。この問題をタルスキは明確に自覚している。
論理定項に対する「客観的な論証」、すなわち、論理定項の科学的な定義が与え得るものであれば、タルスキの定義は科学性条件を満たしたものとなる。だが、そうした定義を与えることができなかった場合には、科学性条件を満たしていないことになるのであろうか。この引用を見る限りでは、タルスキの考えは否である。確かに、科学的定義を与える試みが無駄に終り、論理定項を未定義の形而上学的概念として使用することになるのであれば、論理的帰結関係の定義は科学性条件を満たしていないことになる。しかし、タルスキは、そうした場合には、論理的帰結関係を様々な論理定項の集合に相対的な概念として取り扱うべきであると考えているのである。このとき、論理定項の集合の単一の選択を迫られることはなく、それは任意に選択して良いものになり、論理定項は、論理的帰結関係の定義において、本質的な役割を果たさない空虚な概念として用いられているにすぎないことになる。論理的帰結関係と論理定項の関係をこのように考えれば、論理定項の科学的定義を与える必要もないし、また、論理定項を未定義の概念として使用することを避けることもできる。従って、論理定項の科学的な定義を実際に与えることができるか否かという問題に関係なく(19)、両刀論法により、タルスキの定義は科学性条件を満たしたものであると結論することができるのである。
 実質適合性条件はどうであろうか。まず、前節で見た構造的定義において問題になった推論<a, A>などは、タルスキの定義によって論理的であると判定され得るのであろうか。これについては、タルスキはなにも述べていないが、自然数を指示する表現と全称量化記号を論理定項と考えれば、推論<a, A>がこの定義によって論理的推論であると判定されることは明らかである。また、ゲーデルの定理によってその存在が予想されている他の(通常の意味で論理的である)推論についても、論理定項を適当に選択することによって論理的であると判定され得るであろう(最も単純な方法は、数学と論理学に関するすべての表現を論理定項とすることである)。従って、少なくとも構造的定義が捉え損なっている種類の推論に関しては、この定義はそれらを十分に捉えていると言える(20)。だが、もちろん、このことは実質適合性条件を完全に満たしていることを意味するのではまったくない。完全に満たすためには、様相的特徴と形式的特徴を共に捉えていることが一般的に保証されなければならない。
 様相的特徴を捉えていることについて、タルスキは「幾つかの真なる文の帰結はすべて真であらねばならないことを、この定義に基づいて証明することができる」(21)と明確に断言している。しかし、「できる」と言われたこの証明をタルスキはどこにも与えていないのである。これは、きわめて厄介な事態である。
 形式的特徴に関しても、タルスキは「与えられた幾つかの文の間に成立する帰結関係は、これらの文において生じている論理外の定項の意味から完全に独立であることを、この定義に基づいて証明することができる」(22)と述べているが、やはり証明は与えられていない。だが、タルスキの考えを推測することはできる。彼は、形式的特徴を満たす推論について、「帰結関係は、これらの[推論の中の]文において指示されている対象の指定を、任意の他の対象の指定によって置換することによっては影響され得ない」(23)と述べていた。この性質を捉えるために、タルスキは、論理外の定項を他の定項によって置換する方法を提案する。この提案によって、
という命題(以下、条件(F)と呼ぶ)が得られる。だが、この条件は推論<K, X>が論理的であることの必要条件ではあるが十分条件ではないと、タルスキは考える。
論理的真理性についてこの事情を考えてみよう。この場合、
という条件が得られる。この条件は、或る文が論理的に真であることの必要十分条件であると仮定しよう。すると、例えば、文「雪は白い」が論理的に真であるのは、「は白い」が論理定項であると仮定すれば、文「雪は白い」、文「牛乳は白い」、文「石炭は白い」、・・・がすべて真であるときかつそのときに限る、となる。この場合、文「石炭は白い」は偽であるから、文「雪は白い」は論理的に真なのではないと判定され、我々の直観に適っている。ところが、問題になっている言語には「雪」と「牛乳」という二つの個体定項しか存在しないと仮定すれば、置換によって考察されるべき文は最初の二つだけであり、共に真であるから、文「雪は白い」は論理的に真であると判定され、我々の直観に反している。この言語には、白くないという性質を所有している石炭という「可能な対象」を指示する表現が欠けているということに問題が存しているのである。言語の語彙不足に起因するこの困難は、タルスキの定義では、すべての「可能な対象」の集合を値域として持つ無限列による文関数の充足という概念が導入されることによって、確かに克服されている(25)。この事実によってタルスキは、自身の定義による論理的真理性、および、論理的帰結関係が「論理外の定項の意味から完全に独立」していることは明白であると推論しているのであろうが、この推論はまったく不明瞭である。たとえすべての対象を考慮にいれたとしても、それらすべての対象に関する「経験的知識」が影響してくるという可能性は排除しきれないのではないか、という疑問が残る。
 前節では、タルスキの論理的帰結関係の定義は、科学性条件と実質適合性条件を共に満たした、十分でかつ正しい定義であることを目指していることを確認した。しかしながら、この節で明らかになったことは、タルスキが実際に構成した定義が科学性条件を満たしていることは言えても、実質適合性条件を満たしているかは不明であり、従って、正しい定義であると結論するには問題がある、ということである。この点について鋭いタルスキ批判を展開しているのがエチメンディである。   


4 エチメンディのタルスキ批判(1) ── 必然性をめぐって

 前節で指摘された最初の問題は、タルスキの定義が様相的特徴を捉えたものであるかどうかが不明である、ということであった。論理的真理性の概念に限定して言えば、タルスキの定義によって論理的に真であると判定された文が必然的に真であるか否かが明らかにされていないのである。ところで、様相的特徴を捉えていることを示すには、様相について語るための明確な枠組みが与えられていることが不可欠であろう。現代の我々にとって最も一般的な枠組みは、いわゆる可能世界という装置によって与えられている。すなわち、
と我々は様相的概念を理解し語っている。そして、タルスキ流のモデル論的定義において用いられているモデルという装置は、まさに可能世界の代理物として用いられていたのではないか。従って、すべてのモデルで真であることによって論理的真理性を定義しているタルスキの定義が、様相的特徴を捉えていることは自明の真理であり、論証に苦労するような問題ではないはずだ。 ── 以上のような仕方で様相的特徴に関してタルスキの定義を弁護しようとする議論を論駁することが、エチメンディがまず試みていることである(26)
 形式的に与えられたモデル理論は、「表象意味論(representational semantics)」と「解釈意味論(interpretational semantics)」という二種類の異なる意味論として見ることが可能である、というのが議論の第一段階である(27)。日本語の断片である単純な言語とそれに対する命題論理のモデル理論を構成してみよう。この言語は原子文として「雪は白い」と「バラは赤い」の二つのみを含み、文作用子「ということはない」と文結合子「または」によって複合文が構成されるものとする。この言語に対するモデルは、原子文を定義域とし二つの元からなる集合 {T, F} を値域として持つ関数である。この関数を表示するために次のような表を用いる。
英小文字がそれぞれモデルであり、このモデルが二つの原子文の各々を引数として取ったときの値が、そのモデルの下側にそれぞれ記されている。モデルにおける文の真理の定義は次のように帰納的に与えられる(英大文字の S、A、B には任意の文が入るものとする)。
 文の真偽を決定する要因は、「世界の在り方」と「文が持つ意味」の二つである。モデルがこの二つの要因のうちのどれに関係していると考えるかに応じて、モデル理論に対する二つの異なった見方が生じてくる。第一の見方は、各モデルは可能な世界の在り方を表象ないし代理(represent)していると考えるものである。例えば、モデル f は、雪は白くバラは赤い世界(現実の世界)を表象しており、モデル i は、雪は白くなくバラは赤くない世界(現実ではない世界)を表象していると考えられることになる。この考え方のもとでは、「文『S』はあるモデルで真である」は、「文『S』は世界がそのモデルで表象されているようにあるならば真である」を意味していることになり、モデルにおける真の定義はこの意味に沿って与えられたものであると考えられている。以上のような考え方のもとで意味論を見る立場をエチメンディは「表象意味論」と呼ぶ。表象意味論は、言語の意味は固定して考え(28)(通常の日本語の意味を持つと考え)、世界の変化がその固定した意味を持つ言語の中の文の真理値に対してどの様に影響するかを説明する理論なのである。(なお、本章では、モデル f のように現実の世界を表象しているモデルを表象意味論の「通常のモデル」と呼び、ある文が通常モデルで真であるとき、その文を「通常の意味で真である」と言うことにする。)第二の見方は、各モデルは単なる記号列としての論理外の定項(ここでは原子文)に対して意味を与え解釈を施していると考えるものである。例えば、モデル f は、文「雪は白い」は真なる何か(例えば、雪は白いということ)を意味しており、文「バラは赤い」は真なる何かを意味している、という解釈(通常の日本語の解釈)を与えており、モデル i は、文「雪は白い」は偽なる何か(例えば、雪は黒いということ)を意味しており、文「バラは赤い」は偽なる何かを意味している、という解釈(通常の日本語とは異なる解釈)を与えていると考えられることになる。この考え方のもとでは、「文『S』はあるモデルで真である」は、「文『S』はそのモデルが解釈を与えている意味を持つとき真である」を意味していることになり、モデルにおける真の定義はこの意味に沿って与えられたものであると考えられている。このような考え方で意味論を見る立場をエチメンディは「解釈意味論」と呼ぶ。解釈意味論は、世界の在り方は固定して考え(現実世界が常に成り立っていると考え)、言語の意味の変化がその固定した世界の中で言語の文の真理値に対してどの様に影響するかを説明するものである。(モデル f のように通常の解釈を与えるモデルを解釈意味論の「通常のモデル」と呼び、表象意味論のときと同様、通常モデルで真なる文を「通常の意味で真である」と言うことにする。)
 モデル理論が常に二つの見方を許すのであれば問題はないが、このことは一般には成立しないというのが、議論の第二段階である。これは、モデルを構成するときに両意味論が従うべき指針の差異から生じてくる。表象意味論の指針は、「モデルの集合は直観的に可能な世界の配列をすべてそしてそれらのみを含まなければならない」(29)というものである。他方、解釈意味論の指針は、モデルの集合は「すべての意味論的に良く振る舞う再解釈を包含」(30)していなければならない、というものになる。これらの指針に従ってモデルを構成したときに、得られたモデルの集合には外延上の不一致が見い出され得るのである。例えば、三つの原子文からなる言語を考え、それに対して次のようにモデルを与えてみよう。
すべての原子文が論理外の定項であるとすれば、解釈意味論は明らかにこのモデルのすべてを必要としている。しかし、雪が二つ以上の色を持つことは有り得ないので、モデル f、g、h、j は可能な世界を表象したモデルではない(31)。従って、表象意味論にとって必要十分なモデルは i、k、l、m のみであり、モデルの集合は解釈意味論のものよりも小さくなる(32)。逆に、解釈意味論のモデルの集合のほうが小さくなることもある。この節の最初に述べた言語において、原子文「雪は白い」を論理定項であるとすれば、必要十分なモデルは f、g のみである。
 モデルが可能世界の代理物であればタルスキの定義を擁護できるというのが、最初に述べた考えであった。これは、タルスキのモデル理論を表象意味論として見た場合に主張できることである。しかし、タルスキはモデル理論を解釈意味論として与えていたのであり、この弁護は不可能である、というのがエチメンディの議論の最終段階における第一の結論である。タルスキが解釈意味論に立っていたことは、モデルの構成においてすべての可能性を尽くすことを考慮にいれておらず、解釈意味論の指針に従っていることから明らかである。だが、タルスキの見方に変更を加え、モデル理論を表象意味論として与えれば、論理的真理概念のタルスキ的定義が様相的特徴を捉えていることを弁護できるのではないであろうか。この方向での弁護も不可能であるというのがエチメンディの第二の結論である。彼の主張は、表象意味論は必然的真理性の概念の、従って論理的真理性の概念の分析を与えるものではない、というものである。その理由は以下の通りである。
表象意味論でモデルを構成するときには、すべての可能な世界が尽くされねばならず、その際に必然性についての理解が前提されていなければならない。この理解が正しければ、表象意味論に基づくタルスキの定義は必然的真理の外延を正しく捉えていることになる。しかし、これでは分析になっていないとエチメンディは主張するのである。この事態は、本章の第 2 節で指摘した空想的状況のもとでの構造的定義が抱えていた困難と同種のものであることに気が付かれるであろう。そこでの用語を用いてエチメンディの主張を言い換えれば、表象意味論による定義はそもそも科学性条件を満たしていない不十分な定義にすぎない、と言うことができよう。
 これに対して、タルスキ本来のモデル理論である解釈意味論では、科学性条件は満たされているが、様相的特徴を捉えているかがなお不明なのである。従って、「証明できる」とのみ言われていた証明によってタルスキの定義を弁護することが、どうしても必要になってくる。しかしながら、エチメンディが次に試みることは、この証明を案出した上で、そこには「タルスキの誤謬」と呼ばれる間違いが含まれているがゆえに、この証明によってタルスキを弁護することはできない、と議論することなのである(34)
 論理定項と見なされる表現の集合は任意に与えられるものであると仮定すると、証明されるべきことは、次の二つの命題の同値性である(35)
「(B)なら(A)」を証明することは簡単である。推論<K, S>が(B)で述べられている条件を満たしているならば、文集合 K に属するすべての文が真なら、文 S も真であるということが演繹される。従って、これらの文を構成しているすべての表現を論理定項の集合 F に含ませてしまえば、推論<K, S>はタルスキの定義によって論理的推論であることが示される。この証明には何ら問題はない。問題は「(A)なら(B)」を証明することであり、タルスキはこれを「証明できる」と述べていたが、実際は与えていないのであった。しかし、エチメンディは、「タルスキが言及している証明はきわめて簡単である」(36)として、次のようにその証明を再構成している。
 まず、以下の三つの仮定を置く。
ここから矛盾を導出することが目標である。文 S および文集合 K に属するすべての文が含むすべての表現に通常の(日本語の)解釈を与えるような通常モデルを考えてみる。(Q)と(R)より、このモデルでは、文集合 K のすべての文は真で文 S は偽となる。これは(P)と矛盾する。よって、「推論<K, S>がタルスキの定義によって論理的推論なら、文集合 K のすべての文が真なら文 S も同様に真であらねばならない」が証明された。また、この証明は論理定項の選択からはまったく独立に成立しており、任意の選択に対して成り立つから、当然ある論理定項の集合 F に対しても成り立つ。ゆえに、「(A)なら(B)」が証明された。
 この証明自体は完全に正しいように思われるが、間違っているはずだというのがエチメンディの直観である。そこでエチメンディは、「問題は、我々の証明にあるのではなくて、推論<K, S>の前提と結論の間に何か様相的な関係が成立していることをこの証明は示しているのだと考えることにある」(37)と間違いの源を推測する。論理的な推論の直観的に理解された性質は、前提と結論の間に成立している様相的な関係であった。従って、我々が証明すべきであった「(A)なら(B)」の内容とは、任意の文集合 K と文 S に対して(P)が(ある論理定項の集合 F のもとで)言えるなら、そのとき(Q)と(R)は「相互両立不可能(jointly incompatible)」である、ということであったはずである。様相作用子の作用域を明示して書くと次のようになる([ ]で囲まれたところが様相作用子の作用域である)。
ところが、先の証明が実際に証明したことは、任意の文集合 K と文 S に対して(P)と(Q)と(R)は相互両立不可能である、ということであった。これによって証明されたことは、たかだか次の命題でしかない(38)
先の証明は我々が本来求めていたものを与えているのだと考える人は、(D)から(C)への推論、すなわち、(P)と(Q)と(R)の相互両立不可能性と(P)の真であることから、(Q)と(R)の相互両立不可能性を推論しているのである。だが、この推論は、様相論理の妥当性の観点から見て許されるものではない(39)。様相作用子の作用域を不当に移動させたこの種の推論を行っていることを、エチメンディは「タルスキの誤謬」と呼ぶのである。この誤謬を含むがゆえに、先の証明は「(A)なら(B)」を証明したものであると見なすことはできず、この証明によってもタルスキを弁護することは不可能である。
 エチメンディの以上の二つの議論によって、タルスキの定義は様相的特徴を捉えていないことが示された、と考えるべきではない。第一の議論は、言わばまったく見当違いの方法でタルスキを弁護することに対する批判であった。第二の議論も、タルスキが与えなかった、従って実際はエチメンディ自身が与えた証明に対する批判であり、しかも、その証明の間違いを指摘しただけであって、そこで証明されるはずだった命題の否定を直接示したものではない。つまり、まったく新しい証明によって「(A)なら(B)」を証明する可能性も残っているのである(40)。従って、タルスキの定義が様相的特徴を捉えているか否かという問題は、エチメンディの議論の後でも未解決の問題として残り、タルスキの定義が間違っていると断定することはできない。だが、形式性に関する議論と見なし得るエチメンディの第二のタルスキ批判は、タルスキの定義が間違っていることを端的に示すことを目指したものである。


5 エチメンディのタルスキ批判(2) ── 形式性をめぐって

 論理的真理性の定義が表象意味論において与えられているとすれば、論理的に真なる文は、すべての可能な世界において真なのであるから、現実世界において偶然的に成立している事実によって影響されることはなく、そうした事実についての経験的知識から一切独立した文であると考えることができる。他方、前節で見たように、タルスキは解釈意味論の立場をとっていた。そして、解釈意味論における定義によっても現実世界の偶然的な事実に影響されないものとして論理的真理性を定義できる、というのがタルスキの考えであった。しかし、文の表現の解釈を任意に与えることによって世界の偶然的な事実の影響を排除することが可能であろうか、というのが本章第 3 節で指摘した二番目の問題であった。エチメンディは不可能であると論じる。すなわち、タルスキの定義によって論理的に真であると判定される文の中には、現実世界の偶然的な事実(論理外の事実)によって不可避的に影響されて論理的に真であると判定されている文が存在することを、エチメンディは具体的に示すのである(41)
 エチメンディの最初の議論はきわめて単純である。タルスキの定義によると、論理外の定項「e1」、・・・、「en」を含む文「S」が論理的に真であるのは、「e1」、・・・、「en」の各々を同じ意味論的範疇に属する変項「v1」、・・・、「vn」で斉一的に置換して得られる文関数「S'」を任意の無限列が充足するときであった。ところでこの条件は、次のような全称量化文が通常の意味で真であるための条件と同じである(42)
従って、タルスキは文の論理的真理性を対応する全称量化文の通常の真理性に還元したと考えられる。例えば、
が論理的に真であるのは、すべての表現が論理外の定項だとすれば、
が真であるときである。「リンカーン」のみが論理外の定項だとすれば、
が真であるときであり、すべての表現が論理定項だとすれば、
が真であるときである。エチメンディはタルスキのこうした考えを論理的真理性の「量化的説明(quantificational account)」と呼び、量化的説明は次のような「還元原理(reduc-tion principle)」に基づくことになると定式化する。
還元原理のおかげで、論理的真理を定義する際に、科学性条件を満たした真理定義の技術を使用することが可能になった。この点はタルスキの量化的説明の大きな利点である。しかし、エチメンディは還元原理は受け入れられないと論じる。
ある全称量化文が「偶然の出来事によって真」であるとき、すなわち、現実世界において偶然的に成立している事実によって真であるとき、還元原理に従った説明によると、その特例化である文が論理的に真であると判定される。この場合、論理的真理性の判定には現実世界の事実が影響しており、その事実についての経験的知識に依存して判定が成されており、特例化が論理的に真であることは少しも明らかにはされていない。
 しかしながら、以上の議論は論理定項の問題について考慮していないゆえに、タルスキ批判としては単純すぎる。本章第 3 節で見たように、タルスキは論理定項が任意に与えられる場合と固定して与えられる場合とを考えていたが、タルスキ批判を徹底させるためには、この二つの場合に対応させて二つの議論を構成しなければならない。
 まず第一の場合を取り上げよう。この場合、論理的真理性の概念は、論理定項の任意の選択に関しての論理的真理として、相対化された概念として理解されることになる。しかし、相対的な論理的真理性とはそもそも何を意味しているのであろうか。唯一可能な答はいわゆる「分析的真理性(analytic truth)」の概念であろうとエチメンディは考える。一般に、「独身者は未婚である」という文は論理的に真なる文であるとは認められないが、分析的に真であることは認められているであろう。このとき、この文は「独身者」、「は未婚である」という表現の特定の意味のみによって真である、ということが分析的真ということによって意味されていると考えられる。すると、分析的真理性の概念にはどの表現に関して分析的に真なのかということが決定的な要素として関与していることがわかる。例えば、この文は「独身者」の意味のみによって真であるとは考えられないであろう(44)。従って、相対的な論理的真理性の概念に定義において任意に与えられる論理定項の選択は、この分析的真理性の概念における「どの表現に関してか」を特定化したものであると見ることができよう。また、表現の意味のみによって真である文は、現実世界の偶然的な事実によっては影響されないものであるから、分析的真理性の概念も形式的特徴を有していると考えられる。このように第一の場合を解釈すれば、還元原理は次のように改定される。
しかし、この原理に基づくタルスキの説明では分析的真理性の概念が捉えられていないことは明らかである。次のような全称量化文とその特例化の一つである文を考えてみよう。
文(2)の分析的真理性の問題を、(1)のような単なる歴史上の事実に関する主張を成している文の通常の真偽の問題と同一視していることにおいて、還元原理1はもとの還元原理の本質的な困難をそのまま引き継いでいるにすぎない。文(2)の分析的真理性の判定は、文(1)の真偽を決定する歴史的世界の偶然的事実によって影響されるから、還元原理1に基づいたタルスキの定義は分析的真理性の概念の形式的特徴を捉えていないのである。また、この例では、文(2)は「もし・・・ならば」、「が大統領であった」、「は男であった」の意味のみによって真であるとは、直観的には認められないが、歴代の(アメリカ合衆国の)大統領はすべて男であったから、文(1)は真であり、還元原理1に従うと文(2)は分析的に真と判定され、直観との外延上の不一致が生じている。
 次に、第二の場合に移ろう。このとき、明らかに論理的な種類の表現のみが正しい論理定項として固定的に与えられることになり、還元原理は次のように改定される。
還元原理2の正しさを最も強力に弁護するためには、すべての文について、正しい論理定項の選択のもとでのそれに対応した全称量化文が、論理外の事実に依存して真理値が決定されるような種類の文ではなく、論理的に真である種類の文か、論理的に偽である(矛盾した)種類の文である、ということを示すことができれば良い。このとき、全称量化文が真であれば、それは論理的に真であり、対応する特例化が論理的に真となることは自明であろう(45)。例えば、真理関数結合子と作用子のみが正しい論理定項とすれば、以下の直観的に論理的に真であると認められている文(3)は、文(4)の通常の真理性によってその論理的真理性を判定されることになる。
文(4)の真偽は、世界におけるいかなる偶然的な事実にも依存せずに決定されるから、文(3)の論理的真理性の判定には論理外の事実は影響していない。また、文(4)は論理的に真であるから、文(3)は論理的に真と判定され、直観と矛盾しない。論理定項を
適切に選択することによって、すべての文について、対応する全称量化文が論理的に真ないし偽となることが意図されているのである。タルスキは何が明らかに論理的な種類の表現であるのかの論証を与えることを留保し、正しい論理定項の集合を与えなかった。しかし、エチメンディは、伝統的に論理定項であると考えられている表現を適当に組み合わせて可能な正しい論理定項の集合を得たとしても、対応する全称量化文の真偽の判定に論理外の事実の影響が不可避的となるような文が存在することを、以下のような四つの組み合わせの検討を通して明らかにしている。

 (一) 存在量化記号、同一性述語、真理関数結合子のみが論理的表現であるとする。次のような文を考えてみよう。
任意の自然数 n について文σn は、少なくとも n 個の個体が存在することを主張している。これらの文はいずれも論理的に真であるとは直観的には認められないが、タルスキの説明では、その論理的真理性は次のような全称量化文の通常の真理性と同一視される(46)
各々の n に対して文 [σn] は、文σn と同様、少なくとも n 個の個体が存在することを主張しているから、その真偽は、実際に幾つの個体が存在しているのかという、「宇宙の大きさ(the size of the universe)」の問題に依存して決定されるものである。従って、ある文の論理的真理性を判定するための全称量化文の真偽に論理外の事実が介入してくることが示された。また、宇宙が無限であれば、σn のすべてが論理的に真であると判断され、宇宙が有限であれば、そのうちの幾つかが論理的に真であると判断されることになり、どれも論理的に真なのではないとした最初の直観に反し、外延的に正しくない結果をもたらすことになる。

 (二) 存在量化記号は論理外の定項として扱い(47)、同一性述語、真理関数結合子は論理的表現であるとする。しかし、この方法でも別の例では宇宙の大きさという事実の介入が避けられなくなる。次のような文を考えてみよう。
各々の n に対して文〜σn は、たかだか n-1 個の個体しか存在しないことを主張している。前と同様、この文も論理的に真であるとは認められない。しかし、タルスキの説明は、この文の論理的真理性を次のような全称量化文の単なる真理性と同一視する。
各々の n に対して(5)は、宇宙に存在するすべての個体の集合のすべての部分集合はたかだか n-1 個の個体しか含まない、ということを主張している。宇宙の最大の部分集合、すなわち、宇宙自身がたかだか n-1 個の個体しか含まないときに限り、(5)は真になり、それ以外のときは偽である。宇宙が無限個の個体を含むときには、任意の n に対して(5)はすべて偽となる。従って、(5)は宇宙の大きさについての完全に事実に関する主張である。よって、今の場合も、ある文の論理的真理性を判定するための全称量化文の真偽に宇宙の大きさという論理外の事実が介入してくることが示された。また、宇宙が有限であれば、文〜σn の幾つかが論理的に真であると判断され、どれも論理的に真なのではないとした最初の直観に反し、外延的に正しくない結果をもたらすことになる。宇宙が無限であれば、文〜σn はどれも論理的に真なのではないと判断され、正しい外延が得られるが、この結果はたまたま宇宙が無限であるという偶然の事実に依存しているのである。

 (三) 存在量化記号と真理関数結合子のみが論理的表現であるとする。この方法でも、別の例では問題が生じる。次のような文を考えてみよう。(「v>w」は「v は w より大きい」の略記である。)
文αと文βは、より大きいという関係が推移的かつ非反射的関係であることを主張しており、もちろん真である。文γは最大のものが存在しないことを主張しており、偽であると仮定する。三つを組み合わせて次の文を得る。
仮定により(6)は真であるが、論理的に真であるとは認められない。しかし、タルスキの説明は、この文の論理的真理性を次のような全称量化文の単なる真理性と同一視する。
(7)は推移的かつ非反射的な関係はすべて極大要素を持つことを主張している(あるものがすべてのものと少なくとも同じだけ大きければ、それはより大きいという関係の極大要素である)。変項 R の領域を個体の順序対の集合の集合と定めれば、宇宙が有限であれば(7)は真であり、宇宙が無限であれば偽である。従って、ここでも宇宙の大きさという論理外の事実が介入していることが示された。(7)が真のとき(6)は論理的に真であると判定され、我々の直観に反する。(7)が偽のとき正しい外延が得られるが、(7)を偽にする偶然の事実のおかげでそうなる。

 (四) 真理関数結合子のみが論理的表現であるとし、次の文を考える。
明らかに文τ1 は論理的に真であるとは考えられないが、この文の論理的真理性は次のような全称量化文の単なる真理性と同一視される。
性質変項 P の領域が個体の集合の集合であるとすれば、宇宙が唯一の個体しか含まないときに限り(8)は真となる。同様にして、論理的に真ではないが、宇宙がたかだか n 個の個体しか含まないときのみ対応する全称量化文が真となるような文τn を構成することができる。ここでも宇宙の大きさが問題になり、宇宙が有限個の個体しか含まなければ、文τn の幾つかが論理的に真であると判定され、我々の直観に反する。任意の文τn の正しい評価がなされるのは、宇宙が無限個の個体を含んでいるという論理外の事実に依存してである。

 以上により、論理定項をどれだけ厳しく制限しても、ある文の論理的真理性を判定するための全称量化文の通常の真理性の判定に、論理外の事実の影響が避けられないものであることが示された。しかしながら、全称量化文が論理的に真ないし偽となることをエチメンディが要求していることは、還元原理に対する強すぎる要求ではないだろうか。還元原理に基づいた論理的真理性の定義が、形式的特徴を捉えた正しい定義であるためには、その定義によって論理的に真であると判定される文の全体が、論理外の事実に依存せずに真であることが直観的に認められる文の全体と一致することが要求されているだけである。従って、還元原理の正しさを示すには、全称量化文が真であれば、対応する特例化が論理外の事実に依存せずに真である、ということを主張できれば十分であり、全称量化文の真であることが論理外の事実に依存していようがいまいが、関係ないはずである。すると、逆に、還元原理の間違いを指摘するためには、全称量化文が真であり、かつ、対応する特例化は論理外の事実に依存した真理値を取ることが直観的に明らかである、そうした文が少なくとも一つ存在することを示さなければならない。還元原理 1 の批判で与えられた例文と、還元原理 2 の(一)で与えられた例文は、そうした反例が存在することを示すことに成功していると言える。しかし、還元原理 2 の(二)、(三)、(四)で与えられた例文は、宇宙が無限であるという仮定を取る限り、全称量化文は偽になるから、反例を与えることには失敗している。 
 この事情をエチメンディは十分承知している。問題は、宇宙が無限であるという仮定がタルスキの定義において採用され得るのか、ということに懸かっている。現代のモデル理論は無限公理を前提した集合論の上で組み立てられているので、宇宙の無限性の仮定が満たされているが、「[タルスキ的]分析の何ものもこの特定の[集合論の]選択を指図してはいない」(48)のである。これは、タルスキの定義が些細な技術的欠陥を有していたことを示す議論ではない。すなわち、無限公理の追加によってタルスキ的定義が完全なものになる、という議論ではない。宇宙が実際には有限であるときに、いかにして宇宙の無限性の仮定を置くことができるのであろうか。おそらく、「実際の宇宙は有限ではあるが、宇宙が無限であることも可能であった」と擁護するしかないであろう。すると、例えば、実際の有限宇宙において文(7)は真であるけれども、可能な無限宇宙においては偽となるから、文(6)は論理的に真ではないと正しく判定できるのである、と反論できる。無限公理はこの可能な無限宇宙を構成するために導入されているのである。だが、この反論は、タルスキの定義の本質を見落としている。
タルスキの定義は形而上学を排除することが意図されていたから、宇宙の大きさに関して形而上学的に考察された可能性を定義に前提することは、タルスキには認められないはずである。このことが些末な事態であると誤解されないためにも、論理外の事実についての形而上学的可能性をめぐる思弁が要求される局面は宇宙の大きさのみにとどまるものではない、ということを注意しておくことは必要なことであろう。実際、エチメンディは、そうした論理外の事実について幾つか言及しているが(50)、最も単純な事例は、還元原理 1 の批判の例文においても見ることができる。そこでの問題は、文(1)が歴史的事実によって真となってしまい、文(2)が分析的に真であると判定されることにあった。この問題を克服するためには、男ではない大統領が存在したことも可能であった、という歴史的事実に対する形而上学的可能性についての直観に訴えるしかないであろう。また、この直観を定義に組み込むためには、無限列の個体変項に対する値域に男ではない大統領という形而上学的存在者を含ませるしか方法はないであろう。
 以上のような形而上学的考察を導入しないならば、論理的帰結関係および論理的真理性の概念の定義は、それらの概念の直観的に理解された形式的特徴を捉えることはできない。タルスキの定義は、本章での用語を用いて述べると、科学性条件を満たした十分な定義であることを目指しているので、実質適合性条件を満たすことに失敗し、間違った定義に堕してしまっている。従って、エチメンディのタルスキ批判は、タルスキの定義が間違っていることを論証したものなのである。論理的帰結関係の定義が正しい定義であらねばならない限り、タルスキの陥った困難をどうにかして潜り抜けねばならない。それは、形而上学的概念をいかに扱うか、という問題に懸かっている。エチメンディは、この難問を我々に対して提起していると言えよう。


6 論理的帰結関係を定義するための可能な方法

 この節では、論理的帰結関係を定義するために有望であると思われる三つの方法を提示する。私自身は、最後の方法が最も興味深く検討に値するのではないかと考えている。
 エチメンディの議論から読み取れることは、形而上学的概念を捉えるには、科学性条件を課すことが強すぎる制約になっているということである。従って、第一の方法として、科学性条件を満たすという目標を諦めることによって定義を与えるということが考えられる。ここで注意しなければいけないことは、この方法は単に表象意味論によって定義を与えることに尽きるものではないということである。というのは、第 4 節で見たように、表象意味論は既に論理的帰結関係の分析が与えられていることを前提にしているからである。従って、この方法は、論理的帰結関係を形而上学的な可能性概念へと還元し、純粋な形而上学の問題として探究しようとする試みなのである。ある意味ではこれが最善の方法であるかもしれないが、論理的帰結関係という論理学の中心概念を、意味論(モデル理論)はもちろんのこと、二十世紀以降に展開された論理学一般からも完全に切り離してしまうことになり、論理学的観点からの興味はなくなってしまうように思われる(51)
 次に考えられるのは、実質適合性条件の方を改定し、定義が捉えるべき特徴から形而上学的概念を追放してしまう道である。しかし、この改定は慎重に成されなければならない。些細な特徴に置き換えれば、それを捉えた科学的定義を構成することは容易だが、通常の用法と一致させるという実質適合性条件の本質的要件が失われ、第 2 節で見た第二種の規範的定義に堕してしまう恐れがあるからである。正しい定義を目指す限り、通常の用法を捉え得るような特徴によって置き換えられるべきである。そうした特徴の有力な候補として推論の持つ構造的特徴を考えることができる。従って、第二の方法は、論理的帰結関係の構造的定義を復活させる方法である。
 この方法に対しては四つの反論が考えられるので、順に検討してみよう。最初の反論は、通常の用法で意図されているのはあくまで様相的特徴や形式的特徴のような形而上学的特徴であり、構造的特徴ではない、というものである(52)。こうした反論は直観に深く根差したものであるだけに容易に答えることはできないが、次のように考えることが可能ではないかと思われる。我々は形而上学的概念について予め十分理解しており、その意味が確定したものであるかのように振る舞ってきたが、これは疑ってみるに値する立場である。論理的に真である文は「必然的に真」であり「経験から独立に真」であると述べるとき、我々はなんらかの形而上学的特徴を意味しているのではなく、まったく別の形で規定され得る別の特徴を意味しているのかもしれない。そうした特徴が構造的特徴であると考えるのは乱暴すぎる考えであるが可能性は否定できないであろう。特に、ある構造的特徴を持つ推論が論理的であると通常は見なされているという言語的事実に注目するだけでなく、論理的推論の持つ必然性の源泉はしかじかの構造的特徴を持つ推論を真であると見なす規約に由来するのであるという、論理に関する規約主義の立場を取れば、直観的に理解されていた形而上学的特徴との連関もある意味で保存され、この置き換えも説得力を有するであろう。
 第二の反論は、第 2 節の最後に見た空想的状況のもとでの構造的定義に対する反論であり、そこでは、形而上学的概念を前提することによって科学性条件が破られていることが問題になっていた。しかし、今の場合この反論が成立しないことは明らかであろう。なぜならば、構造的定義が捉えるべき推論は、ある形而上学的特徴を有した推論ではなく、まさにある構造的特徴を有した推論だからである。
 第三の反論は同じく第 2 節で見たタルスキ自身のものであり、ゲーデルの不完全性定理によって、論理的推論であると通常見なされている推論の全体と構造的定義によってそう判定される推論の全体との間に外延上の不一致が存在することが示される、というものである。しかしながら、外延上の一致が存在することだけを保証すれば良いのであれば、そうした定義は簡単に与えることができる。つまり、論理的推論であると通常見なされている推論の全体を論理的推論の構造的特徴であるとして定義を与えれば、外延上の一致は保証される。
 だが、これに対しては、次のような第四の決定的な反論が成される。それは、そうした推論の全体がはっきりした集合になっていない、というものである。一般に構造的定義は、幾つかの具体的な推論規則を図式的に与えて、これらを何回か適用して得られた推論が論理的推論である、と定義を与える。だが、この方法では形式化される以前の数学において用いられている論理的推論の全体を捉えることができない。つまり、そうした推論の全体は計算可能な集合とはなり得ない。このことを示したのがまさに不完全性定理なのである。タルスキがゲーデルを援用して構造的定義を批判したときに、実際に問題にしていたのもこのことであった(53)。しかし、なぜ定義は計算可能な方法で、つまり、具体的(effective)に表現できる仕方で与えられねばならないのであろうか。おそらく、論理的と通常見なされている推論の「全体」という理念的な存在に訴えた定義は、科学性の条件を満たしていない不十分な定義だからであると思われる。従って、この第四の反論は、構造的定義は、外延上の一致を保証する実質適合性条件を満たした定義である限り、科学性条件を満たさない、という反論となる。不完全性定理を否定することはおそらく不可能であろうから、構造的定義を復活させたこの方法も、結局、正しい定義を目指す限りは、科学性条件を捨てて、形而上学的な問題として論理的推論について考察せねばならないであろう。
 第三の方法は、タルスキの方法をそのまま受け入れるものである。この場合科学性条件の充足に関しては問題は生じない。3 節での議論で明らかにされたように、科学性の条件を満足することが、タルスキが与えた定義の持つ利点だからである。だが、前節で見たエチメンディの批判が正しければ、直観的に理解された論理的推論とタルスキの定義によって論理的と判定される推論との間にどこかで外延上の不一致が生じているから、実質適合性条件は満たされ得ない。従って、第三の方法も通常の用法と一致した正しい定義であることを目指している以上、このエチメンディの批判をなんとかして退けなければならない。第三の方法とは、定義としてはタルスキのものをそのまま用いるものであり、なんら新しいものではない。ただ、エチメンディの批判に答える形でそれを再提出しようとする試みである。つまり、技術的にはタルスキの定義を踏襲し、エチメンディの批判を避けるための哲学的議論を付加することで、それを補強しようとする企てである。
 我々が前節で見たエチメンディのタルスキ批判は、一つの大きな前提に依存していた。論理的真理性の概念について述べると、エチメンディの批判は、ある文 S が、通常は論理的に真であるとは認められていない(必然的に真であるとも経験から独立に真であるとも直観的には認められていない)にもかかわらず、タルスキの定義によると論理的に真であると判定されるおそれがある、という前提に依存していた。例えば、宇宙が実際は有限 n 個の個体しか含まないときでも、文
は論理的に真ではない、というのが「我々」の直観であることをエチメンディは前提していた。タルスキの定義によると、宇宙が有限 n 個の個体しか含まないという仮定のもとでは、文(1)は論理的に真であるから、文(1)は論理的に真なのではないというのが「我々」の直観であるという前提を認める限り、「我々」の直観とタルスキの定義の間には外延上の不一致が生じ、実質適合性の条件が満たされなくなる。以上がエチメンディのタルスキ批判の要点であった。
 この批判に対して、タルスキの定義をそのまま受け入れようとする我々は、どのように答えることができるであろうか。唯一可能であると思われる答えは、エチメンディの前提を拒否する道である。つまり、タルスキの定義をそのまま受け入れようとしている「我々」は、文(1)は論理的に真であると見なしており、それが「我々」の直観である、と答える道である。文(1)以外にも、エチメンディが問題視しうる文(「我々」の直観は通常は論理的真理とは認めないが、タルスキの定義では論理的真理と判定されるような文)はいくつか存在する。そうした文のすべてに対して、「我々」の直観に従えばそれらは論理的に真であり、必然的に真であり、経験から独立して真である、と答えるのである。そうすると、定義が捉えるべき特徴は形而上学的特徴のままであるにもかかわらず、科学性条件を満たした上で、実質適合性条件を満たすことが可能になり、タルスキの定義をそのまま採用したままエチメンディの批判を退けることができる。
 しかし、エチメンディはなお、「『我々』の直観によると、文(1)は論理的真理ではない」と主張するであろうし、それに対して第三の方法は、「『我々』の直観によると、文(1)は論理的真理である」と反論しているだけであり、二つの「我々」の間の直観の相違があらわにされただけと言われるかもしれない。今のところはそうである。しかし、そのことだけでも十分注意に値する事実である。エチメンディは文(1)が論理的真理ではないことを独断的に前提しているように思われる。ある人々が実際に文(1)を論理的に真であると見なしているという事実に彼は気付いておらず、そうした人々が存在するかもしれないという可能性にも注意を払っていない。従って、彼は、文(1)を論理的真理と見なす人々に対する議論を何ら持ち合わせていない。これがエチメンディのタルスキ批判の欠点である。エチメンディの議論によっては、第三の方法は、それを採用している人が文(1)は論理的に真であるという直観を有しているのであるから、論駁されないのである。
 では、逆に、文(1)は論理的真理ではないと考える人々を、第三の方法を取る我々は論駁できるであろうか。第三の方法を取る我々の直観は、タルスキの定義によって厳密に正確に定式化されている。また、エチメンディが指摘したように、タルスキの定義は還元原理に基づいていた。従って、エチメンディの考えとは逆にこれを積極的に用いれば、論理的真理とは現実世界に存在するすべての個体について当てはまるような真理である、と我々の直観を概念的に表現することもできる。この点を、文(1)の論理的真理性を否定する人々に我々の利点として示すことができるであろう。その上で、文(1)の論理的真理性を否定する人々の直観がタルスキの定義のような正確で厳密な定式化を欠いており、概念的にも満足に表現され得ないことを、彼らの欠点として指摘することができるであろう。しかし、このようなことを行ったからといって、彼らを論駁したことにはならない。厳密な定式化を受け入れず、概念的に表現することも困難なものとして、彼らは彼らの「論理的真理」についての直観に固執し、「文(1)は論理的に真なのではない」と主張し続けることができるであろう。我々は、文(1)を論理的真理と見なす直観が、論理的真理性についての哲学的に洗練された直観である、と主張することができるかもしれない。しかし、彼らは、文(1)の論理的真理性を拒否する直観が、論理的真理についての深遠なる直観である、と言い返すことができるであろう。問題になっているのが我々の「直観」である以上、議論によって相互に決定的に論駁し合うことはできないように思われる。
 そうすると、第三の方法を取った場合、論理的真理についての対立する二つの考え方が存在したままになってしまうのであろうか。今の段階ではそうならざるを得ない。しかし、私はむしろ次のような見通しを持っている。「文(1)は論理的真理ではない」という直観を哲学的議論によって論駁することはできない。しかし、逆にいえば、この直観を有する人がそれを放棄するようになるには、哲学的議論は必要ない、と言えるであろう。つまり、事実として人は、「文(1)は論理的真理ではない」という直観を捨て、「文(1)は論理的真理である」という直観へと移行していくかもしれない。そうすれば、論理的真理についての考え方の対立は消失し、タルスキの定義で定式化されている考え方だけになるであろう。こうした移行が生じるであろうという保証はない。しかし、幾人かの人々には事実生じた。タルスキの定義によると文(1)は論理的真理と判定されるということを、エチメンディはタルスキの定義が間違っていることの証拠であると論じた。しかし、そうした人々は、エチメンディのこの議論から、むしろ文(1)は論理的に真であると考えるようになったのである。そのように考えるようになったのは、タルスキの定義が厳密さと正確さを有しており、還元原理という明確なアイディアに基づいているからであり、他方、文(1)の論理的真理性を否定する考えがあまりにも捉え所がなく、曖昧だからである。私の見通しというのは、このような移行が将来支配的になるのではないか、というものである。タルスキの定義は、こうした移行を引き起こすだけの力を備えているように思われる。

 以上、この節では、論理的帰結関係を定義するための可能な三つの方法を述べたが、いずれも概略的なものにとどまり、その細部、およびそれらの方法の成否については、大まかな見通ししか述べることはできなかった。むしろここで強調したかったことは、論理と形而上学の間には、なお考察すべき幾つかの有意義な問題が潜んでいるということであった。


第二章 真理概念

1 序

 今世紀の初頭にタルスキが発表した論文「形式化された言語における真理概念」は、二つの点において現代の哲学に大きな影響を与えた。第一に、この論文は、前章で取り上げられた論文「論理的帰結概念について」とあわさることによって、モデル理論という数学の一分野の原型を与えた。現代英米の言語哲学(特に形式意味論)は、このモデル理論という道具なしでは成立しないと言っても言い過ぎではないであろう。第二に、この論文は、真理という伝統的な哲学の問題にある「解答」を与えた。タルスキは自分の論文が哲学含みであることを十分に意識しており、その後哲学者向けに、「科学的意味論の確立」、「意味論的真理概念と意味論の基礎」、およびより一般向けに「真理と証明」という論文を著わした。この章の目的は、この第二の、タルスキが真理概念について与えた哲学的「解答」の検討を行うことにある。
 タルスキの「解答」に対する哲学者の反応は三つに別れる。第一のグループは「解答」を全面的に受け入れ、第二のグループは全面的に拒否し、残る第三のグループは受け入れることも拒否することもためらっている。第三のグループがためらうことの理由の一つは、そもそもタルスキの「解答」がいかなる解答であるのか判然としない、ということに存する。以下の節で我々が行なおうとすることは、真理概念に対するタルスキの「解答」の意味内容を確定する作業である。したがって、タルスキの「解答」が他の解答と比べてより正しいものであるのか、という考察はいっさい行なわれない。この章の主な目的は、タルスキの「解答」の解釈というきわめて限定されたものである。
 以下の節での我々の考察の中心になるのは、図式
特にその代入例
である(1)。我々は図式(1)を「図式 T」、それに対する(2)のような代入例を「T 型同値文」と呼ぶことにする。我々の考察を導く問いは、次の問いである。
しかしながら、この問いの意味はまだ曖昧である。この問いの意味を明確にするためには、タルスキの論文の概要を見ておかなければならない。
 
 
2 真理についてのタルスキの議論

2.1 タルスキによる真理述語の定義

 厳密にタルスキ自身の用語を用いて言えば、タルスキが「形式化された言語における真理概念」 という論文の中で主に行ったことは、真理の理論の構成ではなく、真理の定義の構成である。真理の定義とは、ある一定の条件を満たした言語(2)の中に、真理述語「・・・は真である」を定義によって導入することである。この条件とは、
である。導入されるべき真理述語は、対象言語に属する文の名前に述語付けられる。このように定義された真理述語は、結局、論理学、集合論、および対象言語に属する概念に還元されることになる。
 これに対して、タルスキの言う「真理の理論」とは、真理述語を原始的な未定義の述語として言語の中に導入し、一群の公理(真理述語を含んでいる公理)を導入することによって、真理述語を特徴付けることを意味している。つまり、これら一群の公理が真理のための特別な理論を形成するのである。タルスキはこのような真理の理論に対してある種の懸念を表明している。真理述語が原始的な未定義の述語として導入されている限り、それを論理学、集合論、ないし対象言語に属する概念に還元することは不可能である。「するとこの方法を科学の統一の要請・物理主義の要請と調和させることが困難になるであろうと私には思われる(なぜなら[真理概念]は論理的概念でも物理的概念でもなくなるからである)」(3)。したがってタルスキは、物理主義の要請と調和させるために、論理学、集合論、および対象言語に属する概念のみをもちいた真理述語の「定義」を試みるのである。
 真理述語の定義による具体的な導入は、当然のことながら、導入が行われる言語(「メタ言語」と呼ばれる)の各々に即して、個々別々に行われなければならない。上の条件から明らかなように、メタ言語間の本質的な差異は、それが扱う対象言語間の差異に帰着する。対象言語となりうるものは無限に存在するが、ここでは、以下の論述との関係上、三つの言語 Lf、Lp、Lc のみを取り上げ、それに対してタルスキが与えた、ないし与えたであろう真理述語の定義を見てみることにする(4)
 第一の対象言語 Lf の特徴は、以下のような有限個の文(原子文ではない)しか含んでいないことにある。
この場合のメタ言語(「MLf」と呼ぶことにする)は、この対象言語自体、およびその各々の文の名前を得るための鈎括弧、論理学・集合論のみを含む言語である。真理述語の定義は次のように一覧表形式で与えられる。
 第二の対象言語 Lp は、原子文として Lf のすべての文を含み、さらに真理関数的文結合子「〜」、「∨」、および補助記号として括弧(「(」と「)」)を有しており、この結合子を原子文に適用することによって、以下のような無限個の文を含むものである。
無限個の文を含むがゆえに、Lf のときのような一覧表形式の方法をそのまま適用することは不可能となり、この場合の真理述語の定義は、次のような帰納的な手法をもちいて与えられることになる(メタ言語 MLp は MLf と同じ)。
 最後に、対象言語 Lc は、述語「⊆」、変項「v1」、「v2」、・・・、真理関数的結合子「〜」と「∨」、普遍量化記号「∀」から成る言語であり、以下のような無限個の文を含んでいる。
Lc は、無限個の文を含んでいるという点では Lp と同様であるが、普遍量化記号が導入されたことによって、Lp とは異なる文形成の方法が生じる。つまり、Lp の場合は、常に文に真理関数的結合子を適用して新しい文が形成されるのに対して、Lc の場合は、自由変項を含む式に「∀vk」を適用して新しい文が形成される場合がある。このため、特別な方法が要求されることになる。そこでまず、「対象(集合)の無限列による文関数の充足」という概念が、次のような定義によってメタ言語 MLc(MLf から Lf を除いたもの)に導入される(文と自由変項を含んだ式がともに「文関数」と呼ばれる)。(f が集合の無限列であるとき、fk はこの無限列の k 番目の集合である。)
この充足述語の定義を基にして、真理述語は次のように定義される。
 以上の三つの言語 Lf、Lp、Lc を取り上げ、それに対する真理述語の定義を概観(5)した理由は、次の三点を確認しておくためである。第一に、ここで行われているのは真理述語の「定義」であって、「真理の理論」の構成ではない。メタ言語 MLf、MLp、MLc はいずれも論理学(構文論を含む)、集合論、対象言語の概念だけしか含んでおらず、真理述語はこれらの概念に完全に還元されている(MLc では、真理述語は充足述語に還元されているが、充足述語は論理学、集合論、対象言語の概念に完全に還元されている)。したがって、これらのメタ言語の中には真理の理論は一切存在しない。すなわち、真理述語を未定義の原始的述語として含んでいる公理は一切存在しない。そこに含まれている理論(公理の集合)は、論理学、集合論、および対象言語の理論だけである。第二に確認しておきたいのは、対象言語の性質に応じて「一覧表形式」、「帰納的手法」、「充足述語への還元」という異なる方法が真理述語の定義において使用されている点である。しかしながら、最後に確認しておかなければならないのは、「一覧表形式」が最も基本的な方法である、という点である。MLf ではすべての文が列挙されている。MLp ではすべての原子文、およびすべての真理関数的結合子が列挙されている。MLc ではすべての論理記号、およびすべての述語(Lc は一つしか述語を持たないが)が列挙されている。この点はタルスキの真理定義の方法論的(原理的?)欠陥としてしばしば問題にされ、本論文でも後ほど言及されることになる。
    
2.2 タルスキの真理論

 前節では、タルスキは真理の理論ではなく真理の定義を与えたのである、ということが強調された。 では、タルスキは彼の論文のどこにおいても真理の理論を表明しなかったのであろうか。もしそうならば、真理という伝統的な哲学の問題にタルスキが「解答」を与えることなど不可能ではないか。なるほど「真理の理論」をタルスキの意味で解釈するならば、すなわち、メタ言語への公理による真理述語の未定義語としての導入と解釈するならば、彼は真理の理論をまったく与えなかったと言える(6)。しかし、真理の理論をより広い意味で解釈するならば、タルスキは彼の論文において真理の理論を表明している、と私は考える。以下では、タルスキの真理の理論と私が考えているものを、タルスキ独自の用語である「真理の理論」との混同を避けるために、「タルスキの真理論」と呼ぶことにする。私がタルスキの真理論であると考えているのは、有名な「規約 T」、より正確には、その背景にある考察である。
 規約 T は真理述語の定義の中には現われない。真理述語の定義は、(∀x)(F(x) ≡・・・x・・・) という形式を有した、単なる語の定義にすぎない。規約 T が現われるのは、定義が行われている言語に対するメタ言語(真理述語の定義が行われている言語は既にある対象言語に対するメタ言語であるから、厳密にはメタメタ言語)においてであり、それは定義の実質適合性の条件として現われる。
定義に対するメタ言明であるこの規約 T が、タルスキの真理論を探り出すための鍵を与えてくれる。規約 T は真理定義の適合性の定義であると見なすことはできるかもしれないが、真理の定義ではまったくない。規約 T は、真理述語の定義からすべての T 型同値文が帰結されることを要求している。そのような要求がなされる理由は、タルスキが T 型同値文を正しい真なる文であると考えていることに存する。タルスキが正しい文であると考えている T 型同値文は、真理述語の定義が与えられる以前の文であるから、そこで現われている真理概念は、とりあえず論理学、集合論、対象言語の概念などに還元可能なものとは言えない。規約 T を与えるに至った、定義以前の真理概念に対するタルスキのこの考察、すなわち T 型同値文は真であるという考察は、真理概念に対するタルスキの実質的な理論、すなわちタルスキの真理論を表現していると見なせるであろう。
 では、具体的には、規約 T の背後でなされたタルスキの真理論とはどのようなものであるのか。形式的な表現を使って述べれば、それは図式 T
のすべての代入例(T 型同値文)を定理として導き出すような理論である。ただし、「すべての」ということの意味を明確にしておかなければならない。あるメタ言語における真理述語の定義は、特定の対象言語に対する真理述語の定義である。したがって、この定義が実質に適合していると言われるための必要十分条件は、この対象言語に属するすべての文に関して T 型同値文を帰結することである。例えば、クラス理論の言語 Lc に対するメタ言語 MLc における真理述語の定義が、「『雪は白い』は真である ≡ 雪は白い 」を帰結する必要はない。しかしながら、規約 T は特定のメタ言語における真理述語の定義に対して課されている条件ではなく、任意のメタ言語における真理述語の定義に対して課されている条件である。したがって、タルスキの真理論が定理として導き出す「すべての」代入例(T 型同値文)とは、存在する限りのすべての人工言語、自然言語(おそらく宇宙人やライオンの言語も存在すれば含む)に属するすべての文に関する T 型同値文である(9)
 だが、このように記述されたタルスキの真理論は、その哲学的意味内容が依然として不明である。「真理とは整合性である」、「真理とは有用性である」といった真理論に見られる概念的な表現を欠いている。だからこそ第 1 節で予告したように
と問わなければならないのである。タルスキが自身の真理論の定理としてすべての T 型同値文を採用したということは、彼がすべての T 型同値文を正しい(真である)と見なしたということを意味している。なぜ正しいと見なしたのか、その理由を探究することによって、あるいは、どのような公理を採用することによって T 型同値文を真なるものとして導き出すことができたのかを検討することによって、タルスキの真理論の哲学的意味内容が明瞭なものになってくるであろう。
 以上、我々の主導的な問いの意味を明確にすることを試みたが、この問いが真理の定義と真理論の区別の問題とどのように関連しているのかを、もう少しはっきりさせておいたほうが良いであろう。この問いを定義の中で問うことは、つまり、真理述語の定義が行われているメタ言語の中で問うことは、無意味である。無意味というのは、議論の余地のない明確な答えが存在するからである。メタ言語 MLf における T 型同値文
の地位を考えてみよう。これは真理述語の定義から次のようにして論理的に演繹される。まず、全称特例化によって、
が得られる。また、論理学(構文論)の定理として、
が成立する。よって、
が帰結する。したがって、この T 型同値文が真であることの理由は、論理的真理であること以外の何ものでもない(10)。それ以外の理由を求めることは、無駄であり、間違っている。これに対して、タルスキの真理論においては、T 型同値文は公理から論理的に導かれるかもしれないが、この公理自体が明らかになっていないため、T 型同値文が真であることの理由はいまだ不明であり、十分問うに値する。
 したがって、我々が問いたいのは、
ではなく、
である。T 型同値文が正しいことは自明である、としばしば主張されてきた。その際の T 型同値文によって真理定義の定理としての T 型同値文が意味されているとすれば、この主張はある意味でもっともである。なぜなら、この場合、T 型同値文は論理的真理、トートロジーだからである(11)。他方、タルスキの真理論において T 型同値文が正しいとされた理由は、それほど自明ではないのである。


3 タルスキの真理論と真理の対応説との関係

 この節では、T 型同値文はなぜ正しいのか、という問題を、いわゆる「真理の対応説」との関係で検討してみたい。タルスキ自身が対応説にしばしば言及していることはよく知られている。そこでまず彼自身が与えている説明を考察する。次に、タルスキを対応説論者と見なそうと試みたデイヴィドソン、フィールドらの解釈が取り上げられる。最後に、タルスキは対応説論者ではない、と論じたカーカム、エチメンディの議論が検討される。私の最終的な答えは、タルスキの真理論を対応説と見なすことは可能である、というものである。

3.1 平易な形の対応説

 タルスキは真理概念が多義的であることを認める。つまり、同じ「真である」という述語に対して、いくつかの異なる真理概念が付着していることを認めるのである。彼が定義しようと試みるのは、その中の支配的な概念、すなわち通常もっともよく用いられている概念である。タルスキはそれを「古典的真理概念」と呼ぶ。古典的真理概念は次のような定式化によって表現されたきたとタルスキは主張する。
しかしタルスキは、これらの定式化はいずれも不正確で不明瞭であるとみなし、より正確な定式化を求める。だが、その定式化は次のように簡単に与えられてしまう。
T 型同値文はすべての真理論が認めなければならない最小限の条件であり、したがってタルスキの真理概念はいかなる真理概念からも中立である、ということがときどき主張されている。しかし、タルスキ自身の考えによれば、古典的真理概念を採用したときに T 型同値文は真になるのであり、古典的真理概念はいくつかある真理概念のうちの(支配的とはいえ)一つにすぎないのである。古典的真理概念を採用している真理論を「真理の対応説」と呼ぶならば、我々の問に対する答えは次のようになる。
この章では真理の対応説の是非は問わない。問いたいのは、真理の対応説に従うと、なぜ T 型同値文は真になるのか、という問題である。例え対応説が真であると仮定しても、この問題に答えられない限り、T 型同値文がなぜ真であるのかは、依然として不明瞭だからである。
 この問題に対するタルスキ自身の答えは、T 型同値文(の全体)が真理の対応説そのものである、というものであるように思われる。一つの文「雪は白い」を例にして考えてみよう。上の(1)の考えに基づけば、この文の真理は次のように説明される。
タルスキはこの表現を不明瞭かつ不正確であると見なす。そしてこの表現で表現されている真理概念は、明瞭な表現である T 型同値文
によって正確に捉えられると考えるのである。「[(B)]に類した文は、明瞭であり、定式化[(A)]で表現されている『真である』という語の意味と完全に一致する」(19)。つまり、(B)は(A)を「平易な言葉で定式化」(20)したものにすぎないというのである。T 型同値文が対応説(による個々の文の説明)の言い換えであるとすれば、対応説が正しいことを仮定する限り、T 型同値文の真理性は自動的に成立する。つまり、この場合、タルスキの真理論は、すべての言語に属するすべての文についての T 型同値文そのものを公理とすることによって形成される真理論であり(したがって T 型同値文は、他の何らかの公理から演繹される定理なのではない)、これら公理(すなわち T 型同値文)が真であることは、それが対応説そのものであることによって保証される。
 しかし、哲学者がこの説明に満足することは不可能であろう。確かに(A)に類する文は「実在」や「対応」という哲学のジャーゴンを使っている。しかし、これらのジャーゴンがどれほど不明瞭なものであるとしても、そこにおいて確かに「真理の対応説」とでも呼ばれることができるような何かが語られていることは、少なくとも感じられるのではないか。これに対して、T 型同値文は、なるほど平易な言葉のみで語られているが、そこにおいて「真理の対応説」と呼ばれうるようなものが語られているということは、きわめて疑わしく思われる。
 真理の対応説の核心は、言語と世界の「関係」によって真理を説明する、ということに存する。この点はタルスキも認めていると思われる。彼は T 型同値文によって表現される古典的真理概念を「意味論的真理概念」とも呼び、それを次のように説明する。
ゆえに、真理概念も意味論的概念であるとタルスキは見なすのであるが、T 型同値文そのものの中に文と事態の「関係」を見てとることは困難であるように思われる。T 型同値文が事態に言及しているとしても、なぜ文と事態の関係を表現することになるのか、理解し難い。よって我々は、T 型同値文が真理対応説の平易な言葉による正確な再定式化とは認めることができない。
 しかし、タルスキはまた続けて次のようにも言っている。
ゆえに、真理概念は意味論的概念、すなわち、真理の対応説によって表現されている概念である、とタルスキは考える。しかしこれは、T 型同値文そのものが対応説の平易な言葉による定式化である、という主張とはずいぶん距離のある考えである。次節では、デイヴィドソンのタルスキ解釈を通して、この考えを検討してみたい。
 
3.2 洗練された対応説

 一時期のデイヴィドソンは、タルスキの真理論を対応説であると考え、それを「洗練された対応説」と呼んだ(23)。しかし、最近になって彼はこの解釈を間違いであったと自己批判した(24)。したがって、彼の旧説を今さら取り上げるのは無駄であると言えるかもしれない。しかしながら、前節の最後で見たタルスキの考えを理解するには、おそらくデイヴィドソンのように理解するのがもっとも自然であろう。また、我々の現在の問題である T 型同値文の真理性を探究するにあたって、デイヴィドソンの古い議論を吟味することは、一つの方法論的指針と、いくつかの教訓を与えてくれることになるであろう。
 デイヴィドソンはまず、個々の文に対する古典的な真理対応説による定式化が抱える困難を指摘する。それは、「事実に対応する」と言われるときの、「事実」という概念が抱える困難である。雪は白い、草は緑である、などの言明の真理を説明することを意図した、次のような定式化を取り上げてみよう。
デイヴィドソンはこれを興味の持てない説明であると見なす。なぜならこれは、「・・・という言明は真である」ということ以上のことを述べていないからである。このタイプの説明が興味の持てるものであるとすれば、それは次のような形をしていなければならない。
つまり、事実との対応による真理の説明がトリヴィアルなものでないためには(すなわち、「真である」という述語を別の単一の述語に置き換える以上のことをするためには)、異なる言明には異なる事実を対応させなければならない、とデイヴィドソンは考えるのである。では、雪は白い、草は緑である、などの真なる言明が対応している、別々の事実、「p という事実」、「q という事実」などは存在するのであろうか。一見すると、雪は白いという言明は、雪は白いという事実にのみ対応しており、草は緑であるという言明は、草は緑であるという事実にのみ対応しているように思われる。しかし、デイヴィドソンは、フレーゲとチャーチに由来する議論を用いて、この見かけはまやかしであると論じる(25)。ここから得られる帰結は、ただ一つの事実(「大事実(The Great Fact)」)しか存在せず、真なる文はすべてこの大事実に対応することになる、というものである。結局、事実との対応による真理の説明は、「・・・は真である」という述語を「・・・は大事実に対応している」という述語に置き換えたにすぎず、興味の持てない説明である、というのが古典的対応説に対するデイヴィドソンの最終的な診断である。
 次に、この古典的なトリヴィアルな真理対応説に対して、タルスキの真理論は興味の持てる「洗練された対応説」である、とデイヴィドソンは主張する。まず彼は、T 型同値文そのものは対応説の定式化ではない、という観察から出発する。
では、いかなる仕方でタルスキの真理論を対応説と見なせるのであろうか。デイヴィドソンが注目するのは、2.1 節で見た MLc における真理述語の定義である。それは次のようなものであった。
デイヴィドソンはこれが対応説を表現していると考える(右辺を「x はすべての無限列に『対応』している」と読むことによって)。
充足による真理の説明が、事実との対応による説明よりも「洗練」されている理由を、デイヴィドソンは次のように説明する。第一に、後者が文の対応物として、対象だけではなく性質や関係も取り入れたのに対して、前者は、対象だけに限定することによって単純化されている。第二に、後者が全称文を無限連言に還元せざるを得なかったのに対して、前者は、全称文を独立したものとして扱っている(29)
 しかし、デイヴィドソンが事実概念に訴える対応説に懐疑的だったもともとの理由は、上で見たように、すべての真なる文が一つの「大事実」に対応してしまう、ということだったはずである。ところが、充足に訴える対応説も、この困難を克服しているようには思われない。つまり、すべての真なる文が「すべての無限列」によって充足されるのだから、いわば、一つの「大無限列(The Great Sequence)」(これはデイヴィドソンの言葉ではない)によって充足されてしまうのではないか。この疑問に対して、デイヴィドソンは次のように弁解する。なるほどすべての真なる文は「すべての無限列」によって充足される。しかし、真なる文についての T 型同値文を充足による真理定義から演繹するときの証明過程は、すべての文において異なっている。したがって、デイヴィドソンは、異なる文にはこの異なる証明過程が「対応」していると言いたいのであろう。だが、この弁解は曖昧であり、理解し難い(30)。そして、後にデイヴィドソン自身、次のように自己批判することになる。
 以上が、デイヴィドソンがタルスキを真理対応説論者として解釈した方法と、その崩壊の過程である。ここから我々の問題に関連した重要なことを学ぶことができる。
 デイヴィドソンはタルスキの真理定義を「真理論(theory of truth)」と呼んでいる。言葉遣いだけの問題なら良いが、タルスキの真理定義がそのまま本物の真理論であると考えると、奇妙なことになってしまう。第一に、2.1 節で見たように、タルスキはいくつかの異なった真理定義を与えた。したがって、真理定義を真理論そのものである考えるなら、タルスキは異なるいくつかの真理論を与えた、ということになってしまう。事実、デイヴィドソンはそう考えているように思われる。彼によると、「洗練された対応説を使うことのよさを我々が味わえるのは」、Lc のように量化を含んだ言語に対するときだけである、ということになる(32)。そうすると、量化を含んでいない言語に対しては、タルスキは対応説を取っていないし、我々も対応説を取る必要はない、ということになる(33)。このような考え方を我々は認めることはできない。タルスキが仮に対応説を取っているとすれば、いかなる言語に対するときも、彼は対応説を取っているのである、と我々は考えたい。一般的に言って、真理論とは、それが対象とする特定の言語に左右されるものではないはずである。2.2 節で見たタルスキの規約 T も、任意の言語に対する真理定義に課された条件であった。第二に、定義の内部にとどまる限り、「T 型同値文はなぜ正しいのか」という我々の問題に対して、解決を与えることはできない。なるほど、充足による真理述語の定義から T 型同値文を演繹することはできる。しかし、2.2 節で述べたように、この T 型同値文の真理性は、単なる論理的真理性にすぎないのであって、真理対応説のゆえに T 型同値文は正しい、と結論することはできない。
 しかし、以上の二点を克服するよう配慮するならば、我々はデイヴィドソンの議論(充足による真理定義は対応説であるという議論)を使用して、我々の問題へと次のように適用することが可能である。まず、タルスキの真理論の公理として次のものが採用されていると仮定する。
変項「x」が覆う領域は、任意の言語に属する文(「雪は白い」など)である。(CA)は、「真である」という述語の定義ではなくて、真理対応説の表現そのものであるとする。したがって、この公理の真理性は、真理対応説が正しいことに依存している。対応説が間違った考えであれば、この公理は偽であるかもしれないが、我々は対応説が正しいことを仮定する。目標は(CA)から T 型同値文を演繹することである。そのために必要なのは、充足概念を特徴付ける理論である。これをタルスキの与えた定義にならって正確に書くことは難しいが、とりあえず、図式
のすべての代入例(「X」には任意の言語に属する任意の文を、「x」にはその文の名前を代入する)を定理として導き出すような理論であると仮定する。この定理の真理性は、充足についての何らかの公理によって保証されなければならないが、ここでは単にその真理性を仮定しておくにとどめる(ここでの目標は、デイヴィドソンの議論から、我々の問に答えるための一般的方法を抽出することだけである)。さて、文「雪は白い」についての T 型同値文を演繹してみよう。まず、(CA)から
が得られる。次に、(SS)の代入例である充足理論の定理として
が成立する。よって、T 型同値文
が得られる。そうすると、我々の問に対する答えは次のようになる。
この答えが受け入れられないのは、デイヴィドソン自身が最終的に認めたように、(CA)を真理対応説の満足ゆく表現と見なせないからである。
 したがって、我々が取り組まなければならない課題は、真理対応説の納得ゆく定式化を得ることと、そこから T 型同値文を演繹するのに必要な補助理論(上の充足理論に相当するもの)を明示することである。T 型同値文そのものが対応説の表現であるということを認められない以上、これが、我々の問いに答えるために採用すべき方法である。
 先に進む前に、なぜ(CA)が対応説として不満足なものであるのかを、もう一度反省しておこう。それは、すべての真なる文が単一の「大無限列(すべての無限列、すなわち、すべての対象)」に対応してしまうことにあった。量化文「∀xFx」などが対応している何かは、確かにすべての対象を含まねばならないであろう。しかし、例えば「雪は白い」という文が対応している何かが、すべての対象を含むとは考えられない。そこに含まれている対象は、あくまで雪という対象だけであろう。したがって、対応説の満足ゆく定式化は、個々の文がそれぞれ固有に関わっている特定の対象を、それぞれの文が対応するものとして特定しなければならない。次に、(CA)は、文が対応するものの中に対象だけを含ませ、性質、関係などを排除している。これは「洗練」ではなく、単なる「欠陥」である。満足ゆく対応説は、性質、関係なども文が対応するものの中に、なんとかして取り込まなければならない。以上の二点に留意して、タルスキを対応説論者として解釈しようとしたのが、次節で取り上げるフィールドである(34)
   
3.3 物理主義的対応説

 フィールドの 1972 年の論文は、多くの人に受け入れられる一方で、さまざまな反論も引き起こした。ただし、その反論は、フィールドがそこで提出した「物理主義的指示の理論」というプログラムそのものに向けられることが多く、タルスキ解釈として正しいのか、ということはあまり検討されていないように思われる。我々はフィールドのタルスキ解釈は基本的なところで誤っていると考える。しかしながら、フィールドの議論を我々の問いに答えるために応用することは可能である。
 フィールドによると、「タルスキは彼の意味論的理論をきわめて誤解に導きやすい仕方で提出した」。そこでフィールドは、「タルスキが提出するべきだった思われる仕方でタルスキの理論を提出する」ことを試みる。それは以下の通りである(35)
 まず、特定の対象言語 L を取り上げる。これは、名前「c1」、「c2」、・・・、一項関数「f1」、「f2」、・・・、一項述語「p1」、「p2」、・・・、論理記号「〜」、「∧」、「∀」、変数「x1」、「x2」、・・・、からなる言語である。次に、「対象の無限列 s に関して、…は〜を指示する」という述語(「…は〜を s-指示する」と略記する)を、次のように帰納的に定義する。(sk は無限列 s の k 番目の対象、「e」は L の表現を領域とする変項、「〔〕」は準引用符(quasi-quotation mark)である。)
次に、充足述語が以下のように定義される(37)
最後に、真理述語が次のように定義される。
 以上が、タルスキが本来提示すべきだったとフィールドが信じているところの真理定義である。彼はこれを「T1」と呼ぶ。T1 の哲学的意義は、真理概念を他の三つの意味論的概念、すなわち、「指示する(denote)」、「満たす(fulfill)」、「当てはまる(apply)」という概念に還元したことに存する、とフィールドは言う。この三つの意味論的概念は、一括して「原始的指示概念」と呼ばれる。では、タルスキが実際に与えた真理定義(「T2」と呼ばれる)と T1 の間の関係はどうなっているのであろうか。フィールドの答えは、T1 に原始的指示概念に対するタルスキ流の定義を付け加えれば T2 になる、あるいは、T2 は T1 に原始的指示概念に対するタルスキ流の定義を付け加えたものと論理的に等値である、というものである。すなわち、タルスキが実際に与えた真理定義 T2 を分解して行けば、フィールドの与えた T1 と、原始的指示概念に対するタルスキ流の定義が得られるというのである。これがフィールドの第一の論点である。さらにフィールドは、タルスキが与えた(ないし与えたであろう)原始的指示概念の定義を検討する。それは、原始的指示概念に対する、トリヴィアルで興味の持てない疑似理論である、とフィールドは断定する。これが彼の論文の第二の論点である。以上の二点より、タルスキが実際に与えた真理定義の中で真に哲学的な意義を有するのは T1 だけである、ということが結論される。その意義とは、先に述べたように、真理概念を他の意味論的概念に還元した、ということに尽きる。
 我々はこの節の最初に、フィールドのタルスキ解釈は基本的なところで誤っている、と述べた。その意味は次の通りである。フィールドはタルスキの真理定義を「真理論」と呼んだり、「『真理特徴付け』と呼ぶことを好む」と述べたりしているが、定義の枠内で考察していることにはかわりない。例えば、T1 はタルスキが実際に与えた真理定義 T2 に置き換わるべきである、とフィールドは考えている。しかしこれは、タルスキの真理定義の意味を誤解していると言わざるを得ない。タルスキの真理定義は、(特定の言語に関して)すべての T 型同値文を演繹することだけを目標にしているのである。そしてタルスキが実際に与えた真理定義 T2 は(特定の言語に関して)この目標を果たしている。したがって、目標を果たしている以上、T1 に置き換えられるべきである、などと言われる筋合いはない。さらに、T1 に置き換えられた場合、T 型同値文を演繹することはできなくなってしまう。T1 のみから演繹されるのは、例えば、
のような同値文だけであり、これを T 型同値文であると言い張ることはできないであろう。したがって、T1 は規約 T を満たしていない。よって、T1 を拒否する十分な理由が、タルスキの側には存在するのである(39)
 しかしながら、デイヴィドソンのときと同様、フィールドの議論を我々の問題へと応用することは可能である。我々の方針はこうである。まず、フィールドの T1 がタルスキの真理論において公理として採用されていると仮定する。次に、原始的指示概念に対するタルスキ流の定義を補助理論として採用する。T2 は T1 に原始的指示概念に対するタルスキ流の定義を付け加えたものと論理的に等値である、というフィールドの議論が正しいとすれば、当然、この公理と補助理論から T 型同値文を演繹することができるはずである。そこで我々は、第一に、実際にこの演繹過程を構成することにする。第二に、T1 を真理対応説の適切な表現と見なすことができることを示す。これができれば、公理として仮定された T1 の真理性が保証される(我々は対応説が正しいと仮定しているから)。第三に、補助理論の妥当性の問題を検討する。フィールドが言うようにこの補助理論が疑似理論であるとすれば、それを用いて演繹された T 型同値文の地位も危うくなるからである。そして最後に、この方向でタルスキを対応説論者と見なすことの問題点を指摘する。
 フィールドは、T1 から補助理論(原始的指示概念の理論)を経由して T 型同値文を演繹するということを行っていない。そこで、我々は、T1 を切り詰めてごく単純化し、演繹のアウトラインを示すことにしよう。対象言語から、まず量化記号と変数を除外する。これによって充足概念に訴える必要がなくなる。次に、関数記号と命題論理記号を除外する。これによって帰納的方法を用いる必要がなくなる。一項述語だけに限定されているのは T1 と同じである。そうすると、対象言語は、一項述語と名前から構成された原子文のみから成ることになる。さらに、述語と名前の個数を有限個に限定する(名前は「雪」、
・・・、「草」のみであり、述語は「白い」、・・・、「赤い」のみであるとする)。最後に、フィールドの「x は y に当てはまる」を「x は対象のある集合を指示し、かつ、y はその成員である」と分解することにする。真理論の公理として採用されるのは、次の図式
のすべての代入例である。その中には次のものが含まれている。
次に、タルスキの原始的指示概念の理論の定理として、以下のものが成立していると仮定する。
(この理論では、簡単にするため、名前や述語が指示するものは、唯一的に決定されているとする。)以上の定理と(1)から次のものが演繹される。
よって、T1 と原始的指示概念の理論から T 型同値文が演繹された(41)
 我々の次の課題は、T1(上で採用された真理論の公理)を真理対応説の満足ゆく表現と見なすことができることを示すことである。それができるならば、我々の問いに対して次のように答えることができる。
3.1 節で我々は、真理「対応」説の核心を表現するためには、言語と世界の間の「関係」を表わす概念が不可欠であると考えた。デイヴィドソンはタルスキの「充足」概念がこの関係を表わすと解釈したが、T1 では新しく導入された「指示」概念がこの関係を表わしている。また、デイヴィドソンは、文が対応しているものは、事実という曖昧な存在者ではなく、対象(の無限列)であると解釈した。この点は、T1 でもそのまま生かされている。次に、デイヴィドソン解釈の欠点であった、すべての真なる文が同一のもの、すなわち、すべての対象(の無限列)に対応してしまう、という事態を T1 は回避している。それは、個々の文が関わっている対象、および対象の集合を特定することによって成されている(42)。また、対象の集合を導入することによって、性質をも文が対応するものの中に取り入れることに成功している。まとめると、T1 は、次のように、古典的な真理対応説を言い直していると考えられるのである。
フィールドは、1972 年の論文では、「対応説」という言葉は使っていないが、後にこの論文に言及して、「真理の対応説を与える提案」だったと述べている(43)。T1 を真理対応説の一つの満足ゆく(しかも洗練された)定式化と見なすことに、それほど異存はないであろう(44)
 しかしながら、フィールドは、対応真理概念を語と対象の間の指示関係によって説明することに満足しない。物理主義の観点から対応説を完全なものにするために、彼は、指示関係は語と対象の間の何らかの物理的な関係に還元されなければならない、と考える。つまり、指示の理論は物理学の理論で あらねばならないのである。そして、この点に関して、フィールドはタルスキ流の原始的指示概念の理論の批判を展開するのである。以下で、この批判を検討してみよう(45)
 タルスキは、フィールドの言う原始的指示概念のうち、「名前が対象を指示する」という概念の定義を非形式的に与えていた。それをフィールドは次のようなものとして提示する(46)
さらにフィールドは、タルスキがこのような定義を与えた理由を、規約 T と正確に類似した規約 D を満たしているからであろう、と推測する。フィールドによると、規約 D を満たすとは、次のことを意味している。
フィールドは以上のようなタルスキの指示概念の定義を取りあげて、それは「単なる一覧表という形をした名前の指示の理論」にすぎず、「指示を非意味論的名辞には実際には還元しておらず」、「疑似理論」であると断定する。事態は、各々の元素の原子価を次のように一覧表にすることによっては、原子価の概念が物理的に解明されたとは言えないのと同様である。
フィールドは、物理主義者として、このような一覧表形式の定義に興味を感じない。彼が指示の理論として興味を持つのは、クリプキによって展開された指示の因果論である。「そうした理論に従うと、『キケロ』はキケロ指示するという事実は、・・・キケロと我々による『キケロ』の使用との間の、ある種の因果のネットワークによって説明される」からである。彼は、これに類した指示の理論の可能性が、「非意味論的名辞による指示概念の本当の解明」に不可欠である、と考える(48)
 以上のフィールドの議論に対して、ここでは二つの注意をしておきたい。第一に、フィールドは指示の「定義」と指示の「理論」を混同している。上で見られたのは、タルスキの指示の定義であって、指示の理論ではない。そして、フィールドが推測しているように、タルスキの指示の定義は図式「『x』は x を指示する」のすべての代入例を帰結として持つことだけを目標にしているのである。この目標を果たしている以上、タルスキの指示定義には何の問題もない。さらに、この定義の内部では、例えば「『雪』は雪を指示する」のような言明は、定義から演繹された論理的真理であり、フィールドの考えている言語と世界の物理的な関係を表現するような経験的真理では、そもそもあり得ない。このような定義をとらえて、指示概念の解明がなされていないと非難するのは、まったくの的はずれである。しかしながら、真理の問題と同様、指示定義の背後にタルスキの指示理論の存在を予想することは可能である。それはどのようなものであるのか。はっきりしているのは、タルスキの指示の理論では「『x』は x を指示する」のすべての代入例が真となる、ということだけである。なぜ真となるのか。タルスキの指示の理論の根底にあるものは、まったく不明である。彼は指示概念を物理的概念には還元不可能な、頑固な意味論的概念と考えていたかもしれない。あるいは逆に、言語と世界の間の物理的因果関係に還元して考えていたのかもしれない。つまり、タルスキの指示の理論はフィールドの考えているものとそれほど違わなかったかもしれないのである(49)
 第二に、フィールドはタルスキの指示の定義をトリヴィアルであると批判するが、例えばそこから導かれる「『雪』は雪を指示する」の(定義の外部における)真理性と重要性を否定できないであろう。上で見た原子価の定義がどんなにつまらないものであっても、「カリウムは原子価 +1 を持つ」の(定義の外部における)真理性と重要性を否定できないのと同様である。フィールドの考えている指示の因果論が最終的にどのような形のものになるのか不明であるが、とりあえず次のような図式として書けるであろう。
この理論と「『雪』は因果のネットワークによって雪と結合している」という補助的な命題から、文「『雪』は雪を指示する」が導かれることになるはずである(50)。我々の目的である真理対応説(T1)から T 型同値文を演繹するのに必要なのは、このタイプの文である。我々はそれをタルスキの(詳細は不明な)指示の理論の定理として仮定したが、指示の因果論(プラス補助的な命題)の定理として仮定してもよかったのである。一般に、T1 に任意の指示の理論(および必要なら補助的理論)を付け加えても、T 型同値文は演繹されるのである。
 以上、フィールドの与えた真理対応説から、指示の理論を用いて、T 型同値文を演繹することが可能であることを見た。よって、我々の問いに対して、
と答えることができるように思われるかもしれない。しかしながら、忘れてはいけないのは、タルスキが彼の真理論において真であると考えたのは、任意の言語に属するすべての文についての T 型同値文であった、ということである。したがって、上の答えを最終的なものとして提出するためには、フィールドの与えた真理対応説 T1 を、すべての言語を覆うように拡張しなければならない。そして、そこには原理的な困難が存するのである。その困難は、我々が T 型同値文の演繹過程を示すために用いた、切りつめた言語に対する T1 型の対応説からも見てとることができる。そこで決定的に重要な役割を演じているのは、文を主語(名前)と述語に分解することであり、この分解ができなければ、T1 型の対応説を構成することもできなくなってしまう。ところが、我々は、この分解を任意の言語の文に対して行うことはできない。したがって、例えば「Gavagai」という未知の言語の文を前にしたとき、「雪は白い」のときに可能であったような対応説の定式化を与えることはできない。他方、T 型同値文の定式化は次のようにして可能である。
タルスキはこの T 型同値文も真であると見なしたはずである。したがって、この T 型同値文が正しいことの根拠を T1 型の対応説に求めることは無理である。つまり、T1 型の対応説を構成できない以上、そこからの演繹によってこの T 型同値文の真理性を示すこともできない。したがって、フィールドの T1 型対応説が公理として採用されていると仮定することによってタルスキの真理論を再構成することには限界がある。我々は、まだ、T 型同値文が正しいのは対応説にしたがっているからである、と完全には答えることができないのである。
 T1 型の対応説の欠点は、より一般的に言うならば、文法構造が十分に知られている言語にしか適用できない、ということにある。名前(主語)、一項述語、二項述語、・・・、一項関数、二項関数、・・・、量化子、変数、命題関数記号などが特定され得ないような言語に対しては、T1 型対応説は無力である。これに反して、T 型同値文は、「文」という最低限の知識しか要求しておらず(原子文であるのか複合文であるのかさえ問わない)、任意の言語に属するすべての文に関して、T 型同値文を構成することが可能である。したがって、任意の言語に属するすべての文を掬い取ることができるような、網の目のより細かい対応説が求められていると言えよう。
 
3.4 対応説の本質

 この節では、カーカムのアイディアを援用することによって、任意の言語に属するすべての文に適用可能な対応説を定式化し、そこに必要な補助理論を補うことによって、すべての T 型同値文が演繹可能であることを示す。これによって、タルスキの真理論を真理の対応説と見なすことが可能であることが結論される。ところで、カーカム自身は、タルスキの最終的な真理論は対応説ではない、と論じている。我々は彼のこの議論も検討してみなければならない。
 カーカムは、ラッセルの対応説とオースティンの対応説という異なったタイプの真理対応説を吟味することによって、「対応説の本質を捉えている」と彼が考える次のような図式(C)を提出する(51)
「t」の領域は真理値の担い手(truth bearers)、「x」の領域は事態(states of affairs)、「R」には真理値の担い手と事態の間を関係付ける関係語が代入される。カーカムが対応説の本質として抽出したものは、次の二点にまとめられる。第一の本質的な点は、真理値の担い手が真であることの条件として、事態の存立が主張されていることであり、第二の本質的な点は、真理値の担い手が真であることの条件として、真理値の担い手と事態の間の結合が主張されていることである。他方、本質的でないと彼が考えるのは次の三つである。第一に、真理値の担い手として選ばれた存在者のためにのみ必要な理論は、対応説にとっては本質的ではない。例えば、ラッセルの対応説は、真理値の担い手として信念を選択し、それゆえ彼の信念の理論と合体して提出されている。この信念の理論は真理の理論としての対応説から非本質的なものとして除去可能である、とカーカムは考えるのである。第二に、真理値の担い手とそれに対応する事実が同型(合同)であるという条件は、対応説にとっては本質的なものではない。同型性を要求することは、ラッセルや特に『論理哲学論考』のヴィトゲンシュタインの理論に顕著であるが、カーカムは、同型性を言わない理論、例えばオースティンの理論(彼の場合はむしろ積極的に同型性を否定している)も対応説の資格があると認めるのである(52)。第三に、対応説は実在論を含意する必要はない。図式(C)は、ある事態の存立を要求しているが、それが精神から独立に存立することまでは要求していないのである(53)
 さらにカーカムは、図式(C)の代入例になっており、かつタルスキの T 型同値文を導き出すことができる対応説として、次のような理論 S を提出する(54)
理論 S は、図式(C)の「R」に「〜は…と語る」を代入したものである。真理値の担い手はもちろん文である。この理論 S からすべての T 型同値文を演繹するためには、次の図式 M の任意の代入例が必要である。
ここで「p」は文によって置き換えられ、「x」はその文の名前によって置き換えられる。
 最初に述べたように、カーカム自身の意見は、タルスキの理論は対応説ではない、というものである。しかし、彼のその議論を検討する前に、彼のここまでの議論を利用して、我々の議論を先に完成させておこう。我々は、まず、タルスキの真理論の公理として理論 S が採用されていると仮定する。理論 S が対応説の本質を捉えた定式化であると認められる限り(55)、理論 S は真である(対応説が真であることを仮定するのが、この 3 節での基本方針である)。この理論 S は、3.3 節で見た T1 型の対応説とは違って、任意の言語に属するすべての文に対して適用可能な、網の目のより細かい対応説である。例として、既知の言語である日本語に属する文「雪は白い」と、未知の言語に属する文「Gavagai」を取り上げてみよう。理論 S にしたがうならば、これらの文が真であることは次のように説明される。
次に、タルスキの真理論の補助理論として「語る」の理論が採用されていると仮定する。この理論は、任意の言語に属するすべての文についての上の図式 M の代入例を定理として持つものである。ただし、文の名前は常に鈎括弧を付すことによって作られるものとする。したがって、これらの定理は次のようになる。
我々はこの「語る」の理論が真であることも仮定する(56)。(1)、(2)と(3)から次の T 型同値文が演繹される。
以上のようにして、任意の言語に属するすべての文について、T 型同値文を演繹することが可能である。よって、「T 型同値文はなぜ正しいのか」という問いに対して、我々は今や次のように答えることができる。
 カーカムの議論に戻ろう(57)。なぜ彼はタルスキの理論を対応説ではないと考えるのか。答えは簡単で、カーカムはタルスキが与えた真理の定義を「タルスキの最終的な理論」と見なしているからである。彼は、タルスキが理論 S に類似したものを考えていたと推測する。なぜなら、我々が3.1 節で見たように、タルスキは古典的真理概念の(不明瞭な)定式化の一つとして、次のものを挙げているからである。
カーカムは、ここで示唆されている考えを、「タルスキの真理それ自体についての考え(Tarski's notion of truth per se)」とまで呼ぶ。ところが、カーカムによると、タルスキはこの考えを「拒否」したのである。拒否した理由の一つを、カーカムは、それが「語る」という未定義の意味論的概念を含んでおり、物理主義の精神に反するからであろう、と想像している。そして、タルスキが「実際に最終的に行き着いた理論」は、彼の真理の定義である、とカーカムは断定する。しかし、この真理定義はいかなる意味でも対応説ではない。なぜなら、カーカムの対応説の定式化にとって必須である「この[『語る』という]意味論的関係がこの定義においては明示されていない」からである。
 エチメンディはカーカムとは異なる観点から、より強力な仕方で、タルスキの真理「定義」は対応説ではないと論じている。エチメンディによると、タルスキの目標は、真理の消去的な定義を与え、意味論的概念を含まないメタ理論の中へ真理概念を吸収してしまうことにある。他方、意味論(例えば対応説)においては、消去されない、固定した真理概念が前提されている。このことが、タルスキの真理定義を決定的に対応説とは相容れないものにするのである。次の二つの文を考えてみよう。
(6)は意味論に属する文である。これは、ある意味論的事実を表現しており、偶然的な、おそらく経験的な真理である、とエチメンディは考える(58)。他方、(7)はタルスキの真理定義から導かれる文である(タルスキが定義を与えた真理述語を「∈ T」と表記している)。これは、2.2 節で示されたように、論理学、構文論、および集合論の真理であり、必然的真理である。(6)から(7)への「この著しい変化は、[タルスキによる『∈ T』]の定義が[(6)]で用いられている対応概念の分析を与えているならば、生じないであろう」(59)。したがって、(6)のような T 型同値文が対応真理概念を部分的に表現しているとしても、この T 型同値文を(7)のような論理的真理としてしまうタルスキの真理定義においては、この対応真理概念は捉えられていないのである。
 タルスキの真理定義だけを見て、それは真理対応説である、と結論する人がいるとすれば、カーカムの議論もエチメンディの議論も共に、そうした人を論駁するための有効な議論として作用するであろう。タルスキの真理定義は対応説ではないという彼らの論点を、我々は全面的に受け入れることができる。我々が受け入れることができないのは、この論点から、カーカムのように、タルスキの最終的な真理論は彼の真理定義であり、したがって彼の最終的な真理論は対応説ではない、という帰結を導き出すことである。 
 我々の議論の出発点は、タルスキの真理定義とタルスキの真理論を区別することにあった。真理定義の構成は、規約 T にしたがう形で真理述語を定義によってメタ言語に導入することだけを目的にしている。このメタ言語の中では、エチメンディが正しく指摘したように、T 型同値文さえもが単なる論理的真理であり、真理述語を含む有意義な命題は一切存在しない。真理述語はすべてメタ言語において消去可能だからである。したがって、タルスキに真理論を求めるとすれば、それは定義の外部においてでしかありえない。定義の外部においてタルスキが真理について述べていることの一つは、「T 型同値文は正しい」ということである。この言明は、真理概念についてのタルスキの実質的な見解の表明であると見なすことができる。この T 型同値文(例えば、「『雪は白い』は真である ≡ 雪は白い」)の中に含まれている真理述語「は真である」は、定義によってメタ言語に導入された真理述語とは違って、未定義の、消去されない、前定義的な、実質的な真理述語だからである。しかし、なぜ T 型同値文は正しいと言えるのか、その理由をタルスキは明確には説明していない。つまり、タルスキは自身の真理論を十分には展開していないのである。唯一彼が説明していることは、「古典的真理概念にしたがうならば、T 型同値文は正しい」ということだけである。だが、この説明は、それほど簡単に了解できるものではない。我々はこの 3 節全体を通して、古典的真理概念を真理対応説であると考え、なぜ真理対応説から T 型同値文の正しさが言えるのかを検討してきた。それは、タルスキ自身が十分展開しなかった彼の真理論を、哲学的に納得ゆく形に再構成してみる試みであった。つまり、「対応説にしたがうならば T 型同値文は正しい」という漠然とした考えを、可能な限り整合的に理解しようとする試みであった。そして、最終的に、「T 型同値文が正しいのは、真理対応説(理論 S)と補助理論(『語る』の理論)にしたがっているからである」という答えを満足できるものとして得た。タルスキ自身がこのような仕方で T 型同値文を理論 S と「語る」の理論から演繹している訳ではないから、この答えをタルスキに帰属させるのはまったく推測の域を出ない。しかし、タルスキが明瞭に自分の考えを述べていない以上、この答えが彼のものであるという可能性を排除することもできない。この答えに基づいて、我々は、タルスキを真理対応説論者として見なすことが可能である。タルスキを対応説論者と見なすためには、「対応説にしたがうなら T 型同値文は真である」という考えをタルスキは表明しているという事実を指摘すれば十分ではないか、と言われるかもしれない。しかし、もし対応説からいかにしても T 型同値文が導き出せないとしたら、タルスキを真の対応説論者と見なすことはできないであろう。タルスキを真の対応説論者と見なすためには、我々が 3 節で行った考察が必要であり、その考察の結果、我々はタルスキを真の対応説論者と見なすことができるのである。


4 タルスキの真理論と真理のミニマル説との関係
   
4.1 古典的真理概念と対応説 

 タルスキの真理論の中心にあるのは、T 型同値文であり、T 型同値文がなぜ正しいと言えるのかを検討することが、タルスキの真理論を解明することにつながる。しかしながら、もし、T 型同値文の真理性さえ言えれば、まったく自由にタルスキの真理論を再構成してよいのだとすれば、いくらでも奇妙な真理論をタルスキに帰することができる。例えば、「聖書真理論」と呼ばれているものを取りあげてみよう(60)。この理論にしたがうと、文「雪は白い」の真理は次のように説明される。
さらに、「聖書存在論」とでも呼ばれるものを考えてみよう。この理論によると、雪が白いという事実の成立は次のように説明される。
(1)と(2)から次が演繹される。
かくして、任意の文に関する T 型同値文を聖書真理論と聖書存在論から演繹することが可能である。したがって、T 型同値文の真理性さえ言えればよいのであれば、タルスキの真理論として聖書真理論をタルスキに帰属させることができる。
 もちろん、我々はここまで自由にタルスキの真理論を再構成することを認めることはできない。なぜならば、タルスキは、自身の真理論において、T 型同値文が真であるということに加えて、古典的真理概念にしたがうと T 型同値文は真である、とも考えているからである。我々は、3 節では、一貫して「古典的真理概念」を「対応説」と解釈し、対応説の精密な定式化(理論 S)と補助理論(「語る」の理論)から T 型同値文を演繹することを試み、一応の成功をみた。これは、「古典的真理概念にしたがうと T 型同値文は真である」という枠内でのタルスキの真理論の再構成であり、その点で、聖書真理論と聖書存在論から T 型同値文を演繹する形でのタルスキ真理論の再構成とは異なるものである。   
 だが、なぜ古典的真理概念と対応説を同一視できるのであろうか。我々が 3 節でこの同一視を行った理由は、古典的真理概念を表現しているとタルスキが言う定式化のいくつかが、まさに対応説と呼ばれるにふさわしいものだからであり、実際、タルスキ自身も、古典的真理概念が対応説であるかのように述べているからである。3 節で言及しなかった箇所を一つ挙げておくと、論文「形式化された言語における真理概念」の序論で、タルスキは次のように述べている。
したがって我々は、3 節では、古典的真理概念を対応説と同一視し、対応説に従うとなぜ T 型同値文は真になるのか、という問題意識からタルスキの「書かれなかった」真理論を検討し、理論 S と「語る」の理論からの T 型同値文の演繹という解答を得た。この解答を決定的に論駁することは難しい。タルスキ自身による満足な説明が与えられていない以上、この解答が正しいもの(すなわち、タルスキの意図していたもの)であるという可能性は、どこまでも残ると思われる。
 しかしながら、この 4 節で我々が試みたいのは、3 節での解答が正しいかもしれないという可能性を認めた上で、まったく別の解答の可能性を探ることである。もちろん、この試みは、聖書真理論のようなものをタルスキに帰属させるような、まったくでたらめなものであってはならない。

4.2 真理の T 型同値文説

 まず最初に、なぜ 3 節の解答とは異なる解答を求めるのか、つまり、なぜ 3 節の解答では満足できないのか、その理由を説明しよう。第一に、タルスキは、3 節で見たように、古典的真理概念にしたがうならば T 型同値文が正しいことは「明らか」であると述べていた。また、彼は、次のようにも書いている。
ところが、3 節での解答は、理論 S と「語る」の理論から T 型同値文は演繹される、という複雑なものである。この演繹を「明らか」というのは無理がある。また、通常人の 90% がこの演繹を行っていることなど、ありえないであろうし、理論 S について質問されれば、それに同意する人は、おそらく 15% よりも少ないであろう。
 第二に、古典的真理概念を表現するために試みられたさまざまな定式化のうち、タルスキは、アリストテレスによるものが、他のものよりも正確で明瞭であると考えている(63)。ところが、アリストテレスの定式化は、対応説の定式化としては、他のものよりも不正確で不明瞭に思われるのである。その定式化のロスによる英訳は次の通りである。
私には、アリストテレスの哲学を語る資格もないし、ギリシャ語の原典を調べる余裕もないので、この英語の文だけを問題にするのであるが、これは、対応説の比較的正確な定式化というよりも、むしろ図式 T の不正確な定式化であるように思われる。これを簡略化すると次のようになるであろう。
この図式から次のような T 型同値文を得ることはできる。
しかし、「 X is」ないし「 X is not 」という形式を有していない文については、この図式から T 型同値文を得ることはできない。よって、図式 T の不正確な定式化である(64)。ただし、図式 T の定式化としては、対応説と見なすことができる他の定式化(例えば、「文の真理は実在との一致に存する」)よりもはるかに正確であるとは言える。したがって、タルスキが捉えようとしている古典的真理概念は、そもそも対応説とは異なるものではないのか、という疑念が生じる。つまり、3.4 節で得た理論 S も、タルスキに言わせれば、古典的真理概念の不正確で不明瞭な定式化かもしれないのである。
 以上の二点を考慮に入れると、タルスキの言う古典的真理概念とは、対応説によって表現される真理概念ではなく、T 型同値文そのものによって表現される真理概念なのではないか、という考えが浮かんでくる。つまり、タルスキの考えていた古典的真理論は、対応説ではなく、まったく別の理論であり、その理論とは、すべての言語に属するすべての文に関する T 型同値文
を公理とすることによって形成される真理論である、という考えである。簡単のため、この真理論を「真理の T 型同値文説」と呼ぶことにしよう。以下では、タルスキの真理論は T 型同値文説ではなかったのか、という解答の可能性を検討してみたい。
 まず最初に、この解答がもっともらしく思われる点を列挙してみよう。第一に、真理の T 型同値文説では、すべての T 型同値文が真である。よって、T 型同値文説は、我々がタルスキの真理論の中心であると見定めた「T 型同値文は真である」という考えを捉えている。第二に、「古典的真理概念にしたがうと T 型同値文は真である」というタルスキの考えが、3 節での解答と同様に、この解答でも成立する。古典的真理概念(真理論)が対応説ではなく、T 型同値文説であると考えられており、T 型同値文説は無限個の T 型同値文から形成されているからである。つまり、もし T 型同値文説が真であれば、T 型同値文は真である。さらに、3 節での解答は、T 型同値文の真理性を対応説だけではなく補助理論の真理性にも依存させることになっており、この欠点が現在の解答では除去されている。第三に、古典的真理概念にしたがうと T 型同値文が真であることは「明らかである」という考えが、この解答では明瞭に説明される。なぜなら、T 型同値文自体が古典的真理概念(T 型同値文説)の公理であり、よって公理から T 型同値文を導き出すステップが事実上零だからである。3 節での解答は、理論 S と「語る」の理論からの T 型同値文の演繹という複雑な推論過程に依存しており、明らかとは言えず、また、通常人の 90% にこの推論を要求するのも無理がある。他方、90 % の人が T 型同値文説を採用しているならば、おそらくその全員が T 型同値文の真理性に同意するであろう。第四に、タルスキが比較的まともであると認めたアリストテレスの定式化と T 型同値文説の間の類似性は、アリストテレスの定式化と対応説(例えば理論 S)との間の類似性より大きい。我々の解釈が正しいとすれば、アリストテレスの定式化は、T 型同値文説の一部を表現したものだからである。 以上が、タルスキの真理論を T 型同値文説と見なす考えがもっともらしいと思われる点である。次に、この考えの難点を列挙してみよう。第一の難点は、我々がタルスキに帰属させた真理の T 型同値文説というものがどういう真理論なのか判然としない、ということに存する。もちろん、形式的には T 型同値文のすべてを公理とすることによって形成される理論、ということで尽きている。しかし、その内容は不明瞭であると思われるであろう。第二の難点は、対応説との関係が了解不可能になってしまっていることにある。哲学者による対応説の定式化がどれほど不正確、不明瞭なものであれ、タルスキはそれが古典的対応概念を表現しているものであると考えている。したがって、我々の解釈がタルスキ解釈として整合的であるためには、この考えを何とかして説明可能なものとする必要がある。第三の難点は、この解釈は T 型同値文を公理の位に格上げしたにすぎず、T 型同値文がなぜ真なのかという問題に結局のところ答えられないのではないか、というものである。
 この三つの問題を検討するために、まず、次の4.3 節では、ホーウィッチが新しい真理論として最近提唱した「ミニマル説」の内容を概観する。ミニマル説はタルスキ解釈として提出されたものではないが、我々がタルスキの真理論として同定した T 型同値文説とほとんど同じものである。それに続いて4.4 節において、このホーウィッチの考えを基にして、上記の三難点の考察が行われる。

4.3 ミニマル説

 ホーウィッチは、真理値の担い手は命題であるという立場をとる。彼の表記法では、例えば、「雪は白いという命題」は「<雪は白い>」と略記される。真理のミニマル説は次のような命題を公理として持つ。
つまり、次のような構造を持つすべての命題がミニマル説の公理である。
以上のように、真理のミニマル説はきわめて単純な構造を有した理論である。ホーウィッチは 39 個の可能な反論に答える形で、ミニマル説の哲学的な意味を解説しているが、我々の問題にとって重要なのは次の四点である。

 (一) ミニマル説提出の背景となっている考えは、真理の縮小主義(deflationism)である。縮小主義とは、真理述語「〜は真である」が指示する性質(すなわち、真であるという性質)の内容を切り詰めて行く立場である。例えば、「有用性」、「整合性」、「実在との対応」などの性質が、縮小主義では、真であるという性質の内実から切り捨てられることになる。この縮小主義の考えを徹底的に過激に押し進めて行けば、ついには、真であるという性質を無に帰してしまうことに到る。つまり、「〜は真である」という述語は、何らの性質をも指示せず、言語において本質的に無用なものということになってしまう。ホーウィッチの考えでは、フレーゲ、ラムジー、エヤーらによって提出され、今日では「真理の余剰説(the redundancy theory of truth)」と呼ばれているものが、この過激な縮小主義に立つ真理論である(66)。これに対して、ミニマル説は、縮小主義の考えを押し進めて行くものの、真理述語を無用なものとは考えず、真理性質の存在をはっきりと認める。ミニマル説の公理を見ればわかるとおり、真理性質は命題の構成要素となるものであり、真理述語「真である」は、この性質を指示するのである。この点において、真理値は思想(命題)の部分ではないとしたフレーゲの余剰説とは、はっきり異なっている。ただし、この真理性質は、ミニマル説の公理によって表現されているものに尽きていて、それ以上の性質は真理性質から切り捨てられる。つまり、ホーウィッチの真理論は「最大限に縮小された真理の理論(a maximally deflationary theory of truth)」(67)であり、ゆえに彼はそれを「ミニマル説」と呼ぶのである。

 (二) では、ミニマル説の公理によって表現されている真理性質とは、いかなるものであろうか。ホーウィッチの考えでは、「真理述語は、ある論理的な必要性のためにのみ存在する」(68)。したがって、このような述語が指示する性質は、「青緑色であること、木であること、錫でできていること」のような、自然科学的な解明を許す通常の性質とは異なり、「ある他の種類の性質である(ハートリー・フィールドは、『論理的性質』という用語を提案している)」(69)。真理述語の存在が要求される論理的必要性とは、例えば、オスカーが言ったことが何であるのか我々が知らないような場合でも、
ということを我々が普通に言いたくなるような場合に生じてくる。(a)を言いたくなる状況とは次のようなものである。食べ物に関するオスカーの判断に我々は絶大な信頼を置いているとしよう。いま、オスカーが、ウナギはおいしいということを述べ、それが我々にはよく聞き取れなかったとする。このとき我々が獲得した信念は、次のような文によって表現されよう。
食べ物に関する判断の数が無限であるとすれば、(b)の連言肢の数は無限であり、我々は実際問題として(b)を言葉で述べることはできない。(b)の内容と同じものを有限の言葉で表現したい、というのが我々の直面している論理的必要性である。ここで、もし我々が真理のミニマル説を採用しているならば、我々は次のような無限個の命題を所有している。
(b)と(c)から次が得られる。
(d)を全称量化記号と束縛変項を使って書き換えれば、次が得られる。
この命題なら、我々は実際に表現することができる(そしてこの(e)が我々が普通に言っている(a)の内実である)。よって、「真理概念の存在理由は、[(e)のような]命題を我々に供給することにある」(70)。ここで問題になっているのは、(b)のような無限連言を、いかにしてそれと等値な単一の有限命題へと転換するか、ということである。そして、ホーウィッチの答えは、ミニマル説の公理によって特徴付けられている真理性質がこの転換を可能にしてくれる、というものである。ホーウィッチは、「真理性質は・・・という性質である」という形で直接的に記述することを行っていないが、敢えてそれを行うならば、ミニマル説がその存在を主張している真理性質は、無限連言命題を等値な単一有限命題へと転換することを可能にするような性質である、ということができるであろう。この意味で、自然科学的な性質とは異なった「論理的性質」なのである(71)
 
 (三) ミニマル説が認める真理性質は、以上のようにきわめて限定された性質であるから、当然、真理対応説が認める「実在との一致」のような性質は真理性質から排除される。しかし、ホーウィッチは、「真理は実際に事実と ── ある意味で ── 対応している」(72)ということを認める。認めるだけではなく、むしろ積極的に、真理論としてはミニマル説を堅持したままで、必要ならいくつかの(真理以外のものについての)補助理論を補うことによって、ミニマル説から対応説論者の言わんとすることを導き出すことができる、とホーウィッチは主張する。一般に、「真理についてのすべての事実は、双条件命題[ミニマル説の公理]から自然に導き出すことが可能である」(73)というのが、ミニマル説を提出したホーウィッチの大胆な主張である。
 ここでの目的はこの大胆な主張の詳細な吟味ではないので、ホーウィッチがミニマル説から対応説を導出する議論だけを見ることにする(74)。ホーウィッチによると、対応説の出発点にある考えは、「文や命題が真であるときはいつも、世界の中の何かが或る仕方で在るがゆえに(because)、それは真である」(75)という考えである。例えば、次のような命題が、対応説の基本にある。
こうした考えは、ミニマル説と整合的である。我々は、説明の順序からして、まず最初に、なぜ
のかを科学理論によって説明する。次に、ミニマル説によって、なぜ
のかが説明される。それが(1)である(76)。ホーウィッチは、さらに、次のようなもう少し洗練された対応説の考えもミニマル説から導出できると考える。
そのためには、次のような図式のすべての代入例が補助理論として必要である。
(1)と(A)、(B)、(C)の適当な代入例から、(4)が演繹される。「対応」という言葉がないと満足できない対応説論者には、次の図式のすべての代入例が用意されている。
この代入例から、
が演繹される。かくして、ミニマル説を堅持するホーウィッチも、「真理のおのおのは対応する事実の存在によって真になるのであるという考えに、完全に満足することができる」(77)のである。

 (四) このように、ミニマル説から対応説が説明されるのならば、何か他のより基本的な理論からミニマル説(の公理の正しさ)を説明する可能性が存在するのではないか、つまり、ミニマル説の真理概念よりも「小さい」真理概念が存在しうるのではないか、とも考えられるかもしれない。これに対して、ホーウィッチは、「そうしたより深い理論が事実として存在しないと考えるための、素晴しい理由が存在する」と答え、その「素晴しい」理由を次のように四つ挙げている(78)
 (1)、(2)、(3)はそれほど「素晴しい」理由とも思えないが、注目すべきは(4)である。そこでは、ミニマル説を説明できる基礎理論は存在しない、という否定的なことが言われているだけではなく、ミニマル説の公理の真理性は規約(約定)による真理である、というより積極的なことが述べられているからである。
  
4.4 T 型同値文説とミニマル説

 我々の目的はタルスキの真理論の解明である。4.2 節で我々は、タルスキが真であると考えた T 型同値文が、彼の真理論のまさに核心であり、公理としての地位を持っているのではないかと解釈し、T 型同値文を公理とする真理論を「真理の T 型同値文説」と名付けた。ただし、この解釈には、(1)T 型同値文説の意味内容がはっきりしない、(2)対応説との関係が不明、(3)T 型同値文の真理性を説明できない、という三つの難点があった。ホーウィッチのミニマル説を概観したのは、この解釈上の難点を克服する手がかりを得るためであった。
 そのためには、まず、ミニマル説と T 型同値文説が本質的に同じ真理論であるということを示さなければならないが、これはきわめて明瞭である。ミニマル説の公理は、例えば、
というものであり、他方、T 型同値文説の公理の一つは、
である。両者の違いは、真理値の担い手を命題とするか文とするかの違いだけである。ホーウィッチが命題を真理値の担い手とした理由は、それが英語の慣用だからである(「It is true that eels are good.」、「What Oscar said is true.」などが英語における典型的な真理述語の使用例であり、ここでの真理値の担い手は文ではなくて命題である)。しかし、ホーウィッチは、命題以外のものが真理値(厳密に言えば「真理値に似た何か」)の担い手となる可能性を認めて、それに対してもミニマル説を展開している(80)。よって、この差異は無視することができる。また、公理の全体に関しても、ミニマル説と T 型同値文説は一致する。ホーウィッチは、命題構造 E* を有するすべての命題、あるいは、図式
の「p」に可能的に拡張された日本語に属する任意の文を代入して得られたすべての代入例、としてミニマル説の公理の全体を規定している。これらはいずれも、一つの言語や現実に存在する言語によって表現される命題に真理値の担い手を限定させないための手段である。他方、タルスキも、図式 T に代入される文は、特定の文や特定の言語に属する文に限定されるとは考えていなかった。このアイディアを簡単な形で実現させるため、我々は T 型同値文説の公理において、メタ言語の中に任意の可能な言語に属するすべての文を含ませておいた。T 型同値文説もミニマル説も、およそ可能なすべての文(命題)に関する T 型同値文(T 型同値文の命題版)を公理として持つ、ということにおいて一致している(81)
 ただし、ホーウィッチは、自身のミニマル説がタルスキの真理論と同じであるとは考えていない。その理由の一つは、タルスキの真理論を対応説と見なしているからである(82)。しかし、最大の理由は、ホーウィッチもやはりタルスキの真理定義をタルスキの真理論そのものであると考えていることに存する。2.1 節で見たように、タルスキの真理定義は、特定の一つの対象言語に関するメタ言語の内部で、その対象言語に属するすべての文についての T 型同値文を真理定義から演繹することを目標にしている。したがって、任意の(現実的および可能的な)対象言語に属するすべての文についての T 型同値文を演繹するような定義の構成はもともと不可能である。また、問題になっている対象言語がきわめて強力で、任意の(現実的および可能的な)言語に属するすべての文の翻訳を含んでいる場合、このような言語に対してタルスキ流の真理定義の構成を行うことは、やはり不可能である。なぜなら、タルスキの真理定義で用いられている基本的テクニックは「一覧表形式」であり、対象言語に含まれている語彙(名前や述語)が有限個の場合にしか通用しないからである(上で述べられたような強力な対象言語は、当然無限個の語彙を含んでいると考えられる)。かくしてホーウィッチは言う。
ホーウィッチが任意の言語に属するすべての文についての T 型同値文を演繹できるような真理定義を構成しようとしているのであれば、真理定義の構成というプロジェクトに関して、タルスキよりも「野心的」であると言える。しかし、彼はそのような定義を構成していないし、そもそも(タルスキの意味での)真理定義の構成というプロジェクト自体に参加していない。彼は真理論を提出しているのであり、それは「T 型同値文(の命題版)はすべて正しい」という真理論であり、彼はそれをミニマル説として定式化した。しかし、我々の解釈では、この真理論は、まさにタルスキが真理定義に対して規約 T を課したときに有していた真理論であり、我々はそれを T 型同値文説として定式化した。(いずれも、可能的にすぎない未知の公理も含んだ無限個の公理を含むがゆえに、明示的に定式化されることはできず、図式的に記述されているにすぎない。)よって、タルスキの「真理論」に関して(「命題」と「文」という違いを無視すれば)ホーウィッチがタルスキに反対する理由は存在しない。
 以上によって、ホーウィッチがミニマル説について展開した見解を T 型同値文説に応用する準備ができた。まず最初に、タルスキの真理論を T 型同値文説と見なす場合の、二番目の難点から検討することにしよう。タルスキが問題にしているのは「古典的真理概念」であった。そして、哲学者による「真理対応説」的な定式化は、この古典的真理概念を表現しようとしているものである、とタルスキは考えていた。3 節では、我々は古典的真理概念を徹底して対応真理概念であると解釈し、その結果、タルスキが書かなかった対応説の正確な定式化を求め、さらにそこから T 型同値文を導き出すという課題を引き受けるはめになった。4 節での我々の方針は、古典的真理概念を T 型同値文説と解釈することであり、3 節での課題を引き受ける必要はなくなった。しかし、哲学者による真理対応説的な定式化が、不正確で不明瞭であるとはいえ、いかにして古典的真理概念(T 型同値文説)を表現していると言えるのか、という問題が生じた。これが我々の直面した第二の難点であり、事実上、4 節の解釈が抱える唯一の難点である。この難点については、ミニマル説と対応説の関係についての上で見たホーウィッチの議論が一つの可能な答えを与えてくれるであろう。ホーウィッチの議論によると、対応説はミニマル説から、必要な理論を補うことによって、導出されるのであった。この議論に基づいた我々の答えはこうである。古典的真理概念は T 型同値文説に他ならない。哲学者は、この古典的真理概念を定式化しようと試みたが、(ごく自然に)他の理論を介在させてしまい、T 型同値文説そのものの定式化を行うことには失敗し、他のものを導出してしまった。そうして導出されたのが真理対応説である。その最も原始的な形は、例えば、
である。さらに、哲学者は、事実概念や対応概念の理論を介在させることによって、
という、より対応説的な真理対応説を導出することもできた。これらの導出は間違っていないし、自然な結果でもある。哲学者が間違ったのは、こうして導出された真理概念を古典的真理概念そのものであると考えてしまった点にある。タルスキが行ったことは、哲学者が介在させたこれらの夾雑物を取り除き、古典的真理概念をその純粋な形で定式化することである。それが、T 型同値文
である。対応説から夾雑物を取り除いたものを対応説の「エッセンス」と呼ぶことにすれば、T 型同値文を対応説のエッセンスであると言うこともできるであろう。エッセンスを表現することを「正確で明瞭な定式化」と呼ぶならば、T 型同値文は対応説の正確で明瞭な定式化であるとも言えよう(84)。逆に、夾雑物を付け加えて導出されたものを「不正確で不明瞭な定式化」と呼ぶことにするならば、対応説は古典的真理概念(T 型同値文)の不正確で不明瞭な定式化である。タルスキがこのように考えていたというのはまったくの推測にすぎないが、この推測によって、古典的真理概念は T 型同値文説であるという解釈を採用しても、タルスキの主張(対応説は古典的真理概念を表現しようとしている、という主張)を我々は整合的に理解することができる。
 次に、第一の難点を検討しよう。それは、T 型同値文説が真理論としてどういうものであるのか判然としない、というものであった。これは、この節での我々の「解釈」が抱える本質的な困難ではない。すべての T 型同値文を公理として形成される理論、という形式的に十分な答えが存在するからである。しかし、T 型同値文説の意味内容を明らかにしておくことは、タルスキの真理論の「理解」というこの章の目的からいって、不可欠であろう。
 まず、T 型同値文説の否定的な特徴付けから始めたい。第一に、真理の T 型同値文説は真理の対応説ではない。ホーウィッチの議論が正しければ、T 型同値文説から、他の理論を介在させることによって、対応説を導出することはできる。しかし、このことは、T 型同値文説が対応説であるということを意味しはしない。導出された対応説の中に対応真理概念のような装いをもたらせているのは、介在させられた他の理論である。T 型同値文説の中に現われている真理概念は、対応真理概念とは異なった、何か他の真理概念である。
 第二に、真理の T 型同値文説は、真理の余剰説(真理という性質は存在しないという立場、すなわちホーウィッチの言う過激な縮小主義)ではない。T 型同値文は確かに余剰説を表現しているかのような印象を与える。例えば、ヴィトゲンシュタインによる余剰説の表明は次のようなものである。
しかし、余剰説論者がこのような「『p』は真である = p」ないし「『p』は真である ≡ p」という図式を使用しているとき、そこに現われている「真である」という述語は何物も指示していない。余剰説論者の考えでは、真理性質は世界の中に存在しないのであり、論理的に整備された(文体上の必要性といった無駄を切り詰められた)言語では、真理述語自体が存在しないのである。したがって、上の図式の代入例はどれも、「真理性質は存在せず、真理述語は余分である」という一つの哲学的学説(余剰説)を表現しているのであって、実質的な諸命題を表現しているのではない。これに対して、タルスキの T 型同値文のおのおのは実質的な命題であり、そこに含まれている真理述語は、ある真理性質を指示する純正の述語である。
 3 節での解釈は、この真理性質は対応真理概念であり、したがって、タルスキの真理論を対応説として理解することができる、というものであったが、この節ではこの解釈を取らない。では、タルスキの真理論が T 型同値文説であると解釈された場合、T 型同値文に含まれる真理述語はいかなる真理性質を指示しているのであろうか。この真理性質を明確に示さない限り、T 型同値文がいかなる真理論であるのかは、我々にとって理解し難いものと思われるであろう。この問題に関しては、我々はホーウィッチの見解に頼ることができる。この見解に基づいて言うならば、T 型同値文説の真理性質とは「論理的性質」である。それは、例えば、二つの文、
を同値にするような性質であり、我々が一方から他方を推論することを可能にするような論理的性質である。また、この同値性をもとにして、無限連言命題を単一有限命題へと転換することを可能にするような論理的性質である。あるいは、代入量化を不要にするような論理的性質である。要するに、我々は、T 型同値文説をミニマル説として理解することができるのである。
 もちろん、タルスキが自身の真理論(この節の解釈では T 型同値文説)の真理概念を、ミニマル説の真理概念のような論理的なものとして理解していたかどうかは、定かではない。しかし、そう考えていたかもしれないということを示唆する議論を、タルスキは展開している。1944 年の論文の 16 節「意味論的語の余剰性 ── その消去可能性」において、タルスキは次のように述べている。
ここでタルスキは、プラトンが書いた最初の文は真である、という命題を主張するためには真理述語が必要である、と考えているように思われる(87)。この問題は、ホーウィッチがミニマル説の真理概念を説明するときに用いた、「オスカーの言ったことは真である」の問題とまさに同じである。したがって、タルスキもホーウィッチと同様、真理概念を論理的な性質として考えていたのではないか、という推測も十分可能性として成り立つであろう。もっとも、潜在無限個の T 型同値文を所有しているがゆえに、我々は「プラトンが書いた最初の文は真である」のような文を使用可能なのであり、こうした論理的な必要性のためにのみ真理概念は存在しているのである、という議論までタルスキが展開しているわけではない。したがって、真理述語の消去不可能性をタルスキが重視しているという事実から、タルスキは真理概念を論理的な性質として考えていたのであると、直ちに結論することはできない。対応説を採用しても、3.4 節で見たように、結局すべての可能な T 型同値文を導出できるのであるから、それに基づいて「プラトンが書いた最初の文は真である」のような文を主張することがやはりできる。問題は、対応概念を一次的と見なすか(論理的性質はそこから派生する)、論理的性質を一次的と見なすか(対応概念はそこから派生する)である。タルスキがどちらを考えていたのかは、彼の言葉からは判断できない。しかし、タルスキの真理論を T 型同値文説として「解釈」するならば、そこで表明されている真理概念をホーウィッチ流の論理的性質として「理解」することは可能である。
 最後に、第三の難点を検討しよう。それは、タルスキの真理論を T 型同値文説と解釈した場合、T 型同値文がなぜ真であるのかという問題に答えることができないのではないか、というものであった。3 節では、タルスキの真理論を対応説として解釈し、最終的に、T 型同値文の真理性を、対応説(理論 S)と補助理論(「語る」の理論)から演繹されるものとして説明することができた。しかし、この4 節の解釈では、このような形で T 型同値文が真であることを説明することはできない。T 型同値文には単に公理の資格が与えられているにすぎないのではないか。
 この後の方の疑問に対しては、その通りであると答えるしかない。真理の T 型同値文説の特徴は、T 型同値文の全体を公理として持つということに存するからである。しかし、そのことによって T 型同値文の真理性の説明が与えられていないことになるのであろうか。カーカムは与えられていないと考える。彼は、ホーウィッチのミニマル説に対して否定的であり、次のように言う。
しかし、この考えは混乱しているように思われる。少なくとも、「新しい『なぜ』問題を生み出している」という言い方は誤解を招きやすい。3 節での我々の解答を採用した場合に、T 型同値文
がなぜ真であるのかは、次のように説明されるのであった。
真理対応説は、真理性質を文と世界との対応という性質として同定し、(1)のような文の中に現われる述語「真である」はこの性質を指示している、と見なす立場である。したがって、(1)のような T 型同値文の真理性はこのことに全面的に依存して説明されている。つまり、もし対応という性質が存在しなければ、また存在するとしても述語「真である」はそれとは異なる別の性質を指示しているとすれば、(1)が真であるという保証はなくなるのである。他方、この4 節での我々の解答に基づけば、(1)の真理性は次のように説明される。
T 型同値文説は、真理性質をある種の論理的性質として同定し、真理述語はこの性質を指示している、と見なす立場であり、T 型同値文の真理性はこのことに依存して説明されることになる(89)。また、4.4 節の(四)で見たホーウィッチのアイディアによれば、論理的性質としての真理性質は、我々が言語規約を採用することによって発生すると考えられていた。(論理的性質としての真理性質が規約以外のものに基づいている可能性はある。それは、一般に論理語の意味とは何かという問題において議論されていることとパラレルである。しかし、ここではホーウィッチにしたがって、論理的性質としての真理性質は規約に由来すると仮定することにする。)そうすると、T 型同値文の真理性は、我々がそれを規約によって採用したという事実に全面的に依存して説明されることになる。つまり、もし規約の採用という事実が存在しないならば、あるいは、規約の採用という事実をいかなる形でも認めることができないとすれば、T 型同値文が真であるという保証はなくなるのである。したがって、事態は対応説を採用したときとまったく平行的である。T 型同値文説を採用したときに、何か新しい「なぜ」問題が生じるのであろうか。生じるとしたら、それは次のようなものであろう。
つまり、なぜ真理性質は論理的性質であると言えるのか、なぜ真理述語は論理的性質を指示していると言えるのか、という問題である。あるいは、言い換えるならば、なぜ真理述語は言語規約によって導入されたと言えるのか、なぜ T 型同値文は我々の言語規約によって真とされているのであると言えるのか、という問題である。確かに T 型同値文説はこの問題に答えることはできない。しかし、これを「新しい『なぜ』問題」と呼ぶのであれば、真理対応説を採用した場合にも、次のような新しい「なぜ」問題を提起することができる。
明らかに対応説はこの問題に答えることができない。また、次のように問うこともできる。
(6)は対応説の公理図式の代入例であり、(7)はそれと「語る」の理論から演繹される、と答えることができると思われるかもしれない。しかし、今の文脈では、この答えは(6)や(7)の正しさを説明したことにはならない。なぜなら、この答えは、対応説が正しいという事実に全面的に依存してなされているからである。今の文脈で(6)や(7)がなぜ正しいのかということを問うことは、なぜ対応説が正しいのかと問うことにほかならない。そして、対応説は自身の正しさの理由を答えることはできない。
 一般に、どのような真理論(真理の X 説)を取ろうとも、このような意味での新しい「なぜ」問題を常に提起することが可能である。すなわち、
どのような真理論も、おそらくこの種の「なぜ」問題に答えることはできないであろうし、そもそも答える必要がない。しかし、答えることができないことは、真理論にとって何ら恥じるべきことではない(90)
 真理の T 型同値文説の真理性を問う意味での「T 型同値文はなぜ正しいのか」という問いには、T 型同値文説は答えられない。同じように、真理対応説も、対応説の真理性を問う意味での「T 型同値文はなぜ正しいのか」という問いには、答えることができない。対応説にできることは、自身の正しいことを仮定した上で、つまり、言語と世界の間に対応関係が存在するということを仮定した上で、T 型同値文を(補助理論の助けを借りて)演繹することだけである。我々が3 節で行ったのはこれであった。これを T 型同値文の真理性の説明と見なすことができるのであれば、T 型同値文説を採用しても同じように T 型同値文の真理性を説明することができる。T 型同値文は T 型同値文説の公理から(補助理論の助けを借りることなく)演繹されるからである。そして、ここでは、T 型同値文説が正しいということ、つまり、言語規約の採用によって真理述語が導入されたということが仮定されているのである。したがって、T 型同値文説は、対応説が T 型同値文の正しさを説明していると言われるのと少なくとも同じ程度には、T 型同値文の正しさを説明しているのである(91)


5 結論

 4 節では、タルスキの真理論を T 型同値文説として解釈する可能性について論じた。しかし、その節の最初に述べたように、3 節におけるようにタルスキを対応説論者として解釈する可能性が完全に否定されたわけではない。4 節で述べたいくつかの理由から、タルスキを T 型同値文説論者と見る方がもっともらしい解釈ではないかという「感想」を、私自身は抱いているが、それを我々の公式の「見解」として提出することはできない。テキスト上の証拠は、いずれの解釈にとっても決定的なものとは言い難い。したがって、我々の最終的な公式見解は、タルスキの真理論は、真理の対応説とも真理の T 型同値文説とも解釈できる、というものにならざるをえないであろう。
 我々のこの章の目的は、タルスキの真理論の意味内容を確定することであった。この目的から見た場合、我々が得た結論は不満足なものであるかもしれない。しかし、いずれの解釈を取るにしても、その真理論の意味内容は、3 節と 4 節の議論を通して十分明確なものにされたと信じる。そして、この二つの真理論以外に、タルスキに帰せられるべき真理論は存在しない。
 我々の議論における真理対応説の内容は、デイヴィドソン、フィールドから始めて、最終的にカーカムの議論に依拠するものであり、真理の T 型同値文説の内容は、ホーウィッチのミニマル説に依拠するものである。したがって、真理論そのもに寄与しうるような独創は、本章には含まれていない。我々の議論に独創的なところがあるとすれば、それは、タルスキ解釈以外の何物でもない。つまり、対応説やミニマル説(T 型同値文説)を一貫してタルスキの提出した真理論として解釈したことである。この解釈を可能にしたのは、タルスキが T 型同値文を真と見なしているという事実を最大限に重視し、タルスキの真理論を真理述語の定義から切り離して考察するという、我々の方法論であった。
 対応説と T 型同値文説のいずれが正しいのかという問題を、タルスキ解釈を離れて、真理論そのものの問題として探究して行くことは、真理論に従事する哲学者のこれからの課題である。しかし、本章におけるタルスキ解釈の議論は、この課題に一つの困難を突きつけているように思われる。
 対応説と T 型同値文説が共にタルスキの真理論の可能な解釈になりえたのは、両者が共に T 型同値文と対応文(文と世界の関係おいて真理が成立することを表現する文)を演繹することができるからであった。対応説は、公理の代入例として対応文を直接帰結し、補助理論の助けを借りることによって、T 型同値文を間接的に帰結する。他方、T 型同値文説は、公理の一つとして T 型同値文を直接帰結し、補助理論の助けを借りることによって、対応文を間接的に帰結する。今、真理論の正しさを判定する基準として、T 型同値文は正しいという我々の直観と、対応文は正しいという我々の直観の、二つの直観に訴えることができるものと仮定しよう。この場合、T 型同値文や対応文を導き出せない真理論は間違った真理論である、という議論を展開することができるであろう。しかし、対応説と T 型同値文説のどちらにしたがっても、T 型同値文と対応文が共に真とされるのであるから、いずれの真理論の方が正しいのかを判定することはできない。我々の二つの直観のうちのどちらか一方に、他方に対する何らかの優先権が存在するとすれば、あるいは二つの真理論のいずれが正しいのかという問題に解決を与えることができるかもしれない。しかし、そのような優先権の存在をどのようにして論証していったらよいのであろうか。
 一つの真理論を構築すること、すなわち、真理述語の指示する一つの性質を同定することは、形而上学のプロジェクトである。さまざまに提案された真理論のどれが正しいのかを確定するような、一般的方法が存在するとは思われない。T 型同値文や対応文を導き出せない真理論に対しても、それが間違った真理論であるとは、決定的には言いえないであろう。なぜなら、先の二つの直観(T 型同値文は正しいという直観と、対応文は正しいという直観)を疑うことが可能だからである。また、この二つの直観が正しいことを認めた上で、この直観には重きを置かず、哲学者の特殊な直観に訴えて、本当の真の哲学的形而上学的真理はそれとは別の(これらの直観には制約されない)性質である、と主張することも可能であろう。タルスキは、複数の異なった真理論が存在しうることを原理的に認めていたが、このような仕方で真理論を探究して行くことには懐疑的である。彼は真理に対する我々の一般的な直観を軽視するのではなく、それを尊重した。つまり、我々の一般的な直観に現われる限りでの真理を問題にした。しかし、この直観に限定しても、T 型同値文説と対応説という形而上学的に対立する二つの真理論が現われているのであり、この直観にとどまっている限りは、いずれが正しいのか決着できないのである。本章における議論は、この事情を明らかにしたものでもあった。


結語

 我々は、本論文の第一章、第二章を通じて、タルスキの「論理的帰結関係概念」、「真理概念」の定義を題材にして、両概念の検討を行ってきた。そこで、最後に、タルスキの定義の背後にある彼の論理哲学的思想とその意義について、若干の反省を加え、本論文のまとめとしたい。
 緒言でも述べたように、タルスキに以前に試みられた論理についての定義も真理についての定義も、曖昧で不明瞭で問題の多い概念が使用されていた。たとえば、次のようなものがそうした定義の一例である。
今世紀の論理学者および哲学者の多くは、こうした定義を、形而上学的概念を用いたナンセンスな形而上学的定義であると考えた。これに対してタルスキの与えた定義のエッセンスは次のようなものである。
ここでは「必然」、「事実」、「対応」といった形而上学の概念が用いられてはいない(「モデルにおける真」という概念も最終的に消去される)。形而上学の概念から解放された、非形而上学的定義であるということが、タルスキの論理的帰結関係の定義と真理概念の定義の両方に共通した特徴であると言うことができるであろう。つまり、「科学の統一」、「物理主義」という、当時の哲学界におけるプログラムの枠内で、「論理的帰結関係」および「真理概念」を処理しようというのが、タルスキの論理哲学思想だったと言えるであろう。それゆえ、物理主義のプログラムを掲げていた論理学者、哲学者は、タルスキの定義を直ちに受け入れた。彼らは、タルスキの定義のおかげで、論理的帰結関係と真理概念を安全に使用することができるようになったのであるから、この点におけるタルスキの定義とその論理哲学思想の意義は、疑うことができない。
 しかしながら、論理的帰結関係と真理概念に対して脱形而上学的定義を与えたということが、タルスキの論理哲学思想の唯一の意義なのではない。形而上学の概念が用いられていない定義だからといって、我々は即座にそれを受け入れることができるであろうか。例えば、次のような定義が提出されたと仮定してみよう。
ここでも形而上学的概念は使用されてはいない。しかし、このような定義を聞かされた、論理学者および哲学者が、物理主義のプログラムに適っているというただそれだけの理由で、これらの定義を採用するようになるという事態は、想像し難い。脱形而上学的という特徴以外のいかなる特徴をタルスキの定義は有しているのであろうか。
 本論文の第一章では、この問題を定義に課された「科学性条件」と「実質適合性条件」の問題として定式化した。タルスキが論理的帰結関係と真理概念に与えた定義は、共に、科学性条件を満たしている、すなわち、形而上学のジャーゴンから解放された定義である。それだけではなく、実質適合性条件を満たすことが意図されている、すなわち、直観的に理解された論理的帰結関係と真理概念の内容を捉えることが意図されている。したがって、タルスキの定義が実質適合性条件を満たしていることが、論理学者、哲学者をしてタルスキの定義を受け入れさせた第二の理由であるに違いない。この点はしばしば忘れられがちである。つまり、形式的に与えられたタルスキの定義を学ぶものは、タルスキの論理哲学思想のこの側面を軽視しがちである(第一章で見たエチメンディのタルスキ批判が大きな話題となったのは、そのことの一つの証拠と言えるであろう)。しかし、タルスキが論理的帰結関係と真理概念に対する我々の直観を取り出そうと意図していたことは、彼の論理哲学思想の無視できない重要な側面である。また、この側面において展開されているタルスキの議論は、皮肉にも物理主義のプログラムとは相容れない形で、論理的帰結関係と真理概念に対する形而上学的な議論の様相を帯びている。少なくとも、彼の議論は、我々に形而上学的な反省を促すものである。本論文の議論は、第一章、第二章ともに、タルスキの論理哲学思想のこの側面を契機にした、形而上学的議論である。論理的帰結関係も真理概念も結局は形而上学的概念である。タルスキの論理哲学思想のこの第二の側面は、このことを我々に再確認させるという意義を有していると言えるであろう。最終的に形而上学の概念から解放された定義が形式的に与えられるにしても、我々は、論理的帰結関係と真理概念の形而上学を遂行せねばならないのである。
 第一章において我々が見た、論理的真理概念についてのタルスキの形而上学的思想とは、次のようなものであった。
タルスキはこれが論理的真理概念についての我々の直観であると考えている。そして、タルスキは、形而上学的概念を用いることなく、意味論的定義によってこの直観を捉えることができると主張していた。つまり、彼の形而上学的テーゼはこうである。
ところが、第一章で見たエチメンディの議論に従うならば、このテーゼは維持し難いように思われたのであった。つまり、例えば、宇宙が実際は有限 n 個の個体しか含まないという仮定のもとでも、文
は、論理的に真である(必然的に真であり、経験から独立に真である)とは直観的には認められないにもかかわらず、この仮定のもとでは、タルスキの意味論的定義によっては、文(1)は論理的真理と判定されるのであった。
 そうすると、論理的真理概念についてのタルスキの定義の試みは失敗作であり、彼の論理的真理概念に関する論理哲学的思想は意義を完全に失ってしまうのであろうか。エチメンディの議論を正しいと認める限り、そのように結論しなければならないであろう。しかし、第一章の 6 節の最後で、私はこの結論を受け入れないですむような可能性を検討した。そこでの私の提案は、テーゼ(B)において含意されている原理(エチメンディの言う「還元原理」)を、「論理的真理概念」という新しい概念の規範的な定義としてではなく、我々が古くから有している論理的真理概念に対する哲学的に洗練された直観として積極的に受け入れていこう、というものであった。また、タルスキの定義が、一階述語論理、様相論理、集合論などのために作られた人工言語において広範囲に使用され、のみならず、英語や日本語などの自然言語にまで拡張され用いられ、成功を収めつつあるという事実の存在が、還元原理が我々の論理的真理概念についての直観となりつつあるということを示唆しているとも考えられる。このような形で、論理的真理概念に関するタルスキの論理哲学思想は、エチメンディの批判にもかかわらず、今日でもなお意義を有したものであると見なすことができよう。
 第二章で見た、真理概念についてのタルスキの形而上学は、次のようなものであった。
我々の直観的な古典的真理概念も意味論的定義によって捉えられるとタルスキは考える。つまり、真理概念に関する彼の形而上学的テーゼはこうである。
このテーゼがタルスキの論理哲学思想の真理論に対する最大の貢献である。つまり、タルスキは、我々の直観的な古典的真理概念に対して、(形而上学の概念から解放された)明晰な定式化を与えた。ある人々は、漠然としか把握していなかった自身の直観的な真理概念が、タルスキの T 型同値文によって完全な明るみにもたらされたと感じた。この点におけるタルスキの論理哲学思想の意義は、いくら強調してもしすぎることはないであろう。
 しかし、第二章の議論で明らかになったことは、T 型同値文によって表現される真理概念は、言語と世界の間の対応関係としての真理概念と、ある種の一般化を形成するための言語装置である論理的性質としての真理概念の、二通りの可能性があるというものであった。したがって、真理論として次の二つのテーゼが可能である。
第二章での我々の結論は、タルスキがテーゼ(D)で対応説を捉えることを意図していたのか、それとも T 型同値文説(ミニマル説)を捉えることを意図していたのか、彼の議論からだけでは決着をつけることはできない、というものであった。よって、真理についてのタルスキの論理哲学思想は不完全なものであったと言えるかもしれない。しかし、タルスキは、T 型同値文を導入し、その真理性に我々の注意を促した。そして、それによってタルスキは、対応説と T 型同値文説(ミニマル説)という真理論の二つの選択肢を未決の問題として我々に遺してくれていたとも言えるであろう。どちらの説が正しいのかを探究することは、これからの真理論の研究が避けて通ることのできない課題であるが、第二章の結論で述べたように、そこには大きな困難が予想される。しかし、この困難を克服してはじめて、我々はタルスキの遺してくれた論理哲学思想を完全なものにすることができるであろう。




第一章

(1) 論理的帰結関係の定義は Tarski 1936a において幾分非形式的な仕方で初めて与えられたが、そこで中心的な役割を果たす充足概念は、Tarski 1935 において厳密に定義されている。ところで、これより以前に、レーヴェンハイム−スコーレム定理、完全性定理など、モデル理論に属する重要な諸定理が既に証明されているという事実は、奇妙に思われるかもしれない。事実、タルスキ自身、モデル論的な考えが当時の多くの論理学者によって共有されていたものであることを認めている。従って、ここで「初めて」と言うのは、この考えを「正確な方法」で提示することがタルスキによって初めて可能になった、という意味においてである(Tarski 1936a, p. 414 を参照)。タルスキ以前のモデル理論、およびそれとタルスキの関係などの歴史的事情に興味あるむきは、Vaught 1974, pp. 154-161, 1986, pp. 869-874, Etchemendy 1988b, pp. 67-68 を参照されたい。

(2) Tarski 1986, p. 145, 1969, p. 63 参照。

(3) 例えば、Tarski 1944, sect. 19 を参照。また、Tarski 1936b, p.406 で述べられている「科学の統一、物理主義の要請との一致」という事態も、真理概念のための特別な理論を排除することを意味している。

(4) Tarski 1944, sect. 17 参照。そこでタルスキは、自身の与えた定義が常識的用法と一致するかどうかを、統計的調査によって解決することに言及している。

(5) Tarski 1936a, p. 409.

(6) Tarski 1936a, p. 413. なお、ここで使われている「本質」、「本来」という語から、第三種の定義のところで述べたプラトン的イデアを直ちに連想するべきではない。

(7) 今日で言う「構文論的定義」ないし「証明論的定義」に相当する。構造的定義は、多くの論理学者に共有されていた考えであり、タルスキも、Tarski 1930a, 1930b ではこの考えを採用している。ただし、構造的定義の直観的内容が非形式的に述べられているだけであり、実際は、論理的帰結関係を未定義の概念とした上で、一連の公理によってその性質を特徴付けることを試みているにすぎない。構造的定義が初めて厳密な仕方で定式化され得るようになったのは、形式言語の構成が与えられた Tarski 1935, sect. 2 においてである(これについては、Corcoran 1983, sect. 2 を参照)。しかし、この論文で、タルスキは既に構造的定義の限界について言及しており(Tarski 1935, p. 252n, pp. 257-262)、これと関連する問題は、Tarski 1933 でも論じられている。なお、以下で見る構造的定義に対するタルスキの批判は、Tarski 1936a, pp. 409-413 に基づいている。

(8) ω-不完全な理論のことである。詳細は Tarski 1933 参照。

(9) Tarski 1936a, pp. 412-413.

(10) Tarski 1936a, p. 411, pp. 414-415.

(11) タルスキはこの二つの特徴が一緒になって論理的帰結関係の本質を構成しているように述べているが、両者の間の関係は明らかではない。ジラ・シャーは両者の相互限定についての一つの考えを述べている(Sher 1991, pp. 43-44)が、タルスキの意図を捉えたものであるかどうかは疑問である。他方、後にみるエチメンディは両特徴をほぼ同一視して良いものと考えているようである(註(35)参照)。

(12) こうした空想がまったくの無意味というわけではないことは、本章第 6 節において構造的定義を再び取り上げるときに論じられる。

(13) この二つの仮定が必要なことについては、本章第 6 節を参照。

(14) Tarski 1936b, p. 401, 1944, p.17.

(15) 基本的には、Tarski 1936a, pp. 416-418 に基づいている。ただし、「文 S が無限列 f において真である」という言い方はされておらず、「無限列 f は文 S のモデルである」とのみ言われている。エチメンディの提案(Etchemendy 1990, p. 162)に従い、モデル理論の標準的教科書である Chang and Keisler 1973 の用語法と一致させるために、この言い方を導入した。また、充足概念についての定義が一切与えられていないので、充足の具体例を幾つか補っておいた。充足概念の一般的定義については、Tarski 1935, secs. 3, 4 を参照。ただし、ここでは日常言語を対象言語として採用したため、タルスキとは別種の考察が必要になった。その考察の大部分は、Etchemendy 1990, ch. 3 において与えられているものに依拠したので、是非ともそれを参照されたい。一般に見られるモデル理論との関係についても述べておかなければならない。モデル理論は、対象言語の形式的構造(文法)の特定、対象言語に対するモデルの構成、モデルにおける真理概念の定義、論理的帰結関係の定義と進んで行く。ここでは通常の日本語(を扱いやすいように多少変形させたもの)を対象言語にしたため、対象言語の構造の特定は行わず、それに伴って、対象言語の構造的特徴に基づいて帰納的に与えられるべきモデルにおける真理概念の一般的定義も与えられなかったが、これはタルスキの責任ではない。タルスキと一般のモデル理論との差異はモデルの構成において現れる。モデル理論でのモデルは、宇宙と呼ばれる対象の集合と、対象言語の表現に対象を指定する関数との順序対によって与えられる。まず、タルスキでは宇宙の概念が抜け落ちている。これは、量化的表現をどの様に扱うかという問題と関係しており、タルスキのこの論文においては、それは説明されないままになっている。この問題については、註(46)で言及する。次に、タルスキでは、対象を指定する関数に相当する無限列は、対象言語の表現ではなく拡張された言語の変項を定義域として持っている。しかしながら、これは技術的な問題と見なすことができるので(Etchemendy 1990, ch. 4 参照)、無限列は(宇宙の問題を無視すれば)拡張される前の対象言語に対するモデルと見なして差し支えないと思われる。なお、「対象言語に対するモデル」という表現も Chang and Keisler 1973 に一致させたものであり、単に「モデル」と言われているときは「対象言語に対するモデル」を意味させている。最後に、自由変項を含む表現(一般に「開放文」と呼ばれる表現)は文と見なさないので、それに対するモデルにおける真理概念の定義も与えられていないことに注意されたい。

(16) Tarski 1936a, p. 417.

(17) Tarski 1936a, p. 418(ただし、タルスキはこの様な文を「分析的(analytical)」と呼んでいる)。このように、論理的真理性は論理的帰結関係から派生した概念として取り扱い、独立した概念とは見なさない。従って、以下において論理的真理性について議論するときも、論理的帰結関係の一つの(技術的に論じやすい)事例として問題にされているにすぎず、容易に論理的帰結関係についての議論に一般化され得ることに注意されたい。なお、論理的真理性の様相的特徴は、
となる。論理的帰結関係を基本的概念と見なすことがタルスキの特徴であることについては、Etchemendy 1988b, sect. 2.4 を参照。

(18) Tarski 1936a, pp. 418-420.

(19) タルスキは死後公表された論文(Tarski 1986)において、論理的概念の正しくかつ十分な定義を試みている。この論文での「概念(notion)」という語は、個体、個体の集合、個体間の関係、個体の集合の集合などを含む、すべての可能な型(type)の対象を意味するために使われており(Tarski 1986, p. 147)、また、論理的対象を指示する表現が論理定項であるから(Tarski and Givant 1987, p. 57)、論理定項の定義が試みられているのである。この論文の編者であるジョン・コルコランは、「この論文は以前の仕事[Tarski 1936a]の続きと見なすことができる」と述べている(Corcoran 1986, p. 143)。この論文でのタルスキの基本的な発想は、様々な幾何学を統一的に扱うためにフェリックス・クラインが提唱した原理を発展させることにある。エルランゲン目録という名称で知られる考えの中で、クラインは、個々の幾何学には、空間のそれ自身への一対一対応を与える関数(変換)のある集合が対応しており、この集合に属するすべての変換のもとで不変に保たれている概念がその幾何学の概念であり、この概念を研究する学問として当の幾何学を特徴付けよう、と提唱している。例えば、すべての合同変換のもとで不変な概念がユークリッド幾何学の概念であり、すべてのアフィン変換のもとで不変な概念がアフィン幾何学の概念である。ここでタルスキは、「この[変換の集合をより大きくとることの]結果として、変換のこのより大きな集合のもとで不変である概念の、より小さな集合を手に入れる。すなわち、その概念の数はより少なくなり、より『一般的な』性質を持ったものになる」(Tarski 1986, p. 149)という事実に注目する。具体例でみると、直角三角形や二等辺三角形はユークリッド幾何学の概念であるが、アフィン幾何学では三角形というより一般的な概念しか現れていない。従って、変換の集合をどんどん大きくとれば完全に一般的な概念に到達し、これが論理的概念である、というのがタルスキの考えである。すなわち、空間ではなく、より一般的に「話の宇宙(universe of discourse)」と呼ばれる集合を定義域と値域として持つ一対一の変換を考え、この変換すべてのもとで不変である概念が論理的概念であると定義される(Tarski 1986, p. 149)。この定義のもとでは、例えば、個体の全集合、個体間の同一性関係、個体の集合間の包含関係、個体の集合の要素の数に関する性質、などが論理的概念であると判定される。最後に述べた論理的概念に関して、タルスキは、「我々の論理は[内包の論理ではないが]外延の論理でさえなく、数についての論理であり、数的関係についての論理である」と述べている(Tarski 1986, p. 151. なお Lindenbaum and Tarski 1936, p. 388 をも参照)。しかしながら、論理についてのこのような見方は、一見すると、我々の常識的理解から逸脱しているように感じられる。またこの見方が論理的帰結関係についての 1936 年の論文で展開された考えとどの様に関連しているのかも、明らかではないと思われる(Tarski 1986, p.145 を参照)。

(20) しかし、数学の表現を論理定項とすることには違和感が付きまとう。前註を参照。

(21) Tarski 1936a, p. 417.

(22) Tarski 1936a, p. 417. 下線による強調は筆者のもの。

(23) Tarski 1936a, p. 417. [ ]内は筆者の挿入。強調も筆者のもの、その部分の英語原語は、the designations of the objects referred to である。

(24) Tarski 1936a, pp. 415-416.

(25) 「可能な対象」というときの「可能」という言葉には形而上学的な意味あいはなく、従って、キマイラや丸い四角のような形而上学的意味での可能な対象はそこには含まれておらず、単に、何らかの仕方で現実に存在すると認められているすべての対象のみが含まれていると解釈すべきである。現実に存在する石炭という対象を指示する表現が欠如している言語の内部では、石炭は現実的な対象ではなく可能な対象にとどまっている、という意味において「可能」という言葉が使われているのであると思われる。このように解釈すべき理由は、対象の無限列による文関数の充足という概念は、本来、通常の真理概念を定義するために導入された装置である、ということの内に求めることができる。第一に、真理概念の定義は科学的に与えられることが意図されていたから、形而上学的意味での可能な対象をも無限列の値域となる集合に含ませていたとは考えられない。第二に、仮に含ませてしまうと奇妙な結果が得られることになる。タルスキは、全称量化記号と束縛変項を持った「すべての x について、x は F という性質を持つ」という形をした文(記号化すると「∀xFx」)が通常の意味で真であるための必要十分条件を、すべての無限列が文関数「Fx」を充足するすることとして与えていた(Tarski 1935, pp. 193-195 参照)。ここで、
という文(H)を考えてみよう。文(H)が通常の意味で真であるのは、すべての無限列が文関数
を充足するときかつそのときに限られる。我々は、文(H)が通常の意味では真であると認めるが、同時に、可能性についての形而上学的直観に訴えて、五百歳以上生きた人間が存在した事態も可能である、すなわち、文(H)が偽であることも可能である、と考えているものと仮定する。しかし、こうした可能な長命者を無限列の値域に含ませてしまうと、文(H)は通常の意味で偽であるという仮定に反する結論が定義から帰結してしまう。無限列による充足という装置は、本来、「可能的に真」という概念を捉えるためのものではない。従って、形而上学的に可能な対象は、無限列の値域からは排除されなければならないのである。

(26) 以下で見る表象意味論と解釈意味論についての議論は、基本的には、Etchemendy 1990, chs. 2, 4 に基づいている。また、Etchemendy 1988a, Barwise and Etchemendy 1989, pp. 253-240 においても簡潔な説明が与えられている。論理的真理性のみを論じていることについては、註(17)を参照。

(27) バーワイズとエチメンディの調査によれば、モデル理論を表象意味論と見るか解釈意味論と見るかについては、「文献では両方の解釈が見い出される」( Barwise and Etchemendy 1989, p. 236)。しかし、集合論の手法を用いたモデル理論においては、彼らが「要因分解の問題(factorization problem)」と呼ぶ問題、すなわち、言語の通常の意味だけを固定しておくことが困難であるという問題が存在するため、表象意味論を首尾一貫して展開することが事実上不可能になっている。彼らが研究している状況意味論は、性質や関係を集合論的構成物としてモデル化するのではなく、それらを基本的(primitive)なものとすることによって、要因分解の問題を克服し、表象意味論を十全に展開することが可能になっているとされる(Barwise and Etchemendy 1989, p. 237)。また、論理学の初等的な教科書として書かれた Barwise and Etchemendy 1991 においてもモデル理論を表象意味論として展開するために注意深い配慮が成されている。

(28) この発想は、クリプキの「固定指定子(rigid designators)」の考えなどに顕著に認められるものである(特に Kripke 1980, pp. 77-78 を参照)。

(29) Etchemendy 1990, p.23.

(30) Etchemendy 1990, p.56. 強調部の原語は semantically well-behaved である。おおまかに述べると、同じ意味論的範疇に属するすべての再解釈のことである。

(31) こうしたモデルは「疑似的(spurious)」であると呼ばれる(Barwise and
Etchemendy 1991, p. 49)。疑似的モデルの典型例は、数学上の真なる命題を表現している文が偽となるようなモデルである。

(32) この不一致は、述語論理のモデル(本章第 3 節を参照)を考えるとより劇的に明らかになる。ただ一つの文「雪は白い」のみから成る言語を考える。論理外の定項(ここではすべての表現)を変項に置き換えて文関数「aA」を得る。モデル f は「a」に雪という個体を、「A」に白いという性質を指定し、モデル g は「a」に雨という個体を、「A」に白いという性質を指定するものとする。雪は白いからモデル f で文「雪は白い」は真であり、雨は白くないからモデル g で文「雪は白い」は偽である。モデルを表象意味論の立場にたって考えると、モデル f は雪が白い世界(現実の世界)を表象した通常モデルであり、モデル g は雪が白くない世界(現実ではない世界)を表象したモデルであると考えられる。他方、解釈意味論の立場に立つと、モデル f は個体定項「雪」が雪という個体を指示し、性質定項「白い」が白いということを意味しているという解釈(通常の日本語の解釈)を与える通常モデルであり、モデル g は個体定項「雪」が雨という個体を指示し、性質定項「白い」が白いということを意味しているという解釈(通常の日本語とは異なる解釈)を与えるモデルであると考えられる。ところで、雪は白いか白くないかのどちらかであるから、表象意味論にとっては、モデル f と g ですべての可能な世界は尽くされており、それだけで必要十分である。しかし、解釈意味論にとっては、f と g だけでは不十分である。個体定項「雪」が氷という個体を指示するという解釈を与えるモデル、性質定項「白い」が黒いということを意味しているという解釈を与えるモデル等、遥かに多くのモデルが考慮されねばならない。従って、両意味論においてはモデルの集合の大規模な外延上の不一致が生じることになる。

(33) Etchemendy 1990, pp. 25-26.

(34) 以下で紹介する「タルスキの誤謬」をめぐる議論は、Etchemendy 1990, ch. 6 に基づいている。なおこの議論は最初 Etchemendy 1983 で展開された。ただしそこでは、「ボルツァーノの誤謬」と呼ばれている。

(35) 註(11)で注意したように、タルスキの定義は様相的特徴と形式的特徴をともに持つ推論と一致することが(少なくとも言葉の上では)意図されている。従って、命題(A)と(B)の同値性の証明を要求するエチメンディは、様相的特徴と形式的特徴を同じものであると解釈ないし判断していることが分かる。しかし、タルスキの考えを文字通りに受け取るべきだとしても、タルスキの定義で論理的である推論は様相的特徴を有するということ(すなわち、「A」なら「B」)はもちろん成立し、以下で見るように、これに対する批判がエチメンディの議論の核心であるから、エチメンディの解釈・判断は彼自身の議論の妥当性に影響を与えるものではない。形式的特徴についての本章第 5 節での議論についても、同じような注意が当てはまる。

(36) Etchemendy 1990, p. 86.

(37) Etchemendy 1990, p. 87.

(38) (P)と(Q)および(R)から矛盾が生じた場合、否定導入規則と含意導入規則によって、「(P)と(Q)なら、(R)ではない」が証明される(前提なしで演繹される)。ここからなぜ(D)のように必然性概念を含む命題が証明されることになるのか疑問に思われるかもしれないし、エチメンディも特に説明を与えてはいない。形式的に述べると、「文『X』が証明されるならば、文『必然的に X』が証明される」という様相論理の推論規則に従ったものであると推測される。ただし、この形式的な推論規則が無制限に使用されているのではなく、文「X」の証明に使われた推論規則(ここでは否定導入規則と含意導入規則)の適用によって証明される文はすべて必然的に真である、ということが何らかの仕方で保証されていなければならないはずである。つまり、表象意味論の議論において、様相について語るための枠組みとして可能世界の概念が用いられていたのと類非的に、ここでの議論では、必然的に真なる文を生み出すことが予め保証された推論規則を導入することによって、様相について語る枠組みを与えているのである。この推論規則は、解釈意味論における論理的帰結関係の定義の中に最初から組み込まれているわけではないから、空想的構造的定義や表象意味論における定義のときのような問題は生じない。

(39) 様相論理では、<□(P & Q ⊃ 〜R), P ⊃ □(Q ⊃ 〜R)>という図式で表された推論は、妥当であるとは認められていない。

(40) 註(38)でみた様相について語る枠組みを用いて証明を与える可能性をエチメンディは否定できないと思われる。つまり、タルスキの定義で論理的である任意の推論<K, S>について、必然性の特徴を生み出すことが既に保証された推論規則を文集合 K に対して有限回適用することによって文 S が得られる、ということが証明される可能性は残っている。実際、ゲーデルの完全性定理は、一階述語論理の言語の中のある限定された言語に対して、このことを証明したものであると解釈することができる。しかし、任意の言語に対してこのことを証明するためには、保証された推論規則の集合を無制限に拡大する必要があり、構成的な証明は不可能にならざるを得ないであろう。また、シャーはエチメンディの議論を承知した上で、「タルスキの真意であると私の信じるきわめて単純な議論」として、「(A)なら(B)」の新しい証明を試みている(Sher 1991, pp. 41-42)。それは、(B)の否定と(A)から矛盾を導き出すという点で、エチメンディの考えている証明とはまったく異なるものである。彼女の証明は、タルスキの意味論を表象意味論として解釈することによって可能になっているが、これはエチメンディ(と私)には容認できない解釈であり、彼女自身も自分の解釈の弱さを認めている(Sher 1991, p. 139)。

(41) 以下で紹介する還元原理をめぐって展開される議論は、Etchemendy 1990, chs. 7, 8 に基づいているが、より簡潔な議論が Etchemendy 1988a においても述べられている。なお、再び論理的真理性についてのみ論じる。

(42) 対象言語に全称量化記号と変項が存在しない場合には、それらを含むように言語を拡張して、その言語の文について考えればよい。全称量化記号と変項を持つ文に対する通常の意味での真理条件については註(25)を参照。ただし、通常の意味で真であるとは通常モデルで真となることであると定義しているので、厳密には、全称量化文が通常モデルで真であるための条件を定義した上で、その条件は文 S が論理的に真であるための条件と一致するということを示さなければならない。煩些になるのでここではそれを行わないが、直観的に容易に理解できるであろう。

(43) Etchemendy 1990, pp. 99-100.

(44) 「ということはない」、「または」のように伝統的に論理定項と考えられてきた表現の意味のみによって真である分析的に真な文が、本来的な意味での「論理的に真」なる文に対応するものであると、一般化して考えることができる。

(45) 全称量化文が論理的に偽のとき、対応する特例化は必ずしも論理的に偽とはならないことに注意されたい。その具体的な例は、註(47)において与えてある。

(46) 文σ2 には論理外の定項は含まれていないから、事実上、量化は行われない。[ ]の前に 0 個の全称量化記号が存在するものと考えられたい。

(47) 存在量化記号を論理外の定項として扱うことについてのエチメンディのタルスキ解釈は、文σ2 を例として説明すれば、次の通りである。まず、文σ2 の論理外の定項「∃」を変項「E」に置換して文関数
を得る(この様な置換によって得られた表現を、以下では「σ2(∃/E)」と略記する)。次に、無限列の概念を拡張して、変項Eに対しては可能な対象(ここでは個体)のすべてを含む集合(以下では「宇宙」と呼ぶ)の任意の部分集合を指定する関数であるとする。今、或る無限列 f が変項「E」に対してその様な或る集合 c を指定するとき、充足の部分的定義は次のようになる。
無限列のもとでの真理概念の定義と論理的真理性の概念の定義は今までと同じである。すると、文σ2 が論理的に真であるための条件は、全称量化文
が通常の意味で真であるための条件と一致する。この全称量化文は、宇宙のすべての部分集合は少なくとも二個の成員を含んでいる、ということを主張している。ところが、宇宙が実際に幾つの対象を含んでいるのかという問題に関係なく、任意の宇宙の部分集合となり得る空集合は二個の成員を含んではいないので、この全称量化文は論理的に偽となり、文σ2 は論理的に真なのではないと判定され(実際σ2 は事実として真であるか偽であるかのいずれかである)、この判定には論理外の事実は影響していない。
 以上に見られる量化記号の論理外の定項としての取扱いは、量化の行われる領域を任意に設定することに等しいから、現代の一般的なモデル理論における宇宙の概念に相当するものである。すなわち、Tarski 1936a の考えを自然な形で拡張すれば、現代のモデル理論が得られるというのが、エチメンディのタルスキ解釈である。しかし、そこには重大な問題が潜んでいることをエチメンディは指摘する(Etchemendy 1990, ch. 5)。次のような文は論理的に真であることが直観的に認められていると考えてみよう。
論理外の定項「∃」を置換する変項に犬の集合を指定し、その他の論理外の定項を置換する変項に対してはその定項の通常の解釈を指定する無限列 g を考えると、無限列 g のもとで文(P)は偽となる。従って、タルスキの定義では文(P)は論理的に真なのではないと判定され、最初の直観に反することになる。この困難を最も合理的に解決するためには、無限列の構成において「名辞交差制限(cross-term restriction)」を課すべきであるとエチメンディは考える。それは、無限列が個体変項に指定する個体はその無限列が量化変項に対して指定する集合の成員になっていなければいけないという仕方で、適切な無限列の集合に制限を与えるものである。すると、無限列 g は適切な無限列全体の集合から排除されることになるから、文(P)の論理的真理性は回復されることになる。名辞交差制限は現代のモデル理論でも自明なものとして用いられているが、意味論的範疇の異なる複数の表現にまたがって制限を加えているので、本章第 4 節で見た解釈意味論におけるモデル構成の方針から逸脱したものである。エチメンディは、名辞交差制限は(P)のような文の論理的真理性を救うためにのみ導入されているとしか説明され得ないであろう、と主張している。つまり、名辞交差制限を用いた解釈意味論は、(P)のような文は論理的に真であるという直観的理解を前提しており、こうした直観的理解に基づいて与えられる論理的真理性の定義は(本章での用語を用いると)科学性条件を満たしていないのである。この問題にこれ以上立ち入ることはできないが、名辞交差制限は言語表現に一般的に観察される意味論的事実から導出されたものであり、必ずしも論理的真理についての直観を救うために導入されたものではない、と理解することも可能であると私は考えている。

(48) Etchemendy 1990, p. 114.

(49) Etchemendy 1990, p. 120.

(50) 例えば、文(8)が偽になるのは、宇宙が二個以上の個体を含むという仮定だけでは不十分であり、これらの個体が性質によって相互に識別可能であるという仮定が必要である。従って、文τn のすべてが論理的に真ではないと判定されるためには、宇宙の大きさが無限であるという事実だけではなく、宇宙が「同質的(homogeneous)」ではないという論理外の事実にも依存しなければならない。通常のモデル理論は、対集合の公理(pair-set axiom)を採用することによって、宇宙の非同質性を仮定している。

(51) エチメンディはこの方法を選択することになると思われる。彼は、モデル理論は表象意味論であらねばならないと主張しているが(Etchemendy 1988a, pp. 104-105, Barwise and Etchemendy 1991, p. 237 参照)、意味論研究の手段としてのモデル理論は表象意味論でなければならないと考えているのであって、第 4 節で見たように、表象意味論が論理的帰結関係の定義・分析を与え得ないことをはっきり認めている。従って、彼の立場は、モデル理論の領域から論理的帰結関係の分析の仕事を切り離すものとなろう。

(52) タルスキも、「ある文が他の文から帰結すると日常生活において述べるとき、これらの文の間のある構造的関係の存在とはまったく異なった何かを、我々は疑いもなく意味している」(Tarski 1935, p. 252n)と述べていた。

(53) Tarski 1936a, p. 413n, 1935, p. 238n 参照。


第二章

(1) T 型同値文(2)は、
の省略形である。より直接に言えば、英文
の(「≡」を取り入れた)日本語への翻訳である。したがって、図式 T(1)も
の翻訳である。これらの英文を自然な日本語に訳すときの困難については、飯田隆によるTarski 1944 の翻訳に付された訳註(坂本 1987, pp. 116-118)を参照されたい。

(2) 現代の論理学の用語で「理論」と呼ばれているものを含む。

(3) Tarski 1936b, p. 406. 「物理的概念でもない」というのは、対象言語が物理学の言語(理論)であることを前提し、対象言語の概念(すなわち物理学の概念)にも還元されない、ということを意味している。

(4) Lf に対する真理述語の定義は、Tarski 1935, p. 188、および、Tarski 1969, p. 65 で与えられたものに基づいている。Lp に類する言語に対する真理述語の定義は、タルスキは与えていないが、基本的な方法は Lc に対する定義において与えられている。Lc に対する真理述語の定義は、Tarski 1935, sec. 3 で与えられたものに基づいている。

(5) メタ言語に含まれている構文論を明示していないため、これらの定義は不正確な「概観」にとどまらざるを得ない。

(6) 厳密に言えば「真理の理論を拒否した」ということになる。というのは、Tarski 1935, sec. 5 で真理述語を未定義述語として含む公理による真理の理論が与えられているからである。しかしこれには複雑な事情がある。タルスキは、この論文の原型を 1933 年にポーランド語で書いたとき、集合論の言語を対象言語とした場合、真理述語を定義することは不可能であると考え、その代わりに真理の理論を与えた。タルスキが真理の理論の公理として採用したのは、集合論言語に属する文についての図式 T の無限個のすべての代入例(T 型同値文)である。しかし 1935 年の独訳版(すなわち Tarski 1935 の原文)の後記において、彼は集合論言語に対する真理述語の定義は不可能であるという以前の考えを修正し、定義を与えることが可能であると考えるようになった。そして、2.1 節の冒頭で見たように、物理主義のゆえに真理の定義の方を選ぶのである。したがって、厳密に言えばタルスキは真理の理論をも与えているのだが、それを拒否したのである。

(7) Tarski 1935, pp. 187-188.

(8) このように、構造記述名と翻訳が代入される図式も「図式 T」と呼ぶことにする。

(9) 翻訳が不可能な言語に属する文については T 型同値文を持ちえないではないか、と反論されるかもしれない。しかし真理定義が行われるメタ言語を特定の言語(例えば日本語)に固定しておく必要はなく、翻訳不可能な言語に鈎括弧と「≡」と真理述語「は真である」を付け加えて、そのままメタ言語とすればよい。たとえば、「Gavagai」が翻訳不可能な未知の言語の文であるとしよう。このときの T 型同値文は
として与えられることになる。なお、ここで私が定式化したタルスキの真理論は、すべての言語の文に関する T 型同値文を含むという点において、註(6)で見たタルスキが実際に与えた特定の言語に対する「真理の理論」とは異なる。

(10) 「論理的真理」というのは言いすぎかもしれない。論理学、構文論、集合論の定理以外の何ものでもない、という意味である。

(11) しかし、実際にトートロジーであることを証明することは、量化記号を含む対象言語を扱っている MLc のようなメタ言語においては厄介であり、認知的に自明とは言えないであろう。ただし、2.1 節で与えられた MLf、MLp、MLc における真理述語の定義は、それぞれが扱っている言語に属するすべての文に関して T 型同値文を帰結することができ(そのことの証明を与えることができる)、規約 T の条件を満たす「実質に適合した」定義である。この知識を前提すれば、自明と言えるかもしれない。

(12) Tarski 1944, p. 15.

(13) Tarski 1944, p. 15. (1)と(2)は、タルスキによると、文献のなかでよく見られるそうであるが、どこから引用してきたのか彼は示していない。

(14) Tarski 1944, p. 15, Tarski 1935, p. 155. アリストテレスの『形而上学』のロスによる英訳からタルスキが引用してきたもの。

(15) Tarski 1935, p. 155. これはタルスキ独自の定式化のようだが、コタルビンスキの著作の中に「きわめて類似した定式化が見い出される」とタルスキは注記している。

(16) Tarski 1944, p. 15.

(17) Tarski 1944, p. 16.

(18) Tarski 1936b, p. 404.
 
(19) Tarski 1935, p. 157.

(20) Tarski 1944, p. 32.

(21) Tarski 1944, p. 17.

(22) Tarski 1944, p. 17.

(23) Davidson 1969. なお「洗練された対応説(sophisticated correspondence theory)」という言葉は、同論文 49 頁にある。
(24) Davidson 1990, p. 302.

(25) デイヴィドソンの与える論証(Davidson 1969, p. 42 )は以下の通り。まず次の原理を仮定する。
次に、ある真なる文を「s」と略記すると、以下のものが成り立つ。
「{x | x = x & s} = {x | x = x}」は「s」と同値であるから、上の原理によって次も成り立つ。
「t」をある真なる言明の略記とすると、上の原理によって、次も成り立つ。
「t」は 「{x | x = x & t} = {x | x = x}」と同値であるから、上の原理によって、次も成り立つ。
「s」と「t」は任意の真なる文である。
 この論証については、Davidson 1967, p. 19, Church 1956, pp. 24-25 をも参照されたい。なお、フレーゲは、真なる文が指示する唯一の対象(デイヴィドソンの言う、真なる文が対応する唯一の「大事実」)を「the True」と呼んだ(Frege 1892, p. 63)。

(26) Davidson 1969, p. 46.

(27) Davidson 1969, p. 51.

(28) Davidson 1969, p. 48.

(29) 第一の点については、すぐ後で問題にされる。第二の点は、ここで扱うことはできない。

(30) すべての真なる文が「大事実」に対応するとしても、そこに到るルートは、異なる文によってやはり異なる。例えば、真なる文「A∨B」と「A&B」を取り上げるなら、その違いは次のようになる。
デイヴィドソンは、この場合、証明の過程で一貫して「大事実」しか現われていない、と批判しているようである。他方、充足による真理定義から T 型同値文を演繹する過程では、必ず特定の無限列が現われるはずである、とデイヴィドソンは考えたのであろう。しかしこれは、変項を含まない文については言えないことである。例えば、真なる文「雪は白い」にのみ関わる特定の無限列というものは存在しない。この文についての T 型同値文を演繹する際に使われるのは、一貫して「すべての無限列」である。「草は緑色である」など、変項を含まない文はすべて同様である。したがって、デイヴィドソンの弁解は一般には成立しない。彼は、「『ドローレスはダグマーを愛している』は、ドローレスがダグマーを愛しているならば、ドローレスとダグマーによって(この順序で)充足されるであろう」(Davidson 1969, p. 48 )と述べているが、これはタルスキの充足概念の誤解である。「ドローレスはダグマーを愛している」は、ドローレスがダグマーを愛しているならば、任意の対象 A と B によって充足されるのである。したがって、この文についての T 型同値文を演繹するときには、ドローレスとダグマーという特定の対象はまったく関与してこない。関与してくるのは、すべての対象(無限列)であり、それも空虚な仕方においてである。こういう誤解が生じたのは、タルスキが充足による真理定義を与えた言語 L c が名前を含んでいなかったからであろう。そこで、Lc に名前「φ」が含まれていたとき、この定義がどうなるかを考えてみよう。この場合、充足の定義の「≡」の右辺の最初に、次のような条項が付け加えられると思われる。
変項を含まない文関数「φ ⊆ φ」の充足において、特定の対象(すなわち空集合φ)がまったく関与していないことは、明瞭であろう。名前をいくつ導入しようとも、それが有限個数である限り、この一覧表の方法で対処できる(無限個数の語彙を含む場合は、タルスキの方法はそもそも通用しない)。規約 T を満たした定義であるためには、この方法で必要十分である。充足概念による真理の定義は、量化を含む文に対処するために使われた単なる道具であり、量化を含まない文に対しては、何ら興味ある役割を演じない。そこに真理対応説の「洗練」された表現を読み込もうとするのは、最初から無理がある。
     
(31) Davidson 1990, p. 302n.

(32) Davidson 1969, p. 49.

(33) 量化を含まない言語に対しても、充足概念による真理述語の定義は可能である。

(34) しかし、デイヴィドソンはフィールドの解釈を受け付けない。そこに含まれている「指示」概念に対して、クワインと同様、懐疑的な態度を取るからである。しかし、本論文ではこれ以上デイヴィドソン哲学に関わることはできない(我々の目的は、タルスキ解釈という限定されたものである)。Davidson 1977 を参照されたい。

(35) Field 1972, pp. 84-85.

(36) 「満たされる」というのは、例えば、関数「〜の首都」は対象の順序対<東京、日本>によって満たされる、という意味である。

(37) フィールドは、「〜は s によって充足される」ではなく、「s に関して、〜は真である」という表現を使っているが、ここでは、充足概念は量化文のためにのみ必要とされているのだということがはっきりわかるように、「〜は s によって充足される」というタルスキの本来の表現の方に直しておいた。「充足する」を(B)1(2)の「当てはまる」と混同しないように注意されたい。

(38) 「『pk』は a に当てはまる」というのは、「a は『pk』の外延に属する」という意味である。

(39) フィールドは概して T 型同値文の重要性について無関心である。ただし、この点は後に自己批判するようになった(cf. Field 1986, p. 64)。

(40) フィールドは、T1 は真理概念を他の意味論的概念に還元している、と述べているが、これは誤解を招きやすい表現ではないかと思われる。正確には、他の意味論的概念と「世界の在り方」に還元している、と言うべきだったのではないだろうか。というのは、「雪 ∈{x|x は白い}」における対象と対象の集合の間の成員関係は、意味論的概念とは思われないからである。フィールドの定式化では「当てはまる」という概念が使用されているため、この点がわかりにくくなっているが、我々のように定式化すれば、はっきりするであろう。「雪は白い」という文は、雪が白くなければ(すなわち、〜(雪 ∈{x|x は白い})、真ではなくなるのである。

(41) できれば、真理論の公理として、
という形のものを採用したいところである。そうすれば、演繹されるのは
となり、T 型同値文として申し分ない。しかしこの方法は取れない。なぜなら、この形の代入例の一部(および原始的指示概念の理論の定理)である
が文法規則に違反しており、文ではなくなってしまうからである。したがって、我々は、「雪 ∈{x|x は白い}」を「雪は白い」の翻訳であると見なして、(α)の形で満足せねばならない。

(42) この部分は、厳密には、原始的指示概念の理論において成されている(それぞれの名前にユニークな対象を与え、それぞれの述語にユニークな対象の集合を与えることによって)。

(43)  Field 1986, p. 104.

(44) 例えば、デヴィットは、古典的議論から抽出される対応真理概念の特徴として、(1)文の真理の一部は文の構造によって決定される、(2)一部は文が実在にたいして有する関係によって決定される、(3)一部は実在の客観的な性質によって決定される、という三特徴を挙げ、T1 はこれをすべて満たしているがゆえに対応説であると論じている(Devitt 1991, pp. 27-28)。

(45) 我々の本来の目標からすれば、この検討は余分と言えるかもしれない。我々の目標は、対応説から T 型同値文を演繹することであり、それは行った。したがって、対応説が正しいことを仮定したのと同様、補助理論として用いたタルスキ流の原始的指示概念の理論が正しいことをも仮定すれば十分であろう。しかし、この補助理論がまったくのナンセンスであるとすれば、我々としても居心地が悪い。この余分な検討はこの居心地の悪さを解消することを目的としている。また、指示の問題が真理の問題と平行的な構造を持っていることも明らかにされるであろう。

(46) Field 1972, p. 98.

(47) Field 1972, p. 109. 私自身としては、タルスキが考えていたであろう「規約 D」はむしろ次のように定式化した方が、わかりやすいと思う。
日本語を対象言語とした場合、この帰結の中には、例えば、次のようなものが含まれる。
「雪 = 雪」を論理学の定理と考えれば、定義のみから「『雪』は雪を指示する」が帰結するといえよう。他方、「〜(『雪』は草を指示する)」を導くためには、「草≠雪」という経験的知識が必要とされる。このような経験的知識がメタ言語の中で常に与えられているとは、一般には仮定できない。つまり、タルスキの指示概念の定義は、「y は z を指示する」のすべての代入例を単純に一覧表の形で列挙したものではなく、大雑把に言えば、指示概念を対象の間の(経験的にのみ知られるかもしれない)同一性の関係に還元しているのであり、したがって、本文ですぐ見ることになる原子価の一覧表定義とはステータスが異なっているように思われる(数の間の同一性関係はア・プリオリに知られるから)。この点をフィールドが明確に自覚しているかどうかは、きわめて疑わしいが、指示概念の検討は本章の範囲外であるので、これ以上追及しないことにする。

(48) Field 1972, sec. IV.

(49) これは可能性として述べているだけであって、私自身は、タルスキの真理論について 4 節で検討される解釈の路線で彼の指示理論も解釈されるであろう、と考えているが、ここでそれに立ち入ることはできない。

(50) 「『雪』は雪を指示する」を導けないような指示の理論は、まともな指示の理論とは考えにくい。この否定を導くようなら、それは間違った指示の理論であろう。「雪」が草を指示するような言語も存在可能である、と反論されるかもしれない。しかし、我々はメタ言語を対象言語に必要最小限の語彙を付加して構成していることに注意されたい。「雪」が我々の言語の「草」が指示している対象を指示している言語においても、「『雪』は雪を指示する」は成り立つ。なぜなら、二番目の「雪」は我々の言語の「草」が指示している対象を指示しているからである。

(51) Kirkham 1992, p. 132.

(52) ラッセルの対応説からカーカムが対応説の本質を抽出する過程は以下の通り(Kirkham 1992, ch. 4.2)。オセロがデスデモーナはカシオを愛していると信じているとしよう。ラッセルによると、この信念(オセロ、デスデモーナ、カシオ、愛すること、という四項から成る複合的統一体)が真であるのは、それに対応する事実(デスデモーナ、カシオ、愛すること、という三項から成る複合的統一体)が存在するときである。カーカムはこのラッセルの説を次のように定式化する。
「b」の領域は信念、「B」の領域は信じている人、「x」と「y」の領域は対象、R の領域は二項関係であり、「<B, x, R, y>」は、x は y に対して関係 R を有しているという B の信念に対する名前である。ここに含まれているラッセルの信念の理論を、カーカムは次のように定式化する。
この信念の理論をラッセルの対応説から差し引けば、次が得られる(正確には、次のものとラッセルの信念の理論との連言がラッセルの対応説と同値である)。
さらに、信念と事実の間の同型性の要求を除去すれば、次のようになるであろう(ただしカーカムはここまでは定式化していない)。
「p」は命題変項(propositional variable)である。これは図式(C)の代入例となっている(すなわち、図式(C)の「R」に「〜は…という信念である」を代入したもの、ただし、「p という事態が成立している」は「p」によって表現されている)。なお、ここでカーカムが問題にしているラッセルの真理論は Russell 1912 の真理論である(原型はRussell 1906 にある)。ラムジーによると、「1904 年から 25 年の間に、ラッセル氏は[真理とは何かという問題に対して]五つの異なった解決を次々に採用してきた」(Ramsey 1991, p. 15)ということなので、注意されたい。
 次にオースティンの対応説から対応説の本質が抽出される過程を見てみよう(Kirkham 1992, ch. 4.3)。オースティン(Austin 1950)によると、真理とは言明(statements)、文、事態、事態のタイプの四項の間の関係である。言明とは文によってなされる主張であり、文は言明をなすための媒介物にすぎない。オースティンにとっての真理値の担い手は、この言明である。また、言明は事態と、文は事態のタイプと、それぞれ規約によって関係づけられているとされる。オースティン自身による真理対応説の説明はきわめて簡略化されているため、カーカムは、そこで暗黙のうちに使われている条件を明示して、それを次のように定式化する。
「s」の領域は言明、「x」の領域は事態、「r」の領域は事態のタイプ、「t」の領域は文である。ラッセルの信念の理論に相当するものは、オースティンの場合、言明の意味の理論であり、カーカムはそれを次のように定式化する。
この理論をオースティンの対応説から差し引けば、次が得られる。
これは、図式(C)の「R」に「〜は…を意味する」を代入したものになっている。

(53) カーカムによれば、ラッセルもオースティンも実在論を前提にしている。観念論に立ち、同時に対応説を展開した哲学者として、カーカムはマクタガートを挙げている。我々が前節で見たフィールドの対応説は、物理主義を前提することによって、はっきりと実在論を含意している。また、フィールドにしたがったデヴィットは、註(44)で見たように、古典的議論から抽出される対応説の特徴として実在の客観性(精神からの独立性)を挙げており、この点においてカーカムの見解とは異なっている。いずれにしても、真理論と実在論の関係については、この論文では扱うことはできない。なお、フィールドの対応説(の一部)が図式(C)の代入例であることは、以下のように示すことができる。名前と一項述語からなる単文にのみ限定した場合、フィールドの対応説は次のように書くことができる。
「s」の領域は名前と一項述語からなる文である。この対応説の中に含まれているのは、「〜は…と語る」についての理論であり、それは次のように定式化される。
この理論をフィールドの対応説から差し引けば、次が得られる。
さらに、文と対応する事実の間の同型性の要求を除去すれば、次のようになる。
これは、図式(C)の「R」に「〜は…と語る」を代入したものである。このように、同型性の要求をはずすことによって、文法構造が必ずしも明確ではない言語に対しても、対応説を定式化することが可能になる。

(54) Kirkham 1992, p. 167.

(55) 理論 S は事実(事態)という概念をあからさまに使用している。したがって、註(25)で見たフレーゲ−チャーチの議論を逃れられないのではないか、と反論されるかもしれない。確かに、理論 S が完全に満足のゆく対応説の定式化であることを言うためには、フレーゲ−チャーチの議論に答えなければならない。だがここでそれを行う(時間的)余裕はない。我々は、対応真理概念は事実概念と「語る」という概念によって説明される、ということにとりあえず満足し、両概念の検討は真理論とは独立になされるべきである、という態度を取ることができる。しかし、そうすれば、なぜデイヴィドソンの対応説は不満足なものとして拒否されなければならないのか、と問われるかもしれない。これに対しては次のように答えることができるであろう。デイヴィドソンの対応説は、すべての真なる文がただ一つの「大無限列」に対応してしまうことになる、という帰結を完全に導き出してしまっており、そこから逃れる術はない。したがって、対応説としては不満足なものである。他方、理論 S は、事実という曖昧な概念に訴えることによって、ただ一つの何かに対応してしまうという事態を表面上は回避しており、さらに、フレーゲ−チャーチの議論を論駁することによって、ただ一つの「大事実」に対応してしまうことになるという事態を回避する可能性を残している。よって、理論 S は、デイヴィドソンのものよりも満足ゆく対応説の定式化である。

(56) この「語る」の理論の定理が正しいことは、私には自明のことのように思われる。一般に、「『p』は p と語る」、「『p』は p ということを意味する」、「『p』は p という命題を表現する」などの正しいことは、疑いえないのではないか。しかしながら、「語る」の理論の具体的な検討(なぜ「『p』は p と語る」は真なのか)をここで行うことはできない。我々は、対応真理概念が「語る」の理論によって説明されるということに満足しなければならない。だが、「雪は白い」が草は赤いと語るような言語も存在可能ではないかと反論されるかもしれない。確かに、そのような言語も存在するかもしれない(簡単のためこの言語を「Lj」と呼ぶことにする)。この場合、もしメタ言語が日本語ならば、
は偽で、次のものが真である。
しかし、我々はメタ言語として任意の言語に属するすべての文を含んだ言語を採用することができる。そこでは(1)が真で(2)は偽である。だが、これでは Lj と日本語の区別ができないではないか、と言われるかもしれない。よって、厳密には、(1)は次のようにでも書かれなければならない。
つまり、Lj の文「雪は白い」と日本語の文「雪は白い」は、日本語の文「雪は白い」と日本語の文「草は赤い」が文として異なっているように、文として別個なものなのである。

(57) Kirkham 1992, chs. 5.7, 5.8.

(58) 我々がこの節で得た結果から見るならば、(6)は真理対応説と「語る」の理論にその真理性を負うているのであり、少なくとも真理対応説が論理的真理でないことを認める限り、(6)は論理的真理ではありえない。対応説が間違った理論であれば、(6)も偽でありうる。

(59) Etchemendy 1988, p. 61.

(60) この例は、Kirkham 1992, p. 185 から借用した。ただし、彼がこの例を用いている議論の文脈は、聖書真理説、真理有用説、真理整合説などは、単独では、タルスキの規約 T を満たさない、というものであり、我々の議論とは関係ない(規約 T は真理の定義に課された条件であり、真理論に課された条件ではないから)。

(61) Tarski 1935, p. 153.

(62) Tarski 1944, p. 32.

(63) Cf. Tarski 1944, pp. 15, 32.

(64) このように理解することができることは、Ramsey 1991, p. 11 から学んだ。
(65) E* は命題から命題への関数と考えられ、例えば、引数として<雪は白い>を取ったとき、その値は<<雪は白い>は真である ≡ 雪は白い>となる。したがって、ミニマル説の公理は次の原理によって与えられる。
また、ホーウィッチは、ミニマル説の公理は、次の図式のすべての代入例によっても表現可能であるとも述べている。
ただし、「p」に置き換わるのは、現実の日本語のすべての文だけではなく、現実の日本語では表現不可能な命題をすべて表現できるように拡張された、可能的な日本語のすべての文である。以上の定式化の詳しい説明については、Horwich 1990, pp. 18-22 を参照されたい。

(66) Horwich 1990, p. 39. フレーゲの余剰説は「意義と意味について」の次の言葉に見ることができる。
ラムジーの余剰説は「事実と命題」の次の言葉に窺うことができる。
 ホーウィッチは以上のような余剰説を「過激な縮小主義」(真理性質を無に帰する立場)と単純に同一視しているが、カーカムの忠告にしたがうと、我々は余剰説に対してもう少し慎重に対処すべきである。カーカムの『真理の諸理論』の基本方針は、今まで提出されてきたさまざまな真理論を、それらが従事している異なる哲学的プロジェクトに応じて分類しようとするものである。過激な縮小主義と余剰説の関係という我々の今の問題に関係してくるのは、カーカムの言う「形而上学プロジェクト」と「言語行為プロジェクト」である。形而上学プロジェクトとは、真理という性質は何であるのか、という問題を探究するプロジェクトである。対応説、有用説、整合説などは、真理性質をそれぞれ「実在との対応」、「有用性」、「整合性」などとして同定しようとする、形而上学プロジェクトの路線上で提出された真理論である。カーカムはタルスキの真理論もここに分類されると考える(タルスキは真理性質の概念的規定は与えなかったが、真理性質が帰属する存在者(文)を特定することによって、真理性質の外延を決定する「定義」を提出しているから)。また、ホーウィッチのミニマル説も、ここに分類される(理由は、本文の方ですぐ明らかになる)。これに対して、言語行為プロジェクトとは、我々が、例えば、「『雪は白い』は真である」と発語するときに、我々はいかなる言語行為を行っているのか、という問題を探究するプロジェクトである。この路線上で行われた仕事の一つは、ストローソンの論文「真理」であり、彼によると、上の発語によって我々が行っている言語行為は、何かを主張する行為ではなく、同意ないし確認という行為である。ラムジーの余剰説も言語行為プロジェクトに属するが、それが提出する答えは、上の発語によって我々は、「雪は白い」という命題について何かを主張しているのではなく、まさに雪が白いということを主張しているのである、というものである。カーカムが二つのプロジェクトを区別したことの功績は、別々のプロジェクトに属する二つの真理論が両立可能である、ということを明らかにしたことである。例えば、真理性質は有用性にほかならないが、我々が「『雪は白い』は真である」と発語するとき、我々は「『雪は白い』は有用である」ということを主張しているのではなく、単に誰かの「雪は白い」という発言に同意しているだけである、という立場を取ることも可能である。この立場は、形而上学プロジェクトとして有用説を採用し、言語行為プロジェクトとしてストローソンの理論を採用したものである。しかしながら、カーカムは、言語行為プロジェクトの下で真理論を提出してきた哲学者のほとんどが、同時にホーウィッチの言う「過激な縮小主義」(カーカムはこれを単に「縮小テーゼ」と呼んでいる)をも採用している、と判断する。過激な縮小主義は、真理性質は(内包も外延も)存在しないという立場であるから、形而上学プロジェクトに属するいかなる真理論とも両立不可能である。そしてカーカムは、ラムジーも言語行為プロジェクトとしての余剰説と、反形而上学プロジェクト的な「過激な縮小主義」を採用していると考える。ただしそう考える理由はまったくはっきりしない。おそらくラムジーが「真理については実は独立した問題は存在せず、言葉の上での混乱があるにすぎない」(Ramsey 1927, p. 38)と述べているからであろう。つまり、真理性質が存在するのであれば、真理についての独立した問題も(いくら哲学的に小さい問題とはいえ)存在するはずである、と考えたのであろう。ただし、カーカムは次のような註を付けている。
ところで、カーカムにもフィールドにもホーウィッチにも利用できなかったが、我々には、ラムジーの遺稿をまとめて最近出版された『真理について』が与えられている。それを読む限りでは、フィールドの見解が正しく、形而上学プロジェクトに関して、ラムジーは対応説論者である。彼がそこで定式化している真理定義は次のとおりである(Ramsey 1991, p. 15)。
これは、3.4 節で見た、対応説の図式(C)の代入例となっている。また、ラムジー自身も、「我々は『対応』という言葉を使っていないけれども、我々の[定義]はおそらく『真理対応説』と呼ばれるであろう」(Ramsey 1991, p. 11)と述べている。したがって、ラムジー自身に形而上学プロジェクトに関して「過激な縮小主義」という立場を帰せることは、今日ではもはや不可能である。

(67) Horwich 1990, p. 12.

(68) Horwich 1990, p. 2.

(69) Horwich 1990, pp. 38-39.

(70) Horwich 1990, p. 4.

(71) 以上の論述は、Horwich 1990, pp. 2-5, 31-34を基に、再構成したものである。ところで、真理の余剰説(過激な縮小主義)によっても、ラムジーの与えたアイディア(Ramsey 1927, p. 39)にしたがって、(b)を次のような単一有限命題に転換できるではないか、と反論されるかもしれない。
この反論に対するホーウィッチの答えは次のとおりである(Horwich 1990, pp. 4-5, pp. 32-33)。(1)は通常の量化(対象量化、変項の領域が対象)ではなく、代入量化(変項の領域が名前)と見なされるべきである。代入量化の通常の理解に基づけば、(1)が意味していることは、「『オスカーは p ということを言った ⊃ p』の中の『p』に日本語の主張文を代入して得られた任意の結果は真である」ということである。ここには真理述語がなお現われており、過激な縮小主義の立場に反する。しかし、この点をホーウィッチは問題にしない。実際、ホーウィッチ自身は検討していないが、代入量化に訴えずとも、それに代わる新しい論理装置を導入することによって、(b)を真理述語を含まない単一有限命題に転換する可能性は残されている。むしろ、ホーウィッチの論点は、次のようなものである。
一般に、次のような代入量化が必要とされる命題があるとする。
ミニマル説の真理概念があれば、この命題は次のような通常の対象量化によって表現できる。
したがって、ミニマル説が主張する真理性質とは、代入量化(および、それに代わりうる論理装置)を不要にするような性質である、とも言えるであろう。

(72) Horwich 1990, p. 110.

(73) Horwich 1990, p. 13.

(74) Horwich 1990, pp. 110-112.

(75) Horwich 1990, p. 110.

(76) 説明の順序が逆転して、もし我々が先に「なぜ『雪は白い』は真なのか」を、雪は白いということに訴えずに(何らかの方法、例えば聖書真理論で)説明したとすれば、ミニマル説によって、「『雪は白い』は真であるがゆえに、雪は白い」という(奇妙な)説明が得られることになる。よって、我々は最初に「なぜ雪は白いのか」の方を説明する傾向にある、という仮定(すなわち、真理以外のことに関する補助理論、ここでは心理学的な理論)が、ミニマル説から対応説を導出するのに決定的な役割を果たしていると思われる。

(77) Horwich 1990, p. 112.

(78) Horwich 1990, pp. 50-52.

(79) もちろん、ミニマル説の公理を満たす形で新しい述語「真である」を規約によってわざわざ導入した、ということをホーウィッチが考えているわけではない。別の箇所で彼は次のように述べている。
(80) Horwich 1990, pp. 103-108. ホーウィッチがここで展開しているのは「発話(utterance)に関する真理(に似た何か)のミニマル説である。したがって、発話状況を考慮する必要があり、その公理は T 型同値文のような単純なものとはならない。ところで、タルスキが真理値の担い手と考えているものは、Tarski 1935, p. 156 を見る限りでは、文のタイプであり、発話(文のトークン)ではない。よって、発話状況を考慮する必要はなく、T 型同値文で十分である(タイプとして見られた文は、ほとんど命題と同じである)。ところが、そうすると、指標的表現(「私」など)を含む文タイプは、そもそも真理値を担えないのではないか、という問題が生じてくる。この理由からホーウィッチは、真理値の担い手の候補としての文タイプには否定的である。したがって、T 型同値文説とミニマル説を同一視することは、厳密にはできないかもしれない。だが、指標的表現を考えなかったことは、タルスキの T 型同値文の(大きいとはいえ)単なる技術的な欠陥であると見なすことができる。

(81) ただし、次のような注意が必要である。註(65)の図式(E)に日本語の文
を代入すれば、
がミニマル説の公理として得られる。ところがここでは、
であるから、上の公理(2)を書き換えると、
となり、矛盾である。よって、この種のいわゆる「嘘つきのパラドックス」を避けるために、ホーウィッチは、「同値図式[(E)]のある代入例[例えば(2)]はミニマル説の公理に含ませるべきではない」(Horwich 1990, p. 42)と注意している。T 型同値文説に関しても、同じ様な注意が必要になるかもしれない。

(82) Horwich 1990, p. 9. ただし、これはデイヴィドソン(およびフィールド)によって流布された解釈にしたがっているだけであり、「タルスキ自身が彼の仕事に対するこの[デイヴィドソン流の]解釈を是認するということは明らかではない」(Horwich 1990, p. 117)と断わっている。

(83) Horwich 1990, p. 30.

(84) 誤解を招かないように、T 型同値文と対応説との関係について、この章で得られた結果をまとめておこう。両者の可能な関係は次の三つである。
我々は、3.1 節で、(A)を認めることはできないと論じた。その理由は、対応説に不可欠である言語と世界の関係が、T 型同値文では表現されていないからであった。しかし、タルスキが(A)を考えていたという可能性を完全に否定することはできない。その場合は、タルスキは対応説に関して認識不足であったと言うしかないであろう(タルスキは哲学者ではなくやはりただの数学者であった)。しかしまた、タルスキは、真理概念は充足概念に還元され、充足概念は世界と言語の間の関係を表現しているから、真理概念もこの関係を表現している、という考えを述べていた。3 節の残りでは、この考えを発展させて、(B)を得た。(B)の T 型同値文に現われている真理概念は、対応真理概念である(T 型同値文の真理性が対応説の真理性に依存しているという意味で)。よって、(B)は(A)に近いと言えるであろう。これに対して、我々が 4 節で得た(C)は、(B)の関係を逆転させている。したがって、(C)の T 型同値文で現われている真理概念は対応真理概念ではない。よって、(C)は(A)、(B)とは決定的に異なっている。

(85) Wittgenstein 1978, p. 117.

(86) Tarski 1944, pp. 30-31.

(87) もちろん、真理述語のタルスキ流の定義が与えられている場合、真理述語は常に(本文で述べられたような単純な仕方ではないにしても)消去可能である。例えば、2.1 節のメタ言語 MLf に文の名前「プラトンが書いた最初の文」を付け加えると、「プラトンが書いた最初の文は真である」の消去式は次のようになる。
しかしこの右辺はタルスキが「プラトンが書いた最初の文は真である」で表現しようとしている命題ではない。この命題を表現するためには、対象言語がギリシャ語でなければならない。もしギリシャ語に対するタルスキ流の真理定義「∀x(x は真である ≡・・・)」が与えられているならば、「プラトンが書いた最初の文は真である ≡・・・)」という消去式が得られ(真理定義に帰納的手法が用いられている場合は、フレーゲ−デデキントの方法で明示的定義に書き換える)、この右辺は求める命題を表現している。しかしながら、ギリシャ語のような日常言語を対象言語にした場合、タルスキ流の真理定義を構成することはできない。その語彙が確定していないからである(タルスキの真理定義は、語彙を一覧表形式で列挙できるような言語にしか適用できない)。よって、「プラトンが書いた最初の文は真である」から真理述語を消去することは不可能である。タルスキの真理定義だけを見ていると、それを余剰説から区別することは困難である。それどころか、タルスキの真理定義を基にして、真理余剰説を主張したくなるかもしれない。ここでも我々はタルスキの真理論を真理定義から区別しなければならない。タルスキが「プラトンが書いた最初の文は真である」から真理述語は消去不可能であると述べているとき、我々はそこに彼の真理論(定義以前の真理概念についての実質的な主張)を見い出すべきである。

(88) Kirkham 1992, p. 347. カーカムがここで言及しているホーウィッチの三つの議論とは、我々が4.3 節の(四)で見た四つの理由(1)〜(4)のことである。

(89) 我々は、このある種の論理的な性質としての真理性質を「T 型同値文の全体を真にするような性質」として記述し、したがって、T 型同値文説は T 型同値文の全体を公理として持つことになるが、この論理的性質としての真理性質に依存して T 型同値文が真となることに変わりはない。

(90) もちろん、真理の X 説を積極的に(他説に対立するものとして)提出している哲学者が、なぜ X 説は正しいのかという問題に対して、哲学的な議論によって説明を与えることがまったくできないとしたら、その哲学者は恥じるべきであろう。しかし、そのような哲学的議論を真理の X 説自体が内蔵している必要はない。

(91) 我々の考えは、T 型同値文説を仮定すれば T 型同値文の正しさは自動的に説明される、というものである。そうすると、4.3 節の(四)で見たホーウィッチの議論はどのように評価されるべきであろうか。私の考えでは、そこでの議論はミニマル説(T 型同値文説)そのものの正しさを示そうと試みた議論である。しかし、そのための議論としてはきわめて不十分であるように思われる。まず、(1)の議論は、T 型同値文はア・プリオリな真理であるから、T 型同値文の真理をア・ポステリオリにしてしまうような真理論は間違っている、ということを含意している。そのような真理論の候補としては、例えば、3.3 節で見たフィールドの物理主義的真理論が考えられよう(この理論が成功すれば、T 型同値文は経験的科学理論の定理となる)。しかし、この議論が説得力を持つためには、T 型同値文の真理のア・プリオリ性がまず示されなければならない。ホーウィッチはこのア・プリオリ性を自明のこととしているが、我々は、T 型同値文が真であることまでは認めることはできるが、ア・プリオリであることまでは、そう簡単には認めることができないであろう。次に、(2)の議論は、T 型同値文には解明されるべきような法則は含まれていないから、何らかの法則に訴えて T 型同値文の真理性を説明するような真理論は間違っている、ということを含意している。フィールドの物理主義的真理論が、やはりここでもそのような真理論の例として考えられる(T 型同値文は物理法則によって説明されることになる)。(1)の場合と同様、T 型同値文の無法則性をあらかじめ確立しておかない限り、この議論は無力である。(1)と(2)の場合をまとめれば、次のように言えるであろう。物理主義的真理論を奉ずる者は、T 型同値文はア・ポステリオリな真理であり、物理科学の法則にしたがって真である、と考えている。これに対して、ホーウィッチは、T 型同値文はア・プリオリであり科学法則にはしたがっていないと述べているだけである。これはお互いの真理論の根本的な相違点を確認しているだけであり、このままでは相手を論駁する議論にはならない(ただし、ホーウィッチは、Horwich 1990, pp. 121-122 で、物理主義的真理論を批判する別の議論を展開してはいる)。次に、(3)の議論は、T 型同値文のア・プリオリ性を保存しうる(ミニマル説以外の)真理論は存在しない、ということを意味している。この議論に対しては、4.4 節で見た形而上学的な(つまり、物理主義的ではない)真理対応説と「語る」の理論を持ち出すことができよう。この二つの理論は T 型同値文を演繹することができるのであるが、これらの理論がア・ポステリオリな経験的科学理論であるとは、とても思われない。そうすると、T 型同値文のア・プリオリ性を保存する二つの真理論(ミニマル説と形而上学的対応説)が存在することになるが、ホーウィッチはいかにしてミニマル説の方が正しいことを主張できるであろうか。仮に T 型同値文のア・プリオリ性が認められたとしても、T 型同値文のこのア・プリオリ性に訴えるだけでは、それは不可能である。最後に、(4)の議論は、T 型同値文は規約によって真であるから、規約以外のものに訴えて T 型同値文の真理性を説明する真理論は間違っている、ということを意味している。しかし、T 型同値文が規約によって真であると述べることは、真理述語の指示する性質がある種の「論理的性質」であるという事態を表現するための、一つの方法である。つまり、ミニマル説が正しいことを前提しない限り、この議論は通用しないのである。したがって、ホーウィッチがミニマル説の正しさを証明するためになすべきことは、事実として我々が T 型同値文を規約として採用しているということを明らかにすることであろう。仮に、T 型同値文を真なるものとして採用するという明示的な取り決めを我々がかつて行ったという歴史的事実が存在すれば、ミニマル説の正しさは決定的に証明されるかもしれない。しかし、そのような歴史的事実はおそらく存在しない。したがって、T 型同値文の規約性を論証することは、きわめて困難なものとならざるをえないであろう。


文献

Austin, J. L. 1950. "Truth." In Austin 1970, pp. 117-133.

Austin, J. L. 1970. Philosophical Papers. (Edited by J. O. Urmson and G. J. Warnock.) Oxford: Oxford University Press.

Barwise, J., and J. Etchemendy. 1989. "Model-Theoretic Semantics." In Posner 1989, pp. 207-243.

Barwise, J., and J. Etchemendy. 1991. The Language of First-Oder Logic. 2nd ed. Stanford: CSLI.

Blackburn, S. 1984. Spreading the Word. Oxford: Oxford University Press.

Chang, C. C., and H. J. Keisler. 1973. Model Theory. Amsterdam: North-Holland.

Church, A. 1956. Introduction to Mathematical Logic. Volume I. Princeton: Princeton University Press.

Corcoran, J. 1983. "Editor's Introduction to the Revised Edition." In Tarski 1983, pp. xv-xxvii.

Corcoran, J. 1986. "Editor's Introduction." In Tarski 1986, pp. 143-144.

Davidson, D. 1967. "Truth and Meaning" In Davidson 1984, pp. 17-36.

Davidson, D. 1969. "True to the Facts." In Davidson 1984, pp. 37-54.

Davidson, D. 1973. "In Defence of Convention T." In Davidson 1984, pp. 65-75.

Davidson, D. 1977. "Reality without Reference." In Davidson 1984, pp. 215-225.

Davidson, D. 1984. Inquiries into Truth and Interpretation. Oxford: Clarendon Press.

Davidson, D. 1990. "The Structure and Content of Truth." Journal of Philosophy 87: 279-328.

Devitt, M. 1991. Realism and Truth. 2nd ed. Oxford: Basil Blackwell.

Engel, P. 1991. The Norm of Truth. Toronto: University of Toronto Press.

Etchemendy, J. 1983. "The Doctrine of Logic as Form." Linguistics and Philosophy 6: 319-334.

Etchemendy, J. 1988a. "Models, Semantics, and Logical Truth." Linguistics and Philosophy 11: 91-106.

Etchemendy, J. 1988b. "Tarski on Truth and Logical Consequence." Journal of Symbolic Logic 53: 51-79.

Etchemendy, J. 1990. The Concept of Logical Consequence. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.

Field, H. 1972. "Tarski's Theory of Truth." In Platts 1980, pp. 83-110.

Field, H. 1986. "The Deflationary Conception of Truth." In MacDonald and Wright 1986, pp. 55-117.

Frege, G. 1892. "On Sense and Meaning." In Frege 1980b, pp. 56-78.

Frege, G. 1980a. The Foundation of Arithmetic. 2nd revised ed. (Translated by Austin, J. L.) Evanston: Northwestern University Press.

Frege, G. 1980b. Translations from the Philosophical Writings of Gottlob Frege. 3rd ed. (Edited and translated by Black, M. and P. Geach.) Totawa: Rowman and Littlefield.

Godel, K. 1930. "Die Vollstandigkeit der Axiome des logischen Funktionenkalkuls." In Godel 1986, pp. 102-122.

Godel, K. 1931. "Uber formal unentscheidbare Satze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I." In Godel 1986, pp. 144-194.

Godel, K. 1986. Collected Works. Volume I. (Edited by Feferman, S., et al.) Oxford: Oxford University Press.

Henkin, L., et al., eds. 1974. Proceedings of the Tarski Symposium. Providence: American Mathematical Society.

Horwich, P. 1982. "Three Forms of Realism." Synthese 51: 181-201.

Horwich, P. 1990. Truth. Oxford: Basil Blackwell.

Horwich, P. 1993. "Theories of Truth." In Hughes 1993, pp. 62-75.

Hughes, R. I. G., ed. 1993. A Philosophical Companion to First-Order Logic. Indianapolis: Hackett Publishing Company.

Hume, D. 1978. Treatise of Human Nature. 2nd ed. (Edited by Nidditch, P. H.) Oxford: Oxford University Press.

Kant, I. 1929. Critique of Pure Reason. (Translated by Smith, N. K.) London: Macmillan.

Kirkham, R. L. 1992. Theories of Truth. Cambridge, Mass.: MIT Press.

Kripke, S. 1975. "Outline of a Theory of Truth." In Martin 1984, pp. 53-81.

Kripke, S. 1980. Naming and Necessity. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.

Lindenbaum, A., and A. Tarski. 1936. "On the Limitations of the Means of Expression of Deductive Theories." In Tarski 1983, pp. 384-392.

Linsky, L., ed. 1952. Semantics and the Philosophy of Language. Urbana: University of Illinois Press.

MacDonald, G. and C. Wright, ed. 1986. Fact, Science, and Morality. Oxford: Basil Blackwell.

Martin, R. L., ed. 1984. Recent Essays on Truth and the Liar Paradox. Oxford: Oxford University Press.

McGee, V. 1991. Truth, Vagueness, and Paradox. Indianapolis: Hackett Publishing Company.

Platts, M., ed. 1980. Reference, Truth, and Reality. London: Routledge and Kegan Paul.

Posner, M., ed. 1989. Foundations of Cognitive Science. Cambridge, Mass.: MIT Press.

Putnam, H. 1981. Reason, Truth and History. Cambridge: Cambridge University Press.

Ramsey, F. P. 1925. "The Foundations of Mathematics." In Ramsey 1990, pp. 164-224.

Ramsey, F. P. 1927. "Facts and Propositions." In Ramsey 1990, pp. 34-51.

Ramsey, F. P. 1990. Philosophical Papers. (Edited by Mellor, D. H.) Cambridge: Cambridge University Press.

Ramsey, F. P. 1991. On Truth. (Edited by Rescher, N. and U. Majer.) Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

Russell, B. 1906. "On the Nature of Truth and Falsehood." In Russell 1994, pp. 147-159.

Russell, B. 1908. "Mathematical Logic as Based on the Theory of Types." In Russell 1988, pp. 59-102.

Russell, B. 1912. The Problems of Philosophy. Oxford: Oxford University Press.

Russell, B. 1988. Logic and Knowledge. (Edited by Marsh, R. C.) London: Unwin Hyman Limited.

Russell, B. 1994. Philosophical Essays. London: Routledge.

Sher, G. 1991. The Bounds of Logic. Cambridge, Mass.: MIT Press.

Simmons, K. 1993. Universality and the Liar. Cambridge: Cambridge University Press.

Strawson, P. F. 1950. "Truth." Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary vol. 24: 129-156.

Tarski, A. 1930a. "On Some Fundamental Concepts of Metamathematics." In Tarski 1983, pp. 30-37.

Tarski, A. 1930b. "Fundamental Concepts of the Methodology of the Deductive Sciences." In Tarski 1983, pp. 60-109.

Tarski, A. 1933. "Some Observations on the Concept of w-Consistency and w-Completeness." In Tarski 1983, pp. 279-295.

Tarski, A. 1935. "The Concept of Truth in Formalized Languages." In Tarski 1983, pp. 152-278.

Tarski, A. 1936a. "On the Concept of Logical Consequence." In Tarski 1983, pp. 409-420.

Tarski, A. 1936b. "The Establishment of Scientific Semantics." In Tarski 1983, pp. 401-408.

Tarski, A. 1944. "The Semantic Conception of Truth and the Foundations of Semantics." In Linsky 1952, pp. 13-47.

Tarski, A. 1969. "Truth and Proof." Scientific American 220(6): 63-77.

Tarski, A. 1983. Logic, Semantics, Metamathematics. 2nd ed. (Edited by Corcoran, J.) Indianapolis: Hackett Publishing Company. [1st ed. (Edited and translated by Woodger, J. H.) Oxford: Clarendon Press, 1956.]

Tarski, A. 1986. "What Are Logical Notions?" (Edited by Corcoran, J.) History and Philosophy of Logic 7: 143-154.

Tarski, A., and S. Givant. 1987. A Foundation of Set Theory without Variables. Providence: American Mathematical Society.

Vaught, R. L. 1974. "Model Theory before 1945." In Henkin et al. 1974, pp. 153-172.

Vaught, R. L. 1986. "Alfred Tarski's Work in Model Theory." Journal of Symbolic Logic 51: 869-882.

Wittgenstein, L. 1922. Tractatus Logico-Philosophicus. London: Routledge and Kegan Paul.

Wittgenstein, L. 1967. Philosophical Investigations. 3rd ed. (Translated by Anscombe G. E. M.) Oxford: Basil Blackwell.

Wittgenstein, L. 1976. Wittgenstein's Lectures on the Foundations of Mathematics. (Edited by Diamond, C.) Chicago: The University of Chicago Press.

Wittgenstein, L. 1978. Remarks on the Foundations of Mathematics. Revised ed. (Edited by Von Wright, G. H., Rhees, R., Anscombe, G. E. M. Translated by Anscombe, G. E. M.) Cambridge, Mass.: MIT Press.

坂本百大(編)、『現代哲学基本論文集II』、1987、勁草書房(Tarski 1944の翻訳「真理の意味論的観点と意味論の基礎」(飯田隆訳)を含む)。